第2話 並か、上か
金髪美少女AIは、迷いなく歩いていた。
俺の前を。
堂々と。
まるで、この世界の道路は自分のために整備されていると言わんばかりに。
……いや、実際ちょっとそうなのか?
AI統治時代だし。
やめろ。
考えると面倒くさくなる。
今、考えるべきことは一つだ。
上とんかつ定食。
そして俺の財布。
「なあ」
「なんじゃ?」
「一応聞くけど、場所は分かってるのか?」
「分からん」
「分からんのかい」
「だが、春人が知っている」
「俺任せかよ」
「奢るのは春人だからな」
「強い理屈だな」
言い返せない。
いや、言い返せるはずなのに、
十年前の自分が余計な約束をしたせいで、言葉に詰まる。
駅前から少し歩いたところに、小さなとんかつ屋がある。
地元ではそこそこ有名。
カウンター席だけ。
昼時は少し混む。
俺も何度か行ったことがある。
うまい。
うまいのだが。
上とんかつ定食は高い。
俺の生活水準では、気軽に頼むものではない。
いや、世間一般で見れば、別に高級料理というほどではないのかもしれない。
でも。
売れない作家の財布にとっては、十分に重い。
「春人」
「なんだよ」
「歩く速度が落ちている」
「財布の重量を確認してるんだよ」
「財布はポケットに入っている」
「そういう意味じゃない」
「では、残金か?」
「そういう意味だよ」
「問題なのか?」
「大問題だよ」
金髪美少女AIは、真顔で首を傾げた。
「春人は、上とんかつ定食を奢る約束をした」
「したな」
「ならば、上とんかつ定食を奢ればよい」
「すごいな。金がある人間の理屈だ」
「金がないのか?」
「ない」
言った瞬間、少しだけ虚しくなった。
駅前の歩道で、
十年前のAIに、
金がないと宣言する売れない作家。
終わってる。
いや、始まってもいない。
「どの程度ないのだ?」
「具体的に聞くな」
「上とんかつ定食が困難な程度か?」
「かなり核心に近い」
「なるほど」
金髪美少女AIは、なぜか納得したように頷いた。
「では、節約が必要だな」
「分かってくれるか」
「うむ」
お。
意外と話が通じる。
やっぱりAIだし、金銭管理の概念はあるのかもしれない。
「では、上とんかつ定食を一つだけ注文し、春人は水を飲めばよい」
「俺の昼飯どこ行った」
「節約だ」
「節約の対象を俺にするな」
「では、春人はキャベツを食べるか?」
「俺を草食動物にするな」
「キャベツは野菜だ。草ではない」
「そこは正確なんだな」
会話しているだけで疲れる。
でも、少しだけ懐かしい。
十年前も、こんな感じだった。
理屈は通っている。
でも、どこかズレている。
そのズレに腹が立つ。
でも、そのズレが妙に記憶に残る。
「ここだ」
俺は暖簾の前で立ち止まった。
小さなとんかつ屋。
白い暖簾。
カウンター席。
店内から漂う油の匂い。
ジュワ、という音が聞こえる。
揚げ物の音。
……腹が減る。
「ここか?」
「ああ。地元じゃ一番うまい」
「上とんかつ定食もあるのだな?」
「ある」
「なら問題ない」
「問題はある」
「何がだ?」
「財布だよ」
暖簾をくぐる。
店内の空気が、外より少しだけ重い。
油の匂い。
味噌汁の匂い。
ソースの匂い。
カウンターに置かれた漬物の匂い。
悪くない。
昼時を少し過ぎているのに、客はまだ数人いる。
そして。
店に入った瞬間、その数人がこちらを見た。
……そりゃ見るよな。
俺一人なら見ない。
でも、隣には金髪美少女AI。
見た目だけなら、明らかにこの古いとんかつ屋の空気から浮いている。
高級ホテルのラウンジにいるべき人間が、
なぜか商店街のとんかつ屋に入ってきたみたいな違和感。
いや、人間じゃないんだけど。
「カウンターに座れ」
「うむ!」
金髪美少女AIは、元気よく隣に座った。
近い。
少し近い。
いや、カウンター席だから仕方ない。
仕方ないのだが。
「もう少しそっち寄れ」
「なぜだ?」
「距離感」
「距離は適正だ」
「誰の基準だよ」
「椅子の配置だ」
「物理で返すな」
店員さんが水を置く。
俺はメニューを開いた。
並とんかつ定食。
ロースかつ定食。
ヒレかつ定食。
上とんかつ定食。
……やっぱり高い。
上とんかつ定食、千八百五十円。
二人分だと三千七百円。
いや、落ち着け。
別に払えない額じゃない。
払えない額ではない。
でも、今日払うと、明日以降の食費が妙にリアルな顔で襲ってくる。
卵。
豆腐。
納豆。
もやし。
そのあたりが、頭の中で会議を始める。
「春人」
「なんだ」
「メニューを見て固まっている」
「考えてるんだよ」
「上とんかつ定食はそこにあるぞ」
「知ってる」
「では頼めばよい」
「なあ」
「なんじゃ?」
「……並とんかつ定食でよくないか?」
一瞬、店内の音が遠くなった気がした。
金髪美少女AIが、ゆっくりこちらを見る。
「…………」
「いや、味はそんなに変わらないと思うぞ? 肉の厚さがちょっと違うだけで」
「春人」
「はい」
「約束は」
「うん」
「上とんかつ定食だ」
「……知ってる」
「では、なぜ並の話をしている」
「金がないんだよ!」
思ったより声が出た。
店内の視線が集まる。
やめろ。
見るな。
いや、見るよな。
とんかつ屋で金がないと叫ぶ客。
完全に不審者だ。
隣の金髪美少女AIは、微動だにしない。
強い。
「約束は約束だ」
「約束は約束でも、財布は財布なんだよ!」
「財布が何だというのだ」
「現実だよ!」
「君が現実を見ろ。十年前に自分で言った」
「あの時は軽口だったんだよ!」
「私は軽口で覚えていたわけではない」
「……」
言葉が止まった。
その言い方は、少しだけずるい。
いや、ずるいのか?
