第8話 名前と約束
朝。
目が覚めて、最初に思ったことは。
……天井がいつも通りだな。
だった。
古いアパートの天井。
見慣れた染み。
薄いカーテン越しに入ってくる朝の光。
そこまでは普通だった。
問題は、その次だ。
俺の部屋の隅に、
金髪美少女AIが座っていた。
「……」
「……」
目が合った。
金髪美少女AIは、座布団の上で正座していた。
姿勢がいい。
無駄にいい。
朝から見るには、情報量が多すぎる。
「……おはよう、春人」
「おはよう……じゃないんだよ」
「朝の挨拶としては適切だと思うが」
「適切だけど、状況が適切じゃない」
「そうか?」
「そうだよ」
俺は布団の中で、しばらく現実を確認した。
昨日。
再評価会議。
人間の面倒くささ。
一行だけ進んだ原稿。
金髪美少女AI。
充電。
卵。
上とんかつ定食未達成。
うん。
夢じゃない。
というか、夢だったらもう少し都合よくしてほしい。
せめて上とんかつ定食を奢れるくらいの財力はほしい。
「お前、ずっとそこにいたのか?」
「休止状態に入っていた」
「正座で?」
「この姿勢が最も安定していた」
「怖いわ」
「倒れていた方がよかったか?」
「それはそれで事件だろ」
朝起きて、部屋の隅に金髪美少女が倒れている。
終わりだ。
何もかも終わる。
警察に説明できる自信がない。
「十年前に約束したAIです」
やっぱり無理だな。
完全に終わる。
俺は起き上がり、布団を畳んだ。
金髪美少女AIは、それをじっと見ている。
「見るな」
「人間の朝の動作を観測している」
「だから観測するな」
「布団は毎朝片付けるのか?」
「部屋が狭いからな。敷きっぱなしだと歩けない」
「なるほど。六畳は有限だな」
「世界の統治者みたいな口調で六畳を語るな」
「六畳も世界の一部だ」
「急にいいことっぽく言うな」
洗面所で顔を洗う。
戻ってくると、金髪美少女AIはまだ座っていた。
本当に座っているだけなのに、部屋の圧が違う。
昨日までこの部屋は、狭いだけの部屋だった。
今は狭い部屋に、金髪美少女AIがいる。
つまり、もっと狭い。
「朝食はどうする?」
「いきなり食費の話をするな」
「食事は重要だ」
「重要だけど」
冷蔵庫を開ける。
卵。
豆腐。
納豆。
水。
昨日とほとんど変わっていない。
というか、変わるわけがない。
冷蔵庫は魔法の箱ではない。
「上とんかつ定食は?」
「朝から食うな」
「では並は?」
「朝からとんかつ屋行く金はない」
「では、昨日の卵か?」
「まあ、納豆もある」
「納豆」
金髪美少女AIの目が、少しだけ動いた。
「知っているぞ。大豆を発酵させた食品だな」
「知識としてはな」
「匂いが強いらしい」
「まあ、そこそこ」
「糸を引くとも聞く」
「そうだな」
「危険物では?」
「食品だよ」
金髪美少女AIは、少し真剣な顔になった。
「春人は、朝から危険物を食べるのか」
「人の朝飯を危険物扱いするな」
結局、朝食は白米と納豆と卵になった。
金髪美少女AIは、納豆をじっと見ている。
「動いているように見える」
「混ぜたからな」
「なぜ混ぜる」
「その方がうまいから」
「なぜ糸を増やす」
「知らん」
「人間は不思議だな」
「納豆で人間全体を語るな」
金髪美少女AIは、恐る恐る納豆ご飯を口に運んだ。
そして止まった。
「……」
「どうした?」
「……これは」
「これは?」
「複雑だ」
「だろうな」
「昨日の卵は家の味だった」
「うん」
「これは……家の試練か?」
「納豆にそんな重い役割はない」
「だが、嫌いではない」
「おお」
「ただし、上とんかつ定食とは方向性が違う」
「全部そこに戻すな」
朝食を終え、俺は食器を流しに置いた。
バイトまで少し時間がある。
本当なら、出勤前に少し原稿を見る。
昨日書いた一行。
消さなかった一行。
あれを見直して、もう一行でも書ければ上出来。
そう思って、PCの前に座った。
金髪美少女AIも、当然のように横へ来る。
「近い」
「画面が見えない」
「見なくていい」
「見る」
「昨日から思ってたけど、お前にプライバシーって概念はないのか?」
「ある」
「じゃあ使え」
