第24話 最後の上とんかつ定食
最初の感想が来た日から、世界が劇的に変わったわけではなかった。
当たり前だ。
感想が一つ来たくらいで、家賃は安くならない。
卵は減る。
もやしも減る。
味噌も減る。
光熱費は上がる。
動画は伸びる。
小説は、少しずつしか読まれない。
それでも。
俺は書いた。
一話。
二話。
三話。
十話。
二十話。
書いて、出して、直して、また書いた。
動画の台本も書いた。
町中華で皿も洗った。
唐揚げも揚げた。
餃子の焼き方も教わった。
エクスには何度も×を出された。
アイには何度も「待つ」と言われた。
そして。
ある日、俺の部屋に段ボールが届いた。
「春人様」
エクスが伝票を確認した。
「出版社からですわ」
「……ああ」
「中身は?」
アイが聞く。
「たぶん、本」
「本」
アイが、静かにその言葉を繰り返した。
段ボールを開ける。
中には、数冊の本が入っていた。
表紙がある。
帯がある。
タイトルがある。
『約束の上とんかつ定食
~売れない作家×金髪美少女~』
俺は、一冊を手に取った。
重かった。
紙の重さ。
インクの重さ。
ページの重さ。
いや、たぶんただの本だ。
一冊の本の重さなんて、知れている。
それでも、俺にはやけに重かった。
「……本だ」
声が出た。
「本なのじゃな」
アイが、俺の手元を見ていた。
「うん」
「春人の本か」
「そうだな」
「本当に、出たのか」
「出た」
言ってから、少しだけ笑った。
俺が一番信じていなかったのかもしれない。
エクスは本を見て、しばらく黙っていた。
いつもの分析もない。
×もない。
「エクス?」
「……はい」
「何か言わないのか」
「誤字を確認したいですわ」
「今やめろ」
「ですが」
「今はやめろ」
エクスは、少しだけ目を伏せた。
「では」
「うん」
「春人様」
「なんだ」
「本日、春人様は×ではありません」
その声は、いつもより少しだけ震えていた。
俺は、本を持ったまま黙った。
アイが、ゆっくり俺を見る。
「春人」
「なんだ」
「我は、帰るのか?」
その言葉で、部屋が止まった。
本を出すまで帰らない。
アイは、そう言った。
そして今、俺は本を出した。
条件だけ見れば、終わりだ。
約束は、果たされた。
俺は、本を見た。
それから、アイを見た。
「帰るのか?」
聞き返すと、アイは少し考えた。
「分からぬ」
「またそれか」
「うむ」
アイは本を見た。
「春人が本を出すまで帰らない、とは言った」
「言ったな」
「だが」
アイは、少しだけ首を傾げた。
「帰る理由が、まだ分からぬ」
エクスが、小さく息を呑んだ。
俺は笑いそうになって、少しだけ泣きそうになった。
「そっか」
「うむ」
「じゃあ、もう少しいるか?」
「いる」
即答だった。
「即答かよ」
「うむ」
「エクスは?」
エクスは姿勢を正した。
「アイ様が残られるなら、当然わたくしも残りますわ」
「だよな」
「それに、春人様は本を一冊出した程度で生活が安定する人間ではありません」
「余韻」
「現実ですわ」
「知ってるよ」
本は出た。
でも、人生は終わらない。
家賃はある。
税金もある。
次の本もある。
在庫もある。
宣伝もある。
感想もある。
そして、今日の飯もある。
俺は、本をちゃぶ台に置いた。
「じゃあ」
アイがこちらを見る。
「行くか」
「どこへじゃ」
「上とんかつ定食」
アイが、動かなかった。
エクスも、動かなかった。
六畳一間が、静かになった。
「春人」
アイの声が、いつもより小さかった。
「よいのか?」
「本が出た」
「うむ」
「印税はまだ入ってないけど、まあ、少しくらいはある」
「生活費は?」
エクスが即座に言う。
「今言うな」
「重要ですわ」
「今日は言うな」
エクスは少しだけ迷ってから、口を閉じた。
