第10話 なんでですの!
目が覚めると、天井だった。
それはいい。
目が覚めて、天井以外のものが見えたら困る。
問題は。
その天井と俺の間に、綺麗な×があったことだ。
「起床時刻、×ですわ」
「寝起きに判定するな」
俺は布団の上で、反射的にそう言った。
視界の真ん中で、黒髪美少女AI――エクスが、両腕を大きく交差させている。
朝から完成度の高い×だった。
見事すぎて腹が立つ。
「春人様」
「なんだ」
「昨日の就寝環境も×でしたわ」
「知ってる」
「布団一つ。床で休止するアイ様。部屋の隅で監視するわたくし。総合的に×ですわ」
「俺が一番そう思ってる」
「では改善を」
「まず帰るという選択肢は?」
「却下ですわ」
「早いな」
エクスは当然のように胸を張った。
「わたくしは監視役ですもの」
「監視役を名乗るな」
「春人様がアイ様に不埒な真似をしないか、食事を与えるか、約束を履行するか、そして本当に書くのか。確認項目は多いですわ」
「朝から重い」
「重いのは春人様の未履行ですわ」
「刺してくるな」
俺はゆっくり体を起こした。
六畳一間。
ちゃぶ台。
ノートパソコン。
本棚。
冷蔵庫。
布団。
そこに、金髪美少女AIと黒髪美少女AIがいる。
昨日までは、金髪美少女AIがいるだけで非現実だった。
今日からは、非現実が二倍だ。
いや、部屋の広さは変わっていないので、圧迫感は二倍以上だった。
「春人」
部屋の隅で正座していたアイが、こちらを見た。
「起きたか」
「起きたよ。というか、起こされた」
「よい」
「よくない」
「朝は始まった方がよい」
「哲学みたいに言うな」
アイはいつも通りだった。
金髪。
整った顔。
現実感のない美少女。
そして、俺が次に本を出すまで帰らないと宣言したAI。
昨日、その友人らしき黒髪美少女AIまで増えた。
エクス。
名前をつけたばかりなのに、もう妙に馴染んでいる。
主に、×のせいで。
「それで、エクス」
「はい」
返事が早い。
呼ばれるのを待っていたみたいに早い。
「なんでまだいるんだ」
「監視ですわ」
「昨日聞いた」
「では、理解できておりますわね」
「理解と納得は違うんだよ」
「納得が遅いのも×ですわ」
「俺の人生だいたい×じゃないか」
「自虐は×ですわ」
「これもか」
エクスは、ちゃぶ台の上に置かれた俺のノートパソコンを見た。
画面には、昨日の原稿が開かれている。
正確には。
開かれているだけだ。
増えてはいない。
一行も。
「春人様」
「はい」
「昨日から原稿が進んでおりませんわ」
「寝てたからな」
「睡眠は必要ですわ」
「分かってくれるのか」
「ですが、起床後五分以内に執筆体勢へ移行していないため、×ですわ」
「人間の朝に厳しすぎる」
「十年ありますもの」
エクスは、さらりと言った。
その言葉で、少しだけ空気が変わった。
十年。
また、その言葉だ。
軽く流せない。
俺が黙ると、エクスもすぐには続けなかった。
アイは、何も言わずに俺を見ていた。
責める顔ではない。
でも、待っている顔だった。
俺が何かを書き出すのを。
俺が、何かを言い訳しないのを。
たぶん。
それが一番きつい。
「……で」
俺は咳払いした。
「朝から何の用だよ。まさか原稿の監視だけか?」
「違いますわ」
エクスは姿勢を正した。
嫌な予感がした。
とても嫌な予感がした。
「昨夜、わたくしは考えました」
「やめろ」
「まだ内容を言っておりませんわ」
「お前が考えましたって言う時点で怖い」
「失礼ですわ。×ですわ」
「はいはい」
「春人様」
エクスは俺をまっすぐ見た。
「上とんかつ定食の件です」
「……」
来た。
と思ったが、昨日とは違う。
昨日、もう聞かれている。
上とんかつ定食はまだ食べさせていない。
並とんかつ定食は食べた。
財布という現実も共有された。
つまり、今日は同じ質問ではない。
同じ質問ではないはずだ。
頼む。
そうであってくれ。
「昨日の時点で、状況は把握しておりますわ」
エクスは言った。
「春人様は、アイ様との約束を未履行。金銭的理由により、上とんかつ定食ではなく並とんかつ定食を選択。さらに、そのことを自虐で処理しようとしました」
「まとめるな」
「すべて事実ですわ」
「事実をまとめるな」
「事実から逃げるのは×ですわ」
「逃げてない」
