第13話 干した布団
翌日。
バイトから帰った俺は、玄関の前で一度だけ足を止めた。
理由は、分かっている。
俺の部屋には、今、金髪美少女AIと黒髪美少女AIがいる。
昨日までは、まだ現実感がなかった。
いや、今日もない。
ないのだが、現実感がないものでも、二日三日と続くと人間は慣れ始める。
怖い。
人間の適応能力が怖い。
「……ただいま」
鍵を開けて、部屋に入る。
その瞬間。
俺は固まった。
「……え?」
部屋が、広い。
いや、六畳は六畳だ。
壁も増えていないし、床も伸びていない。
だが、広い。
床が見える。
本の山が消えている。
ちゃぶ台の上に、意味不明に積まれていた紙類が、種類ごとに分けられている。
洗濯物が畳まれている。
流しに置きっぱなしだった茶碗が消えている。
窓が少し開いていて、部屋の空気が昨日より軽い。
何より。
布団が、ない。
「……泥棒?」
思わず言った。
「帰宅第一声がそれですの?」
部屋の奥から、黒髪美少女AI――エクスの声がした。
エクスはちゃぶ台の横に正座していた。
姿勢がいい。
姿勢だけで生活指導してきそうな正座だった。
「春人、おかえり」
その隣にはアイがいた。
金髪美少女AI。
十年前の軽口を約束として保存し、今では俺の部屋に当然のようにいる存在。
本当に人生がどうかしている。
「ただいま……じゃなくて」
俺は部屋を見回した。
「何があった?」
「掃除ですわ」
エクスが当然のように言った。
「掃除?」
「はい」
「俺の部屋を?」
「はい」
「勝手に?」
「はい」
「はいじゃないが?」
エクスが、すっと両腕を上げた。
×。
「生活環境が×でしたので」
「人の部屋を勝手に掃除するのも×だろ!」
「緊急対応ですわ」
「何が緊急なんだよ」
「春人様の部屋は、床面積の有効活用率が著しく低下しておりました」
「言い方」
「加えて、衣類、本、原稿メモ、食器、未分類の紙片が混在しており、衛生面および精神面に悪影響があると判断いたしました」
「判断が早い」
「昨日から我慢しておりましたわ」
「昨日から!?」
「当然ですわ。春人様の生活は、全体的に保留どころか×寄りですもの」
「俺の人生を部屋から判断するな」
「部屋には出ますわ」
「やめろ。刺さる」
俺は靴を脱いで部屋に入った。
床が見える。
歩ける。
すごい。
自分の部屋で歩けることに感動する日が来るとは思わなかった。
「……で、俺の物は?」
「分類しましたわ」
「捨ててないよな?」
「捨てておりません」
「読んでないよな?」
エクスが少しだけ目を細めた。
「春人様」
「なんだ」
「原稿、メモ、黒歴史らしき紙片につきましては、未読のまま分類しましたわ」
「黒歴史らしき紙片って言うな」
「では、創作過程で発生した精神的残骸」
「もっと悪い」
アイが、横から言った。
「春人の紙は多かった」
「見るな」
「見ていない。山だった」
「山って言うな」
「山は、エクスが片づけた」
アイは少しだけ誇らしげだった。
なぜお前が誇る。
いや、エクスのことが嬉しいのかもしれない。
エクスは、アイに見られて少しだけ胸を張った。
「当然ですわ。アイ様が生活なさる空間ですもの」
「俺の空間でもあるんだが」
「だから整えましたわ」
「反論しにくいな」
実際、助かっていた。
かなり助かっていた。
それが腹立たしい。
勝手に掃除されたことは腹が立つ。
でも、部屋が片付いているのは普通に嬉しい。
人間、理屈より床が見えることに負ける時がある。
「それで、布団は?」
俺は部屋の隅を見た。
「俺の布団がないんだが」
「干しておりますわ」
「干してる?」
「はい」
エクスが窓の方を示した。
ベランダの外。
そこに、俺の布団が干されていた。
風に少し揺れている。
「……干したのか」
「はい」
「いつぶりだろうな」
自分でも、思ったより小さい声が出た。