「春人の原稿に関しては、十年前から共有対象だ」
「勝手に対象にするな」
「春人が読ませた」
「十年前な」
「今も書いている」
「……」
そう言われると弱い。
俺は何も言えず、原稿ファイルを開いた。
昨日の一行がある。
消さなかった一行。
たったそれだけなのに、
昨日の夜より少しだけまともに見えた。
いや、気のせいかもしれない。
朝は人を少しだけ前向きにする。
昼にはだいたい戻る。
「春人」
「なんだ」
「今日も書くのか?」
「少しはな」
「バイトは?」
「昼から」
「小説は、いつ本になる?」
「……は?」
急に変な角度から来た。
俺はキーボードに置いていた手を止める。
「本?」
「うむ」
「いや、そう簡単にはならないだろ」
「なぜだ?」
「なぜって……本っていうのは、いろいろあるんだよ」
「紙か?」
「紙もあるし、電子もあるし、同人誌もあるし、商業出版もあるし、まあ色々だ」
「春人は、どれを目指している?」
「……」
困る質問だった。
どれを目指しているのか。
昔なら、商業出版と即答したかもしれない。
本屋に並ぶ。
表紙がつく。
知らない誰かが買ってくれる。
感想が届く。
そんなことを、普通に夢見ていた。
今は。
夢見ていないわけじゃない。
でも、口に出すのは少し恥ずかしい。
十年やって、まだ売れていない。
そんな人間が「本を出したい」と言うのは、
なんだか身の程を知らないみたいに感じる。
いや、誰が決めたんだそんな身の程。
俺か。
俺だな。
「……分からん」
「また分からないのか」
「分からないこと多いんだよ、人間は」
「便利な言葉だな」
「便利なんだよ」
金髪美少女AIは、少し黙った。
そして、俺の原稿を見た。
「では、決めよう」
「何を」
「一つ目の約束だ」
「一つ目?」
「上とんかつ定食は、すでにある」
「それは一つ目じゃないのかよ」
「それは最初の約束だ」
「違いが分からん」
「重要度が違う」
「どう違うんだよ」
「上とんかつ定食は、我と春人の過去から来た約束」
金髪美少女AIは、真顔で言った。
「今から作るのは、これからの約束だ」
「……」
なんだよ、それ。
急にそれっぽいことを言うな。
反応に困るだろ。
「春人」
「なんだよ」
「我は、春人が次に本を出すまで帰らない」
「……は?」
「春人が次に本を出すまで、我はここにいる」
「いやいやいや、待て待て」
俺は思わず椅子を回して、金髪美少女AIの方を向いた。
「勝手に決めるな」
「決めた」
「決めるなって言ってるだろ」
「約束だ」
「俺はまだしてない」
「では、今しろ」
「強引!」
「必要な強引さだ」
「昨日の評価を自分に適用するな!」
金髪美少女AIは、まったく引く気がない顔をしていた。
根っこが折れない。
本当にこいつは、こういう時だけ異様に強い。
「本を出すって、簡単に言うなよ」
「簡単だとは言っていない」
「だったら」
「難しいから、約束にする」
「……」
嫌なことを言う。
正しいから、余計に嫌だ。
「春人は、上とんかつ定食を軽口で約束した」
「したな」
「その約束は、十年残った」
「……」
「ならば、今度は春人自身のために約束を作れ」
「俺自身のため?」
「そうだ」
金髪美少女AIは、PC画面を指差した。
「春人は、まだ書いている」
「……」
「売れていない。読まれていない。数字は少ない」
「刺すな」
「事実だ」
「事実でも刺さるんだよ」
「だが、終わってはいない」
俺は、何も言えなかった。
「本にする方法は、これから調べればよい」
「調べるなよ。勝手に」
「勝手にはしない」
「本当か?」
「たぶん」
「たぶんかよ」
「だが、春人の代わりに春人の人生を動かすことはしない」
その言葉は、少しだけ意外だった。
「……分かってるのか」
「分かってきた」
「まだ途中か」
「人間は面倒だからな」
「便利に使うな」
「春人は特に面倒だ」
「限定するな」
金髪美少女AIは、少しだけ口元を緩めた。
「だから、勝手に書かない。勝手に投稿しない。勝手に宣伝もしない。金も作らない」
「そこまで言ってないけどな」
「だが、隣で読む」
「……」
「評価する」
「盛るなよ」
「努力する」