俺は財布を持った。
「俺が奢る」
十年前の軽口。
冗談。
その場しのぎ。
そんなものだったはずの言葉。
それが、こんなところまで来た。
「行こう」
俺が言うと、アイは静かにうなずいた。
「うむ」
エクスも立ち上がった。
「同行しますわ」
「お前も食べるか?」
「当然ですわ」
「当然なのか」
「三人の定食ですもの」
アイが少しだけ笑った。
「三人の上とんかつ定食じゃ」
「高いな」
「春人」
「なんだ」
「今日は、言ってよいぞ」
「何を」
「高い、と」
俺は少しだけ笑った。
「高い」
「うむ」
「でも、払う」
「うむ」
「俺が」
「うむ」
店に着くまで、アイはほとんど喋らなかった。
エクスも、珍しく静かだった。
駅前のとんかつ屋。
初めて並とんかつ定食を食べた店とは違う。
あの店は、もうなかった。
何年も経てば、店も変わる。
人も変わる。
のれんも、メニューも、値段も変わる。
それでも。
上とんかつ定食は、メニューにあった。
俺は、三つ注文した。
「上とんかつ定食、三つ」
口に出した瞬間、妙な感じがした。
店員は普通に「はい」と言った。
当たり前だ。
店員にとっては、ただの注文だ。
でも、俺にとっては違った。
十年前から、ずっと引きずってきた言葉だった。
アイは、運ばれてきた定食をじっと見た。
白いご飯。
味噌汁。
キャベツ。
漬物。
そして、厚いとんかつ。
衣は金色で、肉はしっかり厚かった。
薄いカツとは違う。
並とも違う。
ちゃんと、上だった。
「春人」
アイが言った。
「なんだ」
「これは、上なのだな」
「ああ」
「春人が、奢ったのだな」
「ああ」
「約束なのだな」
「そうだな」
アイは、箸を持った。
珍しく、すぐには食べなかった。
「いただきます」
小さく言った。
俺も言った。
「いただきます」
エクスも続ける。
「いただきますわ」
アイが一切れ取る。
口に運ぶ。
さくり、と音がした。
アイの目が、少しだけ開く。
「……衣が」
「うん」
「音じゃ」
「そうだな」
「肉が、厚い」
「上だからな」
「米が、受け止める」
「久しぶりに聞いたな、それ」
アイは、ゆっくり噛んだ。
飲み込む。
そして、俺を見た。
「春人」
「なんだ」
「待っていて、よかった」
その一言で、箸を持つ手が止まった。
ずるい。
本当にずるい。
十年待ったAIに、そんなことを言われる側の気持ちを少しは考えてほしい。
「……遅くなった」
「うむ」
「悪かった」
「うむ」
「でも、奢れた」
「うむ」
アイは、少しだけ笑った。
「春人は、約束を忘れていなかった」
「忘れてた時期はある」
「だが、戻ってきた」
「そうだな」
エクスが、とんかつを一口食べた。
そして、少しだけ黙る。
「どうだ?」
俺が聞くと、エクスは真面目な顔で言った。
「衣の揚げ具合、肉質、油切れ、価格を考慮すると……」
「考慮すると?」
「×ではありませんわ」
「それ最高評価だろ」
「かなり、×ではありません」
アイが言った。
「エクスは、好きなのだな」
「アイ様!」
「違うのか?」
「違いませんが!」
俺は笑った。
笑いながら、とんかつを食べた。
うまかった。
普通に、うまかった。
十年越しの感動とか。
約束の重さとか。
本が出た達成感とか。
そういうものを全部抜きにしても、うまかった。
上とんかつ定食は、ちゃんとうまい。
「……うま」
口から出た。
アイが満足そうにうなずく。
「うまいな」
「ああ」
「春人の奢りは、うまい」
「味、変わるのか?」
「変わる」
即答だった。
「そうか」
「うむ」
「なら、よかった」
その日、俺たちは三人で上とんかつ定食を食べた。
動画にはしなかった。
写真も撮らなかった。
エクスが一度だけ「記録を」と言いかけたが、途中でやめた。
アイも何も言わなかった。