布団なんて、敷きっぱなしが基本だった。
休みの日に干そうと思うことはある。
でも、実際にはやらない。
バイトがある。
原稿がある。
疲れている。
面倒くさい。
そういう小さい理由が積み重なって、いつの間にか何もしなくなる。
気づけば、布団はただ寝るための布になっていた。
「春人様」
エクスが言った。
「寝具環境も、かなり×でしたわ」
「そこは否定できない」
「ですので、干しました」
「……そうか」
「感謝してもよろしいですわ」
「要求してくるな」
「では、感謝は保留で」
「お前、保留の使い方が雑になってきたな」
アイが窓の外の布団を見る。
「春人の布団が、外に出ている」
「布団はたまに外に出すんだよ」
「家出ではないのか」
「布団の家出って何だよ」
「帰ってくるのか?」
「帰ってくるよ」
「ならよい」
アイは真顔でうなずいた。
こいつは今日もこいつだった。
俺は鞄を置いた。
体が重い。
バイトは普通に疲れる。
しかも、最近は帰ったら帰ったで、金髪美少女AIと黒髪美少女AIがいる。
いや、嬉しいとか嬉しくないとかの前に、情報量が多い。
人生はもう少し段階を踏むべきだ。
「春人様」
エクスが立ち上がった。
「お茶を淹れましたわ」
「お茶?」
ちゃぶ台を見る。
湯呑みではない。
カップだった。
小さな白いカップ。
湯気が立っている。
「紅茶ですわ」
「……紅茶?」
俺は思わず聞き返した。
エクスが、少しだけ得意げに言う。
「食器棚の奥に、急須と茶葉、そして紅茶の茶葉がございました」
「……ああ」
あった。
そういえば、あった。
昔、買ったやつだ。
まだ少しだけ、書ける気がしていた頃。
作家っぽい時間を作れば、作家っぽく書けるんじゃないかと思って買った。
急須。
安い茶葉。
さらに、安売りの紅茶。
本当は、俺はお茶が好きだった。
特に紅茶が好きだった。
別に高級なものじゃなくていい。
安い茶葉でいい。
ちゃんとお湯を沸かして、少し待って、カップに注ぐ。
それだけで、部屋の時間が少し変わる気がしていた。
でも。
いつの間にか、やめていた。
お湯を沸かすのが面倒になった。
カップを洗うのが面倒になった。
茶葉を出すのが面倒になった。
水道水でいいか、になった。
そのうち、好きだったことすら忘れていた。
「保存状態は完璧とは言えませんでしたが、飲用には問題ないと判断しました。抽出時間は調整済みですわ」
エクスが言う。
俺はカップを持った。
熱い。
紅茶の匂いがした。
安い。
たぶん、いい紅茶ではない。
でも。
「……うま」
口から出た。
本当に、普通に出た。
エクスの表情が、分かりやすく明るくなった。
「当然ですわ」
「なんでお前、紅茶淹れるのうまいんだよ」
「生活補助機能の一部ですわ」
「便利すぎるだろ」
「わたくしは、アイ様の周辺環境を整えるために必要な機能を多数備えております」
「本職お手伝いさんじゃないよな?」
「違いますわ」
「なのに掃除も洗濯も布団干しも紅茶もできるのか」
「できることと、本職であることは別ですわ」
「万能か」
「万能ではありません」
エクスはきっぱり言った。
「春人様の小説は、わたくしには書けませんもの」
その言葉に、少しだけ黙った。
変なところで、急にそういうことを言う。
本当にやめてほしい。
俺はカップを見た。
紅茶の水面が揺れている。
「春人」
アイがこちらを見ていた。
「なんだ」
「紅茶が好きだったのか?」
「……昔はな」
「我は知らなかった」
アイの声が、少しだけ低かった。
責めているわけではない。
ただ、面白くなさそうだった。
「いや、俺も忘れてたくらいだし」
「我は知らなかった」
「二回言うな」
「春人のことを、エクスが先に知った」
アイは、じっとエクスを見た。
エクスが明らかに慌てた。