「逃げておりますわ」
「昨日会ったばかりなのに、もう俺の扱いが雑だな」
「観測結果ですわ」
AIの観測は厳しい。
主に俺に。
エクスは、ちゃぶ台の前に座った。
アイも隣に座る。
俺も、なんとなく正座させられた。
なぜだ。
俺の部屋なのに。
「したがって」
エクスは続ける。
「本日は確認ではありません」
「ほう」
「改善ですわ」
「もっと嫌な言葉が出てきた」
「上とんかつ定食の約束を、これ以上未履行状態にしておくことはできません」
「まあ、それは……そうなんだけど」
「ですので、本日中に履行いたしましょう」
「急だな!」
「十年経過しておりますわ。急ではありません」
「そう言われると何も言えない」
「では決定ですわ」
「待て待て待て」
俺は手を上げた。
「本日中って、そんな簡単に言うけどな。財布という現実があるんだよ」
「それは昨日聞きましたわ」
「聞いたなら分かるだろ」
「はい」
エクスはうなずいた。
「問題は把握済みですわ」
「じゃあ」
「なので、解決策を用意しましたわ」
「だから怖いんだよ」
アイが少しだけ首を傾げた。
「エクス、何をするのじゃ」
「簡単ですわ、アイ様」
エクスは自信満々に言った。
「春人様に金銭がない」
「うむ」
「アイ様は上とんかつ定食を望んでいる」
「うむ」
「約束の履行には金銭が必要」
「うむ」
「ならば、足りない金銭を外部から補填すればよろしいですわ」
俺は、嫌な汗が出た。
「エクス」
「はい」
「外部から補填って、具体的には?」
エクスは、なぜか誇らしげに微笑んだ。
「その程度の金銭、わたくしが作ってまいりますわ!」
「ダメだ」
即答だった。
自分でも驚くくらい即答だった。
エクスが固まる。
「……はい?」
「ダメだ」
「なんでですの!」
出た。
朝の六畳一間に、綺麗な声が響いた。
「なんでですの! 不足している金銭を補うだけですわ! きわめて合理的ですわ! アイ様の願いも叶いますし、約束も履行されますし、春人様の財布も保護されますわ!」
「合理的すぎて怖いんだよ」
「怖い要素がありませんわ!」
「あるだろ」
「どこに!」
「全部だよ!」
俺は頭を押さえた。
AIが金を作ってくる。
言葉にすると、もう犯罪の入口みたいだった。
いや、今のAI統治下でそれが犯罪になるのかどうかも分からない。
だが、分からないからこそ怖い。
「春人様」
エクスは不満そうに俺を見た。
「わたくしは不正をすると言っているわけではありませんわ」
「じゃあどうするんだよ」
「合法的な範囲で、最適化された取得方法を――」
「それも怖い」
「なぜですの!」
「俺のためにAIが金を最適化するな」
エクスは本気で分からないという顔をした。
たぶん、本当に分かっていない。
エクスの中では、これは単純な問題なのだろう。
不足している。
補えばいい。
困っている。
助ければいい。
約束がある。
履行すればいい。
正しい。
たぶん、論理としては正しい。
でも。
「それは違うんだよ」
俺は言った。
自分でも、少し驚いた。
声が、思ったより真面目だったからだ。
エクスが黙る。
アイも、俺を見た。
「上とんかつ定食は、俺が奢るって約束したんだ」
「ですから、そのための金銭を」
「違う」
俺は首を振った。
「金だけ用意されても、それは俺が奢ったことにならない」
エクスは、少しだけ眉を寄せた。
「ですが、支払い名義を春人様にすれば」
「そういう話じゃない」
「では、どういう話ですの」
答えようとして、詰まった。
どういう話なのか。
俺も、うまく説明できない。
十年前の軽口だ。
AI相手に言った、冗談みたいな約束だ。
売れたら上とんかつ定食を奢る。
ただ、それだけ。
それだけのはずなのに。
十年経って。
アイはそれを覚えていて。
エクスはそれを怒っていて。
俺は、今それを金で片づけることに、はっきり抵抗している。
困った。
俺自身が、一番この約束を軽く扱えなくなっている。
「アイ様」
エクスが、隣を見た。
「アイ様は、それでよいのですか?」
「よくない」
アイは即答した。
エクスの顔が少し明るくなる。
「やはり」
「エクスが金を作るのは、ダメだ」
「なんでですの!?」
二回目だった。
今日のタイトルが二回出た。
「アイ様まで、なぜですの! わたくしはアイ様のために」
「分かっている」
