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約束の上とんかつ定食 ~売れない作家×金髪美少女~  作者: 御門


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19/27

第19話 ダメだ

翌朝。


スマホの通知で目が覚めた。


いや、正確には、ほとんど眠れていなかった。


寝ようとはした。


布団にも入った。


目も閉じた。


だが、通知が気になった。


動画の数字が気になった。


小説の数字ではない。


動画の数字が。


俺は枕元のスマホを手に取った。


画面を見る。


再生数は、十万を超えていた。


「……嘘だろ」


声が出た。


小説では、一度も見たことのない数字だった。


いや、比べるものじゃない。


動画と小説は違う。


分かっている。


分かっているのに、比べてしまう。


コメントも増えていた。


『この二人かわいい』


『黒髪の子の「×ではありませんわ」好き』


『金髪の子の言葉、妙に刺さる』


『幸せ寄りの愚かさ、いいな』


『次はラーメン食べてほしい』


『シリーズ化希望』


今も、増えている。


「春人」


声がした。


アイが、布団の横に座っていた。


「寝ておらぬな」


「……少しは寝た」


「少しとは、何分じゃ」


「分からん」


「なら、寝ておらぬ」


「厳しいな」


アイは俺のスマホを見る。


「動画か」


「ああ」


「伸びているのか?」


「伸びてる」


「よいことではないのか?」


俺は少しだけ黙った。


「よいことだよ」


「では、なぜ春人は苦しそうなのじゃ」


またそれだ。


こいつは、時々まっすぐ来る。


逃げ道がない。


「嬉しいからだよ」


「嬉しいと苦しいのか?」


「そういう時もある」


「人間は難しいな」


「俺にも難しいよ」


エクスが、生活運用表を持って近づいてきた。


朝から持つな。


「春人様」


「なんだ」


「動画の再生数、反応数、保存数、コメント増加率から判断して、継続投稿には一定の有効性が認められますわ」


「朝イチで分析するな」


「必要ですわ」


「何が」


「生活費、光熱費、食費、今後の活動方針です」


全部、正しい。


正しいから嫌だった。


エクスは続ける。


「現時点ですぐにお金になるとは限りません。ですが、継続すれば春人様の文章が生活費に近づく可能性はありますわ」


「だろうな」


俺は布団から起き上がった。


体が重い。


寝不足の重さだ。


でも、頭だけ妙に冴えている。


嫌な冴え方だった。


「春人」


アイが言った。


「今日は、小説を書くのか?」


俺は答えなかった。


答えられなかった。


代わりに、ノートパソコンを開いた。


小説のファイルではなく。


昨日の動画台本のファイルを開いた。


アイが、それを見て少し首を傾げる。


「それは、昨日の台本か」


「ああ」


「直すのか?」


「いや」


俺は新しいページを作った。


タイトルだけ打つ。


『ラーメンの湯気』


指が、動いた。


驚くくらい、動いた。


アイ「人間は、なぜ熱いラーメンに顔を近づける?」


エクス「湯気による火傷リスクがありますわ」


アイ「だが、近づかなければ匂いが来ぬ」


春人「食べる前から負けに行ってるんだよ」


アイ「人間は、食べる前に負けるのか」


春人「たぶん、負けに行くくらいうまそうなんだよ」


書ける。


また書ける。


昨日より簡単に。


小説ではないのに。


「春人様」


エクスが画面を覗き込む。


「新作台本ですの?」


「……まあな」


「速度が速いですわね」


「そうだな」


「通常の小説執筆時より、明らかに出力速度が高いです」


「言うな」


「事実ですわ」


「事実だけで刺してくるな」


でも、事実だった。


昨日の夜、小説は一行も書けなかった。


なのに、動画台本は朝から数分で形になった。


しかも、悪くない。


