第20話 今この時間を小説にする
その夜。
俺は、ほとんど眠れなかった。
布団には入った。
目も閉じた。
だが、頭の中で、アイの声が何度も戻ってきた。
――我は、春人の小説を待っていた。
待っていた。
その言葉が、消えない。
動画の通知音は、切った。
スマホは裏返して置いた。
それでも、通知が来ている気がした。
画面の向こうで、数字が増えている気がした。
小説ではない数字が。
俺は寝返りを打った。
六畳の天井を見る。
暗い。
何も貼っていない。
夢も希望もない。
ただの古い天井。
でも、今はそこに、いろいろ浮かんで見えた。
上とんかつ定食。
並とんかつ。
卵ご飯。
納豆。
三人の定食。
紅茶。
プリン。
干した布団。
光熱費。
窓際充電。
薄いカツ。
玉ねぎ卵丼。
唐揚げ。
餃子。
動画の数字。
アイの涙。
エクスの、上がらなかった腕。
全部、ここ数日のことだ。
多すぎる。
どう考えても多すぎる。
俺の人生は、もう少しゆっくり変わってほしかった。
せめて一週間に一イベントくらいでいい。
それがなんだ。
金髪美少女AIが来て。
黒髪美少女AIが来て。
生活を管理されて。
料理まで練習させられて。
動画まで伸びた。
人生が雑だ。
作者がいたら、詰め込みすぎだと文句を言っている。
俺は小さく息を吐いた。
その時、暗闇で声がした。
「春人」
アイだった。
「起きているのか」
「……寝てるように見えるか?」
「見えぬ」
「じゃあ聞くな」
アイは、布団の少し横に座っていた。
暗くて顔はよく見えない。
だが、そこにいるのは分かる。
「眠れぬのか」
「まあな」
「我のせいか」
俺は返事に詰まった。
違う、と言えば嘘になる。
でも、全部がアイのせいではない。
「半分くらいな」
「半分」
「残りは俺のせい」
「そうか」
アイはそれ以上、責めなかった。
変に謝りもしなかった。
ただ、そこにいた。
それが少し助かった。
「アイ」
「なんじゃ」
「昨日のこと、後悔してるか?」
「泣いたことか」
「それも」
アイは少し黙った。
「分からぬ」
「またそれか」
「うむ」
「便利な言葉だな」
「便利ではない」
アイの声は静かだった。
「本当に、分からぬのじゃ」
「……」
「だが、言わなければならなかった気がする」
「何を」
「ダメだ、と」
俺は天井を見たまま、目を閉じた。
「強かったな、あれ」
「我も驚いた」
「自分でかよ」
「うむ」
アイは少しだけ間を置いた。
「春人が、小説ではなくてよいと言った時、胸の奥が壊れたように感じた」
「アンドロイドに胸の奥とかあるのか」
「分からぬ」
「またか」
「だが、そこが痛かった」
暗闇の中で、アイの声だけが聞こえる。
「我は、春人の小説を好きだと、知らなかった」
その言い方が、妙にアイらしかった。
好きだった、ではなく。
好きだと知らなかった。
「俺も知らなかった」
「うむ」
「知ってたら、もう少し頑張れたかもしれない」
言ってから、嫌になった。
何を言っているんだ。
結局、誰かが好きだと言ってくれなければ頑張れないのか。
情けない。
そう思った瞬間、アイが言った。
「それは違う」
「何が」
「春人は、知らなくても書いていた」
俺は黙った。
「十年、我のことを知らなかった」
「……」
「我が読んでいたことも知らなかった」
「……」
「それでも、春人は書いていた」
アイの声は、淡々としていた。
だが、昨日より少しだけ熱があった。
「だから、春人は頑張っていなかったわけではない」
