第11話 三人の定食
一時間で、原稿は五行増えた。
五行。
多いか少ないかで言えば、少ない。
だが、昨日の俺なら一行も増えなかった可能性がある。
そう考えれば、五行は進歩だ。
かなり小さい進歩だが。
「春人様」
「はい」
「手が止まっていますわ」
「見れば分かる」
「止まっているということは、進んでいないということですわ」
「進次郎構文みたいに言うな」
「誰ですの?」
「知らなくていい」
画面には、五行だけ増えた原稿があった。
黒髪美少女AI――エクスが、俺の画面を見ている。
「一時間で五行。生産性としては×ですわ」
「いきなり刺すな」
「ですが」
エクスは少しだけ間を置いた。
「昨日よりは進んでおります」
「……」
「ですので、判定は保留ですわ」
「褒めないな」
「まだ早いですわ」
右側では、アイが画面を見ていた。
「五行進んだ」
「まあな」
「よい」
「お前は甘いな」
「一行でも進行だ。五行なら、五進行だ」
「お前も変な構文を作るな」
アイは真顔だった。
真顔で変なことを言うから困る。
だが、少しだけ救われる。
五行しか進まなかった。
でも、五行は進んだ。
どちらも事実だ。
俺は悪い方ばかり見がちで、アイは良い方を当然のように見る。
たぶん、そういうところが少しずるい。
「では」
エクスが立ち上がった。
「予定通り、食事環境の現地調査に参りますわ」
「昼飯って言え」
「昼食環境の現地調査ですわ」
「悪化したな」
アイも立ち上がる。
「食事か」
「楽しそうだな」
「食事は重要だ」
「どんどん人間側に寄ってきてるな」
「そうなのか?」
「そうだよ」
「では、よい」
問題は、ここからだった。
昨日までは、俺の食費は俺一人分だった。
アイが来て、二人分になった。
それだけでも財布は悲鳴を上げている。
そして今日。
三人目がいる。
「なあ、エクス」
「何ですの?」
「お前、食べる必要あるのか?」
「栄養摂取は必須ではありませんわ」
「じゃあ」
「ですが、アイ様の食事環境を監視するため、同行と実食は必要ですわ」
「必要じゃない部分を必要にするな」
「必要ですわ」
「財布が死ぬ」
「財布の脆弱性は把握済みですわ」
「把握したなら配慮してくれ」
「ですので、高額な店舗は避けましょう」
「お」
意外とまともだった。
「ただし、アイ様の満足度が下がりすぎる店も×ですわ」
「難易度が高い」
「当然ですわ。アイ様が食べるのですもの」
「理由が偏ってる」
結局、近所の定食屋へ行くことになった。
上とんかつ定食はない。
とんかつ屋ですらない。
駅から少し離れた、日替わり定食が八百円台の店だ。
俺みたいな人間には、こういう店が必要なのだ。
「上とんかつ定食は?」
暖簾の前で、アイが聞いた。
「ないと思う」
「ないのか」
「定食屋が全部とんかつなわけじゃないんだよ」
「そうなのか」
「そうだよ」
アイは少し残念そうだった。
やめろ。
その顔をするな。
俺の財布に罪悪感を発生させるな。
エクスは店の外観を見て、冷静に言った。
「価格帯は?」
「日替わりなら八百二十円くらい」
「三人で二千四百六十円」
「計算が早い」
「飲み物を追加すれば」
「追加しない」
「デザートは」
「ない」
「アイ様にデザートを」
「ない」
「×ですわ」
「財布が×になるんだよ」
店に入ると、店員のおばちゃんが少し目を丸くした。
そりゃそうだ。
俺一人なら普通の客。
だが、今日は両側に金髪美少女AIと黒髪美少女AIがいる。
事情を知らない人から見れば、俺が何かの罪を犯しているように見える。
「三名様?」
「あ、はい」
三名。
その言葉が、財布に刺さった。
昨日まで一名だった。
それが、今は三名。
人生、増え方が急すぎる。
テーブル席に案内される。
エクスは、当然のようにアイの隣を取ろうとした。
「アイ様、こちらへ」
「うむ」
だが、アイは俺の隣に座った。
「春人の隣は、ここだろう?」
「何の基準だよ」
「春人が奢る」
「支払い基準で隣を決めるな」
エクスの動きが止まった。
ほんの一瞬。
けれど、確かに止まった。
「アイ様」
「なんじゃ」
「わたくしが隣では?」
「エクスは向かいでよい」
「向かい」
