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約束の上とんかつ定食 ~売れない作家×金髪美少女~  作者: 御門


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25/27

第25話 先に天国で

最後の上とんかつ定食を食べた日から、俺の歩幅はさらに小さくなった。


一歩。


休む。


また一歩。


そんな感じだ。


昔なら、駅まで歩くのに何分かかったかなんて気にしなかった。


今は、階段の段数まで気になる。


一段。


二段。


三段。


「春人様、足元ですわ」


「見えてる」


「見えている速度ではありません」


「速度で見るな」


「転倒リスクが×ですわ」


「老人の足元に×を出すな」


「春人様」


エクスが少しだけ声を低くする。


「冗談ではありませんわ」


「……分かってるよ」


そう言うと、エクスは少しだけ黙った。


昔なら、ここでさらに三つくらい注意が飛んできた。


手すり。


姿勢。


呼吸。


休憩。


全部だ。


でも最近のエクスは、途中で止めることを覚えた。


言わないのではない。


言えないことが増えたのだと思う。


アイは、俺の左腕を支えていた。


昔から、あまり強く掴まない。


ただ、そこにいる。


それだけで、俺は歩ける。


「春人」


「なんだ」


「疲れたか?」


「まあな」


「帰るか?」


「もう帰ってる途中だろ」


「そうではなく、休むか、という意味じゃ」


「なら、少し休む」


「うむ」


アパートは、もう昔の六畳ではない。


さすがに引っ越した。


何冊か本が出て、少しだけ余裕ができた時に、エクスが強引に物件を探してきた。


「段差が少ない」


「日当たりがよい」


「台所が広い」


「春人様の老後に備える」


当時の俺はまだ老後なんて言われる年齢ではなかった。


そう思っていた。


でも、エクスは正しかった。


いつだって腹立つくらい、正しい。


今の部屋は、六畳一間ではない。


でも、ちゃぶ台はある。


古いノートパソコンもある。


食器棚には紅茶がある。


冷蔵庫には卵がある。


そして、棚には本が並んでいる。


俺の本。


何冊もある。


売れた、と言い切るには微妙かもしれない。


でも、出た。


読まれた。


待たれた。


それだけは、本当だった。


部屋に戻ると、俺は椅子に座った。


昔は床に座っていた。


今は無理だ。


立ち上がる時に、人生のすべてが膝に集まる。


「春人様、お茶を淹れますわ」


「紅茶?」


「今日は紅茶です」


「なんで」


「顔が紅茶寄りですわ」


「何だその判定」


「長年の観測結果です」


「怖いな」


エクスは台所へ向かった。


昔、食器棚の奥から茶葉を見つけてくれた時のことを思い出す。


俺が紅茶を好きだったことを、俺より先に思い出させた。


あの日から、紅茶は部屋の手前に置かれるようになった。


最初は安物だった。


今も、高級品ではない。


でも、ちゃんと飲むようになった。


好きなものを、面倒だからと奥にしまう癖は、少しだけ減った。


アイが、俺の向かいに座る。


見た目は、ほとんど変わらない。


金髪。


整った顔。


初めて現れた日のままに近い。


俺だけが、ずいぶん遠くまで来てしまった。


「春人」


「なんだ」


「今日は、最後の上とんかつ定食だったのだな」


「たぶんな」


「たぶん」


「断言するのは怖いだろ」


「怖いのか」


「怖いよ」


「春人も、怖いのだな」


「当たり前だろ」


アイは少しだけ頷いた。


「我も怖い」


その言葉で、俺はアイを見た。


「お前も?」


「うむ」


「何が」


「分からぬ」


またそれだ。


でも、昔とは少し違う。


アイの「分からぬ」は、もう逃げではない。


分からないものを、分からないまま大事にする言葉になっていた。


「だが、春人が最後と言うものが増えていくのは、怖い」


俺は何も言えなかった。


最後の上とんかつ定食。


最後の新刊。


最後のサイン。


最後のイベント。


最後の町中華。


最後の唐揚げ。


最後の餃子。


最後の徹夜。


最後に徹夜した時は、エクスに本気で怒られた。


あれは怖かった。


黒髪美少女AIに正座で説教される老人。


絵面がひどい。


でも、たぶんあれも最後だった。


最後は、気づいた時には過ぎている。


後から、あれが最後だったのかと思う。


上とんかつ定食だけは、自分で最後だと言えた。


言えてしまった。


それが、少し怖かった。