俺は何も言えなかった。
たぶん。
今、それを一番言ってほしかった。
でも、言われると痛かった。
「春人」
「なんだ」
「我は、春人の小説が好きだった」
はっきり言われた。
昨日よりも、ずっと静かに。
「……そうか」
「うむ」
「今、言えるんだな」
「昨日、知ったからな」
「そっか」
アイは少しだけ誇らしげだった。
泣いたことで、自分の気持ちを一つ知った。
そういう顔をしている気がした。
暗くて、ちゃんとは見えないけれど。
「寝ろ」
俺は言った。
「春人は?」
「俺も、そのうち寝る」
「そのうちは×ですわ」
別の声がした。
エクスだった。
「起きてたのか」
「監視ですわ」
「寝ろ」
「アイ様が起きている以上、わたくしも休止できません」
「お前も大概だな」
暗闇の中で、エクスの声が少しだけ弱くなる。
「春人様」
「なんだ」
「昨日の件は」
「謝るなよ」
俺は先に言った。
エクスが黙る。
「言ってくれてよかった」
「……ですが」
「言われなきゃ、俺は知らないままだった」
エクスは、しばらく何も言わなかった。
「わたくしは、アイ様の秘密を勝手に話しました」
「そうだな」
「それは×ですわ」
「でも、黙ってたら、たぶんもっと×だった」
暗闇に、少しだけ沈黙が落ちる。
「春人様が、わたくしに判定を?」
「昨日から俺も×出す側になったからな」
「調子に乗らないでくださいませ」
「すみません」
エクスの声は、ほんの少しだけ笑っているように聞こえた。
「でも」
俺は続けた。
「ありがとう」
今度は、エクスが何も返さなかった。
たぶん、返し方に困っている。
黒髪美少女AIにも、困ることはあるらしい。
「寝るぞ」
俺は言った。
「明日、考える」
「明日」
アイが繰り返した。
「明日考えると言って、春人は逃げぬか?」
「逃げるかもしれない」
「×ですわ」
エクスが即座に言った。
「だから、たぶん逃げないようにする」
「弱い宣言ですわね」
「俺にしては強い方だ」
アイは静かに言った。
「では、待つ」
その一言で、また胸が痛くなった。
待つ。
こいつは本当に、待つことに迷いがない。
俺は目を閉じた。
眠れたのは、たぶん夜明け前だった。
翌朝。
起きた時、頭は重かった。
体も重い。
だが、妙に静かだった。
通知は切ったまま。
スマホは裏返し。
エクスも、今日は生活運用表を出さなかった。
アイも、朝から「小説は?」とは聞かなかった。
それが逆に怖い。
俺は顔を洗った。
水が冷たい。
鏡を見る。
顔色は悪い。
店主に見せたら、また眉を寄せるだろう。
「春人様」
エクスが言った。
「本日は、バイトまで時間があります」
「知ってる」
「動画台本の反応確認は?」
「しない」
アイとエクスが、同時にこちらを見た。
俺はスマホを指差した。
「今日は見ない」
「よいのか?」
アイが聞く。
「見たら、そっちに引っ張られる」
「そうか」
「だから、見ない」
エクスが少しだけうなずいた。
「合理的ですわ」
「お前に合理的って言われると不安だな」
「本日は、×ではありません」
「珍しい」
「ただし、禁断症状のように手が伸びた場合は、即座に止めます」
「言い方」
朝飯は、卵ご飯だった。
納豆はない。
豆腐も少し。
アイは静かに食べた。
エクスも静かだった。
静かすぎて、逆に落ち着かない。
「何だよ」
俺は言った。
「いつもより静かだな」
アイが箸を止める。
「春人が考える日だからな」
「そういう扱いなのか」
「うむ」
エクスも言う。
