第16話 カツのない日常
薄いカツの翌日。
冷蔵庫を開けたアイは、しばらく中を見ていた。
卵。
玉ねぎ。
豆腐。
納豆。
もやし。
昨日の薄いカツは、もうない。
あるわけがない。
薄かったし。
三人で食べたし。
最後の一切れは、アイが大事そうに食べた。
「春人」
「なんだ」
「昨日の匂いは、もうないのだな」
「カツの匂いか?」
「うむ」
アイは少しだけ残念そうにうなずいた。
「昨日は、油の音がした」
「今日はしないな」
「昨日は、衣もあった」
「今日はないな」
「今日は、静かな冷蔵庫じゃ」
「冷蔵庫に感想をつけるな」
アイは卵ともやしを見て、少し考えるように首を傾げた。
「だが、これも春人の生活なのだろう?」
俺は一瞬、返事に詰まった。
「まあな。毎日カツが出てくる生活ではない」
「そうか」
アイは小さくうなずいた。
「では、今日はカツのない春人の生活か」
「壮大に言うな。ただの貧乏飯だ」
「貧乏飯」
「覚えなくていい」
そこへ、エクスが横から冷蔵庫を覗き込んだ。
「本日の食材状況は、通常運用に戻っていますわね」
「通常運用って何だよ」
「卵、玉ねぎ、豆腐、納豆、もやし。価格効率重視の構成ですわ」
「褒めてるのか?」
「判定中ですわ」
「朝から判定するな」
エクスは冷蔵庫の中を確認したあと、なぜかちゃぶ台に紙を広げた。
きっちり線が引かれている。
項目。
時間。
備考。
判定。
嫌な予感しかしない。
「エクス」
「はい」
「これは何だ」
「生活運用表ですわ」
「生活運用表」
「はい」
「俺の生活が、行政資料みたいになってるんだが」
「生活を安定させるためには、可視化が必要ですわ」
「人の人生を表計算するな」
「春人様の場合、表計算でもしないと逃げますもの」
「ひどい信頼だな」
「信頼ではなく観測結果ですわ」
エクスは胸を張った。
表には、いろいろ書かれていた。
充電時間。
掃除日。
洗濯日。
紅茶支給条件。
プリン支給条件。
買い物予算。
執筆時間。
休憩時間。
自虐禁止。
最後の項目で、俺は止まった。
「自虐禁止って何だ」
「そのままですわ」
「生活運用表に入れる項目か?」
「最重要項目ですわ」
「他の家には絶対ないぞ」
「他の家には春人様がいませんもの」
「俺、特殊災害みたいになってるな」
アイが表を覗き込んだ。
「紅茶支給条件」
「見るな」
「春人の疲労が強い日。原稿進捗が停滞している日。自虐が三回を超えた日」
「三回で紅茶が出るのか」
「はい」
エクスが当然のようにうなずいた。
「ただし、自虐を目的とした紅茶要求は×ですわ」
「そんな不正受給しない」
「春人様なら、疲れている時にやりかねません」
「どんな信頼だよ」
アイはさらに表を見た。
「プリン支給条件」
「そこは見るな」
「春人の疲労が著しい日。アイ様の精神的満足度が低下した日。エクス判断で必要な日」
「最後、お前の裁量じゃないか」
「必要ですわ」
「プリン利権が発生してる」
アイは真剣な顔でエクスを見た。
「エクス」
「はい、アイ様」
「我の精神的満足度とは、どう測るのだ」
「主に表情、発話頻度、姿勢、食事反応、春人様への視線量などから総合的に」
「視線量まで測るな」
「重要指標ですわ」
アイは少し考えた。
「昨日の薄いカツは、精神的満足度が高かった」
「はい。非常に高水準でしたわ」
「今日は、まだ分からぬ」
「観測を継続いたします」
「するな」
朝から、なんなんだ。
カツはない。
プリンもない。
生活運用表はある。
終わっているのか、整っているのか分からない。
俺はノートパソコンを開いた。
画面には、昨日から少しだけ増えた原稿。
薄いカツの匂いは、もうほとんど残っていない。
代わりに、朝の部屋の匂いがする。
洗濯物。
古い畳。
冷蔵庫。
少しだけ紅茶。
そして、生活運用表。
「春人」
アイが隣に座った。
「今日は、何を書くのじゃ」
「それが分かったら苦労してない」
「分からないのに書くのか」
「そうだよ」