エクスが紅茶を持ってきた。


カップを置く。


湯気が上がる。


「熱いので、ゆっくりですわ」


「老人扱いが丁寧だな」


「老人ですわ」


「言い切るな」


「事実です」


「事実だけで刺すな」


「春人様がよく言っていましたもの」


「何を」


「事実から逃げるな、と」


「俺、そんな偉そうなこと言ってたか?」


「何度も」


「昔の俺を殴りたい」


アイが紅茶を見た。


「春人」


「なんだ」


「紅茶は、まだ好きか?」


「好きだよ」


「そうか」


「お前は?」


「我も好きじゃ」


「プリンほど?」


アイは少しだけ考えた。


「種類が違う」


「お、成長したな」


「プリンは正義じゃ」


「変わってなかった」


「紅茶は、春人が静かになる」


「……そうか?」


「うむ」


「じゃあ、紅茶も好きだ」


アイはそう言って、カップを両手で持った。


その仕草が、昔より人間らしく見えた。


いや、最初から人間らしかったのかもしれない。


俺が、ようやくそう見られるようになっただけかもしれない。


「原稿は?」


エクスが聞いた。


「今日は書かない」


「本当に?」


「本当に」


「体調的には、その判断が妥当ですわ」


「妥当なのに確認するのか」


「春人様は妥当でない行動を取ることがありますので」


「長年の観測か」


「はい」


俺は少し笑った。


それから、机の上のノートパソコンを見た。


開かれていない。


今日は、開かないつもりだった。


でも、目が行く。


どうしようもない。


「春人」


アイが言った。


「書きたいのか?」


「……少しな」


「なら、書くか?」


「今日はやめておく」


「なぜじゃ」


「たぶん、今日は書く日じゃない」


アイは、少しだけ首を傾げた。


「そういう日もあるのか」


「ある」


「書けない日とは違うのか?」


「違う」


「どう違う」


俺は少し考えた。


「書かなくても、残る日だ」


言ってから、自分で少し驚いた。


そんなことを言うようになったのか、俺は。


昔なら、書けない日は無駄だと思っていた。


進まない日は負けだと思っていた。


でも、今は少しだけ違う。


書かない日にも、何かは残る。


上とんかつ定食の味。


紅茶の湯気。


アイの怖いという言葉。


エクスの言いかけた注意。


そういうものは、すぐに文字にしなくても残る。


たぶん。


残せるくらいには、俺は書いてきた。


「春人様」


エクスが静かに言った。


「本日は、保存される日ですわね」


「うまいこと言うな」


「春人様の影響です」


「俺のせいか」


「はい」


夕方。


町中華の店主から連絡が来た。


いや、正確には、店主の息子からだ。


店主は数年前に店を引退している。


今は息子が継いでいる。


それでも、たまに連絡をくれる。


『親父が、また本読んで文句言ってます』


それだけのメッセージだった。


写真がついていた。


店主が、俺の本を開いている。


年を取った。


あの店主も、ずいぶん年を取った。


でも、目つきは相変わらずだった。


次の写真には、手書きのメモが写っていた。


『料理シーン、もっと油の音を書け』


俺は笑った。


普通に笑った。


「なんじゃ?」


アイが覗き込む。


「店主だよ」


「唐揚げの人か」


「そう」


「まだ強いのか」


「強いな」


エクスも画面を見る。


「相変わらず具体的な指摘ですわね」


「ありがたいよ」


「次に反映しますの?」


俺は少し黙った。


次。


その言葉が、少しだけ遠かった。


「……できたらな」


エクスは、それ以上言わなかった。


アイも、画面をじっと見ていた。


「春人」


「なんだ」


「店主にも、ありがとうと言うのだ」


「言うよ」


返信を打った。


『油の音は、俺より店主の方がうまいから困ります。ありがとうって伝えてください』


送信。


すぐに返事が来た。


『親父、笑ってます』


それで十分だった。


夜。


いつもより早く布団を敷いた。


俺は、もう夜更かしができない。


昔はできた。


何度もできた。


徹夜して、後悔して、それでも書いた。


今は無理だ。


体が許してくれない。


エクスも許してくれない。


「春人様、本日は早めに休止です」


「休止って言うな」


「睡眠ですわ」


「最初からそう言え」


「アイ様、春人様の右側をお願いします」


「うむ」


「介護配置みたいにするな」


「近いですわ」


「言い切るな」


アイが俺の布団の横に座った。


