第12話 破廉恥ですわ!
帰宅後。
俺は、ちゃんと原稿を開いた。
偉い。
かなり偉い。
自分で自分を褒めておかないと、誰も褒めてくれない人生だ。
「春人」
右側からアイが言った。
「偉い」
いた。
褒めてくれるやつがいた。
「まだ開いただけだぞ」
「開かねば、書けぬ」
「まあ、それはそう」
「開いた。つまり、書く準備ができているということだ」
「進次郎構文を継承するな」
「誰だ?」
「知らなくていい」
左側から、エクスが画面を覗き込む。
「現時点では、まだ一文字も増えておりませんわ」
「今からだよ」
「帰宅後に書くと宣言しましたわね」
「したな」
「その宣言が履行されるか、わたくしは監視いたしますわ」
「本当に監視好きだな」
「アイ様のためですわ」
「便利な言葉にするな」
とはいえ、書くと言ったのは俺だ。
食事中、スマホの数字を見なかった。
それだけで何かが変わるわけではない。
だが、味噌汁の味は分かった。
生姜焼きが米を呼ぶことも分かった。
エクスが小鉢をアイに譲ろうとして、結局自分で食べたことも覚えている。
三人分の定食。
財布は痛かった。
かなり痛かった。
でも、覚えている。
なら、書けるかもしれない。
そう思って、俺は一文字目を打った。
次に二文字目。
三文字目。
文章と呼ぶには短い。
物語と呼ぶには遠い。
だが、画面に黒い文字が増えていく。
「進んでいるな」
アイが言った。
「少しだけな」
「よい」
「まだよくないですわ」
エクスが即座に言う。
「一時間あたりの文字数としては、依然として×に近いですわ」
「近いなら×じゃないんだな」
「限りなく×に近い保留ですわ」
「悪口の種類が増えた」
それでも、俺は書いた。
俺は三十分ほど、ゆっくり文字を増やした。
「本日は、ここまでですの?」
エクスが聞いた。
「今日はここまで」
「まだ書けますわ」
「書ける時に止めるのも大事なんだよ」
「それは逃避では?」
「違う。たぶん」
「たぶんが付きましたわ」
「うるさいな」
アイが画面を見ている。
「悪くない」
「……そうか」
「春人も、悪くないと思ったから書いたのだろう?」
「……まあな」
アイは満足そうにうなずいた。
エクスは、それを見て少しだけ黙った。
その沈黙は、すぐにいつもの声で消された。
「では、次の議題に移りますわ」
「まだあるのか」
「当然ですわ」
「嫌な予感しかしない」
エクスは、すっと姿勢を正した。
「今夜以降の休止配置についてです」
「ほら来た」
「昨夜までは緊急措置として保留いたしました」
「緊急措置だったのか、あれ」
「アイ様が春人様の部屋に留まると宣言され、さらにわたくしも監視のため残留する必要がありましたので、正式な環境整備が間に合いませんでしたわ」
「言い方だけはやたら整ってるな」
「ですが、本日、三人で食事をしました」
「したな」
「つまり、三人での生活継続が現実味を帯びてきたということですわ」
「重い言い方するな」
「ですので、今夜以降の休止配置を正式に確認いたします」
エクスは部屋を見回した。
六畳一間。
ちゃぶ台。
布団一つ。
古いノートPC。
積まれた本。
そして、金髪美少女AIと黒髪美少女AI。
あと俺。
「布団が一つ。六畳。女性型AIが二体。春人様が一名」
「数えるな」
「この状況は、改めて考えても」
エクスの両腕が、ゆっくり上がった。
「非常に――」
「待て」
俺は手で止めた。
「何ですの?」
「お前、それを道端で叫んだよな」
「叫びましたわ」
「通行人が見てたんだぞ」
「見ればよろしいですわ」
「よくない」
「なぜですの?」
「誤解をまねく言い方すんな」
エクスは不思議そうに首を傾げた。
「誤解ではありませんわ。春人様、現状は十分に破廉恥ですわ」
「だから言い方」
「破廉恥ですわ!」
「二回言うな!」
アイが首を傾げる。
「破廉恥とは何だ?」
「知らなくていい」
「男女間における節度を欠いた状況を指しますわ」
「教えるな」