「顔が見える」
アイは当然のように言った。
「その方が話しやすい」
エクスは、少しだけ瞬きをした。
「……顔が見える」
「うむ」
「……なるほど」
そして、向かいに座った。
姿勢を正して。
「では、正面よりアイ様の食事状態を観測いたしますわ」
「結局観測するのか」
「当然ですわ」
俺はメニューを見た。
日替わり定食。
今日は、生姜焼き定食。
八百二十円。
助かる。
いや、三人分だと二千四百六十円。
助からない。
だが、上とんかつ定食三つよりは助かる。
そう考えるしかない。
「俺は日替わり」
「我もそれでよい」
アイが言った。
「春人が選ぶものを食べる」
「重く言うな」
「重いのか?」
「ちょっとだけな」
エクスもメニューを閉じた。
「わたくしも同じものを」
「いいのか?」
「比較条件を揃える必要がありますわ」
「実験みたいに言うな」
「それに」
エクスは少しだけ目を伏せた。
「春人様の財布の脆弱性も、多少は把握しておりますので」
「その言い方やめろ」
「配慮ですわ」
「配慮の言葉選びが×だよ」
エクスがぴくっと反応した。
「春人様が、わたくしに×判定を?」
「いや、今のは言葉のあや」
「×判定の使用には、一定の理解が必要ですわ」
「お前の専売特許なのか」
「当然ですわ」
注文を終える。
日替わり三つ。
おばちゃんが厨房へ戻っていく。
普通の店なら、ただの三人客だ。
だが俺の中では、妙に重い。
三人分の飯。
三人分の箸。
三人分の味噌汁。
三人分の会計。
生活が、数字になって襲ってくる。
「春人様」
エクスが言った。
「顔色が×ですわ」
「財布を想像してた」
「やはり三人分は負担ですの?」
「軽くはない」
「では、わたくしは水だけでも」
「今さらやめろ。店員さんが困る」
「ですが、わたくしが同行したことで、上とんかつ定食がさらに遠のくのは本意ではありませんわ」
その言い方に、少しだけ驚いた。
分かってはいるらしい。
いや、分かっているなら同行しないでほしいのだが。
「まあ」
俺は水を飲んだ。
「上とんかつ定食は、今さら一食分くらいでどうこうじゃない」
「慰めですの?」
「現実だよ」
「余計に×ですわ」
「だろうな」
アイが俺を見る。
「春人」
「なんだ」
「上とんかつ定食は遠いのか?」
「遠いな」
「どれくらいだ?」
「今の財布から見ると、山の向こうくらい」
「山」
「比喩だよ」
「では、登ればよい」
「簡単に言うな」
「歩けば近づく」
またそれか。
でも、否定はできなかった。
書かなければ近づかない。
働かなければ近づかない。
食べれば財布は減る。
誰かと暮らせば出費は増える。
でも、その誰かと食べた飯が、次の一行になることもある。
……今のは少し作家っぽく考えすぎた。
恥ずかしいので、口には出さない。
「アイ様」
エクスが静かに言った。
「アイ様にとって、上とんかつ定食は……春人様と食べることが大事なのですわよね」
「うむ」
アイは即答した。
「春人が奢る約束だからな」
エクスの表情が、少しだけ止まった。
「並とんかつ定食も、上ではなかった」
アイは続けた。
「だが、春人が財布を見て、悩んで、選んだ」
「……」
「だから、悪くなかった」
エクスは黙った。
それから、小さく言った。
「……わたくしは」
「うむ」
「その場には、おりませんでしたわ」
あ。
と思った。
そこか。
エクスは、アイの親友だ。
アイが十年、俺を探していたことを知っている。
俺が知らないアイを、たぶんずっと見ていた。
それなのに。
アイが初めてとんかつ定食を食べた場に、エクスはいなかった。
アイが「悪くなかった」と言う並とんかつ定食を、エクスは知らない。
アイと俺の約束の中に、エクスはいない。
そのことを、今少しだけ感じたのかもしれない。
「エクス」
アイが言った。
「なんでしょう、アイ様」
「上とんかつ定食の約束は、春人と我のものだ」
「……はい」
「だが」
アイは、テーブルの上を見た。
まだ何も運ばれていない、三人分の水だけが置かれたテーブル。
「今日の定食は、三人のものだ」
エクスが、目を見開いた。
俺も少し黙った。
三人の定食。
たぶん、そういうことなのだろう。
