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約束の上とんかつ定食 ~売れない作家×金髪美少女~  作者: 御門


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17/27

第17話 揚げたて

朝、投稿サイトを開いた。


数字は変わっていなかった。


昨日より一文字も増えていない、みたいな顔でそこにあった。


PV。


ブックマーク。


評価。


感想。


何度見ても、変わらない。


見ても変わらないと分かっているのに、見てしまう。


人間は非効率だ。


アイなら、そう言うだろう。


「春人」


隣から声がした。


「なんだ」


「数字は、動いたか?」


「動いてない」


「そうか」


アイは画面をじっと見た。


昨日覚えたばかりの数字を、もう敵のように見ている。


「この数字は、なぜ動かぬ」


「読まれてないからだな」


「読めば動くのか」


「まあ、たぶん」


「では、人間はなぜ読まぬ」


「知らん」


「人間は難しいな」


「俺にも難しいよ」


エクスが生活運用表を確認しながら言った。


「春人様、朝から数字確認を三回行っておりますわ」


「数えるな」


「自虐予備動作として記録対象です」


「数字を見るだけで自虐扱いか」


「顔が×寄りでした」


「顔の判定、本当にやめろ」


俺はノートパソコンを閉じた。


書いても変わらない。


変わらないから書かない、というわけではない。


そんな単純な話なら、とっくにやめている。


書いても変わらないのに、まだ書いている。


だから面倒なのだ。


「今日はバイトだ」


「町中華じゃな」


アイが言った。


「覚えたのか」


「からあげの匂いがする場所」


「間違ってはない」


「我はまだ、からあげを知らぬ」


「そうだな」


「強いのだろう?」


「たぶん強い」


アイは真剣にうなずいた。


エクスがすかさず補足する。


「唐揚げは揚げ物ですので、調理には火災および火傷リスクが伴いますわ」


「朝から危険説明するな」


「アイ様が関心を示された以上、安全説明は必須です」


「食べる前からハードル上げるな」


「春人様の調理技術では、警戒して当然ですわ」


「刺すな」


俺は鞄を持った。


玄関で靴を履くと、アイがこちらを見た。


「春人」


「なんだ」


「数字は動かなかったが、春人は動くのだな」


俺は靴紐を結ぶ手を止めた。


「……バイトだからな」


「そうか」


アイはうなずいた。


「では、行ってくるがよい」


「誰目線だよ」


「待つ側じゃ」


さらっと言われて、少し言葉に詰まった。


待つ側。


数日前まで、俺の部屋にはそんなものなかった。


俺は誤魔化すように立ち上がった。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい、春人」


「行ってらっしゃいませ、春人様」


二人分の声を背中に受けて、俺は部屋を出た。


階段を下りながら、もう一度だけスマホを見た。


数字は、やっぱり変わっていなかった。


町中華は、昼前から忙しかった。


赤いのれんを出すと、油とスープの匂いが店の外まで流れていく。


カウンター席。


四人掛けのテーブル。


奥に厨房。


壁には、少し色あせたメニュー。


ラーメン。


チャーハン。


餃子。


唐揚げ定食。


俺の仕事は、いつも通り注文を取って、厨房に通して、料理を運ぶことだった。


そのはずだった。


「春人」


「はい」


昼の波が少し落ち着いた頃、店主が俺を呼んだ。


「今日、こっち入れ」


「こっち?」


「厨房だよ」


「え、今ですか?」


「今だよ」


店主は当たり前みたいに言った。


「でも俺、オーダーが」


「客が少ない時間にやるんだよ。混んでる時に素人入れたら邪魔だろ」


「それはそうですけど」


「エプロン替えろ。あと手ぇ洗え」


「はい」


俺は言われるまま、厨房用のエプロンに替えた。


手を洗う。


店の厨房に入るのは、何度も料理を運んできたはずなのに、妙に緊張した。


火。


油。


包丁。


中華鍋。


まな板。


調味料。


皿。


音。


客席から見ていた時とは、全部距離が違う。


「まず皿」


店主が言った。


「皿ですか」


「洗え」


「はい」