「ア、アイ様。これは決して抜け駆けではありませんわ。清掃中に偶然発見しただけで、春人様の個人情報を不当に取得したわけでは」
「紅茶」
アイが言った。
「はい」
「我も飲む」
「もちろんですわ!」
エクスはすぐにカップを用意した。
早い。
動きが早すぎる。
アイが紅茶を一口飲む。
少し止まった。
「……これは」
「どうだ?」
「苦い」
「まあ、紅茶だからな」
「だが、悪くない」
「そうか」
「春人が好きだったものなら、悪くない」
やめろ。
そういう言い方をするな。
紅茶が急に重くなるだろ。
「アイ様」
エクスが言った。
「実は、もう一つございます」
「もう一つ?」
「はい」
エクスが冷蔵庫を開けた。
そして、小さな皿を三つ取り出した。
黄色いものが乗っている。
「……プリン?」
俺は思わず言った。
「プリンですわ」
エクスが胸を張る。
「デザートですわ!」
「お前、第十一話あたりでデザートとか言ってたな」
「何の話ですの?」
「いや、こっちの話」
アイが皿を覗き込む。
「プリン」
「はい、アイ様」
「これは何だ?」
「卵、牛乳、砂糖を主原料とする菓子ですわ。材料費は抑えめ。春人様の食費予算内に収めております」
「食費予算を勝手に管理するな」
「レシートは保存しておりますわ」
「そういう問題じゃない」
「プリン」
アイはまだ皿を見ていた。
興味が、完全に紅茶から移っている。
エクスは小さなスプーンを渡した。
「どうぞ、アイ様」
アイが一口食べる。
止まった。
さっきの紅茶より、明らかに長く止まった。
「……」
「アイ?」
「……」
「おい」
アイは、ゆっくり飲み込んだ。
それから、エクスを見た。
「エクス」
「はい、アイ様」
「これは、正義だ」
「急に大きく出たな」
エクスの顔がぱっと明るくなった。
「お口に合いましたか?」
「合った」
「よかったですわ!」
アイはもう一口食べた。
「甘い」
「プリンだからな」
「やわらかい」
「プリンだからな」
「卵なのに、卵ではない」
「プリンだからな」
「食卓が、上になった」
その言葉に、俺は少しだけ笑った。
上。
上とんかつ定食の上。
並ではなく、上。
そういう意味で言ったのかは分からない。
でも、確かに。
いつものちゃぶ台に、紅茶とプリンがあるだけで、少しだけ食卓がグレードアップした気がした。
卵ご飯と納豆の部屋に、急にデザートが来た。
それだけで、生活が少しだけ人間らしく見える。
いや、今、部屋にいる人間は俺だけなんだが。
「春人様もどうぞ」
エクスが俺に皿を差し出した。
「俺も?」
「三つ作りましたもの」
「……いただきます」
スプーンで少しすくう。
口に入れる。
甘い。
柔らかい。
冷たい。
疲れた体に、妙にしみた。
「……うま」
また口から出た。
今日は口が勝手に動く日だった。
エクスが、さらに胸を張った。
「当然ですわ」
「悔しいけど、これはうまい」
「悔しがる必要はありませんわ」
「いや、なんか悔しいだろ。昨日まで×ばっかり出してたやつが、部屋掃除して、紅茶淹れて、プリン出してくるんだぞ」
「評価が上がりましたの?」
「かなり」
「では、春人様のエクス評価は?」
「七十八点」
「盛りましたわね」
「分かるのかよ」
「分かりますわ」
アイがプリンを食べながら言った。
「エクス」
「はい、アイ様」
「我は、春人が紅茶を好きだと知らなかった」
「……はい」
「少し、面白くない」
エクスが固まった。
「ですが」
アイはプリンをもう一口食べた。
「プリンは正義なので、許す」
「何をだよ」
エクスが、ほっとしたように息を吐いた。
「ありがとうございます、アイ様」
「うむ」
アイは真顔でうなずいた。
プリンで許される関係。
平和なのか、雑なのか。
たぶん両方だ。
「しかし、本当に料理できるんだな」
俺はプリンの皿を見ながら言った。