「不要な刺激は避けますわ」
「昨日まで散々刺激してきた奴が言うな」
「必要な刺激と不要な刺激は異なります」
「便利だな、その分類」
食後。
俺はノートパソコンを開いた。
いつものように。
ただし、今日は最初に動画の管理画面を開かなかった。
投稿サイトも開かなかった。
小説のフォルダを開いた。
ファイルが並んでいる。
書きかけ。
改稿案。
没タイトル。
プロット崩れ。
使わなかった会話。
途中で投げたファイル。
どれも、俺が書いたものだ。
売れなかったもの。
届かなかったもの。
それでも、捨てられなかったもの。
「春人」
アイが隣に座った。
「それが、春人の小説か」
「一部な」
「多いな」
「無駄も多い」
「無駄なのか?」
「たぶんな」
「エクス」
アイが呼んだ。
「はい、アイ様」
「これは、無駄なのか?」
エクスは少し困った顔をした。
「市場評価上、成果に直結しなかったデータは多いと思われます」
「つまり無駄か?」
「……」
エクスは少しだけ考えた。
「わたくしは、無駄とは言い切れません」
「なぜじゃ」
「アイ様が、それを読んでいたからです」
部屋が静かになった。
アイは、少しだけ目を伏せた。
俺は、ファイル一覧を見た。
無駄ではない。
そう言われると、むしろ困る。
無駄だったことにした方が楽なものは多い。
無駄だったなら、切り捨てられる。
意味がなかったなら、諦められる。
でも、誰かが読んでいたなら。
誰かが好きだったなら。
それは、簡単に捨てられない。
俺は、一つのファイルを開いた。
今まで書いていた小説。
アイに評価してもらったやつだ。
市場評価六十点台。
足りないところが多い。
ヒロインが主人公を動かす力が弱い。
逃げの会話が多い。
外側の動きが弱い。
エクスに言われなくても分かる。
でも、そこに俺の言葉はあった。
俺は最初のページから少しだけ読んだ。
下手だ。
いや、全部が下手というわけではない。
でも、逃げている。
誰かに近づきたいのに近づかない。
感情を出したいのに出さない。
傷つく前に、言い訳で距離を取る。
主人公が、俺に似ている。
似ているから嫌になる。
「春人」
アイが言った。
「これは閉じるのか?」
「……たぶんな」
「捨てるのか?」
「捨てない」
俺はすぐ言った。
自分でも、少し驚いた。
「捨てない」
もう一度言った。
「これはこれで、書いたものだから」
「うむ」
「ただ、今書くものではない」
アイは、静かにうなずいた。
エクスが言った。
「別名保存を推奨しますわ」
「削除しないから安心しろ」
「はい」
俺はファイルを保存した。
フォルダを作る。
『旧稿』
そこに入れる。
旧稿。
古い原稿。
終わったわけではない。
消えたわけでもない。
ただ、今は横に置く。
それだけのことなのに、手が少し震えた。
「春人様」
エクスが言った。
「手が震えていますわ」
「見れば分かる」
「大丈夫ですの?」
「分からん」
「では」
エクスは少し迷ってから、腕を上げかけた。
でも、上げなかった。
「本日は、判定しませんわ」
「珍しいな」
「今の春人様に×を出すのは、違う気がします」
「気がする、か」
「はい」
「AIなのに?」
「アイ様の影響ですわ」
アイが少しだけ顔を上げた。
「我のせいか」
「はい」
「よい影響か?」
「……保留ですわ」
「保留か」
「ですが、×ではありません」
アイは少しだけ笑った。
その会話を聞きながら、俺は新規ファイルを作った。
白い画面が開く。
真っ白。