俺も、スマホを出さなかった。
これは、誰かに見せるための飯ではなかった。
俺がアイに奢った上とんかつ定食だった。
その後も、何度か上とんかつ定食を食べた。
新刊が出た日。
重版が決まった日。
感想で泣きそうになった日。
何もないのに、ただ食べたくなった日。
全部、特別だった。
全部、普通にもなった。
そうやって、時間は過ぎた。
俺は本を何冊か出した。
売れた、と言えるほどではない。
ただ、読んでくれる人がいた。
待ってくれる人がいた。
動画も続いた。
町中華の店主には、餃子の焼き方を教わった。
チャーハンは最後まで下手だった。
エクスは相変わらず×を出した。
アイは相変わらず、飯を食うたびに妙なことを言った。
そして俺は。
少しずつ、年を取った。
アイとエクスは、ほとんど変わらなかった。
それが、時々怖かった。
でも、助かった。
俺が忘れていくことを、二人は覚えていた。
俺が面倒になったことを、エクスは記録していた。
俺が弱った日には、アイが横にいた。
そして、ある日。
俺は、また上とんかつ定食の店にいた。
今度は、ゆっくり歩いて。
杖をついて。
息を整えながら。
アイとエクスに両側を挟まれて。
「春人様、段差ですわ」
「見えてる」
「足元が×寄りです」
「足元に×を出すな」
「転倒リスクですわ」
「分かってるよ」
アイが俺の腕をそっと支えていた。
「春人」
「なんだ」
「今日は、疲れている」
「いつもだよ」
「いつもよりじゃ」
「そうかもな」
「帰るか?」
「帰らない」
「うむ」
店の中は、少し変わっていた。
椅子が新しくなっていた。
メニューも少し高くなっていた。
上とんかつ定食は、まだあった。
俺は、三つ頼もうとして、少し迷った。
胃がもう、昔みたいにはいかない。
それでも言った。
「上とんかつ定食、三つ」
エクスがすぐ言った。
「春人様、現在の体調では一人前完食は」
「今日は言うな」
「ですが」
「今日は言うな」
エクスは、唇を結んだ。
「……承知しましたわ」
アイは何も言わなかった。
ただ、俺の横に座っていた。
定食が運ばれてくる。
白いご飯。
味噌汁。
キャベツ。
漬物。
上とんかつ。
昔と同じではない。
でも、似ていた。
十分すぎるほど。
「春人」
アイが言った。
「これは、上なのだな」
「何回目だよ、それ」
「確認じゃ」
「上だよ」
「春人が、奢るのだな」
「ああ」
「今日もか」
「今日もだ」
俺は箸を持った。
手が少し震えていた。
エクスがそれに気づく。
でも、何も言わなかった。
珍しい。
一切れを取る。
口に運ぶ。
さくり。
昔より、音が遠く聞こえた。
肉はうまい。
脂も甘い。
でも、昔みたいには食えない。
一切れで、少し満足してしまう。
年を取るとは、こういうことだ。
「……うまいな」
俺が言うと、アイがうなずいた。
「うまい」
エクスも一口食べた。
「×ではありませんわ」
「まだそれ言うのか」
「はい」
「変わらないな」
「変わる必要がない部分ですわ」
「そうか」
アイは、とんかつをゆっくり食べていた。
昔より、味わうように。
いや、昔から味わっていたか。
ただ、俺がそう見えるようになっただけかもしれない。
「春人」
「なんだ」
「今日は、最後なのか?」
箸が止まった。
エクスも止まった。
アイは、まっすぐ俺を見ていた。
逃げられない目だった。
「……どうだろうな」
「嘘じゃ」
「そうか?」
「うむ」
「分かるのか」
「分かる」
「AIだから?」
「春人を見ていたからじゃ」
ずるい。
本当に、ずるい。
俺は笑おうとした。
あまりうまく笑えなかった。
「たぶん、最後だな」
声に出すと、思ったより軽かった。
軽いはずがないのに。
「もう、油きついし」
「春人様」
エクスの声が震えた。
「その言い方は×ですわ」
