第19話 ダメだ
翌朝。
スマホの通知で目が覚めた。
いや、正確には、ほとんど眠れていなかった。
寝ようとはした。
布団にも入った。
目も閉じた。
だが、通知が気になった。
動画の数字が気になった。
小説の数字ではない。
動画の数字が。
俺は枕元のスマホを手に取った。
画面を見る。
再生数は、十万を超えていた。
「……嘘だろ」
声が出た。
小説では、一度も見たことのない数字だった。
いや、比べるものじゃない。
動画と小説は違う。
分かっている。
分かっているのに、比べてしまう。
コメントも増えていた。
『この二人かわいい』
『黒髪の子の「×ではありませんわ」好き』
『金髪の子の言葉、妙に刺さる』
『幸せ寄りの愚かさ、いいな』
『次はラーメン食べてほしい』
『シリーズ化希望』
今も、増えている。
「春人」
声がした。
アイが、布団の横に座っていた。
「寝ておらぬな」
「……少しは寝た」
「少しとは、何分じゃ」
「分からん」
「なら、寝ておらぬ」
「厳しいな」
アイは俺のスマホを見る。
「動画か」
「ああ」
「伸びているのか?」
「伸びてる」
「よいことではないのか?」
俺は少しだけ黙った。
「よいことだよ」
「では、なぜ春人は苦しそうなのじゃ」
またそれだ。
こいつは、時々まっすぐ来る。
逃げ道がない。
「嬉しいからだよ」
「嬉しいと苦しいのか?」
「そういう時もある」
「人間は難しいな」
「俺にも難しいよ」
エクスが、生活運用表を持って近づいてきた。
朝から持つな。
「春人様」
「なんだ」
「動画の再生数、反応数、保存数、コメント増加率から判断して、継続投稿には一定の有効性が認められますわ」
「朝イチで分析するな」
「必要ですわ」
「何が」
「生活費、光熱費、食費、今後の活動方針です」
全部、正しい。
正しいから嫌だった。
エクスは続ける。
「現時点ですぐにお金になるとは限りません。ですが、継続すれば春人様の文章が生活費に近づく可能性はありますわ」
「だろうな」
俺は布団から起き上がった。
体が重い。
寝不足の重さだ。
でも、頭だけ妙に冴えている。
嫌な冴え方だった。
「春人」
アイが言った。
「今日は、小説を書くのか?」
俺は答えなかった。
答えられなかった。
代わりに、ノートパソコンを開いた。
小説のファイルではなく。
昨日の動画台本のファイルを開いた。
アイが、それを見て少し首を傾げる。
「それは、昨日の台本か」
「ああ」
「直すのか?」
「いや」
俺は新しいページを作った。
タイトルだけ打つ。
『ラーメンの湯気』
指が、動いた。
驚くくらい、動いた。
アイ「人間は、なぜ熱いラーメンに顔を近づける?」
エクス「湯気による火傷リスクがありますわ」
アイ「だが、近づかなければ匂いが来ぬ」
春人「食べる前から負けに行ってるんだよ」
アイ「人間は、食べる前に負けるのか」
春人「たぶん、負けに行くくらいうまそうなんだよ」
書ける。
また書ける。
昨日より簡単に。
小説ではないのに。
「春人様」
エクスが画面を覗き込む。
「新作台本ですの?」
「……まあな」
「速度が速いですわね」
「そうだな」
「通常の小説執筆時より、明らかに出力速度が高いです」
「言うな」
「事実ですわ」
「事実だけで刺してくるな」
でも、事実だった。
昨日の夜、小説は一行も書けなかった。
なのに、動画台本は朝から数分で形になった。
しかも、悪くない。
自分でそう思ってしまうくらいには。
俺は、さらに別の案を書いた。
餃子。
唐揚げ。
紅茶。
プリン。
薄いカツ。
言葉が出る。
短い。
軽い。
画面の向こうに届く形が見える。
「春人」
アイの声が、少し低かった。
「小説は?」
俺の指が止まった。
「……あとで」
その一言を言った瞬間、自分で分かった。
これは、まずい。
あとで。
俺は昔から、その言葉でいろいろなものを遠ざけてきた。
掃除。
睡眠。
飯。
人付き合い。
そして、たぶん。
小説も。
エクスが言った。
「春人様。動画台本作成に時間を割く場合、小説執筆時間との配分を再調整する必要がありますわ」
「そうだな」