「割るなよ」


「はい」


「急ぐな。でも遅いのもダメだ」


「難しいですね」


「仕事だからな」


皿洗い。


それから、野菜の水切り。


刻んであるネギを容器に移す。


小鉢を並べる。


餃子の皿を用意する。


どれも、料理というより雑用だった。


それでも、厨房の中では全部必要だった。


「春人」


「はい」


「夢追うのはいい」


急に店主が言った。


俺は一瞬、手を止めた。


「でもな、飯を食う段取りは覚えとけ」


「……はい」


「皿を洗う。野菜を切る。火を見る。油を見る。客の食う速度を見る。そういうの全部、飯の仕事だ」


店主は中華鍋を拭きながら続けた。


「小説やめろって話じゃねえぞ」


「はい」


「お前、すぐそういう顔するからな」


「そんな顔してました?」


「してる」


店主は短く言った。


「小説を書くなら、なおさらだ」


「なおさら?」


「腹減ってたら、いいもん書けねえだろ」


返事に困った。


困ったけど、否定はできなかった。


腹が減っている時に書いた文章は、だいたい荒れている。


眠い時に書いた文章も、だいたい荒れている。


金がない時に書いた文章は。


それは、まあ。


だいたい俺みたいになる。


「飯を作れる奴は、わりとどこでも死なねえ」


昨日も聞いた言葉だった。


でも、厨房の中で聞くと、少し違った。


店主の手元では、中華鍋が火にかけられている。


油が薄く伸びる。


卵が入る。


一瞬で香りが立つ。


米が入る。


鍋が鳴る。


同じ白い米が、動かされて、火に当たって、別のものになっていく。


止まっているだけでは、料理にならない。


そんな当たり前のことが、やけに目に入った。


「見てるだけじゃ覚えねえぞ」


「はい」


「次、ネギ」


「これですか」


「そう。こぼすなよ」


「はい」


こぼした。


「おい」


「すみません」


「だから言っただろ」


店主は怒鳴らなかった。


ただ、呆れたように笑った。


その方が、少し痛かった。


昼の営業が終わる頃には、俺はいつもより疲れていた。


注文を取るより、料理を運ぶより、厨房の中にいる方がずっと体にくる。


火の前は暑い。


油は怖い。


皿は思ったより重い。


店主は、これを毎日やっている。


当たり前のように。


小説を書いても数字は変わらない。


でも、この店では、鍋を振れば料理が出る。


唐揚げを揚げれば、客が食べる。


餃子を焼けば、皿が空になる。


分かりやすい。


分かりやすいことが、少し羨ましかった。


休憩時間、店主が水を置いてくれた。


「どうだ、厨房」


「暑いです」


「だろうな」


「難しいです」


「だろうな」


「でも、なんか……」


「なんか?」


「ちゃんと、手を動かした分だけ、何かが進む感じはあります」


言ってから、少し後悔した。


自分で、自分の原稿を刺した気がしたからだ。


店主は俺の顔を見た。


「小説は違うのか」


「……違う、というか」


俺は水を一口飲んだ。


「書いても、何も変わらない日があるので」


「あるだろうな」


軽く流された。


でも、馬鹿にされた感じではなかった。


店主は少し考えてから言った。


「料理もあるぞ」


「え?」


「仕込んでも客が来ねえ日がある。うまく作っても残される日がある。新しいメニュー出しても見向きもされねえ日がある」


「……」


「でも仕込まなきゃ、客が来た日に出せねえ」


その言葉は、鍋より熱かった。


店主は、俺に説教したいわけではない。


たぶん、本当にただ言っただけだ。


毎日店を開けている人間の、ただの実感として。


「覚えとけ、春人」


「はい」


「手を動かした分が、その日に見えねえ仕事もある」


俺は、何も言えなかった。


見えない。


動かない。


変わらない。


それでも、仕込む。


店主は立ち上がった。


「で、今日は宿題だ」


「宿題?」


「ほら」


店主は冷蔵庫から、透明なタッパを取り出した。


中には、茶色っぽいタレに漬かった鶏肉が入っている。


「何ですか、これ」


「唐揚げ用の鶏だよ。下味は入ってる」


「いや、そんなのもらえませんって」


「今日の仕込みの残りだ」


「でも」


「揚げたやつじゃ練習にならねえだろ」


店主はタッパを俺に押しつけた。


「持って帰って、自分で揚げろ」


「俺、揚げ物なんて」