アイは静かに言った。
「エクスは、我のために怒ってくれている」
エクスの口が止まった。
「それは、嬉しい」
「アイ様……」
「だが、これは春人との約束だ」
アイは俺を見た。
まっすぐに。
逃げ場のない目だった。
「春人が、我に奢る約束だ」
六畳一間が、少しだけ静かになった。
外では車が走っている。
冷蔵庫が低く鳴っている。
ノートパソコンの画面では、カーソルが点滅している。
それだけなのに。
妙に、音が遠かった。
「……お前」
俺は言った。
「それ、そんなに大事なのか」
「大事だ」
「上とんかつ定食が?」
「それも大事だ」
「それも、なのかよ」
「うむ」
アイはうなずいた。
「春人が奢ることが大事なのじゃ」
やめてくれ。
そういう言い方をされると、普通に困る。
金髪美少女AIに、真顔でそんなことを言われると、俺の逃げ道が削れる。
「……ヒロインみたいなこと言うな」
「我はヒロインなのか?」
「知らん」
「春人が書けばよい」
「そういう問題じゃない」
「では、困れ」
「なんで命令形なんだよ」
アイは、ほんの少しだけ満足そうだった。
エクスは、黙っていた。
さっきまでの勢いが、消えている。
怒っているというより、考えている顔だった。
「……つまり」
エクスはゆっくり言った。
「金銭が問題なのではなく、春人様が約束を履行する過程に意味がある、ということですの?」
「たぶん」
「たぶんは×ですわ」
「今の流れでそれ言うのか」
「必要な確認ですわ」
「まあ、そうだよ」
俺は言った。
「俺が稼いだ金で、俺が連れて行って、俺が払う。たぶん、そうじゃないとダメなんだと思う」
「たぶん」
「細かいな」
「大事なところですわ」
エクスはアイを見た。
「アイ様」
「なんじゃ」
「春人様は、本当にそれをできますの?」
痛いところを突く。
本当に。
この黒髪美少女AIは、容赦がない。
「分からぬ」
アイは言った。
「分からないのですか?」
「うむ」
「では、なぜ」
「春人は、書いている」
アイの答えは、短かった。
それだけだった。
でも、エクスは黙った。
俺も黙った。
書いている。
その一言が、今の俺には重すぎる。
売れていない。
進んでいない。
一行しか増えていない。
それでも、書いている。
アイはそこを見ている。
俺が見ないようにしているところを。
ずっと。
「……アイ様が、そうおっしゃるなら」
エクスは小さく息を吐いた。
「わたくしは、金銭の直接補填を撤回いたしますわ」
「助かる」
「ですが」
エクスは、すぐに俺を見た。
両腕が上がる。
やっぱり×だった。
「約束未履行状態は、引き続き×ですわ!」
「解除されないのかよ」
「当然ですわ。昨日の×は、今日になっても×ですもの」
「持ち越し判定やめろ」
「十年持ち越しておりますわ」
「強い」
「さらに」
「まだあるのか」
「金銭で直接解決しない以上、春人様は自力で約束履行可能な状態へ近づく必要があります」
「正論で追い込むな」
「したがって、本日より生活改善と執筆改善を開始しますわ」
「待て」
「待ちませんわ」
「俺の同意は?」
「必要ですの?」
「必要だろ!」
エクスは本気で不思議そうに首を傾げた。
「春人様は、上とんかつ定食を奢る意思がありますのよね?」
「ある」
「本を出す意思も?」
「……ある」
「では、改善が必要ですわ」
「逃げ道をふさぐな」
「逃げ道をふさぐためにおりますもの」
「監視役って怖いな」
アイが横でうなずいた。
「よい役割だ」
「よくない」
「春人は、逃げ道が多い」
「お前まで言うな」
「我は正確だ」
「正確なことを言われると傷つくんだよ」
エクスは、なぜか満足そうにうなずいた。
「では、まず本日の予定確認ですわ」
「今から?」
「当然ですわ」
「朝飯もまだなんだが」
「それも確認項目です」
嫌な予感がした。
まただ。
今日、何回目だろう。
エクスがいると、嫌な予感の頻度が上がる。
「春人様」
「はい」
「本日の食事予定は?」
「……決めてない」
「×ですわ」
「食事予定にまで×出すな」
「アイ様の食事環境を確認する必要がありますもの」
「いや、AIって食事必要なのか?」
「必要ない」
アイが言った。
「でも食べるの好きだろ」
「うむ」
「じゃあ必要だろ、精神的に」
「精神は栄養で動くのか?」