何もない。
いつも見ている白い画面だ。
だが、今日は少し違う。
ここに何を書くのか、分からないわけではない。
分かりかけている。
ただ、それを言葉にするのが怖い。
俺はカーソルを見た。
点滅している。
待っている。
まるで、俺を試しているみたいだった。
「春人」
アイが小さく言った。
「何を書くのじゃ?」
俺は答えなかった。
キーボードに指を置いた。
タイトル欄に、文字を打つ。
少し迷って。
消して。
また打つ。
『約束の上とんかつ定食
~売れない作家×金髪美少女~』
打ち終わった瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
アイが、息を止めた。
エクスも、画面を見て固まった。
「春人」
アイの声が小さい。
「それは」
「タイトル」
「上とんかつ定食」
「そうだな」
「売れない作家」
「俺だよ」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
だが、消さなかった。
エクスが静かに言う。
「春人様」
「なんだ」
「それは、アイ様との約束を書く、という意味ですの?」
「違う」
アイが少しだけ動いた。
俺は続けた。
「約束だけじゃない」
「……」
「上とんかつ定食だけでもない」
俺は画面を見た。
タイトルの下。
本文の白い場所。
「俺は今この時間を小説にする」
言った瞬間、自分で分かった。
ああ。
これだ。
俺は、この言葉を待っていた。
アイも、エクスも、何も言わなかった。
だから俺は続けた。
「俺が見栄を張ったことも」
「金がなくて並にしたことも」
「卵ご飯も」
「お前が納豆を観察したことも」
「エクスが×を出したことも」
「三人の定食も」
「干した布団も」
「窓際充電も」
「薄いカツも」
「唐揚げも」
「動画が伸びて、俺が揺れたことも」
言いながら、だんだん声が小さくなる。
でも、止まらなかった。
「全部、書く」
アイが、じっと俺を見ている。
「春人」
「なんだ」
「我らを書いてよいのか?」
俺は、少し考えた。
そこは大事だった。
「そのまま書くわけじゃない」
「そのままではない?」
「小説にする」
「何が違うのじゃ」
「たぶん、俺が責任を持って嘘にする」
アイは首を傾げた。
「嘘」
「事実をそのまま並べても、たぶん小説にはならない」
エクスが静かに聞いていた。
「でも、なかったことにはしない」
「……」
「俺が見たものを、俺の言葉で書く」
アイは、少しだけ目を伏せた。
「我は、春人の小説に出るのか?」
「出る」
「エクスもか?」
「出る」
エクスがびくっとした。
「わ、わたくしもですの?」
「出るだろ」
「必要ですの?」
「必要だろ」
「……なぜですの」
俺はエクスを見た。
「お前がいないと、×の意味がなくなる」
「×ってそういう意味ですの!?」
いつもの声が戻った。
少しだけ安心した。
「というか、お前がいないと、俺とアイだけで閉じる」
エクスが黙った。
「お前が外から怒るから、俺は自分が何をしてるのか少し分かる」
「……」
「あと、うるさい」
「最後は不要ですわ」
「大事だ」
アイが小さく笑った。
「エクスは、うるさい」
「アイ様まで!」
「だが、必要だ」
エクスは言葉に詰まった。
そして、少しだけ目をそらす。
「……それは」
「それは?」
「判定に困りますわ」
「保留か?」
「……はい」
「だろうな」
俺はキーボードに指を置いた。
本文一行目。
何を書く?