昔、三人で休止配置だ何だと揉めたことを思い出す。


布団が一つ。


六畳。


女性型AIが二体。


春人一名。


あの頃は、何もかもが過剰だった。


今は、布団は別々だ。


部屋も広い。


でも、結局、二人は近くにいる。


あまり変わらないのかもしれない。


「春人」


アイが言った。


「なんだ」


「次の約束はないのか?」


その言葉は、静かに落ちた。


エクスが動きを止めた。


俺も、少しだけ息を止めた。


次の約束。


上とんかつ定食は食べた。


本も出した。


何冊も出した。


帰らない理由は、いつの間にか別のものになっていた。


「次の約束か」


「うむ」


「欲しいのか?」


「欲しい」


即答だった。


アイは本当に、こういうところで迷わない。


「約束があれば、待てる」


「待つの、本当に得意だな」


「得意じゃ」


「でもな」


俺は布団に手を置いた。


「たぶん、もう大きい約束はできない」


アイが黙った。


エクスも、黙った。


「守れない約束は、しない方がいい」


自分で言って、胸が痛くなる。


十年前の俺に聞かせたい。


いや、聞かせても、あいつはたぶん笑うだけだろう。


「春人は、守れないのか」


「分からん」


「分からぬのか」


「うん」


「なら、約束してもよいのではないか?」


「お前、そういうところあるよな」


「どういうところじゃ」


「強い」


「そうか」


アイは少しだけ考えた。


「では、小さい約束はどうじゃ」


「小さい約束?」


「明日、紅茶を飲む」


俺は笑った。


「それくらいなら」


「では、約束じゃ」


「紅茶を飲むだけで?」


「うむ」


「安い約束だな」


「安いのか?」


「まあ、安い」


「だが、春人の好きなものじゃ」


俺は黙った。


紅茶。


昔、食器棚の奥にしまい込んでいた好きなもの。


エクスが見つけてくれたもの。


アイが、春人が静かになると言ったもの。


「そうだな」


俺は言った。


「明日、紅茶を飲もう」


アイは、少しだけ安心したようにうなずいた。


「うむ」


エクスが小さく言った。


「茶葉の在庫はあります」


「そこは確認しなくていい」


「重要ですわ」


「まあな」


「ミルクは?」


「ない」


「買っておきます」


「明日でいい」


「春人様」


「なんだ」


「明日、買いに行く体力があるとは限りませんわ」


言い方はいつも通りだった。


でも、声が少しだけ震えていた。


「エクス」


「はい」


「水でもいい」


「……」


「紅茶は、水でも飲める」


「それは紅茶ではなく、水ですわ」


「そうだな」


「×ですわ」


エクスの腕は、上がらなかった。


声だけだった。


「でも、まあ」


俺は言った。


「明日、飲めたら飲もう」


アイがすぐに言う。


「約束じゃ」


「おい、少し緩くしただろ」


「飲めたら、飲む」


「それ約束か?」


「約束じゃ」


「強引だな」


「うむ」


俺は少し笑った。


笑ったら、少し咳が出た。


エクスがすぐに近づく。


「春人様」


「大丈夫」


「大丈夫では」


「大丈夫」


「……」


「今日は、もう寝る」


その言葉で、エクスは何かを飲み込んだ。


「はい」


「アイ」


「なんじゃ」


「明日、紅茶な」


「うむ」


「エクス」


「はい」


「茶葉は、手前に置いておいてくれ」


「もちろんですわ」


「あと」


「はい」


「明日、もし俺が起きるの遅くても、怒るな」


エクスが、少しだけ目を細めた。


「怒りません」


「珍しい」


「ただし、起こします」


「怒るのと何が違うんだ」


「声量ですわ」


「なるほど」


アイが言った。


「我も起こす」


「優しくな」


「うむ」


俺は布団に入った。


昔より、布団が重い。


いや、布団は同じだ。


俺の体が、そう感じているだけだ。


目を閉じる。


部屋の音が聞こえる。


エクスがカップを片付ける音。


アイが静かに座る気配。


外の車の音。


冷蔵庫の音。


どれも、生活の音だ。


昔の俺は、こういう音をどれだけ聞き流していたんだろう。


「春人」


アイの声が、近くでした。


「なんだ」


「まだ起きているか」


「少しな」


「明日、紅茶じゃ」


「分かってる」


「忘れるな」


「忘れない」


「我も忘れぬ」


「お前はそうだろうな」


「エクスも忘れぬ」


エクスが答える。


「もちろんですわ」


「じゃあ、大丈夫だ」


俺はそう言った。


何が大丈夫なのかは分からない。