上とんかつ定食は、俺とアイの約束だ。
そこにエクスは入れない。
だが、今日の昼飯は違う。
俺が払う。
アイが食べる。
エクスも食べる。
三人で同じものを頼んで、同じテーブルに座っている。
約束ではない。
夢でもない。
ただの昼飯だ。
でも、たぶん。
今の俺たちには、そのただの昼飯が必要だった。
「それでは、足りぬか?」
アイが聞いた。
エクスはすぐには答えなかった。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「足りるかどうかは、食べてから判定いたしますわ」
「そうか」
エクスはいつものように両腕を上げかけた。
だが、上げきらなかった。
「ただし、春人様の財布管理は×ですわ」
「結局そこかよ」
「そこはそこですわ」
ちょうどその時、日替わり定食が来た。
生姜焼き。
千切りキャベツ。
白米。
味噌汁。
小鉢。
漬物。
三人分、テーブルに並ぶ。
皿が三つ。
箸が三つ。
味噌汁が三つ。
出費も三つ。
「これが日替わり定食」
アイが真剣な顔で言った。
「そう」
「今日は生姜焼き」
「そう」
「明日は違うのか?」
「たぶん違う」
「面白い」
アイは、初めて図鑑を開いた子どもみたいな顔をしていた。
「アイ様、小鉢もどうぞ」
エクスが、自分の小鉢をアイの方へ寄せようとする。
「やめろ」
俺が止めた。
「なぜですの?」
「お前も食え」
「わたくしはアイ様に」
「三人の定食なんだろ」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
今、俺は何をいい感じにまとめようとしているんだ。
エクスも少し固まった。
アイは俺を見た。
「春人」
「なんだ」
「今のは、悪くない」
「やめろ。恥ずかしい」
エクスは、そっと小鉢を自分の前に戻した。
「……では、いただきますわ」
「そうしろ」
三人で手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
「いただきますわ」
三人分の声が、テーブルに落ちた。
一人で食べる時にはなかった間。
二人で食べた時とも違う、少し騒がしい間。
アイは生姜焼きを一口食べた。
少し止まる。
「これは」
「これは?」
「米が必要だ」
「正しい」
アイはすぐに白米を食べた。
「生姜焼きは、米を呼ぶ」
「急に名言みたいにするな」
エクスも一口食べた。
上品に。
かなり上品に。
「……味が強いですわ」
「生姜焼きだからな」
「ですが、嫌ではありませんわ」
「そうか」
「キャベツが緩衝材ですわね」
「お前らキャベツを何だと思ってるんだ」
アイが味噌汁を飲む。
「家だ」
「また出た」
エクスも味噌汁を飲んだ。
「……落ち着きますわ」
「お前もか」
三人で食べると、会話が増える。
その分、食べる速度は落ちる。
でも、悪くない。
一人で飯を食べる時、俺はよくスマホを見る。
投稿サイトの数字。
アクセス数。
ブックマーク。
評価。
見なければいいものまで見て、勝手に落ち込む。
だが今日は、見る暇がなかった。
アイがいちいち味を聞く。
エクスがいちいち判定する。
俺がいちいち突っ込む。
忙しい。
落ち込む隙がない。
「春人」
アイが言った。
「なんだ」
「飯を食べている時は、数字を見ないのだな」
「……」
見抜くな。
「いつも見ているのですか?」
エクスがすぐ反応した。
「まあ、見る時もある」
「×ですわ」
「やっぱりか」
「アイ様が、春人様と食事をしているのです」
「……」
「その時に、春人様が別の数字を見ているのは、×ですわ」
言い返せなかった。
エクスは、たぶんアイのために言っている。
だが、それは俺にも刺さった。
数字を見て、味噌汁の味が分からなくなる。
何をやっているんだろうな、俺は。
「……分かったよ」
俺はスマホをポケットの奥に押し込んだ。
「食ってる時は見ない」
アイがうなずく。
「よい」
エクスも満足そうに言った。
「保留ですわ」
「そこも保留かよ」
「継続観測が必要ですわ」
定食を食べ終える。
三人分の皿が空になる。
アイはきれいに食べた。
エクスもきれいに食べた。
俺も、まあ普通に食べた。