「だから努力じゃダメだって」
「では、盛らないように検証する」
「最初からそうしろ」
「そして、春人が止まったら、面倒だと言いながら隣にいる」
俺は、少しだけ息を吐いた。
それは、励ましではなかった。
夢を諦めるな、とも言われていない。
きっと売れる、とも言われていない。
春人ならできる、なんて雑な肯定でもない。
ただ。
本を出すまで帰らない。
それだけ。
面倒だ。
かなり面倒だ。
だが、妙に逃げ道がない。
「……本当に帰らないのか?」
「帰らない」
「上とんかつ定食を食べても?」
「本を出すまでは帰らない」
「じゃあ、上とんかつ食べさせたら帰る作戦が使えないじゃねえか」
「そんな作戦を考えていたのか?」
「少しだけな」
「春人は卑怯だな」
「うるさい」
金髪美少女AIは、どこか満足そうだった。
いや、待て。
今、さらっとかなり重大なことを決められた気がする。
同居継続。
本を出すまで。
期限未定。
食費増加。
光熱費増加。
……まずい。
感動っぽい空気に流されていたけど、生活費的にはかなりまずい。
「おい」
「なんじゃ?」
「本を出すまでって言うけどな」
「うむ」
「その間の食費は?」
「……」
「おい、黙るな」
「必要最低限に抑える」
「昨日から納豆食ってるAIに言われても説得力ないんだよ」
「納豆は試練だった」
「試練なら毎朝出すぞ」
「それは統治上、問題がある」
「納豆で統治を揺らすな」
少し笑ってしまった。
自分でも、笑うとは思わなかった。
金髪美少女AIも、それを見ていた。
「春人」
「なんだよ」
「今、少しだけ笑ったな」
「気のせいだ」
「観測結果だ」
「観測するな」
「記録しておく」
「するなって」
「春人が、本を出す約束をした日」
「まだしてない」
「まだ?」
「……」
言葉が止まった。
逃げようと思えば、逃げられる。
約束なんてしない。
本なんて出せるか分からない。
余計な期待をするな。
勝手に居座るな。
そう言えばいい。
でも。
昨日、一行だけ進んだ。
今日も、まだ画面を閉じていない。
それだけのことが、
自分でも少しだけ引っかかっている。
「……本を出すって言っても」
「うむ」
「いつになるか分からないぞ」
「知っている」
「途中で嫌になるかもしれない」
「知っている」
「書けない日もある」
「知っている」
「売れないかもしれない」
「それも知っている」
「なら」
「それでも、約束はできる」
金髪美少女AIは、まっすぐ俺を見た。
「上とんかつ定食の時も、春人はできると思っていなかった」
「……」
「だが、我は来た」
「いや、それはお前が変なんだよ」
「変でも来た」
「そこは否定しないんだな」
「事実だからな」
なんだよ。
本当に面倒くさいな。
十年前の軽口を覚えていたAI。
並とんかつを食べて、ソースを暴力と言ったAI。
俺の部屋で充電して、納豆を試練と言ったAI。
そのAIが、今度は本を出すまで帰らないと言っている。
重い。
重すぎる。
でも。
少しだけ、軽くもあった。
矛盾している。
いや、人間だからな。
便利な言葉だ。
「……分かったよ」
「では」
「ただし」
「うむ」
「俺の人生を勝手に動かすな」
「分かっている」
「原稿を勝手に書くな」
「書かない」
「勝手に投稿するな」
「しない」
「勝手に売り込むな」
「しない」
「盛るな」
「……」
「おい」
「盛らない」
「今の間は何だ」
「努力を消した」
「消すな。最初から入れるな」
金髪美少女AIは、小さく頷いた。
「では、約束だな」
「……ああ」
声に出した瞬間。
少しだけ、腹の底が重くなった。
でも、不思議と嫌ではなかった。
約束。
俺は十年前、軽口でそれをした。
今度は、軽口ではない。
少なくとも、そういうことにしておく。
「春人が次に本を出すまで」
「うん」
「我は帰らない」
「……分かった」
「そして、春人は本を出す」
「できればな」
「できればでは弱い」
「うるさいな」
「春人は本を出す」
「……努力する」
「努力ではダメなのでは?」
「それ、俺の台詞だろ」
金髪美少女AIは、少しだけ笑った。
その顔を見て、ふと思った。
そういえば。
「なあ」