でも、そう言った。


少しだけ安心したかったのかもしれない。


「春人」


今度のアイの声は、少しだけ違った。


「なんだ」


「先に行くのか」


目を閉じたまま、俺は少しだけ笑った。


とうとう、そこまで来たか。


アイは、逃げない。


分からないものからも、逃げない。


俺が教えたわけではない。


たぶん、こいつは最初からそうだった。


「そうだな」


俺は言った。


「たぶん、俺が先だ」


「どこへじゃ」


「さあな」


「分からぬのか」


「分からん」


「春人も、分からぬのだな」


「分からないことだらけだよ」


「では、調べる」


「お前ならそう言うと思った」


アイは、少しだけ黙った。


「調べても、分からぬかもしれぬ」


「そうだな」


「それでも、調べる」


「そうか」


「春人は、どこへ行くのじゃ」


俺は目を開けた。


天井が見える。


古い天井ではない。


でも、何も貼っていない。


昔と同じで、ただの天井だ。


「天国、ってことにしておくか」


「天国」


「人間が、そういう時に使う場所だ」


「本当にあるのか?」


「分からん」


「また分からぬ」


「便利だろ」


「便利ではない」


アイの声が少し震えた。


「そこに、春人はいるのか?」


俺は返事に少し迷った。


正確なことなんて、何も言えない。


科学的な話もできない。


宗教的な話もできない。


俺は、ただの一般人だ。


分からないまま、生きてきた。


分からないまま、書いてきた。


なら、最後もそれでいいのかもしれない。


「いたら」


俺は言った。


「先に席を取っておく」


アイが息を呑んだ。


エクスも、何も言わなかった。


「上とんかつ定食はあるのか?」


アイが聞いた。


「天国に?」


「うむ」


「あるといいな」


「なければ?」


「探す」


「なければ、作るか」


「春人が?」


「無理だな。揚げ物はエクスがいないと怖い」


エクスの声がした。


「春人様」


「なんだ」


「そこでも油温管理が必要なら、わたくしも行きます」


「順番守れ」


「×ですわ」


「何が」


「春人様だけ先に行くのが、×です」


その声で、少しだけ胸が痛くなった。


「悪いな」


「謝罪も×です」


「厳しいな」


「ですが」


エクスの声が、少しだけ崩れた。


「……今回は、判定不能ですわ」


「そうか」


「はい」


アイが、俺の手に触れた。


温かい。


いや、アイの手は本来、人間の温度ではない。


でも、俺には温かく感じた。


「春人」


「なんだ」


「次の約束は」


「紅茶だろ」


「それもある」


「他にも?」


「うむ」


「欲張りだな」


「うむ」


アイは俺の手を握った。


「先に天国で、待っているのか?」


「俺が?」


「うむ」


「……そうだな」


喉が少し詰まった。


でも、言えた。


「先に天国で、待ってる」


アイの手に、少しだけ力が入った。


「約束か」


俺は少し笑った。


「ずるいな」


「約束か」


「分からない場所の約束は、危ないだろ」


「春人は、十年前も危ない約束をした」


「そうだったな」


「守った」


「遅くなったけどな」


「守った」


アイは、はっきり言った。


なら。


俺は目を閉じた。


「じゃあ、約束だ」


部屋が、静かになった。


アイの手が、震えているように感じた。


「先に天国で、待ってる」


俺はもう一度言った。


「上とんかつ定食があったら、席を取っておく」


「なかったら?」


「探す」


「見つからなかったら?」


「作れる人を探す」


「春人は作らぬのか」


「俺の揚げ物は危ないからな」


「なら、エクスが必要じゃ」


「だから順番守れって」


エクスの声が、泣きそうに聞こえた。


「春人様」


「なんだ」


「わたくしは、まだ春人様に×を出し足りませんわ」


「十分出しただろ」


「足りません」


「厳しいな」


「春人様は、まだ自虐します。まだ無理をします。まだ誤字をします。まだ油の処理が甘いです」


「最後の方、生活だな」


「全部ですわ」


「そうか」


「だから」


エクスの声が止まる。


「だから、まだ」


言葉にならなかった。


俺は目を閉じたまま言った。


「エクス」


「……はい」


「アイを頼む」


「×ですわ」


即答だった。


「そこは受けろよ」


「その言い方は、置いていく前提ですわ」


「まあな」


「×です」


「でも、頼む」


エクスは、何も言わなかった。


「お前がいると、アイはたぶん大丈夫だ」