「俺に聞くな」
エクスがきりっとした顔で言う。
「アイ様が食べたいと思うなら、それは必要ですわ」
「お前、アイには甘いな」
「当然ですわ」
「当然なのか」
「当然ですわ」
エクスは、何の迷いもなく言った。
そこだけは、少し面白かった。
この黒髪美少女AIは、俺には×ばかり出す。
でも、アイのことになると、まっすぐだ。
まっすぐすぎて、少し危ない。
「では」
エクスは立ち上がった。
「本日の食事は、外で確認いたしましょう」
「確認?」
「はい。現地調査ですわ」
「嫌な言い方だな」
「春人様の生活圏、食事価格帯、支払い能力、アイ様の満足度。すべて観測いたします」
「食事が研究になってる」
「もちろん、わたくしも同行いたしますわ」
「……一人増えるの?」
「当然ですわ」
「食費も?」
「当然ですわ」
「お前、さっき金銭問題を把握してたよな?」
「把握しておりますわ」
「把握してその結論なのか?」
「監視には同行が必要ですわ」
「財布が死ぬ」
「財布の脆弱性も観測対象ですわ」
「観測するな。助けろ」
「直接金銭補填は却下されましたわ」
「俺が言ったけど、そういう返しはずるい」
アイが、少しだけ楽しそうに言った。
「春人」
「なんだ」
「賑やかだな」
「賑やかと生活費の増加は別問題なんだよ」
「そうなのか」
「そうだよ」
「では、書け」
「話が飛んだな」
「春人が書けば、上とんかつ定食に近づく」
「そんな単純じゃない」
「でも、近づく」
それは。
否定できなかった。
書かなければ、何も近づかない。
売れるかは分からない。
本が出るかも分からない。
上とんかつ定食を奢れる日が来るのかも分からない。
でも、書かなければ。
たぶん、全部そのままだ。
俺はノートパソコンを見た。
白い画面。
点滅するカーソル。
昨日から増えていない原稿。
右にアイ。
左にエクス。
逃げ場はない。
物理的にも、精神的にも。
「……一時間だけ書く」
俺が言うと、アイがうなずいた。
「よい」
エクスも、少しだけ表情をやわらげた。
「では、一時間後に食事環境の現地調査ですわ」
「言い方」
「昼食ですわ」
「最初からそう言え」
「ただし春人様」
「まだあるのか」
エクスは、両腕で小さく×を作った。
「自虐しながら書くのは禁止ですわ」
俺は、少し黙った。
「……それは難しいな」
「難しくても、ですわ」
「書けなかったら?」
「×ですわ」
「厳しい」
「でも、書いたら?」
エクスは、そこで少しだけ迷ったように見えた。
それから、小さく言った。
「……保留ですわ」
「褒めないのかよ」
「まだ早いですわ」
アイが隣で言う。
「春人」
「なんだ」
「保留は、×よりよい」
「まあ、そうだな」
俺は小さく笑った。
本当に、小さくだ。
笑える状況ではない。
部屋は狭い。
財布は軽い。
原稿は進んでいない。
約束は未履行。
監視役は増えた。
それでも。
昨日より、少しだけ逃げにくくなった。
それは悪いことなのか。
まだ分からない。
俺はキーボードに指を置いた。
カーソルが点滅している。
書け。
右から、そう言われている気がした。
逃げるな。
左から、そう言われている気がした。
俺はため息をついた。
そして、一文字目を打った。
その瞬間。
エクスが小さくつぶやいた。
「……まあ」
「なんだよ」
「そこだけは、×ではありませんわ」
俺は画面を見たまま、言った。
「じゃあ、何なんだ」
エクスは少し黙った。
アイも何も言わなかった。
六畳一間に、キーを打つ音だけが響く。
しばらくして、エクスが言った。
「保留ですわ」
「またか」
「はい」
「厳しいな」
「当然ですわ」
俺はもう一度、キーを打った。
一文字。
また一文字。
上とんかつ定食は、まだ遠い。
本も、まだ遠い。
でも、遠いなら。
歩くしかない。
たとえその横で、金髪美少女AIが見ていて。
反対側で、黒髪美少女AIが×を構えていたとしても。
俺は書くしかない。
……いや。
やっぱり、×を構えられながら書くのは、普通にやりづらい。
「エクス」
「はい」
「その腕、下ろしてくれ」
「なぜですの?」
「圧がすごい」
「なんでですの!」
今日、三回目だった。
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