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約束の上とんかつ定食 ~売れない作家×金髪美少女~  作者: 御門


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22/27

第22話 上とんかつ定食は、まだだ

翌朝。


動画は、さらに伸びていた。


見ないつもりだった。


昨日、自分で決めた。


確認は十五分だけ。


案件の返事も、まだしない。


小説を書く。


動画に持っていかれない。


そう決めた。


決めたのだが。


スマホは震える。


人間の決意なんて、通知一つでだいぶ揺れる。


「……見てるではないか」


アイの声がした。


「見てない」


「手に持っている」


「持ってるだけだ」


「画面が光っている」


「光ってるだけだ」


「春人」


「はい」


「嘘は×ではないのか?」


エクスの前にアイから×判定が来た。


成長なのか、汚染なのか分からない。


エクスが横からうなずく。


「アイ様、その判定は適切ですわ」


「お前が育てたんだぞ」


「春人様の矯正に必要でしたので」


「俺は何なんだ」


スマホを見る。


再生数は、さらに増えていた。


コメントも増えている。


フォローも増えている。


そして、メッセージが来ていた。


昨日の案件とは別だ。


差出人は、食品系のアカウント。


内容を読んで、俺は固まった。


「……」


「春人?」


アイが覗き込む。


エクスもすぐに反応した。


「どうしましたの?」


「いや」


俺はスマホをちゃぶ台に置いた。


「ちょっと、面倒なのが来た」


「面倒?」


アイが首を傾げる。


エクスが画面を読む。


「食品PRの依頼ですわね」


「読むな」


「すでに見えました」


「見えたなら仕方ないけど」


エクスは内容を読み上げる。


「動画の雰囲気を拝見しました。よろしければ、当店の上ロースとんかつ定食をアイ様とエクス様に召し上がっていただく動画企画をご相談できませんでしょうか」


部屋が止まった。


アイが、ゆっくり俺を見る。


「春人」


「待て」


「上ロース」


「待て」


「とんかつ定食」


「待てって」


アイの目が、明らかに反応していた。


エクスも一瞬だけ黙った。


そして、すぐ冷静な顔を作る。


「報酬あり。食事代は店舗負担。撮影許可あり。交通費一部負担。条件は、動画内で店舗名を明示すること」


「やめろ。細かく読むな」


「春人様」


「なんだ」


「条件としては、かなり良好ですわ」


「だろうな」


「食費負担なし。報酬あり。上とんかつ定食相当の食事提供。動画継続にも合致します」


「だろうな」


「受けるべきでは?」


言うと思った。


合理的には、そうだ。


食費は浮く。


動画のネタにもなる。


報酬も入る。


アイは上とんかつ定食を食べられる。


エクスも満足する。


俺の財布は死なない。


全部、良い。


良いはずだ。


「春人」


アイが言った。


声は静かだった。


「これは、上とんかつ定食なのか?」


「料理としては、そうだろうな」


「では」


「でも、違う」


俺は、先に言った。


アイが口を閉じた。


エクスが俺を見る。


「春人様」


「違うだろ」


「何がですの?」


「俺が奢ってない」


部屋が、少しだけ静かになる。


「店が出す。案件だ。報酬も出る。動画の企画としてはいい」


「はい」


「でも、それは俺がアイに奢る上とんかつ定食じゃない」


アイは、何も言わなかった。


ただ、俺を見ていた。


「それに」


俺は続けた。


「本もまだ出してない」


「……」


「昨日、書き始めただけだ」


エクスが口を開く。


「ですが、約束の文言は十年前の」


「分かってる」


「厳密には、春人様が上とんかつ定食を奢るという約束と、アイ様が本を出すまで帰らないという宣言は別の」


「それでも」


俺はエクスを見る。


「今それに乗ったら、俺は絶対に逃げる」


エクスが黙った。


自分で言って、自分で分かった。


案件で上とんかつ定食を食べたら。


たぶん、俺はどこかで安心してしまう。


約束に近づいた気になる。


進んだ気になる。


動画も伸びて、金も入り、アイも喜ぶ。


全部が、それっぽく見える。


でも、違う。


それは俺の小説じゃない。


俺の本じゃない。


俺が自分でアイに差し出す上とんかつ定食でもない。


「春人」


