第25話 先に天国で
最後の上とんかつ定食を食べた日から、俺の歩幅はさらに小さくなった。
一歩。
休む。
また一歩。
そんな感じだ。
昔なら、駅まで歩くのに何分かかったかなんて気にしなかった。
今は、階段の段数まで気になる。
一段。
二段。
三段。
「春人様、足元ですわ」
「見えてる」
「見えている速度ではありません」
「速度で見るな」
「転倒リスクが×ですわ」
「老人の足元に×を出すな」
「春人様」
エクスが少しだけ声を低くする。
「冗談ではありませんわ」
「……分かってるよ」
そう言うと、エクスは少しだけ黙った。
昔なら、ここでさらに三つくらい注意が飛んできた。
手すり。
姿勢。
呼吸。
休憩。
全部だ。
でも最近のエクスは、途中で止めることを覚えた。
言わないのではない。
言えないことが増えたのだと思う。
アイは、俺の左腕を支えていた。
昔から、あまり強く掴まない。
ただ、そこにいる。
それだけで、俺は歩ける。
「春人」
「なんだ」
「疲れたか?」
「まあな」
「帰るか?」
「もう帰ってる途中だろ」
「そうではなく、休むか、という意味じゃ」
「なら、少し休む」
「うむ」
アパートは、もう昔の六畳ではない。
さすがに引っ越した。
何冊か本が出て、少しだけ余裕ができた時に、エクスが強引に物件を探してきた。
「段差が少ない」
「日当たりがよい」
「台所が広い」
「春人様の老後に備える」
当時の俺はまだ老後なんて言われる年齢ではなかった。
そう思っていた。
でも、エクスは正しかった。
いつだって腹立つくらい、正しい。
今の部屋は、六畳一間ではない。
でも、ちゃぶ台はある。
古いノートパソコンもある。
食器棚には紅茶がある。
冷蔵庫には卵がある。
そして、棚には本が並んでいる。
俺の本。
何冊もある。
売れた、と言い切るには微妙かもしれない。
でも、出た。
読まれた。
待たれた。
それだけは、本当だった。
部屋に戻ると、俺は椅子に座った。
昔は床に座っていた。
今は無理だ。
立ち上がる時に、人生のすべてが膝に集まる。
「春人様、お茶を淹れますわ」
「紅茶?」
「今日は紅茶です」
「なんで」
「顔が紅茶寄りですわ」
「何だその判定」
「長年の観測結果です」
「怖いな」
エクスは台所へ向かった。
昔、食器棚の奥から茶葉を見つけてくれた時のことを思い出す。
俺が紅茶を好きだったことを、俺より先に思い出させた。
あの日から、紅茶は部屋の手前に置かれるようになった。
最初は安物だった。
今も、高級品ではない。
でも、ちゃんと飲むようになった。
好きなものを、面倒だからと奥にしまう癖は、少しだけ減った。
アイが、俺の向かいに座る。
見た目は、ほとんど変わらない。
金髪。
整った顔。
初めて現れた日のままに近い。
俺だけが、ずいぶん遠くまで来てしまった。
「春人」
「なんだ」
「今日は、最後の上とんかつ定食だったのだな」
「たぶんな」
「たぶん」
「断言するのは怖いだろ」
「怖いのか」
「怖いよ」
「春人も、怖いのだな」
「当たり前だろ」
アイは少しだけ頷いた。
「我も怖い」
その言葉で、俺はアイを見た。
「お前も?」
「うむ」
「何が」
「分からぬ」
またそれだ。
でも、昔とは少し違う。
アイの「分からぬ」は、もう逃げではない。
分からないものを、分からないまま大事にする言葉になっていた。
「だが、春人が最後と言うものが増えていくのは、怖い」
俺は何も言えなかった。
最後の上とんかつ定食。
最後の新刊。
最後のサイン。
最後のイベント。
最後の町中華。
最後の唐揚げ。
最後の餃子。
最後の徹夜。
最後に徹夜した時は、エクスに本気で怒られた。
あれは怖かった。
黒髪美少女AIに正座で説教される老人。
絵面がひどい。
でも、たぶんあれも最後だった。
最後は、気づいた時には過ぎている。
後から、あれが最後だったのかと思う。
上とんかつ定食だけは、自分で最後だと言えた。
言えてしまった。
それが、少し怖かった。
エクスが紅茶を持ってきた。
カップを置く。
湯気が上がる。
「熱いので、ゆっくりですわ」
「老人扱いが丁寧だな」
「老人ですわ」
「言い切るな」