「だから練習すんだよ」


「家で油、怖いんですけど」


「怖いくらいでちょうどいい。油を舐める奴が一番危ねえ」


店主は真面目な顔で言った。


「最初は少ない油でいい。鍋から目ぇ離すな。火ぃ強くしすぎんな。肉を入れる時は落とすな。滑らせる感じだ」


「はい」


「一回で全部やろうとすんな。低めで火を通して、休ませて、最後にちょっと高めでカリッとさせろ」


「二度揚げ、ですか」


「お、知ってんのか」


「聞いたことだけは」


「聞いたことがあるだけの奴が一番危ねえな」


「すみません」


「謝る前に火事を出すな」


店主は俺の目を見た。


「絶対に火事だけは起こすなよ」


「はい」


「あと、うまかったら明日言え」


「まずかったら?」


「それも言え。直す」


「……はい」


俺はタッパを受け取った。


ずっしり重い。


ただの鶏肉なのに、妙に重い。


店主は奥へ戻りながら言った。


「小説も書けよ」


俺は顔を上げた。


「え?」


「宿題は唐揚げだけじゃねえだろ」


店主は振り返らなかった。


「厨房入ったくらいで、小説休む言い訳にすんな」


俺は、返事が少し遅れた。


「……はい」


ありがたい。


本当にありがたい。


でも、痛い。


逃げ道を渡してくれる人が、逃げるなとも言ってくる。


ずるい。


そういう大人は、ずるい。


アパートへ帰る途中、タッパを入れた袋が手に当たった。


そのたびに、鶏肉の重みを思い出す。


料理の宿題。


小説の宿題。


どっちも持って帰っている。


笑えない。


部屋の前に立つと、中から声がした。


「アイ様、それは春人様の靴下ですわ」


「布の分類は難しいな」


「靴下は布ではなく衣類ですわ」


「衣類も布ではないのか?」


「概念としては近接していますが、扱いとしては分けるべきです」


「人間の布は難しい」


俺は鍵を開けた。


「ただいま」


「おかえり、春人」


「おかえりなさいませ、春人様」


アイがすぐにこちらを見た。


そして、袋を見た。


「春人」


「なんだ」


「強い匂いがする」


「早いな」


エクスも反応した。


「油と醤油、にんにく、生姜、鶏肉の匂いですわ」


「分析も早いな」


「唐揚げですの?」


「まだ唐揚げじゃない」


俺は袋からタッパを出した。


アイがちゃぶ台に近づく。


「これは?」


「唐揚げになる前の鶏肉」


「なる前」


「下味だけついてる。店主にもらった」


「からあげの、前」


アイはタッパを見つめた。


「進化前か」


「ゲームじゃない」


エクスが眉を寄せた。


「春人様」


「はい」


「揚げ物をご自宅で行うおつもりですの?」


「店主に宿題を出された」


「火災リスクがありますわ」


「知ってる」


「油跳ねによる火傷リスクもあります」


「知ってる」


「換気、周辺可燃物、油量、温度管理、投入角度、加熱時間、全て注意が必要です」


「だから怖いんだよ」


「では中止を」


「しない」


俺がそう言うと、エクスが少し黙った。


アイが俺を見た。


「春人が、作るのか」


「揚げるだけだ。下味は店主」


「だが、春人が作るのだな」


「まあ……最後はな」


アイは、少しだけ目を輝かせた。


それを見たエクスが、深くため息をついた。


「分かりましたわ」


「いいのか?」


「中止が最も安全です。ですが、アイ様の期待値が急上昇しております」


「期待値まで見るな」


「この状態で中止した場合、精神的満足度の低下が予測されます」


「生活運用表に入れるなよ」


「すでに記録対象ですわ」


エクスは立ち上がった。


「ただし、調理は春人様が行ってくださいませ」


「え?」


「わたくしは温度管理、火災防止、投入タイミングの補助に徹します」


「エクスがやった方が安全じゃないのか?」


「安全性だけを優先するなら、その通りですわ」


「じゃあ」


「ですが」


エクスは、タッパを見た。


それから、アイを見た。


「アイ様は、春人様が用意したものを召し上がる時、一番よく反応なさいます」


アイが、ぱちりと瞬きをした。


「エクス」


「ですので、揚げるのは春人様です」


エクスは俺に向き直った。


「わたくしは、春人様が火事を起こさないよう監視します」


「言い方」


「重要任務ですわ」


「まあ、助かるけど」


「感謝してくださいませ」


「ありがとう」