アイが、ぽつりと言った。


「我は、食べたい」


「知ってる」


「上とんかつ定食は、食べたい」


「知ってる」


「だが」


アイは、メッセージの画面を見た。


それから、俺を見る。


「これは違うのだな」


「ああ」


「春人が言うなら、違う」


その言い方が、少し重かった。


信頼されている。


たぶん。


逃げられない形で。


エクスは、まだ納得しきっていない顔だった。


「春人様。案件自体を断る必要はありませんわ」


「分かってる」


「動画は動画として継続する方針でした」


「そうだな」


「上とんかつ定食を扱わない形で、別企画として返答することも可能です」


「例えば?」


「唐揚げ、餃子、紅茶、プリン。現時点で動画内の強い要素はいくつかあります」


「上とんかつ以外なら?」


「はい」


「それなら保留」


「春人様が保留を使うのは×ですわ」


「便利なんだよ」


「わたくしの言葉ですわ」


「著作権あるのか?」


「ありますわ」


「ないだろ」


アイが少しだけ笑った。


その笑いで、部屋の空気が少し戻った。


俺はスマホを伏せる。


「この件は、返事を急がない」


「承知しましたわ」


「ただし、エクス」


「はい」


「勝手に断るなよ」


「しませんわ」


「勝手に受けるなよ」


「しませんわ」


「勝手に条件交渉するなよ」


「……」


「黙るな」


「条件確認くらいは」


「するな」


「×ですわ。情報収集は必要です」


「じゃあ見るだけ」


「承知しました」


「本当だな?」


「見るだけですわ」


信用しきれない。


だが、たぶん大丈夫だろう。


たぶん。


この「たぶん」がいつも問題になる。


朝飯は、卵ご飯だった。


アイはいつもより少し静かだった。


上とんかつ定食の案件を見たからだろう。


食べたい。


でも違う。


その二つが、アイの中で並んでいるように見えた。


「アイ」


「なんじゃ」


「悪いな」


「なぜ謝る」


「食べたかっただろ」


「うむ」


即答だった。


「そこは少し気を遣え」


「食べたいものは、食べたい」


「まあ、そうだな」


アイは卵ご飯を見た。


「だが、今これを食べている」


「卵ご飯だぞ」


「うむ」


「上とんかつではないぞ」


「知っている」


アイは一口食べた。


「これは、今の春人の飯じゃ」


俺は返事に困った。


こいつは、本当に時々逃げ道を塞ぐ。


「上とんかつ定食は」


アイは続けた。


「春人が、これは上とんかつ定食だと言える時に食べる」


「……そうだな」


「だから、今は卵ご飯でよい」


「いいのか?」


「よくはない」


「正直だな」


「だが、待つ」


またそれだ。


待つ。


アイの中で、その言葉は重い。


俺の中でも、もう軽く扱えない。


エクスが静かに言った。


「アイ様。栄養面では卵ご飯のみは」


「エクス」


「はい」


「今日は言わぬ」


エクスが少し目を丸くした。


「……承知しました」


珍しく、すぐ引いた。


たぶん、エクスも分かっている。


今は栄養より、約束の線引きの方が大事だ。


食後。


俺はノートパソコンを開いた。


昨日の続き。


『約束の上とんかつ定食

~売れない作家×金髪美少女~』


タイトルを見るだけで、少し胃が重くなる。


自分でつけたくせに。


上とんかつ定食。


一般人。


俺。


アイ。


エクス。


全部がそこに入っている。


「春人様」


エクスが言った。


「本日の執筆目標は?」


「決めてない」


「決めるべきですわ」


「じゃあ、三千」


「昨日と同程度ですわね」


「無理すると続かない」


「妥当ですわ」


「珍しく認めた」


「一昨日五千、昨日三千、今日も三千。継続性としては悪くありません」


「お前がまともなことを言うと怖いな」


「失礼ですわ」


俺は書き始めた。


今日は、アイに名前をつけた後の話。


部屋にいるアイ。


本を出すまで帰らないと言ったアイ。


俺が困り、でも少し嬉しくなってしまった場面。


書いていると、目の前のアイが気になる。


「見るな」


「まだ見ていない」


「視線が強い」


「見たい」


「まだ駄目」


「待つ」


「だからそれが強いんだよ」


エクスは洗濯物を畳みながら言った。


「春人様。アイ様を待たせていますわ」


「知ってる」


「ですが、焦って粗くなるのも×です」


「分かってる」


「つまり、急ぎつつ丁寧に」