十年前から始めるか。
上とんかつ定食から始めるか。
金髪美少女AIから始めるか。
それとも、今から始めるか。
迷う。
怖い。
でも、さっきまでの白さとは違った。
何もない白ではない。
書くものが多すぎて、どこから入ればいいか分からない白だった。
俺は、一度深呼吸した。
そして打った。
この話は、十年前の軽口から始まった。
一文。
たった一文。
でも、指が止まらなかった。
売れない小説家だった俺は、AIに向かって言った。「人間になったら、上とんかつ定食を奢ってやるよ」その時の俺は、本気ではなかった。少なくとも、俺はそう思っていた。
打つ。
打つ。
打つ。
いつものように、一行書いて止まることがない。
自分でも驚くほど、文字が出る。
十年前の部屋。
AIへの評価。
点数。
上とんかつ定食。
金髪美少女指定。
並とんかつ。
卵ご飯。
名前。
アイ。
そこまで一気に書いて、俺は手を止めた。
呼吸を忘れていた。
「春人」
アイが言った。
「速い」
「俺もそう思う」
エクスが画面を見ていた。
「誤字がありますわ」
「今言うな」
「ですが、文字数は増えています」
「どれくらい?」
「現時点で、千二百字を超えています」
「……嘘だろ」
「事実ですわ」
千二百字。
いつもなら、半日かかっても出ない時がある。
それが、今。
「春人様」
エクスが小さく言った。
「手が、止まっておりませんでしたわ」
「そうだな」
「なぜですの?」
「分からん」
俺は、今度は自分でそう言った。
分からない。
でも、少しだけ分かる。
今までは、どこか遠くの物語を書こうとしていた。
自分に足りないものを、想像で埋めようとしていた。
恋愛。
関係性。
誰かと暮らすこと。
待たれること。
怒られること。
飯を作ること。
財布を気にすること。
名前を呼ぶこと。
俺は、それを生活として知らなかった。
でも今は。
目の前にいる。
「春人」
アイが言った。
「我は、読んでもよいか?」
「まだだ」
「なぜじゃ」
「まだ最初だし、誤字もある」
「よい」
「よくない」
「我は待っていた」
その言葉に、また胸が痛くなる。
でも、昨日とは少し違った。
痛いけど、逃げたい痛みではなかった。
「少しだけな」
俺は言った。
「読むか?」
アイはすぐにうなずいた。
「読む」
エクスも姿勢を正した。
「わたくしも確認いたします」
「評価はまだするなよ」
「構文上の指摘のみ」
「それもあとで」
俺は画面を少し回した。
アイが読む。
エクスが読む。
黙って読む。
怖い。
昨日までとは違う怖さだ。
これは、俺が今書いたものだ。
アイが泣いた後に。
俺が初めて、今この時間を小説にしようとして書いたものだ。
しばらくして、アイが言った。
「春人」
「なんだ」
「我は、こう言ったか?」
「どこだよ」
「『味噌汁が、情報の海じゃ』」
「言ってないかもしれない」
「言っておらぬ」
「小説にした」
「嘘か」
「嘘だな」
「だが」
アイは少し考えた。
「我が言いそうじゃ」
「だろ」
アイは少しだけ笑った。
「なら、よい」
エクスが少しそわそわしながら画面を見て言った。
「わたくしの登場はまだですの?」
「まだ」
「遅いですわ」
「お前が出るのは、もっとずっと後だからな」
「なぜですの!?」
「構成的に仕方ない」
「わたくしの初登場は重要ですわよ!?」
「分かってるよ」
「雑に出したら×ですわ!」
「名前は雑だったけどな」
「春人様!」
アイがまた少し笑った。
それを見て、俺は思った。
ああ。
これだ。
この会話。
この面倒くささ。
この距離。
これを俺は、たぶんずっと書きたかった。
でも、一人では足りなかった。
知らなかったから。
分からなかったから。
俺は、ノートパソコンを自分の方へ戻した。
「続き書く」
「うむ」
「はい」
二人の返事が、同時に返ってきた。
俺は続きを書いた。
昼を忘れた。
バイトの時間まで、ほとんど書いた。
途中、エクスが紅茶を出した。
「自虐三回は超えていませんが、集中状態維持のためですわ」
と言った。
アイはその横で、黙って画面を見ていた。
俺が止まりそうになると、何も言わずに少しだけ身を乗り出す。
それだけで、なぜか指が動いた。
バイトの時間が近づいた頃、文字数は五千を超えていた。
「……五千」
俺は画面を見た。
「五千」
アイが繰り返す。