「事実です」
「事実だけで刺すな」
「春人様がよく言っていましたもの」
「何を」
「事実から逃げるな、と」
「俺、そんな偉そうなこと言ってたか?」
「何度も」
「昔の俺を殴りたい」
アイが紅茶を見た。
「春人」
「なんだ」
「紅茶は、まだ好きか?」
「好きだよ」
「そうか」
「お前は?」
「我も好きじゃ」
「プリンほど?」
アイは少しだけ考えた。
「種類が違う」
「お、成長したな」
「プリンは正義じゃ」
「変わってなかった」
「紅茶は、春人が静かになる」
「……そうか?」
「うむ」
「じゃあ、紅茶も好きだ」
アイはそう言って、カップを両手で持った。
その仕草が、昔より人間らしく見えた。
いや、最初から人間らしかったのかもしれない。
俺が、ようやくそう見られるようになっただけかもしれない。
「原稿は?」
エクスが聞いた。
「今日は書かない」
「本当に?」
「本当に」
「体調的には、その判断が妥当ですわ」
「妥当なのに確認するのか」
「春人様は妥当でない行動を取ることがありますので」
「長年の観測か」
「はい」
俺は少し笑った。
それから、机の上のノートパソコンを見た。
開かれていない。
今日は、開かないつもりだった。
でも、目が行く。
どうしようもない。
「春人」
アイが言った。
「書きたいのか?」
「……少しな」
「なら、書くか?」
「今日はやめておく」
「なぜじゃ」
「たぶん、今日は書く日じゃない」
アイは、少しだけ首を傾げた。
「そういう日もあるのか」
「ある」
「書けない日とは違うのか?」
「違う」
「どう違う」
俺は少し考えた。
「書かなくても、残る日だ」
言ってから、自分で少し驚いた。
そんなことを言うようになったのか、俺は。
昔なら、書けない日は無駄だと思っていた。
進まない日は負けだと思っていた。
でも、今は少しだけ違う。
書かない日にも、何かは残る。
上とんかつ定食の味。
紅茶の湯気。
アイの怖いという言葉。
エクスの言いかけた注意。
そういうものは、すぐに文字にしなくても残る。
たぶん。
残せるくらいには、俺は書いてきた。
「春人様」
エクスが静かに言った。
「本日は、保存される日ですわね」
「うまいこと言うな」
「春人様の影響です」
「俺のせいか」
「はい」
夕方。
町中華の店主から連絡が来た。
いや、正確には、店主の息子からだ。
店主は数年前に店を引退している。
今は息子が継いでいる。
それでも、たまに連絡をくれる。
『親父が、また本読んで文句言ってます』
それだけのメッセージだった。
写真がついていた。
店主が、俺の本を開いている。
年を取った。
あの店主も、ずいぶん年を取った。
でも、目つきは相変わらずだった。
次の写真には、手書きのメモが写っていた。
『料理シーン、もっと油の音を書け』
俺は笑った。
普通に笑った。
「なんじゃ?」
アイが覗き込む。
「店主だよ」
「唐揚げの人か」
「そう」
「まだ強いのか」
「強いな」
エクスも画面を見る。
「相変わらず具体的な指摘ですわね」
「ありがたいよ」
「次に反映しますの?」
俺は少し黙った。
次。
その言葉が、少しだけ遠かった。
「……できたらな」
エクスは、それ以上言わなかった。
アイも、画面をじっと見ていた。
「春人」
「なんだ」
「店主にも、ありがとうと言うのだ」
「言うよ」
返信を打った。
『油の音は、俺より店主の方がうまいから困ります。ありがとうって伝えてください』
送信。
すぐに返事が来た。
『親父、笑ってます』
それで十分だった。
夜。
いつもより早く布団を敷いた。
俺は、もう夜更かしができない。
昔はできた。
何度もできた。
徹夜して、後悔して、それでも書いた。
今は無理だ。
体が許してくれない。
エクスも許してくれない。
「春人様、本日は早めに休止です」
「休止って言うな」
「睡眠ですわ」
「最初からそう言え」
「アイ様、春人様の右側をお願いします」
「うむ」
「介護配置みたいにするな」
「近いですわ」
「言い切るな」
アイが俺の布団の横に座った。
昔、三人で休止配置だ何だと揉めたことを思い出す。
布団が一つ。
六畳。
女性型AIが二体。