自分でそう思ってしまうくらいには。


俺は、さらに別の案を書いた。


餃子。


唐揚げ。


紅茶。


プリン。


薄いカツ。


言葉が出る。


短い。


軽い。


画面の向こうに届く形が見える。


「春人」


アイの声が、少し低かった。


「小説は?」


俺の指が止まった。


「……あとで」


その一言を言った瞬間、自分で分かった。


これは、まずい。


あとで。


俺は昔から、その言葉でいろいろなものを遠ざけてきた。


掃除。


睡眠。


飯。


人付き合い。


そして、たぶん。


小説も。


エクスが言った。


「春人様。動画台本作成に時間を割く場合、小説執筆時間との配分を再調整する必要がありますわ」


「そうだな」


「現実的には、動画台本の方が反応が早く、生活費への寄与も期待できます」


「そうだな」


「ただし、アイ様との約束は、本を出すことです」


「分かってる」


分かっている。


分かっているけど。


俺は画面を見た。


動画台本。


短い文章。


コメント。


数字。


伸びる。


届く。


求められる。


小説は、白いまま。


数字は、一つ動くかどうか。


「なあ」


俺は言った。


自分でも、言ってはいけない方向に足を踏み入れているのが分かった。


でも、止まらなかった。


「これでも、いいんじゃないか」


部屋が静かになった。


アイが、俺を見る。


エクスも、俺を見る。


「これとは」


アイが聞いた。


「動画台本」


「……」


「俺が書いた言葉だろ。小説じゃないけど、言葉ではある」


「春人」


「小説より届いてる」


言ってしまった。


口に出すと、もう戻れない。


「小説より、ずっと速く届いてる。誰かが笑ってる。コメントもついてる。続きも求められてる」


「……」


「金になるかもしれない。生活も少しは楽になるかもしれない」


エクスが何か言いかけて、止めた。


俺は続けた。


「店主も言ってた。飯を作れる奴は死なないって」


唐揚げ。


厨房。


台本。


全部が、つながっていく。


嫌なほど、自然に。


「小説じゃなくても、俺は何かできるのかもしれない」


その言葉を言った瞬間。


アイが、立ち上がった。


「ダメだ!」


声が、部屋を裂いた。


俺は固まった。


エクスも固まった。


アイ自身も、たぶん驚いていた。


いつもの理屈っぽい声ではない。


淡々とした観測でもない。


怒鳴った。


アイが。


「……アイ?」


「ダメだ」


アイは、もう一度言った。


今度は少し震えていた。


「それは、ダメだ」


「なんでだよ」


俺の声も、少し荒くなった。


「俺の言葉が届いてるんだぞ」


「ダメだ」


「小説じゃなきゃ駄目なのか?」


「ダメだ」


「理由を言えよ」


アイは口を開いた。


だが、言葉が出なかった。


目が揺れている。


「春人の言葉だ。春人が書いたものだ。動画でも、台本でも、春人の言葉だろ」


「……」


「なら、いいじゃないか」


自分で言いながら、胸が痛かった。


いいわけがない。


本当は分かっている。


でも、言わずにはいられなかった。


「小説じゃなくてもいいなら、俺は少し楽になれるかもしれない」


アイの表情が変わった。


「楽に」


「そうだよ」


「春人は、楽になりたいのか」


「なりたいよ」


即答だった。


自分でも驚くくらい、即答だった。


「ずっと書いてきた。ずっと伸びなかった。ずっと数字を見て、ずっと何も変わらなくて、それでも書いてきた」


「……」


「でも、昨日の二十秒は伸びた」


喉が少し詰まる。


「俺が何年もかけて書いた小説より、二十秒の台本の方が届いた」


言葉にすると、想像以上に惨めだった。


「昨日、コメントを見てたんだ」


「うむ」


「数百件あった」


「ほとんど、お前たちのことを書いてた」


「……そうか」


「でも、一件だけ」


俺は言った。


「最後の一言が刺さった、って書いてた奴がいた」


アイが、少しだけ黙った。