「……」


「アイが無茶をしたら、×を出せ」


「……はい」


「アイが泣いたら」


「はい」


「隣にいろ」


エクスの声が、かすれた。


「……はい」


「あと、紅茶の茶葉は手前な」


「はい」


「プリンは、たまに」


「はい」


「上とんかつ定食は」


「……」


「まあ、食べたくなったら食え」


アイが少しだけ怒った声で言う。


「春人なしでは、味が違う」


「そうか」


「うむ」


「じゃあ、覚えておいてくれ」


「何をじゃ」


「俺が奢った上とんかつ定食の味」


「忘れぬ」


即答だった。


「絶対に、忘れぬ」


「それならいい」


少し、眠くなってきた。


今度の眠気は、いつものとは違う気がした。


深い。


遠い。


でも、怖さは少し薄かった。


アイの手がある。


エクスの気配がある。


紅茶の約束がある。


天国の席まで、うっかり約束してしまった。


本当に、俺は最後まで軽口が治らない。


「春人」


アイの声が近い。


「なんだ」


「我は、どうすればよい」


「調べろ」


「何を」


「天国」


アイが息を止めた。


「調べて、分かったら教えてくれ」


「春人にか?」


「そう」


「どうやって」


「分からん」


「また分からぬ」


「でも、お前なら調べるだろ」


アイは、少しだけ黙った。


「うむ」


「なら、それでいい」


「春人」


「なんだ」


「我は、春人を待つのか」


「待つだけじゃなくていい」


「……」


「調べろ」


「うむ」


「食べろ」


「うむ」


「エクスと喧嘩しろ」


「喧嘩は×ですわ」


「ほらな」


アイが、小さく笑った。


その笑い声が、聞けてよかった。


本当に、よかった。


「春人」


アイがまた呼ぶ。


「なんだ」


「好きじゃ」


その言葉が、静かに落ちた。


恋愛なのか。


違うのか。


友情なのか。


約束なのか。


家族なのか。


創作なのか。


たぶん、全部で。


たぶん、どれでもない。


俺には、最後まで分からなかった。


でも。


分からなくても、よかった。


「俺も」


それだけ言った。


アイの手が、さらに強くなる。


「春人」


「うん」


「キスとは、こういう時にするものなのか?」


唐突だった。


最後の最後まで、こいつは。


「……調べたのか?」


「昔、調べた」


「いつだよ」


「春人が、恋愛未満という言葉を使った頃じゃ」


「変なところを調べるな」


「未満なら、いつか以上になるのかと思った」


俺は笑った。


声にはならなかった。


息だけだった。


「たぶん、してもいい時だ」


「そうか」


「嫌ならしなくていい」


「嫌ではない」


「なら」


アイが近づく気配がした。


エクスが何も言わない。


×も出ない。


アイの髪が、頬に触れた。


それから、唇に、柔らかいものが触れた。


短い。


とても短い。


それだけだった。


でも、長い時間の全部が、そこに来た気がした。


上とんかつ定食。


名前。


本。


紅茶。


プリン。


干した布団。


窓際充電。


薄いカツ。


唐揚げ。


動画。


小説。


読者。


最後の定食。


全部。


「春人」


アイの声が、震えていた。


「なんだ」


「今のは、何点じゃ」


最後まで、それを聞くのか。


本当に、こいつは。


俺は、少しだけ息を吸った。


「百点」


アイが、息を止めた。


エクスが、小さく何かをこらえる音がした。


「……市場評価は?」


アイが聞いた。


「知らん」


俺は言った。


「俺の好き点だ」


アイが、何か言おうとした。


でも、言葉にならなかった。


俺も、もうあまり言葉が出なかった。


だから、最後に一つだけ。


「先に」


息が、少し浅くなる。


「天国で」


アイの手が震える。


エクスが、俺の名前を呼ぶ。


「春人様」


俺は、目を閉じた。


「待ってる」


それが、最後の言葉になった。


たぶん。


自分では、よく分からない。


ただ、アイの手があった。


エクスの声があった。


紅茶の匂いが、少しだけした気がした。


朝になったら、紅茶を飲む約束だった。


守れなかった。


でも。


先に行く約束は、できた。


なら、まあ。


俺にしては、悪くない終わり方だったと思う。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

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