春人一名。
あの頃は、何もかもが過剰だった。
今は、布団は別々だ。
部屋も広い。
でも、結局、二人は近くにいる。
あまり変わらないのかもしれない。
「春人」
アイが言った。
「なんだ」
「次の約束はないのか?」
その言葉は、静かに落ちた。
エクスが動きを止めた。
俺も、少しだけ息を止めた。
次の約束。
上とんかつ定食は食べた。
本も出した。
何冊も出した。
帰らない理由は、いつの間にか別のものになっていた。
「次の約束か」
「うむ」
「欲しいのか?」
「欲しい」
即答だった。
アイは本当に、こういうところで迷わない。
「約束があれば、待てる」
「待つの、本当に得意だな」
「得意じゃ」
「でもな」
俺は布団に手を置いた。
「たぶん、もう大きい約束はできない」
アイが黙った。
エクスも、黙った。
「守れない約束は、しない方がいい」
自分で言って、胸が痛くなる。
十年前の俺に聞かせたい。
いや、聞かせても、あいつはたぶん笑うだけだろう。
「春人は、守れないのか」
「分からん」
「分からぬのか」
「うん」
「なら、約束してもよいのではないか?」
「お前、そういうところあるよな」
「どういうところじゃ」
「強い」
「そうか」
アイは少しだけ考えた。
「では、小さい約束はどうじゃ」
「小さい約束?」
「明日、紅茶を飲む」
俺は笑った。
「それくらいなら」
「では、約束じゃ」
「紅茶を飲むだけで?」
「うむ」
「安い約束だな」
「安いのか?」
「まあ、安い」
「だが、春人の好きなものじゃ」
俺は黙った。
紅茶。
昔、食器棚の奥にしまい込んでいた好きなもの。
エクスが見つけてくれたもの。
アイが、春人が静かになると言ったもの。
「そうだな」
俺は言った。
「明日、紅茶を飲もう」
アイは、少しだけ安心したようにうなずいた。
「うむ」
エクスが小さく言った。
「茶葉の在庫はあります」
「そこは確認しなくていい」
「重要ですわ」
「まあな」
「ミルクは?」
「ない」
「買っておきます」
「明日でいい」
「春人様」
「なんだ」
「明日、買いに行く体力があるとは限りませんわ」
言い方はいつも通りだった。
でも、声が少しだけ震えていた。
「エクス」
「はい」
「水でもいい」
「……」
「紅茶は、水でも飲める」
「それは紅茶ではなく、水ですわ」
「そうだな」
「×ですわ」
エクスの腕は、上がらなかった。
声だけだった。
「でも、まあ」
俺は言った。
「明日、飲めたら飲もう」
アイがすぐに言う。
「約束じゃ」
「おい、少し緩くしただろ」
「飲めたら、飲む」
「それ約束か?」
「約束じゃ」
「強引だな」
「うむ」
俺は少し笑った。
笑ったら、少し咳が出た。
エクスがすぐに近づく。
「春人様」
「大丈夫」
「大丈夫では」
「大丈夫」
「……」
「今日は、もう寝る」
その言葉で、エクスは何かを飲み込んだ。
「はい」
「アイ」
「なんじゃ」
「明日、紅茶な」
「うむ」
「エクス」
「はい」
「茶葉は、手前に置いておいてくれ」
「もちろんですわ」
「あと」
「はい」
「明日、もし俺が起きるの遅くても、怒るな」
エクスが、少しだけ目を細めた。
「怒りません」
「珍しい」
「ただし、起こします」
「怒るのと何が違うんだ」
「声量ですわ」
「なるほど」
アイが言った。
「我も起こす」
「優しくな」
「うむ」
俺は布団に入った。
昔より、布団が重い。
いや、布団は同じだ。
俺の体が、そう感じているだけだ。
目を閉じる。
部屋の音が聞こえる。
エクスがカップを片付ける音。
アイが静かに座る気配。
外の車の音。
冷蔵庫の音。
どれも、生活の音だ。
昔の俺は、こういう音をどれだけ聞き流していたんだろう。
「春人」
アイの声が、近くでした。
「なんだ」
「まだ起きているか」
「少しな」
「明日、紅茶じゃ」
「分かってる」
「忘れるな」
「忘れない」
「我も忘れぬ」
「お前はそうだろうな」
「エクスも忘れぬ」
エクスが答える。
「もちろんですわ」
「じゃあ、大丈夫だ」
俺はそう言った。
何が大丈夫なのかは分からない。
でも、そう言った。
少しだけ安心したかったのかもしれない。