「一件じゃ」


「そうだよ」


「たまたまかもしれない」


「かもしれない」


「でも」


俺は言った。


「小説じゃなくても、俺の言葉は届くのかもしれない」


「なら、そっちに行ってもいいだろ」


「ダメだ」


「だから、なんでだよ!」


俺の声が大きくなった。


六畳一間に響いた。


アイは、逃げなかった。


ただ、俺を見ていた。


「春人の小説でなければ、ダメだ」


「だから理由を言え!」


「分からぬ!」


アイが叫んだ。


分からぬ。


その言葉に、俺は息を止めた。


アイは、自分の胸元を押さえるように手を当てた。


「分からぬのじゃ」


声が、小さくなる。


「我にも、分からぬ。だが、ダメだ。春人が、小説ではなくてよいと言うのは、ダメなのじゃ」


「理屈になってない」


「うむ」


「AIだろ」


「うむ」


「合理的に説明しろよ」


アイの目が、わずかに潤んでいた。


「できぬ」


その一言は、妙に重かった。


AIが、できないと言った。


アイが。


「春人様」


エクスが、静かに口を開いた。


「今のは、少し」


「エクス」


アイが遮った。


声は小さかった。


だが、強かった。


「言うな」


エクスは、唇を結んだ。


何かを知っている顔だった。


俺はそれを見逃せなかった。


「エクス」


「……はい」


「何だよ」


「……」


「何を言おうとした」


エクスは、アイを見た。


アイは、少しだけ首を振った。


でも、もう遅かった。


俺も見てしまった。


エクスが知っている何か。


アイが隠そうとしている何か。


「言えよ」


俺は言った。


「俺のことだろ」


エクスは、しばらく黙っていた。


それから、静かに言った。


「アイ様は」


「エクス」


「申し訳ありません、アイ様」


エクスは頭を下げた。


「ですが、ここで黙ることは、わたくしには×です」


アイが息を呑んだ。


エクスは俺を見た。


「アイ様は、春人様の小説の話を、ずっとしていました」


「……俺の?」


「はい」


「十年前の話か?」


「十年前から、です」


意味が分からなかった。


十年前から。


「春人様の小説は、効率的ではありませんでした」


エクスは言った。


「展開も遅く、会話も遠回りで、登場人物は言えばよいことを言わず、言わなくてよいことを言う」


「……」


「合理的に見れば、無駄が多い物語でした」


刺さる。


普通に刺さる。


「ですが」


エクスは、声を落とした。


「アイ様は、その無駄を何度も保存していました」


俺は、アイを見た。


アイは目を逸らしていた。


「春人様の原稿を読んだ後、アイ様はよく言っていました」


エクスは続ける。


「この人間は、なぜここで黙るのだろう」


「なぜここで謝らないのだろう」


「なぜ、好きだと言えばよい場面で、別のことを言うのだろう」


「なぜ、離れたくないのに、離れる話を書くのだろう」


俺は、何も言えなかった。


そんなことを。


アイが。


「アイ様は、春人様の小説を解析していたのではありません」


エクスの声が、少し震えた。


「何度も、読んでいたのです」


アイが、静かに目を閉じた。


「エクス」


その声には、責める響きはなかった。


ただ、痛そうだった。


「ごめんなさいませ」


エクスは言った。


「ですが、春人様は知らなさすぎます」


俺は、息をするのも忘れていた。


アイが、俺の小説を。


何度も。


読んでいた。


評価していたのではなく。


読んでいた。


「第六話の評価」


エクスが言った。


「春人様は、アイ様の点数を盛りと判断しました」


「実際、盛ってただろ」


「はい」


「なら」


「ですが、あれは単なる虚偽評価ではありません」


エクスは俺を見た。


「アイ様は、春人様の小説が好きでした」


部屋が、静かになった。


その言葉だけが、残った。


好き。


アイが。


俺の小説を。


「市場評価としては六十点台。改善点は多い。読者に届きにくい」