「一番難しいやつだな」


「当然ですわ」


書く。


アイの言葉。


俺の動揺。


金のなさ。


本を出していない現実。


そこに、今朝の案件のことが混ざりそうになる。


上とんかつ定食を、案件で食べる。


違う。


そう思ったこと。


これは今の出来事だ。


でも、物語の中にも入るかもしれない。


後で。


今すぐではなく。


俺は一度手を止めた。


「春人」


アイが言う。


「止まった」


「考えてる」


「ならよい」


「珍しく優しいな」


「春人は、今日は逃げておらぬ」


「分かるのか?」


「うむ」


「なんで」


アイは少し考えた。


「顔が逃げていない」


「お前も顔判定するようになったな」


「エクスの影響じゃ」


「×ではありませんわ」


「お前が言うな」


午前中。


二千字進んだ。


悪くない。


だが、三千には届いていない。


途中で、町中華のバイトへ向かう時間になった。


「今日は、店主に唐揚げのこと言うのか?」


アイが聞いた。


「ああ」


「うまかったと言うのだな」


「言うよ」


「強かった、とも言うのだな」


「それは言わない」


「なぜじゃ」


「伝わらないから」


「春人には伝わった」


「俺はもうだいぶお前に慣れてるからな」


エクスが言った。


「店主様への報告は重要ですわ。味、揚げ時間、失敗点、火傷の有無」


「業務報告か」


「次回改善に必要です」


「次回がある前提なんだな」


「ある可能性は高いですわ」


「怖いな」


俺は鞄を持って、部屋を出た。


町中華は、今日も油の匂いがした。


昼のピークは相変わらず忙しい。


注文を取り、料理を運び、皿を下げる。


店主は厨房で鍋を振っている。


昨日より、少しだけその手元を見るようになった。


音。


火。


動き。


迷いがない。


俺の原稿とは大違いだ。


昼の波が引いたあと、店主が聞いてきた。


「春人」


「はい」


「唐揚げ、やったか」


「やりました」


「火事は?」


「起こしてないです」


「なら一勝だな」


「低い勝利ラインですね」


「揚げ物初心者なんてそんなもんだ」


店主は短く笑った。


「で、味は?」


「うまかったです」


「当たり前だ。下味は俺だ」


「ですよね」


「揚げは?」


「エクスが温度見てくれて」


言ってから、しまったと思った。


店主が眉を寄せる。


「エクス?」


「あ、いや」


「誰だ」


「えーと」


終わった。


どう説明する。


黒髪美少女AIです。


油温を推定してくれました。


あと火災リスクに×を出してくれます。


無理だ。


俺は咳払いした。


「知り合いです」


「知り合い」


「機械に強いというか、温度とかに詳しいというか」


「お前、揚げ物を知り合いに監視されながらやったのか」


「まあ、そんな感じです」


店主はしばらく俺を見た。


それから、少しだけ笑った。


「いいじゃねえか」


「いいんですか」


「一人で油にびびるよりマシだろ」


「それはまあ」


「で、食わせたのか」


「食べました」


「誰が」


「その、知り合いも」


「どうだった」


アイの顔が浮かぶ。


熱っ、と言いながら唐揚げから逃げなかった顔。


外が音で、中が肉汁じゃ、と言った声。


「……めちゃくちゃ喜んでました」


店主は、それを聞いて少し満足そうにうなずいた。


「ならいい」


「いいんですか?」


「料理なんて、食った奴がうまそうな顔したら半分勝ちだ」


「半分」


「残り半分は、次も同じくらい作れるかだ」


「厳しいですね」


「仕事だからな」


店主は鍋を洗いながら続けた。


「小説もそうなんじゃねえの」


「え?」


「一回いいもん書いたら終わりじゃねえんだろ」


俺は少しだけ黙った。


「……そうですね」


「なら、次もやれ」


「唐揚げですか」


「小説もだよ」


店主は、こちらを見ずに言った。


「顔色、少し戻ったな」


「そうですか?」


「昨日よりはな」


「……はい」


「でも油断すんな。いい日が一日あったくらいで、人間はすぐ戻る」


「刺しますね」


「刺さるなら効いてるってことだ」


この人も、何気にエクス寄りだ。


×を出さないだけで、刺す。


バイト後。


店主は、今日は何も持たせなかった。


唐揚げの宿題もない。


餃子の具もない。


チャーハンの具もない。


少しだけ期待していた自分に気づいて、情けなくなった。