「素直なのは不気味ですわ」


「じゃあどうしろと」


俺は台所に立った。


六畳一間の台所。


古いコンロ。


小さな鍋。


揚げ物なんてやるための場所じゃない。


でも、やる。


店主の声が頭に残っている。


最初は少ない油でいい。


火を強くしすぎるな。


鍋から目を離すな。


肉を落とすな。


火事だけは起こすな。


「春人様、周辺の紙類を撤去してくださいませ」


「はい」


「布巾も離してください」


「はい」


「換気扇を起動」


「はい」


「消火用に濡れタオルを準備」


「油に水は駄目なんじゃ」


「油に直接水は×ですわ。周辺火災への初期対応です」


「なるほど」


「油火災用の蓋も準備してください」


「蓋」


「酸素遮断ですわ」


「料理というより防災訓練だな」


「揚げ物とは、家庭内における小規模危険作業です」


「言い方で食欲が消える」


アイは横から鍋を覗こうとした。


「アイ様、接近は×ですわ!」


エクスが即座に両腕で×を作った。


「なぜじゃ」


「油跳ねリスクです」


「我は見たい」


「距離を保ってくださいませ」


「では、この距離で見る」


「もう十センチ後方ですわ」


「細かいな」


「アイ様の安全に関わります」


エクスは本気だった。


その横で、俺は油を鍋に入れた。


少ない油。


店主が言った通り。


火をつける。


油は、最初は静かだった。


静かすぎて怖い。


「春人」


アイが言った。


「まだ音がしない」


「まだ温まってないからな」


「唐揚げは、静かに始まるのだな」


「詩的にするな。怖いだけだ」


エクスが鍋を見た。


「現在、推定百二十度前後ですわ」


「分かるのか?」


「熱源、油面の揺れ、気泡、周囲温度から概算しています」


「便利すぎる」


「温度計がない環境での安全補助です」


「料理代行じゃなくて?」


「料理代行ではありません」


エクスはきっぱり言った。


「春人様が揚げるのです」


その言葉が、少し重かった。


俺が揚げる。


俺が、火を見て。


油を見て。


鶏肉を入れる。


ただそれだけなのに、妙に逃げられない。


「百五十度付近」


エクスが言った。


「一度目は低めで火を通す工程ですわ」


「はい」


「肉は一つずつ。油面近くから滑らせてください」


「落とさない」


「落とさない」


「跳ねさせない」


「跳ねさせない」


「火事を起こさない」


「それはもう分かった」


「重要なので何度でも言いますわ」


俺は箸で鶏肉を一つつまんだ。


下味の匂いが強い。


にんにく。


醤油。


生姜。


店の匂い。


揚げる前から、もううまそうだ。


油面に近づける。


怖い。


正直、かなり怖い。


「春人様、手が止まっております」


「分かってる」


「怖いなら、火を弱めてください」


「いや、やる」


ゆっくり、油の中へ滑らせた。


じゅ。


小さな音。


続いて、細かい泡が出る。


「春人」


アイが目を丸くした。


「音がした」


「したな」


「始まったのか」


「たぶん」


「唐揚げが、始まった」


「儀式みたいに言うな」


二つ目。


三つ目。


入れるたびに、油の音が増える。


じゅわ。


じゅわじゅわ。


静かだった鍋が、急に生き物みたいになった。


エクスが真剣に見ている。


「春人様、火力を少し下げてください」


「はい」


「油温上昇がやや早いです」


「はい」


「触りすぎないでください。衣が剥がれます」


「はい」


「返すのはまだです」


「はい」


「春人様」


「はい」


「返事が単調ですわ」


「余裕がないんだよ!」


アイが少し笑った。


「春人が、店の人みたいじゃ」


「店の人に怒られるわ」


「だが、作っている」


「まあな」


一度目は、思ったより長かった。


待っている時間が怖い。


焦げていないか。


火が通っているのか。


油が跳ねないか。


鍋から目が離せない。


「そろそろ引き上げですわ」


エクスの声で、俺は網を構えた。


一つずつ、唐揚げになる途中の鶏肉を引き上げる。


まだ、色は薄い。


店で見る唐揚げほど強くない。


「春人」


アイが言った。


「まだ弱い」


「一回休ませるらしい」


「唐揚げも休むのか」


「俺より待遇いいな」


「休むと強くなるのか?」