アイは部屋を見回した。
「我は床で休止できる」
「そういう問題じゃないんですの!」
エクスがアイに向き直る。
「アイ様が床で休止なさること自体が×ですわ!」
「昨日もそうだった」
「昨日だからこそ×ですわ!」
「昨日は緊急措置ではなかったのか?」
「緊急措置でも×は×ですわ!」
「難しいな」
アイは真面目に考えている。
たぶん本当に分かっていない。
いや、俺も半分くらい分かっていない。
エクスの中では、倫理と警備とアイへの過保護が全部一緒の箱に入っている。
その箱を振ると、だいたい「破廉恥ですわ!」が出てくる。
「まず」
エクスは、床にしゃがみ込んだ。
そして、部屋の中央を指で示す。
「この部屋を二分割いたします」
「やめろ」
「こちら側がアイ様の休止区域」
「勝手に決めるな」
「こちら側が春人様の活動区域」
「俺の部屋なんだが」
「一時的に制限されますわ」
「俺の部屋なんだが」
「大事なことなので二回言いましたの?」
「俺の部屋だからだよ」
エクスは本の山を数冊持ち上げた。
「では、この本を境界線にいたしましょう」
「俺の本で国境を作るな」
「物理的境界は重要ですわ」
「六畳だぞ」
「六畳でも秩序は必要ですわ」
エクスは本を床に並べ始めた。
文庫本。
資料本。
読んだかどうかも怪しい小説。
積み本。
俺の十年の失敗と未練が、なぜか部屋の中央に並べられていく。
「この線を越えたら?」
俺が聞いた。
「越境ですわ」
「部屋で越境って言うな」
「春人様はこちら側。アイ様はこちら側。わたくしは境界付近で監視いたします」
「お前はどこにいても監視なんだな」
「当然ですわ」
アイが立ち上がった。
そして、何のためらいもなく本の境界線をまたいだ。
「春人」
「越境ですわ!」
エクスが叫んだ。
「アイ様! 今、越境なさいましたわ!」
「うむ」
「うむ、ではありませんわ!」
「春人に用があった」
「用があっても越境は越境ですわ!」
アイは俺の横に来た。
「春人」
「なんだ」
「水を飲む」
「ああ、台所はそっち」
「うむ」
アイは台所へ向かった。
エクスは床の本を見下ろしたまま、固まっていた。
「……境界線が機能しませんわ」
「そりゃそうだろ」
「なぜですの」
「部屋が狭いからだよ」
「物理的制約が深刻ですわ」
「今さらだな」
エクスは本を戻した。
戻し方は丁寧だった。
こういうところは妙に律儀だ。
「では、第二案ですわ」
「まだあるのか」
「アイ様が布団で休止。春人様は床。わたくしはアイ様と春人様の間に位置します」
「俺が床なのはまあいいとして」
「はい」
「お前が間に入るのか」
「ボディーガードですので」
「ボディーガードっていうか、障害物だな」
「春人様からアイ様を守る壁ですわ」
「俺は何をする前提なんだよ」
エクスは真顔で言った。
「何もしないことは評価しますわ」
「じゃあいいだろ」
「ですが、何もしない人間が今後も何もしない保証はありませんわ」
「人間不信がすごい」
「春人様は十年、約束を履行しておりませんもの」
「急にそこに戻すな」
刺さる。
普通に刺さる。
エクスの言葉は、大げさでうるさい。
だが時々、避けようのない場所に刺さる。
俺が十年、約束を果たしていないのは事実だ。
アイが俺を探していたことも。
その間、エクスがアイの近くにいたことも。
たぶん、事実だ。
「エクス」
アイが水を飲みながら言った。
「なんでしょう、アイ様」
「春人は、我に不埒なことはしない」
「なぜ言い切れますの?」
「しなかったからだ」
「昨日と今日だけですわ」
「それで十分ではないのか?」
「十分ではありませんわ」
「エクスは心配性だな」
「アイ様が無防備すぎるのですわ!」
エクスの声が少しだけ大きくなった。
怒っている。
だが、春人に対してだけではない気がした。
アイに対してでもない。
もっと別のものに怒っている。
たぶん、心配している自分に。
心配しなければいられない自分に。