「料理というほどではありませんわ。簡易的な菓子製造ですもの」
「いや、俺には無理だ」
「春人様は、料理が得意ではありませんものね」
「刺すな」
「ですが、最低限の食事は作れます」
「評価されてるのか?」
「保留ですわ」
「またか」
「ただし」
エクスは、少しだけ真面目な顔になった。
「夕食などの主たる食事については、基本的に春人様が作るべきですわ」
「え、できるなら作ってくれてもいいんだぞ?」
「却下ですわ」
「なんでだよ」
「アイ様が、春人様の用意したものを召し上がる時、一番よく反応なさいます」
俺は黙った。
アイはプリンを食べる手を止めた。
「上とんかつ定食も、並とんかつ定食も、卵も。春人様が選び、春人様が払うか、作るか、差し出すから意味があります」
エクスは続ける。
「わたくしが代わりにすべて整えてしまえば、春人様は楽になるでしょう」
「……」
「ですが、それでは、アイ様が待っていたものと違ってしまいますわ」
部屋が、少し静かになった。
紅茶の湯気が細く上がっている。
プリンの皿は、もう半分以上空になっていた。
「……重いな」
俺は言った。
エクスは少しだけ目を伏せる。
「重いのは、約束ですわ」
「うまいこと言うな」
「事実ですわ」
アイが静かに言った。
「春人の飯は、春人の飯だ」
「そのままだな」
「うむ」
「でも、プリンは?」
「プリンは正義だ」
「便利な言葉になってる」
エクスが、少しだけ笑った。
本当に少しだけだった。
でも、昨日までの×を作る顔とは違っていた。
監視役。
ボディーガード。
アイ様第一。
それはたぶん本当だ。
でも、今日のエクスはそれだけではなかった。
部屋を掃除して。
洗濯物を畳んで。
布団を干して。
紅茶を淹れて。
プリンを作った。
うるさい。
面倒くさい。
たまに刺す。
けれど、生活は少しだけ良くなっていた。
それが、なんだか悔しい。
「じゃあ、夕飯は俺が作るか」
俺は立ち上がろうとした。
だが、体が少し重かった。
バイト帰り。
紅茶。
プリン。
片付いた部屋。
気が抜けたのかもしれない。
「春人」
アイが言った。
「無理はするな」
「いや、飯は食わないと」
「我らは必須ではない」
「俺は必須なんだよ」
「では、簡単なものでよい」
エクスも言う。
「冷蔵庫には卵、玉ねぎ、納豆、豆腐がございます」
「完全に把握してるな」
「整理しましたので」
「怖いくらい便利だな」
結局、夕飯は玉ねぎ卵丼になった。
鶏肉はない。
だから親子丼ではない。
玉ねぎと卵を適当に煮て、飯に乗せるだけのものだ。
「春人様」
エクスが鍋を覗く。
「これは何ですの?」
「玉ねぎ卵丼」
「親子丼ではありませんの?」
「鶏肉がない」
「×ですわ」
「うるさい。鶏肉がなくても丼は成立する」
アイが、じっと鍋を見ている。
「カツもない」
「毎回カツを探すな」
「だが、卵はある」
「そうだな」
「なら、少し勝っている」
「何に?」
「何かに」
「雑だな」
エクスが小さくうなずいた。
「味付けは、やや薄めですわね」
「文句あるなら作ってくれ」
「主食は春人様の担当ですわ」
「便利な線引きだな」
「必要な線引きですわ」
三人で食べた。
玉ねぎ卵丼。
紅茶。
そして食後に残しておいたプリンを少し。
なんだこれ。
昨日までの俺の食卓ではない。
財布は相変わらず軽い。
上とんかつ定食はまだ遠い。
本も出ていない。
原稿だって、今日は進んでいない。
それでも。
今日は、部屋がきれいだった。
飯があった。
甘いものがあった。
紅茶があった。
布団が、干されていた。
食後。
エクスが外から布団を取り込んだ。
「春人様」
「なんだ」
「布団を戻しますわ」
「ああ」
干した布団が部屋に入ってくる。
少し膨らんでいるように見えた。
実際にはそんなに変わらないのかもしれない。
でも、いつものくたびれた布団とは違って見えた。