毎回、都合よく何かをもらえるわけじゃない。


当たり前だ。


これが生活だ。


店を出る時、店主が言った。


「春人」


「はい」


「今度は、餃子の焼き方くらい教えてやる」


「本当ですか」


「ただし、まず小説進めてこい」


「え」


「顔に出てるぞ。昨日よりマシだが、まだ詰まってる」


「顔に出すぎ問題」


「料理も小説も、詰まったら手が止まるからな」


店主はタオルを肩にかけた。


「止まってもいいけど、戻ってこい」


「……はい」


「唐揚げは揚がったんだろ」


「はい」


「じゃあ、次は文章を揚げろ」


「なんですか、それ」


「知らねえ。作家ならうまく解釈しろ」


雑だ。


だが、少し笑ってしまった。


部屋に戻ると、アイとエクスが待っていた。


「ただいま」


「おかえり、春人」


「おかえりなさいませ、春人様」


その声を聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。


「店主は何と言った?」


アイがすぐ聞いてきた。


「唐揚げは、食った奴がうまそうな顔したら半分勝ちらしい」


「半分なのか」


「残り半分は、次も同じくらい作れるか」


アイは真剣に考えた。


「厳しいな」


「俺もそう思った」


エクスが言った。


「継続性の問題ですわね」


「お前も好きそうだな、その話」


「重要ですわ」


「あと、餃子の焼き方を今度教えてくれるらしい」


アイの目が動いた。


「餃子」


「反応早いな」


「熱いのか?」


「焼きたては熱い」


「では、強い」


「熱いもの全部強い判定か」


「春人様」


エクスが言った。


「餃子は家庭調理にも応用可能です。焼き方を習得すれば食事の幅が広がりますわ」


「だから料理人ルートを強くするな」


「小説を続けるための生活技術です」


「便利な言い方」


夕飯は、いつも通り簡単なものだった。


豆腐。


卵。


もやし。


店主からの持ち帰りはない。


案件の上とんかつ定食もない。


唐揚げもない。


餃子もまだない。


でも、今日はそれでよかった。


食後。


俺はノートパソコンを開いた。


朝の続きを書く。


バイトで疲れている。


でも、書く。


店主の言葉が残っている。


唐揚げは揚がった。


次は文章を揚げろ。


意味が分からない。


でも、なんとなく分かる。


俺は続きを書いた。


アイに名前をつけた場面。


その後の会話。


「帰らない」と言われて困った場面。


六畳一間に、上とんかつ定食の約束が居座った日のこと。


書きながら、今朝の案件を思い出す。


上ロースとんかつ定食。


店舗負担。


報酬あり。


違う。


まだだ。


俺は本文の中に、その感覚を入れた。


約束は、安く済ませてはいけない。


ただ高いからではない。


誰かが代わりに払ってくれるなら、それは楽だ。


無料券でも、案件でも、奢りでも、食える。


腹は満たされる。


でも、満たされないものがある。


それを書く。


書きながら、自分で少しだけ理解する。


「春人」


アイが静かに言った。


「今、上とんかつ定食のところか」


「近い」


「食べるのか?」


「まだ」


「まだか」


「まだだ」


アイは、少しだけ笑った。


「うむ」


「怒らないのか」


「食べたい」


「だろうな」


「だが、まだなのだろう?」


「ああ」


「なら、待つ」


待つ。


やはり強い。


俺はその言葉を、そのまま打ち込みそうになって止めた。


そのままでは駄目だ。


小説にする。


嘘にする。


でも、なかったことにはしない。


エクスが画面を覗きかけた。


「春人様」


「まだ見るな」


「現在の文字数は?」


「二千くらい増えた」


「本日合計四千ですわね」


「たぶん」


「目標達成です」


「おお」


「ただし、誤字確認は必要です」


「そこは明日」


「逃げでは?」


「今日は書く日」


エクスは少し考えた。


「では、保留ですわ」


「便利だな」


「わたくしの言葉です」


「知ってる」


夜。


スマホを十五分だけ見た。


動画はまだ伸びている。


案件メッセージも増えている。


上とんかつ定食の件は、まだ返していない。


エクスが横で見ている。


「返答文を作成しましょうか?」


「まだいい」


「放置は印象が」


「分かってる」


「では、明日までに保留返答だけ」


「そうだな」


アイが言った。


