第21話 金では買えないもの
五千字書いた翌日。
世界は、特に変わっていなかった。
当たり前だ。
俺が五千字書いたくらいで、世界が変わるなら苦労しない。
朝起きても、部屋は六畳だった。
財布は軽いままだった。
冷蔵庫には卵と豆腐ともやしがあった。
上とんかつ定食は、まだ遠かった。
そして、動画はまだ伸びていた。
「……増えてるな」
スマホを見る。
昨日の動画は、さらに再生されていた。
コメントも増えている。
『続き待ってます』
『この三人の空気感好き』
『金髪ちゃんの言葉が好き』
『黒髪ちゃんの×が癖になる』
俺は画面を伏せた。
見なかったことにはできない。
でも、見すぎるとまた持っていかれる。
昨日の俺は、五千字書いた。
確かに書いた。
それでも、数字の力は強い。
小説より動画の方が、まだずっと速く伸びている。
「春人」
アイが言った。
「今日は、続きを書くのか?」
「書く」
「よい」
即答できた。
それだけで、少しだけ昨日とは違う気がした。
エクスは生活運用表を開いている。
ただ、今日は少しだけ慎重だった。
「本日の予定ですわ」
「出た」
「午前中、執筆」
「はい」
「昼食、簡易」
「はい」
「夕方、バイト」
「はい」
「夜、執筆継続。ただし動画反応確認は十五分以内」
「管理されてるな」
「必要ですわ」
「まあ、必要だな」
俺が素直にうなずくと、エクスが少しだけ目を丸くした。
「春人様が、素直ですわ」
「俺を珍獣みたいに言うな」
「珍しいですもの」
「否定できないのが腹立つ」
アイが、俺のノートパソコンを見た。
昨日保存したファイル。
『約束の上とんかつ定食
~売れない作家×金髪美少女~』
そのタイトルが、まだ画面にある。
消えていない。
夢ではなかった。
「春人」
「なんだ」
「続きを読んでもよいか?」
「まだ駄目」
「なぜじゃ」
「まだ粗い」
「粗くてもよい」
「よくない」
「我は待っている」
「そのカードを使うな」
強い。
こいつの「待っている」は強すぎる。
エクスが横から言う。
「春人様、読者への開示時期は作者判断ですわ」
「珍しく味方したな」
「ただし、アイ様が待っていらっしゃることも事実です」
「結局逃げ場を塞ぐな」
「逃走防止ですわ」
俺はノートパソコンを開いた。
本文の続き。
昨日の五千字。
今読むと、勢いで書いた粗さがある。
説明が多い。
会話が少し走っている。
でも、悪くない。
少なくとも、昨日までの旧稿とは違った。
そこには俺がいた。
いや、俺だけではない。
アイがいた。
まだエクスは出ていない。
だが、出る予定だ。
そう思うと、少しだけ笑いそうになった。
「春人様」
エクスが即座に言う。
「今、わたくしの登場位置について考えていましたわね?」
「なんで分かる」
「顔が不穏でした」
「顔判定の精度が上がってるな」
「春人様は顔に出ますもの」
「嫌な観測だな」
俺は続きを書こうとした。
指は、昨日ほどは走らない。
それでも、止まってはいない。
一文。
二文。
昨日の勢いの続きを探すように書く。
アイは隣で静かに見ている。
エクスは少し離れたところで洗濯物を畳んでいる。
部屋は静かだった。
ただ、スマホだけが時々震えた。
動画の通知。
コメント。
再生数。
俺は見ないようにした。
見ないようにするのにも、体力がいる。
「春人様」
エクスが言った。
「スマホをこちらで一時保管しましょうか」
「いや、いい」
「手が伸びかけていますわ」
「伸びてない」
「伸びかけています」
「顔だけじゃなく手も判定するな」
アイが手を出した。
「我が持つ」
「それはそれで怖い」
「なぜじゃ」
「お前、コメント全部読もうとするだろ」
「読む」
「ほら」
「人間が何を言っているか知りたい」
「それは分かるけど」
「春人の言葉が届いた証拠だ」
その言い方で、また少し胸が痛む。
俺はスマホを伏せたまま、ちゃぶ台の端へ置いた。
「十五分だけ、あとで見る」
「うむ」
「今は書く」
アイは満足そうにうなずいた。
「よい」
昼までに、二千字増えた。
昨日より遅い。
だが、進んだ。
合計七千字。
悪くない。
かなり悪くない。
「七千」
アイが言った。
「七千進行」
「その構文、定着させる気か」
「進んだ」
「そうだな」
エクスも画面を見る。
「誤字は増えていますが、文章量も増えていますわ」
「そこは先に文章量を褒めろ」
「文章量は×ではありません」
「褒め方」
「ただし、後で修正が必要です」