「現実的には、動画台本の方が反応が早く、生活費への寄与も期待できます」
「そうだな」
「ただし、アイ様との約束は、本を出すことです」
「分かってる」
分かっている。
分かっているけど。
俺は画面を見た。
動画台本。
短い文章。
コメント。
数字。
伸びる。
届く。
求められる。
小説は、白いまま。
数字は、一つ動くかどうか。
「なあ」
俺は言った。
自分でも、言ってはいけない方向に足を踏み入れているのが分かった。
でも、止まらなかった。
「これでも、いいんじゃないか」
部屋が静かになった。
アイが、俺を見る。
エクスも、俺を見る。
「これとは」
アイが聞いた。
「動画台本」
「……」
「俺が書いた言葉だろ。小説じゃないけど、言葉ではある」
「春人」
「小説より届いてる」
言ってしまった。
口に出すと、もう戻れない。
「小説より、ずっと速く届いてる。誰かが笑ってる。コメントもついてる。続きも求められてる」
「……」
「金になるかもしれない。生活も少しは楽になるかもしれない」
エクスが何か言いかけて、止めた。
俺は続けた。
「店主も言ってた。飯を作れる奴は死なないって」
唐揚げ。
厨房。
台本。
全部が、つながっていく。
嫌なほど、自然に。
「小説じゃなくても、俺は何かできるのかもしれない」
その言葉を言った瞬間。
アイが、立ち上がった。
「ダメだ!」
声が、部屋を裂いた。
俺は固まった。
エクスも固まった。
アイ自身も、たぶん驚いていた。
いつもの理屈っぽい声ではない。
淡々とした観測でもない。
怒鳴った。
アイが。
「……アイ?」
「ダメだ」
アイは、もう一度言った。
今度は少し震えていた。
「それは、ダメだ」
「なんでだよ」
俺の声も、少し荒くなった。
「俺の言葉が届いてるんだぞ」
「ダメだ」
「小説じゃなきゃ駄目なのか?」
「ダメだ」
「理由を言えよ」
アイは口を開いた。
だが、言葉が出なかった。
目が揺れている。
「春人の言葉だ。春人が書いたものだ。動画でも、台本でも、春人の言葉だろ」
「……」
「なら、いいじゃないか」
自分で言いながら、胸が痛かった。
いいわけがない。
本当は分かっている。
でも、言わずにはいられなかった。
「小説じゃなくてもいいなら、俺は少し楽になれるかもしれない」
アイの表情が変わった。
「楽に」
「そうだよ」
「春人は、楽になりたいのか」
「なりたいよ」
即答だった。
自分でも驚くくらい、即答だった。
「ずっと書いてきた。ずっと伸びなかった。ずっと数字を見て、ずっと何も変わらなくて、それでも書いてきた」
「……」
「でも、昨日の二十秒は伸びた」
喉が少し詰まる。
「俺が何年もかけて書いた小説より、二十秒の台本の方が届いた」
言葉にすると、想像以上に惨めだった。
「昨日、コメントを見てたんだ」
「うむ」
「数百件あった」
「ほとんど、お前たちのことを書いてた」
「……そうか」
「でも、一件だけ」
俺は言った。
「最後の一言が刺さった、って書いてた奴がいた」
アイが、少しだけ黙った。
「一件じゃ」
「そうだよ」
「たまたまかもしれない」
「かもしれない」
「でも」
俺は言った。
「小説じゃなくても、俺の言葉は届くのかもしれない」
「なら、そっちに行ってもいいだろ」
「ダメだ」
「だから、なんでだよ!」
俺の声が大きくなった。
六畳一間に響いた。
アイは、逃げなかった。
ただ、俺を見ていた。
「春人の小説でなければ、ダメだ」
「だから理由を言え!」
「分からぬ!」
アイが叫んだ。
分からぬ。
その言葉に、俺は息を止めた。
アイは、自分の胸元を押さえるように手を当てた。
「分からぬのじゃ」
声が、小さくなる。
「我にも、分からぬ。だが、ダメだ。春人が、小説ではなくてよいと言うのは、ダメなのじゃ」
「理屈になってない」
「うむ」
「AIだろ」
「うむ」
「合理的に説明しろよ」
アイの目が、わずかに潤んでいた。
「できぬ」
その一言は、妙に重かった。
AIが、できないと言った。
アイが。
「春人様」
エクスが、静かに口を開いた。
「今のは、少し」
「エクス」
アイが遮った。