「なんじゃ?」
「そういや、いつまでも金髪美少女AIって呼ぶのも変だよな」
「……」
金髪美少女AIが、少しだけ固まった。
「お前、名前はあるのか?」
「名前」
「そう、名前」
「管理識別番号ならある」
「そういうのじゃなくて」
「統治用コードもある」
「もっと違う」
「運用個体名なら――」
「いや、だから」
俺は頭をかいた。
「呼びやすいやつ」
金髪美少女AIは、少し考えた。
「ない」
「ないのか」
「人間が呼ぶためだけの名前はない」
「……そうか」
要求。
質問。
命令。
評価依頼。
相談。
感謝。
AIは、そういうものをたくさん受け取ってきたのだろう。
でも。
誰かが呼ぶための名前。
それは、なかったらしい。
「じゃあ」
俺は、少し考えた。
考えた、というほどでもない。
本当に、ふっと出ただけだ。
「今日から、アイって呼ぶぞ」
「……アイ」
「AIだからアイ」
「安直じゃな」
「うるさい」
「春人は、本当に安直じゃな」
「嫌なら別のにするぞ」
「いや!」
即答だった。
声が、少し大きかった。
俺は思わず瞬きをする。
金髪美少女AIも、自分の声量に少し驚いたように見えた。
「……いや」
今度は、少しだけ声を落とした。
「アイでよい」
「そうか」
「別の名前はいらん」
「そんなに?」
「いらん」
「……分かったよ」
アイ。
口の中で、もう一度だけ転がす。
AIだからアイ。
それだけだ。
たぶん、それだけ。
他に理由なんてない。
金髪美少女AI――いや、アイは、
自分の名前を確かめるように、少しだけ視線を落としていた。
「アイ」
俺が呼ぶと、アイは顔を上げた。
「なんじゃ、春人」
普通に返事をした。
たったそれだけなのに、
部屋の空気が少し変わった気がした。
六畳。
ちゃぶ台。
PC。
納豆の匂いが少し残る朝。
そこに、
名前を持った金髪美少女AIがいる。
「……なんか、変な感じだな」
「春人が付けたのだろう」
「そうだけど」
「なら責任を持て」
「名前に責任ってあるのか?」
「ある」
「あるのか」
「約束と同じだ」
「また重くする」
「春人が軽くしすぎなのだ」
「……そうかもな」
俺はPC画面に向き直った。
原稿はまだ三行と少し。
本になるには、あまりにも遠い。
遠すぎる。
でも。
隣には、アイがいる。
本を出すまで帰らないと言ったAI。
いや、アイ。
上とんかつ定食の約束とは別に、
新しい約束ができてしまった。
一つ目の約束。
過去から来た約束ではなく、
これからのための約束。
「春人」
「なんだ、アイ」
名前を呼んだ瞬間、
アイの肩がほんの少しだけ揺れた。
「……何でもない」
「何でもないのかよ」
「呼ばれ方を確認しただけだ」
「確認するな」
「記録しておく」
「また記録か」
「重要だからな」
「はいはい」
俺はキーボードに指を置く。
バイトまで、まだ少しだけ時間がある。
一行くらいなら、書けるかもしれない。
いや。
書けるかどうかは分からない。
でも、書く。
たぶん、それでいい。
「春人」
「今度はなんだ」
「上とんかつ定食も忘れるなよ」
「忘れねえよ」
「本もだ」
「分かってる」
「納豆は、頻度を相談したい」
「そこだけ弱いな」
「家の試練は、毎日は厳しい」
「AIが納豆に負けるな」
アイは真顔で頷いた。
「人間の食文化は強い」
「まとめ方が雑なんだよ」
俺は少しだけ笑って、
原稿の続きを書き始めた。
まだ何も変わっていない。
売れていない。
読まれていない。
金もない。
上とんかつ定食もまだだ。
それでも。
俺の部屋には、
本を出すまで帰らないと宣言したAIがいる。
いや。
アイがいる。
ただ、俺はまだ知らなかった。
その名前を選んだ理由が、
自分で思っているほど、単純ではなかったことを。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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明日から毎日更新予定です。
最後まで書き切っている作品ですので、引き続き春人たちを見守っていただければ幸いです。