「分かってる」
昼飯は、豆腐ともやしと卵だった。
アイはもう、カツがないことを一度しか言わなかった。
成長している。
いや、そういう成長でいいのかは分からない。
食後。
俺は約束通り、十五分だけ動画の反応を見た。
再生数。
コメント。
フォロー。
伸びている。
そして、メッセージが来ていた。
「……なんだこれ」
「どうしましたの?」
エクスが覗き込む。
「企業アカウント?」
メッセージには、こうあった。
『動画の雰囲気がとても良いです。継続される予定があれば、コラボや商品紹介のご相談が可能です』
俺はスマホを置いた。
「……怖」
「案件の可能性がありますわ」
エクスが言った。
「早くないか?」
「早いですが、不自然ではありません。アイ様とわたくしの外見、AIアンドロイドという話題性、短時間での反応率を考慮すると、試験的な接触はあり得ます」
「冷静に分析するな」
アイが首を傾げる。
「案件とは何じゃ?」
「金になるかもしれない話」
「金」
アイが俺を見る。
「春人の財布が死ななくなるのか?」
「そんなすぐには死ななくならない」
「少しは延命するのか?」
「言い方」
エクスはさらに画面を見た。
「継続すれば、収益化・案件・広告導線が発生する可能性は高いですわ」
「だろうな」
「さらに、その資金を春人様の小説宣伝に回すことも可能です」
俺は黙った。
小説宣伝。
動画で稼いだ金を、小説の宣伝に使う。
現実的だ。
かなり現実的だ。
「広告を出すってことか」
「はい」
エクスはうなずく。
「読者層を推定し、適切な媒体へ広告出稿。動画アカウントから春人様の小説へ導線を作る。さらに、コメント分析から刺さっている言葉を抽出し、紹介文を最適化することも可能ですわ」
「……」
「加えて、わたくしたちが動画内で春人様の小説を紹介することもできます」
「おい」
思わず声が出た。
「それは、ちょっと」
「不自然ですの?」
「不自然というか」
俺は言葉を探した。
アイは黙って聞いている。
エクスは真面目だった。
本気で、俺を助ける方法を考えている顔だった。
「春人様」
エクスが言う。
「春人様は、本を出す必要があります」
「……ああ」
「小説が読まれなければ、本になる可能性は低い」
「そうだな」
「ならば、読まれるための導線を作ることは合理的です」
「まあな」
「わたくしたちには、それができます」
できます。
その言葉は強かった。
アイとエクスにはできる。
金銭を直接作ることはできなくても。
動画で目立つことはできる。
宣伝もできる。
読者を引っ張ることもできる。
たぶん、AIとしてもっと踏み込めば、俺が想像できない方法もある。
推薦。
露出。
最適化。
分析。
拡散。
俺一人では絶対にできないことが、できる。
その時。
アイが静かに言った。
「ダメだ」
部屋の空気が止まった。
昨日と同じ言葉。
だが、今日は叫んでいなかった。
静かだった。
だからこそ、重かった。
エクスがアイを見る。
「アイ様」
「それは、ダメだ」
「ですが、春人様を助ける方法としては」
「エクス」
アイの声は穏やかだった。
「それは、春人を助けるのではない」
エクスが黙った。
俺も黙った。
アイは俺のスマホを見た。
それから、ノートパソコンを見る。
「春人の小説を、人間に届けることは必要じゃ」
「うん」
「誰にも届かなければ、本にはならぬ」
「そうだな」
「だが」
アイは、ゆっくり言った。
「春人の代わりに、我らが春人の人生を動かしてはならぬ」
その言葉で、胸の奥が揺れた。
前にも似たような話をした。
金で解決してはいけない。
上とんかつ定食は、俺が奢ることに意味がある。
春人の人生を、アイが代わりに動かすことはできない。
今度は、小説だった。
「アイ様」
エクスは少しだけ食い下がる。
「広告や導線整備は、必ずしも不正ではありませんわ。人間の作家も行う活動です」
「うむ」
「ならば」
「やってよいことはある」
アイは言った。
「だが、我らが前に出すぎれば、読まれる理由が変わる」
「……」
「春人の小説だから読むのではなく、我らが出ているから読むことになる」
エクスが口を閉じた。
その通りだった。
痛いくらい、その通りだった。
動画が伸びた理由も、半分以上はアイとエクスだ。
俺の台詞も褒められた。
それは事実だ。
でも、入口は二人だった。
もし二人が俺の小説を宣伝すれば、たぶん読まれる。
数字は増えるかもしれない。
でも、その数字は何だ?