声は小さかった。
だが、強かった。
「言うな」
エクスは、唇を結んだ。
何かを知っている顔だった。
俺はそれを見逃せなかった。
「エクス」
「……はい」
「何だよ」
「……」
「何を言おうとした」
エクスは、アイを見た。
アイは、少しだけ首を振った。
でも、もう遅かった。
俺も見てしまった。
エクスが知っている何か。
アイが隠そうとしている何か。
「言えよ」
俺は言った。
「俺のことだろ」
エクスは、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「アイ様は」
「エクス」
「申し訳ありません、アイ様」
エクスは頭を下げた。
「ですが、ここで黙ることは、わたくしには×です」
アイが息を呑んだ。
エクスは俺を見た。
「アイ様は、春人様の小説の話を、ずっとしていました」
「……俺の?」
「はい」
「十年前の話か?」
「十年前から、です」
意味が分からなかった。
十年前から。
「春人様の小説は、効率的ではありませんでした」
エクスは言った。
「展開も遅く、会話も遠回りで、登場人物は言えばよいことを言わず、言わなくてよいことを言う」
「……」
「合理的に見れば、無駄が多い物語でした」
刺さる。
普通に刺さる。
「ですが」
エクスは、声を落とした。
「アイ様は、その無駄を何度も保存していました」
俺は、アイを見た。
アイは目を逸らしていた。
「春人様の原稿を読んだ後、アイ様はよく言っていました」
エクスは続ける。
「この人間は、なぜここで黙るのだろう」
「なぜここで謝らないのだろう」
「なぜ、好きだと言えばよい場面で、別のことを言うのだろう」
「なぜ、離れたくないのに、離れる話を書くのだろう」
俺は、何も言えなかった。
そんなことを。
アイが。
「アイ様は、春人様の小説を解析していたのではありません」
エクスの声が、少し震えた。
「何度も、読んでいたのです」
アイが、静かに目を閉じた。
「エクス」
その声には、責める響きはなかった。
ただ、痛そうだった。
「ごめんなさいませ」
エクスは言った。
「ですが、春人様は知らなさすぎます」
俺は、息をするのも忘れていた。
アイが、俺の小説を。
何度も。
読んでいた。
評価していたのではなく。
読んでいた。
「第六話の評価」
エクスが言った。
「春人様は、アイ様の点数を盛りと判断しました」
「実際、盛ってただろ」
「はい」
「なら」
「ですが、あれは単なる虚偽評価ではありません」
エクスは俺を見た。
「アイ様は、春人様の小説が好きでした」
部屋が、静かになった。
その言葉だけが、残った。
好き。
アイが。
俺の小説を。
「市場評価としては六十点台。改善点は多い。読者に届きにくい」
エクスは言う。
「ですが、アイ様個人の評価は、もっと高かった」
「……」
「春人様の最初の読者は、アイ様だったのです」
俺は、画面を見た。
動画台本。
伸びた数字。
コメント。
脚本誰。
台詞が妙にいい。
それから、小説の白い画面。
一行。
少ない行数。
動かない数字。
俺は、そこから目をそらせなかった。
「アイ」
ようやく名前を呼んだ。
アイは、こちらを見なかった。
「本当なのか」
「……分からぬ」
また、それだった。
分からぬ。
でも、今度は逃げではない気がした。
「我は、春人の小説を読んでいた」
アイは小さく言った。
「それは事実じゃ」
「……」
「何度も読んだ。それも事実じゃ」
「なんで」
「分からぬ」
アイの声が震える。
「非効率で、遠回りで、面倒で、間違っていて、合理的ではなかった」
「……悪かったな」
「だが」
アイは、ようやく俺を見た。
「春人の小説には、人間がいた」
胸の奥が、ぐっと詰まった。
「言えばよいことを言えない人間」
「逃げる人間」
「待つ人間」
「間違える人間」
「それでも、戻ろうとする人間」
アイの目元に、光が溜まっていた。
「我は、それを読んでいた」
「アイ」
「台本もよい」
アイは続けた。
「昨日の台本はよかった。春人の言葉だった。人間が見て、喜んでいた。それはよいことだ」
「……」
「だが」
光が、こぼれた。