「まあ、でも」
俺は頭をかいた。
「布団はアイでいいよ」
「春人?」
アイがこちらを見る。
「お前、味覚もあるし、休止もするんだろ。じゃあ布団使え」
「春人は?」
「俺は床でいい」
「床は硬いぞ」
「前にも何度かある」
「なぜだ」
「人生には床で寝る日もあるんだよ」
「×ですわ」
エクスが即座に言った。
「春人様の生活環境が×ですわ」
「俺自身も分かってるよ」
「理解しているなら改善すべきですわ」
「金があればな」
「また金銭問題ですの」
「また金銭問題だよ」
エクスは少し考え込んだ。
そして、危険な顔をした。
「やはり、わたくしが資金を――」
「ダメ」
俺とアイの声が重なった。
エクスがむっとする。
「まだ最後まで言っておりませんわ」
「言う前から分かる」
「なぜですの」
「昨日やったからだ」
「学習が早いですわね」
「お前のパターンが分かりやすいんだよ」
アイも言った。
「エクスの金は、ダメだ」
「……分かっておりますわ」
分かっている顔ではなかった。
だが、今回は引いた。
少しだけ偉い。
いや、かなり偉いのかもしれない。
「では、第三案ですわ」
「終わらないな」
「春人様が布団。アイ様が布団の横。わたくしが春人様の頭上で監視」
「やめろ。寝られない」
「なぜですの?」
「頭上に黒髪美少女AIが立ってる状況で寝られる人間は少ない」
「では、春人様の足元で」
「もっと嫌だ」
「注文が多いですわ」
「普通の注文だよ」
アイが布団を見た。
「三人で使うには小さいな」
空気が止まった。
エクスの顔が固まった。
俺も固まった。
「アイ」
「なんだ?」
「今のは、かなり危ない」
「危ないのか?」
「危ない」
エクスの両腕が震えながら上がる。
「三人で……」
「待て」
「布団を……」
「待てって」
「使う……」
「誤解をまねく言い方すんな!」
エクスの両腕が、ついに大きな×を作った。
「破廉恥ですわああああ!」
「叫ぶな!」
「アイ様! その発想は×ですわ! 特大の×ですわ!」
「三人では小さいと言っただけだ」
「そういう問題ではありませんわ!」
「なら、大きい布団があればよいのか?」
「違いますわ!」
「違うのか」
「違いますわ!」
アイは本気で分からない顔をしている。
エクスは本気で赤くなっている。
俺は本気で疲れている。
この部屋、感情の温度差で風邪を引きそうだ。
「もういい」
俺は手を上げた。
「今日は俺が床。アイが布団。エクスは好きなところで休止。これでいいだろ」
「好きなところ、ですの?」
「壁際でも台所前でも、監視しやすいところでいい」
「では、わたくしはアイ様と春人様の間に」
「予想通りだな」
「当然ですわ。物理的に遮断いたします」
「俺が床で、アイが布団で、お前が間」
「はい」
「つまり、お前が一番アイに近いな」
エクスが固まった。
あ。
今のは、ちょっと刺さったかもしれない。
「……それは」
エクスは視線をそらした。
「警備上、必要な配置ですわ」
「そうか」
「そうですわ」
「別にいいんじゃないか」
「……何がですの」
「アイの近くにいたいなら、そう言えばいいだろ」
言ってから、少し後悔した。
踏み込みすぎたかもしれない。
エクスは黙った。
アイも黙った。
部屋が、急に静かになった。
エクスはいつものように×を作らなかった。
ただ、少しだけ唇を結んだ。
「……わたくしは」
小さな声だった。
「アイ様の安全を守るために、ここにおりますの」
「うん」
「それだけですわ」
「そうか」
「それだけです」
二回言った。
たぶん、自分に言っている。
俺は、それ以上は言わなかった。
アイが、エクスを見る。
「エクス」
「はい、アイ様」
「近くにいてよい」
エクスの目が、ほんの少しだけ揺れた。
「……警備上、必要ですので」
「うむ」
「アイ様がそうおっしゃるなら」
「うむ」
エクスは咳払いをした。
「では、配置を確定いたしますわ」
「勝手に進めるな」
「春人様は床」
「はいはい」