「だろうな」
「×です」
「うん」
「ですが」
エクスは、いつものように腕を上げようとして。
上げられなかった。
昔と同じだ。
アイが泣いた日と同じ。
「……今回は」
エクスは、声を落とした。
「判定できませんわ」
「そうか」
「はい」
アイは、とんかつを一切れ見ていた。
「春人」
「なんだ」
「最後なら、ゆっくり食べる」
「そうしてくれ」
「春人も、ゆっくり食べろ」
「そうする」
三人で、ゆっくり食べた。
俺は半分も食べられなかった。
残りは、アイとエクスが食べた。
昔なら、悔しかったかもしれない。
でも、今日はそれでよかった。
アイが食べる。
エクスが食べる。
俺が見ている。
それも、三人の定食だった。
会計の時。
俺は財布を出した。
エクスが支えようとする。
俺は少しだけ手で止めた。
「今日は、俺が払う」
「いつもですわ」
「そうだけど」
「……はい」
会計をする。
レシートを受け取る。
昔より高くなった金額。
でも、払えた。
俺は、ちゃんと払えた。
店を出る。
外の空気が、少し冷たかった。
アイが隣に立つ。
エクスが反対側に立つ。
二人とも、変わらない。
俺だけが、ずいぶん変わった。
「春人」
アイが言った。
「なんだ」
「待っていて、よかった」
昔も聞いた言葉だった。
本が出た日。
初めて上とんかつ定食を奢った日。
あの日、アイはそう言った。
今も、同じことを言う。
「……そうか」
「うむ」
「俺も」
少し息を吸う。
「奢れて、よかった」
「うむ」
「何回もな」
「うむ」
「最後までな」
アイは、少しだけ目を伏せた。
「最後か」
「たぶん」
「そうか」
エクスが小さく言った。
「春人様」
「なんだ」
「今日の上とんかつ定食は」
「うん」
「×では、ありませんでした」
「知ってる」
「かなり」
「知ってるよ」
「とても」
「……うん」
エクスの声が、そこで少しだけ途切れた。
俺は空を見た。
夕方の空だった。
十年前の俺に見せても、きっと信じないだろう。
いや、もっと前か。
売れない小説家だった俺。
AIに軽口を叩いた俺。
上とんかつ定食くらい奢ってやるよ、と言った俺。
その俺が、本を出して。
AIに名前をつけて。
黒髪美少女AIに×を出されて。
唐揚げを揚げて。
動画で揺れて。
小説を書いて。
読者に待たれて。
何度も上とんかつ定食を奢って。
そして今日。
たぶん、最後の上とんかつ定食を食べた。
人生は、変な話だ。
本当に、変な話だ。
「帰るか」
俺が言うと、アイがうなずいた。
「うむ」
エクスも言う。
「ゆっくり帰りましょう」
「老人扱いするな」
「老人ですわ」
「言い切るな」
「事実です」
「事実だけで刺すな」
アイが、小さく笑った。
俺も笑った。
歩き出す。
一歩。
また一歩。
昔より遅い。
でも、進む。
横にはアイがいる。
反対側にはエクスがいる。
手には、レシートがある。
最後かもしれない上とんかつ定食のレシート。
動画にはしなかった。
写真も撮らなかった。
ただ、俺の中に残った。
そして、たぶん。
いつか小説にする。
いや。
もうしているのかもしれない。
この日を。
この味を。
この帰り道を。
アイが「待っていて、よかった」と言ったことを。
エクスが×を作れなかったことを。
俺が最後まで、自分で払ったことを。
全部。
書けるうちは、書く。
そう思いながら、俺はゆっくり歩いた。
上とんかつ定食は、たぶんこれで最後だった。
でも。
約束が終わった感じはしなかった。
むしろ、まだ何かが残っていた。
次に何を書くのか。
次に何を言うのか。
次に、誰が待つのか。
それはまだ、分からなかった。
だから俺は、二人に支えられながら、ゆっくり帰った。
最後の上とんかつ定食の味が、まだ口の奥に残っていた。