会計は二千四百六十円。
財布から札が消える。
小銭も減る。
店を出ると、おばちゃんが言った。
「また来てね」
「はい」
俺は普通に答えた。
アイも言った。
「また来る」
「お前が決めるな」
「悪くなかった」
「財布と相談だ」
エクスは丁寧に頭を下げた。
「ごちそうさまでしたわ」
外の日差しは、まだ強い。
財布は、明らかに軽い。
俺はレシートを見た。
見なければいいのに、見た。
二千四百六十円。
数字は正直だ。
「……上とんかつ定食、遠のいたな」
思わず漏れた。
アイがこちらを見る。
「遠のいたのか?」
「三人分食べたからな」
「だが、今日の定食は悪くなかった」
「まあな」
「なら、完全な後退ではない」
「そういう考え方もあるか」
エクスが少し遅れて言った。
「春人様」
「何だ」
「本日の食事環境について、判定を出しますわ」
「出さなくていい」
「出しますわ」
エクスは姿勢を正した。
「価格帯。春人様の財布に対して、やや重い」
「知ってる」
「味。悪くありません」
「よかったな」
「アイ様の満足度。概ね良好」
「おお」
「春人様の支払い能力。継続観測が必要」
「そこは濁してくれ」
「総合判定」
エクスは両腕を上げた。
また×か。
そう思った。
だが、腕は途中で止まった。
「……保留ですわ」
「また保留か」
「ですが、今日の定食については、×ではありません」
「そうか」
アイがうなずいた。
「三人の定食だった」
「それ、気に入ったのか?」
「うむ」
「タイトルみたいに言うな」
「春人が書けばよい」
「なんでも小説に戻すな」
「戻せるものは、戻せばよい」
その言葉に、少しだけ黙る。
戻せるものは、戻せばよい。
三人分の食費。
生姜焼き。
アイの隣を取りたがるエクス。
春人との約束を当然のように語るアイ。
少し黙ったエクス。
スマホを見なかった昼飯。
書けるのか。
これを。
いや。
これだから、書くのかもしれない。
俺はレシートを財布にしまった。
「帰ったら、少しだけ書くか」
言ってから、自分で驚いた。
エクスも驚いた顔をした。
アイだけは、あまり驚いていなかった。
「よい」
「まだ何も書いてないぞ」
「今、書くと言った」
「言っただけだ」
「なら、予約だ」
「原稿の予約かよ」
エクスが、すかさず小さな×を作る。
「ただし、帰宅後に書かなければ×ですわ」
「台無しだよ」
「逃げ道をふさぐためですわ」
歩き出す。
三人で。
来た時と同じ道。
だが、少しだけ違う。
エクスは、今度は無理にアイの隣を取らなかった。
アイの少し横。
俺の斜め前。
まだ、三人の距離はぎこちない。
どこが定位置なのかも分からない。
でも、完全にバラバラではなかった。
「春人様」
「なんだ」
「一つ、確認がありますわ」
「嫌な予感がする」
「本日、三人で食事をしました」
「したな」
「つまり、三人での生活継続が現実味を帯びてきたということですわ」
「言い方が重い」
「ですので、今夜以降の休止配置について正式に確認いたします」
「ほら来た」
「布団が一つ。六畳。女性型AIが二体。春人様が一名」
「数えるな」
「この状況は、改めて考えても」
エクスの腕が、ゆっくり上がる。
「非常に――」
「待て」
俺は手で止めた。
「それ、今やる?」
「重要ですわ」
「帰ってからにしろ」
「帰ったら、より具体的に判定いたしますわ」
「嫌な予告だな」
アイが首を傾げた。
「休止配置は、昨日と同じでよいのではないか?」
エクスが固まる。
「アイ様」
「なんじゃ」
「昨日と同じ?」
「うむ」
「春人様の部屋で?」
「うむ」
「布団一つで?」
「うむ」
エクスの腕が、今度こそ大きな×を作った。
道端で。
通行人が見る。
「破廉恥ですわ!」
「誤解をまねく言い方すんな!」
俺の声が、昼の商店街に響いた。
財布は軽い。
上とんかつ定食は遠い。
本も、まだ出ていない。
だが、今日の昼。
俺は初めて、三人の定食を払った。
問題解決に来たはずのエクスは、
問題を一つ増やした。
でも。
その問題は、なぜか少しだけ、
悪くなかった。
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