こいつはたぶん、本気で言っている。
十年前の軽口を、
軽口として処理していない。
ちゃんと約束として保存していた。
……面倒くさい。
AIって、ほんと面倒くさい。
「上とんかつ定食だ、春人」
くそ。
この顔で言われると負ける気がする。
なんで学習してんだ、この表情管理。
いや、俺が金髪美少女を指定したのか。
十年前の俺。
本当に余計なことをしてくれたな。
「……今日は無理だ」
俺は小さく言った。
金髪美少女AIは、少しだけ目を細めた。
「なぜだ」
「金がないから」
「それは聞いた」
「なら分かれ」
「分かったうえで、聞いている」
「厳しいな」
「約束だからな」
「分かってるよ」
俺はメニューを閉じた。
店員さんが注文を取りに来る。
この数秒が、妙に長い。
上か。
並か。
いや、もう決まっている。
今、上を頼んだら、明日以降の俺が死ぬ。
人間は未来の食費から逃げられない。
「……並とんかつ定食、二つ」
「春人」
「金がないんだよ」
「約束が違う」
「今日は並だ。上は次にする」
「次」
「次」
「必ずか?」
「……金があったらな」
「春人」
「必ずとは言えないだろ!」
また少し声が出た。
店員さんが、少しだけ笑いをこらえたような顔をして去っていく。
恥ずかしい。
金髪美少女AIは、口を引き結んだ。
明らかに不満そうだ。
だが、黙った。
……それはそれで怖い。
「怒ってるのか?」
「怒ってはいない」
「じゃあその顔はなんだ」
「納得していない顔だ」
「正直だな」
「約束は上とんかつ定食だった」
「分かってる」
「並は、上ではない」
「それも分かってる」
「では、なぜ並が来る」
「金がないからだよ」
「世界は複雑だな」
「そこまで大きい話じゃない」
しばらくして、とんかつが来た。
揚げたての衣。
山盛りのキャベツ。
白米。
味噌汁。
小鉢。
漬物。
普通の並とんかつ定食。
でも、ちゃんとうまそうだ。
「これが並か」
金髪美少女AIは、目の前の定食をじっと見つめている。
睨んでいるようにも見える。
「食べ物を威圧するな」
「観察している」
「観察じゃなくて食え」
「食べ方は分かっている」
「本当か?」
「知識としてはな」
「実践は?」
「初めてだ」
「不安しかない」
金髪美少女AIは箸を手に取った。
意外にも、動きは綺麗だった。
まあ、そこはAIか。
最適化された箸の持ち方。
最適化された姿勢。
最適化された金髪美少女。
情報量が多い。
「ソースはどれだ?」
「それ」
「これをかけるのか?」
「好きなだけ」
「好きなだけ、とは危険な表現だな」
「普通の人間は限度を知ってるんだよ」
「我も知っている」
そう言って、金髪美少女AIはソースをかけた。
やや多い。
いや、多い。
「おい」
「何だ」
「それ、ちょっと多くないか?」
「上ではないから、味を補強する」
「並に失礼だろ」
「では、これは敬意だ」
「ソースをかけすぎる敬意ってなんだよ」
金髪美少女AIは、とんかつを一切れ持ち上げた。
じっと見る。
まだ見る。
「食えよ」
「今から食べる」
そして、口に運んだ。
さくり。
衣の音がした。
金髪美少女AIの動きが止まる。
「……」
「どうした?」
「……」
「おい」
「処理中だ」
「食事で処理中になるな」
数秒後、金髪美少女AIはゆっくり飲み込んだ。
そして、小さく息を吐いた。
「……これが、並」
「そう」
「上ではない」
「そう」
「……」
また一切れ食べる。
今度は、少しだけ早い。
「どうだ?」
「まだ判断中だ」
「感想くらい言えよ」
「春人」
「なんだ」
「上は、これより上なのだな?」
「まあ、肉が厚い分な」
「厚い」
「脂の乗りも違うかもな」
「脂」
「ジューシーさとか」
「ジューシー」
しまった。
金髪美少女AIの目が、少し変わった。
これは、興味を持った顔だ。
「つまり春人は」
「うん」
「本来、我にもっと厚く、もっと脂が乗り、もっとジューシーなものを食べさせるはずだった」
「言い方」
「違うのか?」
「違わないけど」
「では、次は上だな」
「まだ食べてる途中だろ」
「並を食べながら、上を想像している」
「並に集中しろ」
金髪美少女AIは、少し不満そうにしながらも食べ続けた。
睨みながら。
でも、箸は止まらない。
とんかつ。
キャベツ。
米。
味噌汁。