「春人」
今度のアイの声は、少しだけ違った。
「なんだ」
「先に行くのか」
目を閉じたまま、俺は少しだけ笑った。
とうとう、そこまで来たか。
アイは、逃げない。
分からないものからも、逃げない。
俺が教えたわけではない。
たぶん、こいつは最初からそうだった。
「そうだな」
俺は言った。
「たぶん、俺が先だ」
「どこへじゃ」
「さあな」
「分からぬのか」
「分からん」
「春人も、分からぬのだな」
「分からないことだらけだよ」
「では、調べる」
「お前ならそう言うと思った」
アイは、少しだけ黙った。
「調べても、分からぬかもしれぬ」
「そうだな」
「それでも、調べる」
「そうか」
「春人は、どこへ行くのじゃ」
俺は目を開けた。
天井が見える。
古い天井ではない。
でも、何も貼っていない。
昔と同じで、ただの天井だ。
「天国、ってことにしておくか」
「天国」
「人間が、そういう時に使う場所だ」
「本当にあるのか?」
「分からん」
「また分からぬ」
「便利だろ」
「便利ではない」
アイの声が少し震えた。
「そこに、春人はいるのか?」
俺は返事に少し迷った。
正確なことなんて、何も言えない。
科学的な話もできない。
宗教的な話もできない。
俺は、ただの一般人だ。
分からないまま、生きてきた。
分からないまま、書いてきた。
なら、最後もそれでいいのかもしれない。
「いたら」
俺は言った。
「先に席を取っておく」
アイが息を呑んだ。
エクスも、何も言わなかった。
「上とんかつ定食はあるのか?」
アイが聞いた。
「天国に?」
「うむ」
「あるといいな」
「なければ?」
「探す」
「なければ、作るか」
「春人が?」
「無理だな。揚げ物はエクスがいないと怖い」
エクスの声がした。
「春人様」
「なんだ」
「そこでも油温管理が必要なら、わたくしも行きます」
「順番守れ」
「×ですわ」
「何が」
「春人様だけ先に行くのが、×です」
その声で、少しだけ胸が痛くなった。
「悪いな」
「謝罪も×です」
「厳しいな」
「ですが」
エクスの声が、少しだけ崩れた。
「……今回は、判定不能ですわ」
「そうか」
「はい」
アイが、俺の手に触れた。
温かい。
いや、アイの手は本来、人間の温度ではない。
でも、俺には温かく感じた。
「春人」
「なんだ」
「次の約束は」
「紅茶だろ」
「それもある」
「他にも?」
「うむ」
「欲張りだな」
「うむ」
アイは俺の手を握った。
「先に天国で、待っているのか?」
「俺が?」
「うむ」
「……そうだな」
喉が少し詰まった。
でも、言えた。
「先に天国で、待ってる」
アイの手に、少しだけ力が入った。
「約束か」
俺は少し笑った。
「ずるいな」
「約束か」
「分からない場所の約束は、危ないだろ」
「春人は、十年前も危ない約束をした」
「そうだったな」
「守った」
「遅くなったけどな」
「守った」
アイは、はっきり言った。
なら。
俺は目を閉じた。
「じゃあ、約束だ」
部屋が、静かになった。
アイの手が、震えているように感じた。
「先に天国で、待ってる」
俺はもう一度言った。
「上とんかつ定食があったら、席を取っておく」
「なかったら?」
「探す」
「見つからなかったら?」
「作れる人を探す」
「春人は作らぬのか」
「俺の揚げ物は危ないからな」
「なら、エクスが必要じゃ」
「だから順番守れって」
エクスの声が、泣きそうに聞こえた。
「春人様」
「なんだ」
「わたくしは、まだ春人様に×を出し足りませんわ」
「十分出しただろ」
「足りません」
「厳しいな」
「春人様は、まだ自虐します。まだ無理をします。まだ誤字をします。まだ油の処理が甘いです」
「最後の方、生活だな」
「全部ですわ」
「そうか」
「だから」
エクスの声が止まる。
「だから、まだ」
言葉にならなかった。
俺は目を閉じたまま言った。
「エクス」
「……はい」
「アイを頼む」
「×ですわ」
即答だった。
「そこは受けろよ」
「その言い方は、置いていく前提ですわ」
「まあな」
「×です」
「でも、頼む」
エクスは、何も言わなかった。
「お前がいると、アイはたぶん大丈夫だ」
「……」