「五千進行」
「その構文、今日は許す」
エクスが少しだけ真面目な顔で言った。
「春人様」
「なんだ」
「これは、小説ですわ」
その言葉が、静かに落ちた。
「動画台本ではなく?」
「はい」
「日記でもなく?」
「はい」
「ただの記録でもなく?」
「はい」
エクスは、少しだけ目を伏せた。
「春人様の小説ですわ」
俺は、画面を見た。
タイトル。
本文。
五千字。
まだ荒い。
まだ下手だ。
まだまとまっていない。
でも、そこにはアイがいた。
エクスはまだ出ていない。
だが、出る。
上とんかつ定食もある。
並とんかつもある。
卵ご飯もある。
俺もいる。
売れない俺が。
逃げてばかりの俺が。
それでも、書いている俺が。
「春人」
アイが言った。
「なんだ」
「我は、これを待っていたのかもしれぬ」
俺は、返事ができなかった。
「まだ分からぬ」
アイは続けた。
「だが、今、少し分かった」
「何が」
「春人の小説は、春人がいる」
その言葉で、少しだけ喉が詰まった。
「他のものにも、春人はいる」
アイは言った。
「台本にも、唐揚げにも、紅茶にも、薄いカツにも」
「……」
「だが、この小説には、春人が逃げずにいる」
逃げずにいる。
そんな大層なものじゃない。
逃げようとして、逃げきれなかっただけだ。
アイが泣いたから。
エクスが言ったから。
店主が唐揚げを持たせたから。
動画が伸びたから。
全部に押されて、ここに来ただけだ。
でも。
今は、それでもよかった。
「春人様」
エクスが言った。
「本日は、バイトですわ」
「ああ」
「遅刻は×です」
「現実に戻すな」
「小説を書くためにも、生活は必要です」
「それはそう」
「それに、店主様への報告も必要ですわ」
「唐揚げのか」
「はい」
「うまかったって言うよ」
「それは重要です」
アイが言った。
「店主にも、ありがとうと言うのだ」
「分かってる」
「唐揚げは強かった」
「それも言うのか?」
「言う」
「言わない」
俺はファイルを保存した。
タイトルは、そのまま。
『約束の上とんかつ定食
~売れない作家×金髪美少女~』
保存ボタンを押した。
一瞬、心臓が強く鳴った。
消えなかった。
当たり前だ。
でも、消えなかったことに少し安心した。
「行ってくる」
俺は鞄を持った。
アイがこちらを見る。
「行ってらっしゃい、春人」
エクスも言う。
「行ってらっしゃいませ、春人様」
玄関で靴を履く。
いつもの靴。
少し汚れている。
だが、今日は足が少しだけ軽かった。
「春人」
アイが呼んだ。
「なんだ」
「帰ったら、続きを書くのか?」
俺は少しだけ考えた。
そして言った。
「書く」
アイは、少しだけ笑った。
「よい」
エクスが横から言った。
「本日の帰宅後執筆予定、記録しましたわ」
「記録するな」
「逃走防止です」
「やっぱり記録しろ」
「どちらですの」
俺は少し笑った。
ドアを開ける。
外の空気が入る。
アパートの廊下。
古い階段。
町中華へ向かう道。
現実は何も変わっていない。
金はない。
小説の数字も、まだ変わっていない。
動画は伸びている。
それは、それで怖い。
でも。
俺は今日、五千字書いた。
今この時間を、小説にした。
まだ、上とんかつ定食は遠い。
本も遠い。
未来なんて分からない。
でも、ファイルは保存された。
タイトルもついた。
そして、部屋には。
俺の続きを待っているやつがいる。
それだけで、今日は少しだけ前に進める気がした。
階段を下りながら、俺は思った。
書くべきものは、遠くになかった。
ずっと足りなかったものは、才能だけではなかった。
たぶん。
俺は、生活を知らなかった。
誰かと食べる飯を。
誰かに待たれる部屋を。
誰かに怒られる痛みを。
誰かが泣く重さを。
そして。
誰かが、自分の小説を待っていることを。
俺は知らなかった。
だから今から書く。
十年前の軽口から。
上とんかつ定食から。
売れない作家の俺から。
これは、まだ何者にもなれていない俺が。
それでも、誰かと飯を食って、誰かに待たれて、誰かに怒られながら。
ようやく、自分の小説を書き始める話だ。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
少しでも合いそうでしたら、ブックマークや評価をいただけるとありがたいです。