「人間の創作は非効率だな」
「今さらかよ」
俺はキーボードに指を置いた。
カーソルが点滅する。
昨日も見た。
一昨日も見た。
たぶん明日も見る。
こいつは毎日ここにいる。
俺より勤勉かもしれない。
「……」
書けない。
いきなり書けない。
朝から生活運用表を見せられたせいか。
カツの匂いが消えたせいか。
いや、匂いのせいにするな。
「春人様」
後ろからエクスの声がした。
「手が止まっておりますわ」
「静音清掃は?」
「まだ開始前ですわ」
「じゃあ始めてくれ」
「逃げましたわね」
「逃げてない。作業分担だ」
「言葉の使い方が巧妙ですわ」
「褒めてる?」
「×寄りですわ」
「出た、×寄り」
結局、午前中に進んだのは三行だった。
三行。
昨日の薄いカツより薄い。
いや、比べるな。
「三行」
アイが言った。
「言うな」
「三進行」
「その構文やめろ」
エクスは生活運用表に何かを書き込んだ。
「午前中の予定進捗としては不足ですわ」
「分かってる」
「ですが、ゼロではありません」
「……」
「判定は保留ですわ」
「保留ばっかりだな」
「春人様が確定判定を避ける行動を続けていますもの」
「俺のせいか」
「はい」
「即答するな」
昼飯は、玉ねぎ卵丼になった。
玉ねぎを薄く切る。
鍋に水とめんつゆっぽいものを入れる。
玉ねぎを煮る。
卵でとじる。
ご飯に乗せる。
完成。
肉はない。
カツもない。
親子丼でもない。
ただの玉ねぎ卵丼。
アイが丼を見た。
「昨日より、静かな飯じゃな」
「飯に静かとかあるのか」
「ある。昨日は油の音がした。今日は、玉ねぎと卵の匂いがする」
「まあ、地味だろ」
「地味」
「そこは否定しろ」
アイは一口食べた。
少し止まる。
「だが、甘い」
「玉ねぎな」
「卵もある」
「あるな」
「昨日のカツとは違う」
「そりゃ違う」
「だが、これはこれで、春人の飯だ」
俺は返事に困った。
「そんな大きくまとめるものじゃないぞ」
「そうか?」
アイはもう一口食べた。
「我は、春人が毎日何を食べていたのか、まだ知らん」
その言葉に、少しだけ手が止まった。
毎日何を食べていたのか。
そんなもの、俺だって大して覚えていない。
冷凍うどん。
卵かけご飯。
納豆。
豆腐。
もやし。
レトルトカレー。
安いパスタ。
たまに、並とんかつ定食。
上は、遠い。
「知っても面白くないぞ」
「面白いかどうかは、我が決める」
「強いな」
「春人の生活だからな」
そう言われると、逃げにくい。
エクスも玉ねぎ卵丼を食べた。
「……春人様」
「何だ」
「玉ねぎの火の入り方にばらつきがありますわ」
「はい」
「卵の固まり方もやや粗いです」
「はい」
「ですが」
「ですが?」
「味は、×ではありません」
「おお」
「褒めてはおりません」
「いや、今日のは褒めだろ」
「×ではないだけですわ」
アイが横から言った。
「エクスの×ではないは、だいたい好きだ」
「アイ様!」
エクスが少し慌てた。
「そのような単純化は×ですわ」
「では、嫌いなのか?」
「嫌いではありませんわ」
「なら、好き寄りだ」
「好き寄り……」
エクスは何か言い返そうとして、やめた。
そして、黙って丼を食べた。
耳が赤い……ように見えた。
アンドロイドの耳が赤くなる仕組みは知らない。
知らないが、そう見えた。
昼食後。
エクスは宣言通り、静音清掃を始めた。
本当に静かだった。
掃除機ではなく、布で拭く。
本を動かす時も、音を立てない。
洗濯物を分類する時も、俺の原稿メモらしきものには触れない。
そこはちゃんとしている。
ちゃんとしているのだが。
ちゃんとされると、それはそれで落ち着かない。
俺はノートパソコンの前に座ったまま、ちらちら見てしまう。
「春人様」
「はい」
「清掃を見ておりますわ」
「見てない」
「見ております」
「気になるんだよ」
「なぜですの?」
「俺の部屋が、俺より丁寧に扱われてるからだよ」
エクスの手が止まった。
「……それは、問題ですの?」
「問題というか」