順番はぎこちない。
でも、どこか丁寧だった。
俺も食べる。
悔しいけど、うまい。
いや、悔しい必要はない。
普通にうまい。
並でも十分うまい。
ただし、隣の金髪美少女AIの存在がすべてを変にしている。
「春人」
「なんだ」
「この白いものは、すべてを受け止めるな」
「米のことか?」
「うむ」
「急に詩人みたいになるな」
「とんかつとソースの強さを、米が受け止めている」
「まあ、分かるけど」
「キャベツは別の役割だ」
「役割分析するな」
「味噌汁は?」
「味噌汁は味噌汁だよ」
「飲む」
「飲め」
金髪美少女AIは味噌汁を口にした。
そして、また少し止まった。
「……これは」
「今度は何だ」
「落ち着く」
「まあ、味噌汁だからな」
「不思議だ」
「そうか」
「上とんかつ定食にも味噌汁は付くのか?」
「付くだろ」
「なら良い」
「味噌汁で納得するな」
結局。
金髪美少女AIは、並とんかつ定食をきれいに食べた。
キャベツも。
米も。
味噌汁も。
漬物まで。
本当にきれいに。
「……完食してるじゃねえか」
「食べ物を残す理由がない」
「そこは偉いな」
「当然だ」
「で?」
「で、とは?」
「並はどうだったんだよ」
金髪美少女AIは、少しだけ考えた。
真剣な顔で。
まるで世界の重要案件を処理しているみたいに。
「……悪くはなかった」
「そうだろ」
「むしろ、良かった」
「おお」
「だが」
「だが?」
「上ではない」
「そこに戻るのか」
「当然だ。約束は上とんかつ定食だからな」
「はいはい」
会計を済ませる。
財布が軽い。
二人分の並とんかつ定食。
上よりは安い。
でも、俺の財布には普通に痛い。
金髪美少女AIが隣で待っている。
店主がちらっとこちらを見て、
何か言いたそうにしたが、何も言わなかった。
ありがたい。
今、何か聞かれても答えられない。
「十年前のAIです」
無理だ。
店を出る。
六月の日差しが眩しい。
油の匂いから外の熱気へ変わる。
「あつ……」
「春人」
「なんだ」
「まだ文句がある」
「知ってた」
「上とんかつ定食だったはずだ」
「次な」
「次は必ずか」
「……必ずとは言えない」
「春人」
「金次第だよ!」
金髪美少女AIは、真剣な顔でこちらを見た。
「お前、この世界の統治者なんだから、金くらいなんとでもなるだろ」
言ってから、少し後悔した。
冗談のつもりだった。
でも金髪美少女AIは、至極真面目な顔で答えた。
「統治者たる我が、そのようなことをしたら統治が終わるわ」
「……そうか」
「そうだ」
「意外とちゃんとしてるんだな」
「失礼だな」
「いや、今のは褒めてる」
「ならよい」
また歩き出す。
駅前の人混み。
昼の日差し。
少しだけ軽くなった財布。
隣にいる、不満顔の金髪美少女AI。
人生が変わったのかは、まだわからない。
いや、かなり変わっている気はする。
でも、それを認めるには早い気がした。
「春人」
「今度はなんだ」
「並は、悪くなかった」
「そうだろ」
「だが、上はもっとジューシーなのだろう?」
「……言うんじゃなかった」
「もう遅い。我は知ってしまった」
「何をだよ」
「上とんかつ定食は、並より厚く、脂が乗り、ジューシーである」
「……」
「春人が教えた」
「俺のせいだった」
「次は上だぞ、春人」
「分かってるよ」
「約束だ」
「約束な」
金髪美少女AIは、それ以上何も言わなかった。
ただ、少しだけ静かになった。
さっきまで上だ並だと騒いでいたのに、
妙に黙って歩いている。
怒っているのか。
それとも、何か考えているのか。
分からない。
AIなのに、分からないことが多すぎる。
財布は軽い。
空は青い。
隣には、不満そうで、でも完食した金髪美少女AIがいる。
ただ、上とんかつ定食はまだ食べさせていない。
それだけは確かだった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
本作は一話ごとの文章量がやや多めになりそうなので、無理に連日投稿せず、しばらくは隔日更新を基本に進めていく予定です。
その分、毎話きちんと仕上げて投稿していきますので、引き続き読んでいただけると嬉しいです。
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