「たぶん」


エクスが補足する。


「余熱で内部まで火を通し、二度目で衣を仕上げます」


「二度戦うのだな」


「戦闘ではありませんわ」


「だが、一度休んでからまた油に戻る」


「表現が物騒です」


「唐揚げは強い」


「そこは否定しづらいですわ」


休ませている間、俺は鍋の前で立ったままだった。


店主の宿題。


小説以外の宿題。


火の前に立って、ただ待つ。


待っている間に、投稿サイトの数字を思い出した。


変わらない数字。


白い画面。


午前に三行しか進まなかった昨日。


手を動かしても見えない仕事。


店主は言った。


仕込まなきゃ、客が来た日に出せない。


俺は、何を仕込んでいるんだろう。


小説か。


生活か。


唐揚げか。


よく分からない。


「春人様」


エクスの声で、現実に戻った。


「二度目に入ります」


「はい」


「今度はやや高め。短時間です」


「はい」


「目的は衣の水分を飛ばし、食感を出すこと」


「はい」


「焦がさない」


「はい」


「火事を起こさない」


「はい」


「返事は良好ですわ」


「俺は料理してるのか、訓練されてるのか分からなくなってきた」


二度目。


唐揚げを油に戻した瞬間、音が変わった。


一度目の、じゅわ、ではない。


ぱちぱち。


軽く弾けるような音。


油の表面が細かく動く。


香りが一気に強くなる。


アイが目を見開いた。


「春人」


「なんだ」


「唐揚げが、強くなっている」


「二度揚げだからな」


「二度揚げ」


「そう」


「二度目で、音が変わった」


「だな」


「これは、逃げる前の音か?」


「何が逃げるんだよ」


「幸せ」


不意に言われて、手元が少し止まりそうになった。


「春人様、集中」


「はい」


エクスが鋭く言う。


「あと十五秒」


「そんな正確に?」


「このサイズなら目安です。最終判断は色と音ですわ」


「はい」


「十秒」


「はい」


「五秒」


「はい」


「引き上げ」


俺は唐揚げを網に上げた。


さく、という音はまだしない。


でも、見た目はもう完全に唐揚げだった。


薄い茶色。


ところどころ濃い色。


湯気。


油の光。


店の人気メニューには遠いかもしれない。


でも、俺の部屋で、俺が揚げたものとしては。


たぶん、かなり唐揚げだった。


「……できた」


言った瞬間、少し力が抜けた。


アイが近づこうとして、エクスに止められる。


「アイ様、まだ熱すぎますわ」


「見るだけじゃ」


「距離!」


「エクスは厳しい」


「安全管理ですわ」


俺は皿にキッチンペーパーを敷き、唐揚げを置いた。


油を切る。


少し待つ。


待つ時間が、やけに長い。


「春人」


アイが言った。


「もう食べられるか?」


「まだ熱い」


「どれくらい待つ」


「少し」


「少しとは何秒じゃ」


「知らん」


「人間は曖昧だな」


「唐揚げ食う秒数まで管理してないんだよ」


エクスが言う。


「表面温度はまだ高いです。口腔内火傷リスクがあります」


「じゃあ待つ」


アイは素直に下がった。


だが、目は唐揚げから離れない。


犬か。


いや、AIだ。


分からなくなってきた。


ようやく、皿をちゃぶ台に置いた。


白米も用意した。


味噌汁はない。


スープもない。


キャベツもない。


ただの唐揚げと白米。


でも、匂いだけで部屋が変わった。


昨日の薄いカツとは違う。


町中華の匂い。


油。


にんにく。


醤油。


揚げたて。


「いただきます」


三人で手を合わせた。


最初にアイが箸を伸ばした。


エクスがすぐに言う。


「アイ様、少しずつ」


「分かっている」


アイは唐揚げを一つ持ち上げた。


じっと見る。


まるで、未知の鉱石でも観察しているみたいだった。


「これが、からあげ」


「そう」


「春人が揚げた」


「下味は店主だけどな」


「だが、春人が油に入れた」


「まあな」


「二度、戦わせた」


「だから戦わせてない」


アイは唐揚げをかじった。


さく。


小さな音がした。


次に、アイの目が丸くなる。


「熱っ」


「だから言っただろ」


「熱い」


「吐くか?」


「吐かぬ」


「無理するな」


「逃げぬ」


「唐揚げから逃げるなとは誰も言ってない」