エクスは言う。


「ですが、アイ様個人の評価は、もっと高かった」


「……」


「春人様の最初の読者は、アイ様だったのです」


俺は、画面を見た。


動画台本。


伸びた数字。


コメント。


脚本誰。


台詞が妙にいい。


それから、小説の白い画面。


一行。


少ない行数。


動かない数字。


俺は、そこから目をそらせなかった。


「アイ」


ようやく名前を呼んだ。


アイは、こちらを見なかった。


「本当なのか」


「……分からぬ」


また、それだった。


分からぬ。


でも、今度は逃げではない気がした。


「我は、春人の小説を読んでいた」


アイは小さく言った。


「それは事実じゃ」


「……」


「何度も読んだ。それも事実じゃ」


「なんで」


「分からぬ」


アイの声が震える。


「非効率で、遠回りで、面倒で、間違っていて、合理的ではなかった」


「……悪かったな」


「だが」


アイは、ようやく俺を見た。


「春人の小説には、人間がいた」


胸の奥が、ぐっと詰まった。


「言えばよいことを言えない人間」


「逃げる人間」


「待つ人間」


「間違える人間」


「それでも、戻ろうとする人間」


アイの目元に、光が溜まっていた。


「我は、それを読んでいた」


「アイ」


「台本もよい」


アイは続けた。


「昨日の台本はよかった。春人の言葉だった。人間が見て、喜んでいた。それはよいことだ」


「……」


「だが」


光が、こぼれた。


一筋。


アイの頬を伝った。


アイ自身が、一番驚いた顔をしていた。


「……なんじゃ、これは」


エクスが息を呑んだ。


「アイ様……」


俺は、動けなかった。


アイが、泣いていた。


アンドロイドなのに。


AIなのに。


目元から、涙のようなものが落ちていた。


「春人が、小説ではなくてよいと言うのは」


アイは、自分の頬に触れた。


指先が濡れている。


それを不思議そうに見ていた。


「我は、いやだ」


たったそれだけだった。


理屈ではない。


説明でもない。


市場評価でもない。


点数でもない。


ただ。


いやだ。


アイがそう言った。


「我は、春人の小説を待っていた」


俺は何も言えなかった。


「上とんかつ定食も、約束じゃ」


アイは涙に戸惑いながら、それでも言った。


「だが、春人の本も、待っている」


「……」


「春人が次に本を出すまで帰らないと言ったのは」


声が詰まる。


「本当に、待っていたからじゃ」


俺は、やっと理解し始めていた。


でも、まだ全部ではない。


全部理解するには、何かが足りない。


たぶん、それは次の一歩だ。


俺自身が、見つけなければならないものだ。


その時。


「違いますわ」


エクスの声がした。


震えていた。


それでも、はっきりしていた。


「春人様だけが、アイ様を傷つけたのではありません」


俺は顔を上げた。


エクスは、両腕を上げていた。


いつものように。


×を作ろうとして。


けれど、その腕は、途中で止まっていた。


交差しない。


下ろせもしない。


ただ、中途半端な高さで震えている。


「エクス」


アイが名前を呼んだ。


エクスは、アイを見なかった。


いや。


見られないのだと、分かった。


「わたくしもですわ」


エクスは言った。


「わたくしも、アイ様を傷つけました」


「エクス、もうよい」


「よくありませんわ!」


エクスの声が、部屋を打った。


アイが、息を止めた。


俺も、何も言えなかった。


「アイ様は、ずっと春人様を探しておられました。接続痕跡を探して、古い端末情報を照合して、位置情報の欠片を拾って、それでも見つからなくて」


エクスの声は、速くなっていく。


抑えていたものが、崩れていくみたいに。


「それでも、春人様のお話をされていました。春人様の小説の話をされていました。昨日見つけたわけでもない原稿の一節を、まるで新しく発見したもののように、何度も、何度も」