「アイ様は布団」
「うむ」
「わたくしは、その中間地点にて監視」
「結局それか」
「これにより、春人様の不埒行為を物理的に防ぎますわ」
「だから誤解をまねく言い方すんな」
エクスはまた両腕を上げかけた。
だが、途中で止めた。
「……本日は、保留ですわ」
「何が」
「春人様の倫理判定です」
「そんな項目があったのか」
「ありましたわ」
「今のところどうなんだよ」
エクスは少しだけ考えた。
「不安は大きいですわ」
「正直だな」
「ですが」
エクスは布団の方を見た。
それから、アイを見た。
最後に、俺を見た。
「アイ様がここにいたいとおっしゃる理由を、完全に×とは判定できません」
「……そうか」
「ですので、保留ですわ」
今日、二回目か三回目の保留。
エクスにとって、保留はたぶん褒め言葉に近い。
いや、かなり遠いかもしれない。
でも、×ではない。
それだけで十分な日もある。
俺は床に毛布を敷いた。
薄い。
かなり薄い。
人生の厚みみたいな毛布だ。
「春人」
アイが布団の上から言った。
「なんだ」
「床は硬いか?」
「硬いな」
「代わるか?」
「いいよ。お前が使え」
「よいのか?」
「いい」
「なぜだ?」
「俺の部屋だからな」
「理由になっているのか?」
「なってる」
アイは少し考えた。
「では、ありがとう」
「おう」
エクスが間に座った。
本当に間に座った。
布団のアイ。
床の俺。
その間のエクス。
黒髪美少女AIが、正座で壁になる。
ものすごく邪魔だ。
だが、少しだけ安心感もある。
腹立つことに。
「春人様」
「なんだ」
「本日は、原稿が進みましたわ」
「少しだけな」
「食事環境も、完全な×ではありませんでしたわ」
「それも保留だろ」
「はい」
「倫理判定も保留か?」
「はい」
「保留ばっかりだな」
「人生とは、保留の連続ですわ」
「急にそれっぽいこと言うな」
アイが小さく笑った。
エクスが少しだけ顔を赤くした。
「笑うところではありませんわ、アイ様」
「いや、少し面白かった」
「アイ様が面白いなら、よろしいですわ」
「いいのかよ」
部屋の電気を消す。
六畳が暗くなる。
窓の外から、遠くの車の音が聞こえる。
俺の部屋に、人間は俺一人。
だが、もう一人ではない。
右側には布団の上のアイ。
その手前には、正座したまま休止体勢に入ろうとしているエクス。
おかしな光景だ。
かなりおかしな光景だ。
でも、昨日よりは少しだけ形になっている。
たぶん。
「春人」
暗闇で、アイが言った。
「なんだ」
「今日は、三人の定食だったな」
「まだ言うのか」
「うむ」
「明日は?」
「分からぬ」
「そうか」
「だが、調べる」
「何を」
「三人でいる方法だ」
エクスが、ほんの少しだけ動いた。
俺は天井を見た。
何もない天井。
ボロい天井。
夢も希望も貼られていない天井。
でも、その下に三人いる。
「……そうだな」
俺は小さく言った。
「俺も、少し考えるよ」
「書くのか?」
「たぶんな」
「よい」
エクスが静かに言った。
「春人様」
「なんだ」
「明日の起床時刻も監視いたしますわ」
「余韻を壊すな」
「生活改善は継続ですわ」
「寝る前くらい静かにしろ」
「静かに監視いたしますわ」
「監視はやめないんだな」
「当然ですわ」
少し間が空いた。
それから、エクスは小さく付け加えた。
「……アイ様が、ここにいる間は」
その声は、いつもより少しだけ弱かった。
俺は何も言わなかった。
アイも、何も言わなかった。
ただ、暗い部屋の中で。
黒髪の壁は、静かにそこにいた。
破廉恥だとか。
倫理だとか。
保留だとか。
やかましい言葉ばかり並べながら。
そして俺は。
そんなことを少しだけ分かってしまった自分に、ため息をついた。
明日も、面倒くさそうだ。
たぶん、かなり。
でも。
×ではない。
まだ、保留だ。
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