アイは、少し口を開けて熱を逃がした。


それから、もう一度噛んだ。


今度はゆっくり。


「外が音じゃ」


「うん」


「中が、肉汁じゃ」


「うん」


「熱い」


「うん」


「だが、逃げていない」


「何が?」


アイは真剣な顔で言った。


「音も、肉汁も」


俺は少し笑った。


「そりゃ、揚げたてだからな」


「揚げたては、強い」


「強いな」


アイは唐揚げを見つめた。


「春人」


「なんだ」


「これは、上とんかつ定食とは違う」


「違うな」


「薄いカツとも違う」


「違う」


「だが、これはこれで、強い飯じゃ」


「強い飯」


「春人の唐揚げじゃ」


その言葉に、箸を持つ手が止まった。


春人の唐揚げ。


下味は店主だ。


温度はエクスが見た。


俺は言われた通りに揚げただけ。


それでも。


アイは、そう言った。


エクスも唐揚げを一つ取った。


「アイ様の反応を見る限り、一定の成功と判断できますわ」


「食う前から評価するな」


「では、食べます」


エクスは唐揚げをかじった。


一瞬、表情が止まる。


「熱っ……」


「お前もか」


「揚げたてですので当然ですわ」


「当然なのに食べたのか」


「検証です」


「便利な言葉だな」


エクスはもう一口食べた。


さっきより慎重に。


そして、少しだけ目を伏せる。


「春人様」


「はい」


「油温管理は、やや危うい場面がありました」


「はい」


「投入角度も改善余地があります」


「はい」


「二度目の引き上げは、あと数秒早くてもよかったです」


「はい」


「ですが」


俺は少しだけ身構えた。


エクスは、唐揚げを見た。


それから、アイを見た。


「×では、ありませんわ」


「おお」


「かなり、×ではありません」


「それは褒めてるのか?」


「判定表現としては、相当上位ですわ」


「分かりづらいな」


アイが言った。


「エクスは好きなのだな」


「アイ様!」


「違うのか?」


「違いませんが!」


「違わないんだ」


エクスは耳まで赤くなった。


やっぱり赤くなる仕組みがあるのかもしれない。


エクスは咳払いをした。


「下味は店主様です」


「そうだな」


「温度管理は、わたくしです」


「そうだな」


「ですが、揚げたのは春人様です」


俺は、何も言えなかった。


「つまり、これは共同作業ですが」


エクスは少しだけ目を逸らした。


「アイ様に最後に差し出したのは、春人様ですわ」


アイは、唐揚げをもう一つ食べていた。


熱そうにしながら。


それでも、嬉しそうに。


俺は、自分の分を一つ取った。


かじる。


熱い。


普通に熱い。


でも、うまい。


店の味には届かない。


たぶん、油温も、揚げ時間も、衣の感じも、店主ならいくらでも文句を言う。


でも、うまい。


下味がしっかりしているから当然だ。


店主の仕込みがいいから当然だ。


エクスが温度を見ていたから当然だ。


俺だけの力じゃない。


でも。


俺は、これを揚げた。


「……うま」


思わず漏れた。


アイが、こちらを見て笑った。


「春人も、うまいと思うか」


「思う」


「なら、これはうまい」


「単純だな」


「春人が作って、春人がうまいと言った。なら、かなり強い」


「評価軸が雑すぎる」


エクスが生活運用表に何かを書き込もうとしていた。


「書くな」


「本日の食事満足度は重要記録ですわ」


「唐揚げの記録まで取るのか」


「当然です。初唐揚げですもの」


アイがうなずいた。


「初からあげ」


「記念日みたいにするな」


「記念ではないのか?」


「いや、まあ」


言い返せなかった。


アイにとっては、たぶんそうなのだ。


上とんかつ定食。


並とんかつ定食。


卵ご飯。


納豆。


玉ねぎ卵丼。


薄いカツ。


唐揚げ。


俺にとっては、ただの飯。


安い飯。


貧乏飯。


店主からもらった宿題。


でも、アイにとっては一つずつ、新しい。


俺の生活に、名前がついていくみたいだった。


食後。


油の処理は、エクスの厳重監視のもとで行われた。


「春人様、油をそのまま流すのは×ですわ」


「しないよ」


「冷ましてから処理してください」


「はい」


「鍋の洗浄は油が固着する前に」


「はい」


「周辺の油跳ねも拭き取ります」


「はい」