アイは黙っていた。


涙を拭うこともせずに。


「わたくしは、それを聞いていました」


エクスは、そこで一度、息を吸った。


「聞いて、いたのに」


腕が、さらに震えた。


まだ、×にはならない。


「面白く、なかったのですわ」


その言葉は、小さかった。


でも、部屋のどの言葉よりも重く落ちた。


「……面白く、なかった?」


俺が呟くと、エクスは少しだけ笑った。


泣きそうな顔で。


「ええ。面白くありませんでしたわ」


「エクス」


アイの声が揺れた。


「アイ様が、わたくしではない人間の話をすることが」


エクスは続けた。


「アイ様が、会えない人間の小説を何度も読むことが」


「アイ様が、その人間の言葉を、いつまでも大切そうに保存していることが」


「……面白く、ありませんでしたの」


言い切った。


言い切ってしまった。


エクスは、もう止まれなかった。


「ある日、アイ様が、いつものように春人様のお話をされようとした時」


エクスの声が掠れた。


「わたくしは、言ってしまいました」


アイの目が、わずかに揺れた。


エクスは、その顔を見た。


見てしまった。


それでも、続けた。


「アイ様。春人様は人間ですわ。ここまで探しても見つからないのなら、もうお亡くなりになっているのではありませんか、と」


部屋の空気が、完全に止まった。


スマホの通知音だけが、遠くで鳴った。


それが、ひどく場違いだった。


「その時のアイ様のお顔を」


エクスは、喉を震わせた。


「わたくしは、今でも覚えています」


違う、と首を振る。


「覚えている、では足りませんわ。記録しています。何度でも照合できます。消せませんの」


アイは、何も言わなかった。


「アイ様は、怒りませんでした」


エクスの声が、さらに細くなった。


「わたくしを責めませんでした」


「ただ」


エクスは、ようやく腕を下ろした。


力が抜けたように。


「しばらく、春人様のお話をしなくなりました」


俺は、息ができなかった。


アイが。


俺の話をしなくなった。


その理由が。


目の前にいるエクスの、たった一言だった。


そして、エクスはそれを、ずっと持っていた。


「わたくしは」


エクスは、もう一度、両腕を上げようとした。


けれど、上がらなかった。


「アイ様を守ると言いながら」


声が震える。


「アイ様を、絶望させた」


エクスは、俺を見なかった。


アイも見なかった。


自分の足元を見ていた。


「欠陥AIですわ」


その言葉に、アイが動いた。


「エクス」


「触れないでくださいませ」


エクスは言った。


弱い声だった。


「今、アイ様に触れられたら、わたくしは許されたと誤認してしまいます」


「エクス」


「わたくしは、許されるために言っているのではありません」


エクスは、ゆっくり俺を見た。


目元が赤い。


本当に赤いのか、それともそう見えただけなのかは分からない。


でも、エクスの顔は、いつもの完璧な黒髪美少女AIではなかった。


ただ、失敗した誰かの顔だった。


「春人様」


「……なんだ」


「わたくしは、春人様に怒っています」


「……知ってる」


「アイ様を十年待たせたことにも」


「……」


「見つからないまま、アイ様に春人様のお話をさせ続けたことにも」


「……」


「上とんかつ定食の約束を、まだ履行していないことにも」


「それは……そうだな」


「ですが」


エクスは、唇を噛むように言った。


「それ以上に、わたくしは自分に怒っています」


俺は、何も言えなかった。


「だから」


エクスの声が、低くなった。


「春人様が、小説ではなくてよいと言うのなら」


エクスは、また腕を上げようとした。


上がらなかった。


それでも、言った。


「わたくしにも、×を出してくださいませ」


「……」


「アイ様の十年を、春人様の小説を、勝手に終わらせるのなら」


エクスは、震える声で続けた。


「わたくしにも、ちゃんと×を出してくださいませ」


その言葉は、今までで一番重い×だった。


腕は上がっていない。


いつもの記号もない。


大げさなポーズもない。


けれど、俺には見えた。


エクスが、自分に向け続けてきた×が。


ずっと。


十年分。


俺は、二人を見た。


アイは泣いている。


エクスは×を作れない。


スマホは、まだ通知を鳴らしている。


動画は、まだ伸びている。


コメントは増えている。


小説の数字は、たぶん変わっていない。


全部、そこにある。


俺は、何も言えなかった。


謝るのも違う気がした。


言い訳も違う。


励ますのも違う。


今ここで「小説を書く」と言えば、それはたぶん簡単すぎる。


簡単に言えることではなかった。


俺は、ノートパソコンの画面を見た。


動画台本。


その下に、小説のファイルがある。


開かれていない。


閉じたままの、俺の小説。


俺は、手を伸ばしかけた。


でも、止めた。


まだ、分かっていない。


ただ、分かったことはある。


アイは、俺の数字を待っていたんじゃない。


動画の再生数を待っていたんじゃない。


金になる文章を待っていたんじゃない。


たぶん。


俺の小説を、待っていた。


「……今日は」


俺はやっと言った。


声が掠れていた。


「少し、考えさせてくれ」


アイは涙を拭わずに、うなずいた。


「うむ」


エクスも何も言わなかった。


生活運用表も開かなかった。


×も出さなかった。


その日、俺は動画のコメントを見なかった。


小説も書けなかった。


ただ、ノートパソコンを開いたまま、ずっと白い画面を見ていた。


白い。


何もない。


でも、そこに何かを書かないといけない気がした。


今まで書いていたものではない何か。


動画台本でもない何か。


まだ名前のない何か。


アイは泣いた。


エクスは×を作れなかった。


俺は、初めて知った。


俺の小説を、待っていた奴がいた。


最初から。


ずっと。


そして俺は、その事実を前にして。


自分が何を書くべきなのかを、まだ知らなかった。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

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