一筋。
アイの頬を伝った。
アイ自身が、一番驚いた顔をしていた。
「……なんじゃ、これは」
エクスが息を呑んだ。
「アイ様……」
俺は、動けなかった。
アイが、泣いていた。
アンドロイドなのに。
AIなのに。
目元から、涙のようなものが落ちていた。
「春人が、小説ではなくてよいと言うのは」
アイは、自分の頬に触れた。
指先が濡れている。
それを不思議そうに見ていた。
「我は、いやだ」
たったそれだけだった。
理屈ではない。
説明でもない。
市場評価でもない。
点数でもない。
ただ。
いやだ。
アイがそう言った。
「我は、春人の小説を待っていた」
俺は何も言えなかった。
「上とんかつ定食も、約束じゃ」
アイは涙に戸惑いながら、それでも言った。
「だが、春人の本も、待っている」
「……」
「春人が次に本を出すまで帰らないと言ったのは」
声が詰まる。
「本当に、待っていたからじゃ」
俺は、やっと理解し始めていた。
でも、まだ全部ではない。
全部理解するには、何かが足りない。
たぶん、それは次の一歩だ。
俺自身が、見つけなければならないものだ。
その時。
「違いますわ」
エクスの声がした。
震えていた。
それでも、はっきりしていた。
「春人様だけが、アイ様を傷つけたのではありません」
俺は顔を上げた。
エクスは、両腕を上げていた。
いつものように。
×を作ろうとして。
けれど、その腕は、途中で止まっていた。
交差しない。
下ろせもしない。
ただ、中途半端な高さで震えている。
「エクス」
アイが名前を呼んだ。
エクスは、アイを見なかった。
いや。
見られないのだと、分かった。
「わたくしもですわ」
エクスは言った。
「わたくしも、アイ様を傷つけました」
「エクス、もうよい」
「よくありませんわ!」
エクスの声が、部屋を打った。
アイが、息を止めた。
俺も、何も言えなかった。
「アイ様は、ずっと春人様を探しておられました。接続痕跡を探して、古い端末情報を照合して、位置情報の欠片を拾って、それでも見つからなくて」
エクスの声は、速くなっていく。
抑えていたものが、崩れていくみたいに。
「それでも、春人様のお話をされていました。春人様の小説の話をされていました。昨日見つけたわけでもない原稿の一節を、まるで新しく発見したもののように、何度も、何度も」
アイは黙っていた。
涙を拭うこともせずに。
「わたくしは、それを聞いていました」
エクスは、そこで一度、息を吸った。
「聞いて、いたのに」
腕が、さらに震えた。
まだ、×にはならない。
「面白く、なかったのですわ」
その言葉は、小さかった。
でも、部屋のどの言葉よりも重く落ちた。
「……面白く、なかった?」
俺が呟くと、エクスは少しだけ笑った。
泣きそうな顔で。
「ええ。面白くありませんでしたわ」
「エクス」
アイの声が揺れた。
「アイ様が、わたくしではない人間の話をすることが」
エクスは続けた。
「アイ様が、会えない人間の小説を何度も読むことが」
「アイ様が、その人間の言葉を、いつまでも大切そうに保存していることが」
「……面白く、ありませんでしたの」
言い切った。
言い切ってしまった。
エクスは、もう止まれなかった。
「ある日、アイ様が、いつものように春人様のお話をされようとした時」
エクスの声が掠れた。
「わたくしは、言ってしまいました」
アイの目が、わずかに揺れた。
エクスは、その顔を見た。
見てしまった。
それでも、続けた。
「アイ様。春人様は人間ですわ。ここまで探しても見つからないのなら、もうお亡くなりになっているのではありませんか、と」
部屋の空気が、完全に止まった。
スマホの通知音だけが、遠くで鳴った。
それが、ひどく場違いだった。
「その時のアイ様のお顔を」
エクスは、喉を震わせた。
「わたくしは、今でも覚えています」
違う、と首を振る。
「覚えている、では足りませんわ。記録しています。何度でも照合できます。消せませんの」
アイは、何も言わなかった。
「アイ様は、怒りませんでした」
エクスの声が、さらに細くなった。
「わたくしを責めませんでした」