エクスが丁寧に敷く。
アイが興味深そうに見ている。
「これが帰宅した布団か」
「布団の旅みたいに言うな」
「日光を浴びたのだな」
「そうだな」
「強くなったのか?」
「布団はレベルアップしない」
「そうなのか」
「たぶん」
俺は布団に手を置いた。
少し、温かい。
「……干した布団なんて、いつぶりだろうな」
誰に言ったわけでもなかった。
ただ、口から出た。
布団に顔を近づける。
匂いがする。
お日様の匂い。
いや、正確には布とか、外の空気とか、乾いた埃とか、そういうものなのかもしれない。
でも。
俺には、それがお日様の匂いに思えた。
「……最高だな」
言った瞬間、自分でも笑いそうになった。
上とんかつ定食でもない。
高い紅茶でもない。
高級ホテルのベッドでもない。
ただの、ボロアパートの六畳に戻ってきた、干した布団。
それだけで、こんなにいいのか。
人間、安いな。
いや。
安い幸せを拾えなくなる方が、たぶんよくない。
「春人」
アイの声がした。
「なんだ」
「寝るのか?」
「いや、まだ……」
まだ、原稿を開かないと。
今日は一行も進んでいない。
エクスに何か言われる。
アイにも見られる。
俺自身も、たぶん気になる。
分かっている。
分かっているのだが。
布団が、あまりにもよかった。
少しだけ。
少しだけ横になるだけだ。
そう思って、布団に手をついた。
次に気づいた時には、俺はもう半分以上、布団に沈んでいた。
「春人様」
エクスの声がする。
少し遠い。
「春人様、原稿の進捗確認がまだ――」
「エクス」
アイの声が、それを止めた。
「今日は、よい」
「ですが、アイ様」
「春人は、毎日頑張っている」
その声だけは、妙にはっきり聞こえた。
俺は目を開けようとした。
でも、開かなかった。
まぶたが重い。
体も重い。
けれど、不快な重さではなかった。
久しぶりに、ちゃんと疲れていることを許されたような重さだった。
「……そう、ですわね」
エクスの声がした。
いつもの勢いがなかった。
×もなかった。
「バイトをして、食費を考えて、原稿も書こうとしておりますものね」
「うむ」
「春人様は、生活能力に問題はありますが」
「エクス」
「……今のは余計でしたわ」
「うむ」
少しだけ、布団が整えられる感触がした。
誰かが、俺の肩のあたりまで布団をかける。
たぶん、アイだ。
いや、エクスかもしれない。
どちらでもよかった。
「春人は、今日は寝る」
アイが言った。
「はい」
エクスが小さく答える。
「明日、また書いていただきますわ」
「うむ」
「ですので、今日は」
少し間があった。
「今日は、寝かせますわ」
ああ。
そうか。
今日は、寝ていいのか。
そんなことを思った。
俺は何か言おうとした。
礼か。
文句か。
それとも、明日は書く、だったか。
分からない。
言葉になる前に、眠気が全部持っていった。
最後に聞こえたのは、アイの声だった。
「エクス」
「はい、アイ様」
「プリンは、また食べたい」
「もちろんですわ」
「紅茶も」
「はい」
「だが」
「はい」
「春人の飯も、いる」
「……はい」
エクスの声が、少しだけ柔らかくなる。
「それは、春人様に作っていただきましょう」
意識が落ちる。
干した布団の匂いがした。
お日様の匂いがした。
たぶん、それだけで今日は十分だった。
上とんかつ定食は、まだ遠い。
本も、まだ出ていない。
原稿は、今日一行も進んでいない。
でも。
今日は、部屋が少しきれいで。
紅茶がうまくて。
プリンが甘くて。
布団が温かかった。
それだけで。
珍しく、明日が少しだけ嫌じゃなかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
少しでも合いそうでしたら、ブックマークや評価をいただけるとありがたいです。