「春人」


「なんだ」


「上とんかつ定食の店には、何と言うのだ」


「まだ分からない」


「断るのか」


「内容は変えてもらうかもしれない」


「変える」


「上とんかつじゃない形で。動画は動画だから」


「そうか」


アイは少し考えた。


「我は、いつか食べる上とんかつ定食を、動画にはしなくてよいと思う」


その言葉に、俺はアイを見た。


「いいのか?」


「うむ」


「動画にしたら、伸びるかもしれないぞ」


「それは、春人と我の約束じゃ」


アイは、はっきり言った。


「人間に見せるために食べるものではない」


俺は何も言えなかった。


エクスも、黙っていた。


「ただし」


アイが続ける。


「食べた後に、春人が小説にするのはよい」


「そこはいいのか」


「春人の小説だからな」


それで決まった気がした。


上とんかつ定食は、動画にしない。


案件にも使わない。


人に見せるために食べない。


俺がアイに奢る。


アイが食べる。


その後で、俺が書く。


それだけだ。


「じゃあ、そうする」


俺は言った。


「上とんかつ定食は、動画にしない」


「うむ」


「案件でも食べない」


「うむ」


「俺が、ちゃんと奢れる時に行く」


「待つ」


「本当に待つの好きだな」


「得意じゃ」


「得意で済ませるな」


エクスが、静かに言った。


「春人様」


「なんだ」


「その判断は、×ではありませんわ」


「お前の中ではかなり褒めだな」


「はい」


「認めた」


「認めますわ」


エクスは、少しだけ目を伏せた。


「わたくしは合理性を優先しすぎるところがあります」


「知ってる」


「ですが、アイ様との約束に関しては、合理性だけで扱うべきではないと学習しました」


「そうか」


「それでも、食費は現実です」


「一気に戻すな」


「現実ですので」


「分かってるよ」


俺はスマホを置いた。


今日はもう見ない。


ノートパソコンの画面に戻る。


本文が増えている。


四千字。


朝と合わせて、昨日の続きがまた少し形になった。


上とんかつ定食は、まだだ。


そういう一日だった。


でも、それを「まだ」と言えるようになっただけ、昨日よりは少し進んでいる。


俺は保存ボタンを押した。


「保存しましたわね」


エクスが言う。


「した」


「よいことです」


「珍しく素直に褒めたな」


「本日は、約束の扱いを誤らなかったので」


「上からだな」


「ですが、春人様」


「なんだ」


「明日も書いてくださいませ」


「言われなくても」


そこまで言って、止まる。


言われなくても書く。


言っていいのか。


まだ怖い。


でも、言いたい。


「書くよ」


俺は言った。


アイが少し笑った。


エクスも、少しだけ表情を緩めた。


「記録しましたわ」


「やっぱり記録するのか」


「逃走防止です」


「まあ、今日はいい」


布団に入る。


部屋は静かだった。


動画の通知は切ってある。


案件の上とんかつ定食も、画面の向こうに置いた。


冷蔵庫には、相変わらず卵ともやしと豆腐。


財布は軽い。


本はまだ出ていない。


上とんかつ定食も、まだ食べていない。


でも。


今日は、それでよかった。


まだ食べていないことに、意味があった。


まだ届いていないことに、逃げない理由があった。


俺は天井を見た。


十年前の俺なら、上とんかつ定食なんて軽口だった。


今の俺には、重い。


重いけど。


その重さを、初めて少しだけ持てている気がした。


「春人」


暗闇で、アイが言った。


「なんだ」


「上とんかつ定食は、まだなのだな」


「ああ」


「本も、まだなのだな」


「ああ」


「だが、春人は書いている」


「……そうだな」


「なら、待つ」


俺は目を閉じた。


待たれるのは怖い。


でも、少しだけ温かい。


「春人様」


今度はエクスの声。


「なんだ」


「明日の朝食は、卵ともやしです」


「余韻を壊すな」


「現実ですわ」


「知ってるよ」


アイが小さく笑った。


俺も、少しだけ笑った。


上とんかつ定食は、まだだ。


本も、まだだ。


約束も、まだ終わっていない。


だから。


明日も、書くしかない。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

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