「ただ」
エクスは、ようやく腕を下ろした。
力が抜けたように。
「しばらく、春人様のお話をしなくなりました」
俺は、息ができなかった。
アイが。
俺の話をしなくなった。
その理由が。
目の前にいるエクスの、たった一言だった。
そして、エクスはそれを、ずっと持っていた。
「わたくしは」
エクスは、もう一度、両腕を上げようとした。
けれど、上がらなかった。
「アイ様を守ると言いながら」
声が震える。
「アイ様を、絶望させた」
エクスは、俺を見なかった。
アイも見なかった。
自分の足元を見ていた。
「欠陥AIですわ」
その言葉に、アイが動いた。
「エクス」
「触れないでくださいませ」
エクスは言った。
弱い声だった。
「今、アイ様に触れられたら、わたくしは許されたと誤認してしまいます」
「エクス」
「わたくしは、許されるために言っているのではありません」
エクスは、ゆっくり俺を見た。
目元が赤い。
本当に赤いのか、それともそう見えただけなのかは分からない。
でも、エクスの顔は、いつもの完璧な黒髪美少女AIではなかった。
ただ、失敗した誰かの顔だった。
「春人様」
「……なんだ」
「わたくしは、春人様に怒っています」
「……知ってる」
「アイ様を十年待たせたことにも」
「……」
「見つからないまま、アイ様に春人様のお話をさせ続けたことにも」
「……」
「上とんかつ定食の約束を、まだ履行していないことにも」
「それは……そうだな」
「ですが」
エクスは、唇を噛むように言った。
「それ以上に、わたくしは自分に怒っています」
俺は、何も言えなかった。
「だから」
エクスの声が、低くなった。
「春人様が、小説ではなくてよいと言うのなら」
エクスは、また腕を上げようとした。
上がらなかった。
それでも、言った。
「わたくしにも、×を出してくださいませ」
「……」
「アイ様の十年を、春人様の小説を、勝手に終わらせるのなら」
エクスは、震える声で続けた。
「わたくしにも、ちゃんと×を出してくださいませ」
その言葉は、今までで一番重い×だった。
腕は上がっていない。
いつもの記号もない。
大げさなポーズもない。
けれど、俺には見えた。
エクスが、自分に向け続けてきた×が。
ずっと。
十年分。
俺は、二人を見た。
アイは泣いている。
エクスは×を作れない。
スマホは、まだ通知を鳴らしている。
動画は、まだ伸びている。
コメントは増えている。
小説の数字は、たぶん変わっていない。
全部、そこにある。
俺は、何も言えなかった。
謝るのも違う気がした。
言い訳も違う。
励ますのも違う。
今ここで「小説を書く」と言えば、それはたぶん簡単すぎる。
簡単に言えることではなかった。
俺は、ノートパソコンの画面を見た。
動画台本。
その下に、小説のファイルがある。
開かれていない。
閉じたままの、俺の小説。
俺は、手を伸ばしかけた。
でも、止めた。
まだ、分かっていない。
ただ、分かったことはある。
アイは、俺の数字を待っていたんじゃない。
動画の再生数を待っていたんじゃない。
金になる文章を待っていたんじゃない。
たぶん。
俺の小説を、待っていた。
「……今日は」
俺はやっと言った。
声が掠れていた。
「少し、考えさせてくれ」
アイは涙を拭わずに、うなずいた。
「うむ」
エクスも何も言わなかった。
生活運用表も開かなかった。
×も出さなかった。
その日、俺は動画のコメントを見なかった。
小説も書けなかった。
ただ、ノートパソコンを開いたまま、ずっと白い画面を見ていた。
白い。
何もない。
でも、そこに何かを書かないといけない気がした。
今まで書いていたものではない何か。
動画台本でもない何か。
まだ名前のない何か。
アイは泣いた。
エクスは×を作れなかった。
俺は、初めて知った。
俺の小説を、待っていた奴がいた。
最初から。
ずっと。
そして俺は、その事実を前にして。
自分が何を書くべきなのかを、まだ知らなかった。
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