俺の小説が届いたのか。
アイとエクスの人気が流れてきただけなのか。
俺は、またそこで揺れる。
きっと揺れる。
「春人」
アイが俺を見る。
「我は、春人を助けたい」
「……知ってる」
「上とんかつ定食も食べたい」
「それも知ってる」
「本も出してほしい」
「……知ってる」
「だが、春人の代わりに春人の本を売ることは、違う」
アイははっきり言った。
「春人が書いたものを、春人のものとして届けねばならぬ」
俺は何も言えなかった。
エクスは、少しうつむいた。
「わたくしは」
「エクス」
アイが呼ぶ。
「なんでしょう」
「エクスは、春人を助けようとした」
「……はい」
「それは×ではない」
エクスの肩が、ほんの少し揺れた。
「ですが」
「やり方は考える」
「……はい」
「春人に負担をかけすぎるのもダメだ。春人の人生を奪うのもダメだ」
アイは少しだけ考えた。
「難しいな」
「それは、そうですわね」
エクスの声は小さかった。
俺は、二人のやり取りを見ていた。
AIが、人間の人生の線引きで悩んでいる。
俺を助ける方法で、言い合っている。
おかしな話だ。
でも、たぶん。
これは、とても大事な話だった。
「なあ」
俺は口を開いた。
「広告とか、宣伝とか、全部ダメって話じゃないんだろ」
アイがこちらを見る。
「うむ」
エクスも顔を上げる。
「人間の作者だって宣伝はする」
「そうですわ」
「俺も、たぶんしないといけない」
「はい」
「でも、アイとエクスが前に出て、俺の小説を読めって言うのは違う」
アイがうなずいた。
「うむ」
「なら」
俺は少し考えながら言った。
「動画は動画としてやる」
「はい」
「そこで俺の名前を出すのは、まあいい」
エクスが聞く。
「脚本、春人様、という表記ですの?」
「それくらいなら」
「小説へのリンクは?」
「……まだ、貼らない」
アイが少しだけ目を細めた。
「なぜじゃ」
「今はまだ、俺が自分で読ませられる形にできてない」
「……」
「昨日書き始めたばかりだ。焦って人を呼んでも、たぶん受け止められない」
エクスが静かにうなずいた。
「作品側の受け皿が未整備、という判断ですわね」
「言い方は固いけど、そう」
「では、いつ貼るのですか?」
「俺が、これは読んでくれって言えるところまで書けたら」
言ってから、少し怖くなった。
自分でハードルを置いた。
誰かに置かれたものではなく。
自分で。
アイは、静かに言った。
「それは、春人が決めるのだな」
「ああ」
「よい」
たったそれだけ。
でも、少し楽になった。
エクスが生活運用表を開きかけた。
俺は止めた。
「それは書くな」
「なぜですの?」
「今のは、表にしない方がいい気がする」
エクスは少しだけ考えた。
「……分かりましたわ」
珍しく引いた。
だが、すぐに言った。
「ただし、口頭記録はしました」
「してるじゃないか」
「わたくしの記憶ですわ」
「ずるい」
「AIですもの」
午後。
俺は続きを書いた。
朝ほど速くはなかった。
でも、止まらなかった。
途中、動画のコメントが気になった。
スマホに手が伸びそうになった。
そのたびに、アイがじっと見た。
何も言わない。
ただ見る。
エクスより怖い。
「……見ないよ」
俺が言うと、アイはうなずく。
「よい」
「お前、何も言わない方が圧あるな」
「そうか」
「そうだよ」
「では、見る」
「やめろ」
少し笑った。
笑ってから、また書いた。
今日は、エクスの登場前まで進んだ。
アイに名前をつける場面まで書いた。
AIだから、アイ。
でも、愛らしいからも混ざっている。
その部分を書くのに、かなり時間がかかった。
恥ずかしい。
自分で書いていて、かなり恥ずかしい。
「春人」
アイが覗き込む。
「今、我の名前のところか?」
「見るな」
「見たい」
「まだ駄目」
「なぜじゃ」
「俺が恥ずかしい」
アイは少しだけ目を丸くした。
「春人は、恥ずかしいのか」
「当たり前だろ」
「なぜ」
「お前の名前を書いてるからだよ」
アイは少し黙った。
それから、静かに言った。
「なら、丁寧に書け」
「命令か」
「うむ」
「分かったよ」
エクスが横から言った。
「わたくしの命名場面も、丁寧にお願いしますわ」
「お前は雑に名付けたからな」
「そこも丁寧に雑さを描写すべきですわ」
「難しい注文だな」
「重要ですもの」