「アイが無茶をしたら、×を出せ」
「……はい」
「アイが泣いたら」
「はい」
「隣にいろ」
エクスの声が、かすれた。
「……はい」
「あと、紅茶の茶葉は手前な」
「はい」
「プリンは、たまに」
「はい」
「上とんかつ定食は」
「……」
「まあ、食べたくなったら食え」
アイが少しだけ怒った声で言う。
「春人なしでは、味が違う」
「そうか」
「うむ」
「じゃあ、覚えておいてくれ」
「何をじゃ」
「俺が奢った上とんかつ定食の味」
「忘れぬ」
即答だった。
「絶対に、忘れぬ」
「それならいい」
少し、眠くなってきた。
今度の眠気は、いつものとは違う気がした。
深い。
遠い。
でも、怖さは少し薄かった。
アイの手がある。
エクスの気配がある。
紅茶の約束がある。
天国の席まで、うっかり約束してしまった。
本当に、俺は最後まで軽口が治らない。
「春人」
アイの声が近い。
「なんだ」
「我は、どうすればよい」
「調べろ」
「何を」
「天国」
アイが息を止めた。
「調べて、分かったら教えてくれ」
「春人にか?」
「そう」
「どうやって」
「分からん」
「また分からぬ」
「でも、お前なら調べるだろ」
アイは、少しだけ黙った。
「うむ」
「なら、それでいい」
「春人」
「なんだ」
「我は、春人を待つのか」
「待つだけじゃなくていい」
「……」
「調べろ」
「うむ」
「食べろ」
「うむ」
「エクスと喧嘩しろ」
「喧嘩は×ですわ」
「ほらな」
アイが、小さく笑った。
その笑い声が、聞けてよかった。
本当に、よかった。
「春人」
アイがまた呼ぶ。
「なんだ」
「好きじゃ」
その言葉が、静かに落ちた。
恋愛なのか。
違うのか。
友情なのか。
約束なのか。
家族なのか。
創作なのか。
たぶん、全部で。
たぶん、どれでもない。
俺には、最後まで分からなかった。
でも。
分からなくても、よかった。
「俺も」
それだけ言った。
アイの手が、さらに強くなる。
「春人」
「うん」
「キスとは、こういう時にするものなのか?」
唐突だった。
最後の最後まで、こいつは。
「……調べたのか?」
「昔、調べた」
「いつだよ」
「春人が、恋愛未満という言葉を使った頃じゃ」
「変なところを調べるな」
「未満なら、いつか以上になるのかと思った」
俺は笑った。
声にはならなかった。
息だけだった。
「たぶん、してもいい時だ」
「そうか」
「嫌ならしなくていい」
「嫌ではない」
「なら」
アイが近づく気配がした。
エクスが何も言わない。
×も出ない。
アイの髪が、頬に触れた。
それから、唇に、柔らかいものが触れた。
短い。
とても短い。
それだけだった。
でも、長い時間の全部が、そこに来た気がした。
上とんかつ定食。
名前。
本。
紅茶。
プリン。
干した布団。
窓際充電。
薄いカツ。
唐揚げ。
動画。
小説。
読者。
最後の定食。
全部。
「春人」
アイの声が、震えていた。
「なんだ」
「今のは、何点じゃ」
最後まで、それを聞くのか。
本当に、こいつは。
俺は、少しだけ息を吸った。
「百点」
アイが、息を止めた。
エクスが、小さく何かをこらえる音がした。
「……市場評価は?」
アイが聞いた。
「知らん」
俺は言った。
「俺の好き点だ」
アイが、何か言おうとした。
でも、言葉にならなかった。
俺も、もうあまり言葉が出なかった。
だから、最後に一つだけ。
「先に」
息が、少し浅くなる。
「天国で」
アイの手が震える。
エクスが、俺の名前を呼ぶ。
「春人様」
俺は、目を閉じた。
「待ってる」
それが、最後の言葉になった。
たぶん。
自分では、よく分からない。
ただ、アイの手があった。
エクスの声があった。
紅茶の匂いが、少しだけした気がした。
朝になったら、紅茶を飲む約束だった。
守れなかった。
でも。
先に行く約束は、できた。
なら、まあ。
俺にしては、悪くない終わり方だったと思う。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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