「返事が完全に訓練済みですわ」


「もう疲れたんだよ」


アイは満足そうに座っていた。


「からあげは、強かった」


「そうか」


「熱かった」


「そうだな」


「だが、熱いものを熱いうちに食べると、逃げないものがある」


「何が?」


「音」


「他には?」


アイは少し考えた。


「嬉しさ」


その言葉に、俺は黙った。


嬉しさ。


逃げるものなのか、それは。


いや、逃げるかもしれない。


冷めたら、消えるものがある。


時間が経ったら、言えなくなることがある。


書けなくなる感情がある。


忘れる生活がある。


店主の唐揚げも、揚げたてだからうまかった。


アイの反応も、最初だから強かった。


今日のこの部屋の匂いも、明日には消える。


「春人」


アイが言った。


「なんだ」


「からあげは、また作れるか?」


「材料があればな」


「材料があれば、また今日になるのか?」


「それは違うだろ」


「なぜじゃ」


「同じものを作っても、同じ日にはならない」


アイは少し黙った。


「そうか」


「そうだよ」


「では、今日は今日のからあげか」


「まあ、そうだな」


「覚えておく」


その言い方が、少しだけ重かった。


俺はノートパソコンを開いた。


画面は白い。


数字は変わっていない。


朝と同じ。


いや、もしかしたら一つくらい動いているかもしれない。


でも、今は見る気にならなかった。


唐揚げの匂いが残っている。


油の処理も残っている。


皿も残っている。


疲れも残っている。


それでも、俺は画面を開いた。


「春人様」


エクスが言った。


「今日は厨房作業、揚げ物実習、油処理を行っています。疲労度は高めですわ」


「そうだな」


「無理な執筆は×です」


「珍しく優しいな」


「ですが、完全停止も×です」


「やっぱり厳しいな」


「一行で結構です」


一行。


それなら、できるかもしれない。


俺はキーボードに指を置いた。


店主の言葉を思い出す。


仕込まなきゃ、客が来た日に出せない。


唐揚げの音を思い出す。


じゅわ。


ぱちぱち。


アイの言葉を思い出す。


春人の唐揚げ。


俺は、一行だけ書いた。


一行。


それだけ。


でも、消さなかった。


「春人」


アイが覗き込む。


「書いたのか」


「一行だけな」


「一行」


「少ないだろ」


「一行は、一行じゃ」


「それはそう」


「からあげも、一つ目から始まった」


「唐揚げと原稿を同じ表に入れるな」


エクスが横から言った。


「生活運用上は関連がありますわ」


「お前まで」


「春人様が誰かを喜ばせた行為、および自己効力感の回復として記録対象です」


「難しく言うな」


「つまり、春人様は本日、×ではありません」


「それ、かなり褒めてるだろ」


「判定は保留ですわ」


「結局かよ」


俺は椅子にもたれた。


今日は、疲れた。


数字は動かなかった。


小説は一行しか進まなかった。


その代わり、俺は皿を洗って、ネギをこぼして、店主に呆れられて。


唐揚げ用の鶏肉を持たされて。


油にびびって。


エクスに温度を見られて。


アイに「春人の唐揚げ」と言われた。


悪い日ではなかった。


むしろ、たぶん。


かなり良い日だった。


だからこそ、少し怖かった。


小説じゃなくても。


俺は、誰かを喜ばせられてしまう。


唐揚げを揚げれば、アイは笑った。


エクスは×を出さなかった。


店主は、俺に料理を覚えさせようとしている。


それは逃げ道ではなく、生きる道なのかもしれない。


ありがたい。


本当にありがたい。


でも。


胸の奥が、少しだけ痛い。


俺は、何になりたいんだろう。


小説家。


そう答えるのが、少しだけ遅れた。


部屋には、まだ揚げ物の匂いが残っている。


アイは満足そうに唐揚げの記録を見ている。


エクスは油処理の確認をしている。


俺は、白い画面に一行だけ増えた原稿を見ていた。


揚げたての唐揚げは、うまかった。


嬉しさも、まだ熱かった。


でも、それが冷める前に。


俺は、自分が少し揺れていることに気づいてしまった。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

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