俺はまた少し笑った。
その笑いは、昨日の動画の数字を見た時の笑いとは違った。
数字が増えたからではない。
目の前の二人がうるさいから出た笑いだった。
夕方。
バイト前に、町中華へ行く準備をする。
スマホを見る。
動画はさらに伸びている。
新しい案件メッセージも来ている。
でも、今日はそれを開かなかった。
「春人様」
エクスが言った。
「確認しなくてよろしいのですか?」
「帰ってから十五分だけ見る」
「承知しました」
「案件も?」
「まだ返事しない」
「よろしいのですか?」
「今返事したら、そっちに頭が行く」
「合理的ですわ」
「また合理的って言った」
「本日は、よい合理性です」
「そんな分類あるのか」
アイが言った。
「春人」
「なんだ」
「今日も、書いたな」
「書いた」
「どれくらいじゃ」
「三千くらい」
「三千進行」
「今日はそれも許す」
「よい」
俺はノートパソコンを保存した。
昨日の五千。
今日の三千。
合計八千を超えた。
まだ荒い。
でも、確かにある。
「春人」
アイが言った。
「本に近づいたか?」
「まだ全然」
「そうか」
「でも、ゼロではない」
「うむ」
エクスが静かに言う。
「上とんかつ定食にも、まだ遠いですわ」
「そこで戻すな」
「ですが、近づく必要があります」
「分かってる」
「動画案件で高級とんかつ店とのコラボを取るという手も」
「やめろ」
「冗談ですわ」
「お前、冗談言うのか」
「春人様の影響ですわ」
「俺のせいか」
アイが少し笑った。
その笑顔を見て、少しだけ思った。
金で買えるものは多い。
広告。
露出。
食材。
紅茶。
プリン。
唐揚げ用の油。
上とんかつ定食だって、金があれば買える。
でも。
アイが昨日泣いた理由は、金では買えない。
エクスが腕を上げられなかったあの沈黙も、買えない。
俺が今日、スマホを見ずに三千字書いたことも。
誰かに買ってもらうものではない。
「行ってくる」
玄関で靴を履く。
アイが言った。
「行ってらっしゃい、春人」
エクスも続く。
「行ってらっしゃいませ、春人様」
俺はドアを開けかけて、少しだけ振り返った。
「アイ」
「なんじゃ」
「いつか、リンク貼る」
「リンク?」
「俺の小説への」
アイは、少しだけ目を見開いた。
「春人が、貼るのだな」
「ああ」
「我らが押すのではなく」
「俺が貼る」
アイは、ゆっくりうなずいた。
「では、待つ」
また待つ。
本当に、このAIは待つことばかり言う。
でも、今日は少しだけ違った。
その待つは、俺を縛るものではなく。
俺がそこへ行くまで、席を空けておくような言葉だった。
「エクス」
「はい」
「その時、紹介文のチェックは頼む」
エクスの表情がぱっと変わった。
「承知しましたわ!」
「ただし、盛るなよ」
「……」
「黙るな」
「市場適合上、必要な表現調整は」
「盛るな」
「×ですわ。必要な訴求です」
「じゃあ、保留で」
「春人様が保留を使うのは×ですわ!」
いつもの×が出た。
少し安心した。
俺は笑って、部屋を出た。
バイト先へ向かう道。
スマホはポケットの中で震えた。
たぶん動画の通知だ。
見なかった。
今は見なかった。
代わりに、頭の中で今日書いた文章を思い出した。
アイの名前。
約束。
上とんかつ定食。
そこに、まだエクスは出ていない。
早く出せとうるさいだろうなと思った。
少しだけ、楽しみだった。
金で買えるものはある。
金でしか買えないものもある。
上とんかつ定食は、金がなければ食べられない。
本だって、紙にするなら金がかかる。
広告にも金がかかる。
生活にも金がかかる。
それでも。
誰かの代わりに人生を動かすことはできない。
読者の「好き」は買えない。
待っていた時間も、泣いた理由も、書くと決めた手の震えも。
たぶん、金では買えない。
俺は歩きながら、少しだけ思った。
だったら。
買えないものくらいは、自分で書くしかないのだろう。
上とんかつ定食は、まだ遠い。
本も、まだ遠い。
でも今日は、少なくとも。
俺が貼るリンクのことを、少しだけ考えられた。
それだけで、昨日よりは前だった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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