俺は少し考えた。
「変な感じがする」
「変な感じ」
「今まで、適当に扱ってたものを、誰かが丁寧に扱うと、なんかこう……」
「自分が雑だったと分かる?」
「言語化が刺さるな」
「失礼しましたわ」
「いや、たぶん合ってる」
俺は画面を見る。
進まない原稿。
少しずつ片付く部屋。
生活運用表。
玉ねぎ卵丼の皿。
誰かがいると、生活は整う。
その代わり、生活がこっちを見てくる。
一人なら無視できた汚れも。
一人なら適当に済ませた飯も。
一人なら笑って流した疲れも。
誰かがいると、全部見える。
「春人」
アイが言った。
「なんだ」
「生活は、毎日違うのだな」
「そりゃそうだろ」
「昨日は薄いカツ。今日は玉ねぎ卵丼」
「どっちも安いな」
「だが、違う」
「まあな」
「どちらも、春人の生活なのだな」
俺は黙った。
アイは別に、深いことを言ったつもりではないのかもしれない。
でも、たまにこいつは、変なところで逃げ道を塞ぐ。
薄いカツの日。
玉ねぎ卵丼の日。
よく眠れた日。
光熱費に固まる日。
窓際で背中を出して怒られる日。
原稿が三行しか進まない日。
全部、生活。
全部、俺の。
いや、もう。
俺だけの、ではなくなりつつある。
夕方、俺はバイトへ向かった。
バイト先は、駅から少し外れた町中華だった。
古い赤いのれん。
油の匂い。
少しべたつく床。
昼時になると、近所の会社員と常連で席が埋まる。
俺の仕事は、注文を取って、厨房に伝えて、料理を運ぶことだ。
「チャーハン一つ、餃子一つ、唐揚げ定食一つです」
「おう」
厨房から、店主の低い声が返ってくる。
中華鍋が鳴る。
油が跳ねる。
皿が並ぶ。
この店の音は、分かりやすい。
注文が入れば、料理が出る。
料理が出れば、客が食う。
客が食えば、皿が空く。
俺の原稿みたいに、白いまま止まったりはしない。
店主は、俺が小説を書いていることを知っている。
別に、すごい夢として語ったわけじゃない。
履歴書の空白をごまかすみたいに、ぽろっと言っただけだ。
それでも店主は、笑わなかった。
「書いてんのか。なら、続けろよ」
最初にそう言った。
だから、俺はこの店でまだ働いている。
その店主が、今日は俺の顔を見て眉を寄せた。
「春人」
「はい」
「お前、最近顔色悪いぞ」
「え」
「寝てんのか?」
「寝ては、います」
昨日は、寝た。
布団が干されていたから。
だが、それを説明するわけにはいかない。
金髪美少女AIと黒髪美少女AIが家にいて。
光熱費が上がって。
窓際充電を禁止して。
特売豚バラでもやしの下に隠した薄いカツを作って。
生活運用表で自虐を禁止されています。
そんなことを言ったら、たぶん病院を紹介される。
「ちょっと、色々ありまして」
俺はそう言った。
店主は、少し黙った。
「小説か」
「……まあ、そんな感じです」
嘘ではない。
本当に、小説もある。
だが、それだけではない。
店主は、勝手に何かを納得したように、短く息を吐いた。
「そうか」
それ以上、店主は聞かなかった。
その優しさが、少し痛かった。
「無理すんなよ」
「はい」
「でも、手は抜くな」
「どっちですか」
「両方だよ」
店主は、鍋を振りながら言った。
「夢を追うのはいい。けどな、飯は食え。寝ろ。働く時は働け。どれか一つでも崩れると、全部崩れるぞ」
「……はい」
「あと、顔色悪い時は隠すな。客より先に俺が気づくからな」
「すみません」
「謝ることじゃねえよ」
店主はそれだけ言って、唐揚げ用の肉を油に入れた。
じゅわ、と音がした。
油の音。
昨日の薄いカツとは違う音。
でも、強い音だった。
「唐揚げ定食、上がったぞ」
「はい」
俺は皿を運んだ。
揚げたての唐揚げ。
白米。
スープ。
小鉢。
客が一口食べて、少しだけ顔をほころばせる。
それを見て、なぜかアイの顔が浮かんだ。
外が音で、中が肉汁。
たぶん、あいつならそんなことを言う。
エクスなら、油温と火加減に何か言う。
俺は少しだけ笑いそうになって、慌てて表情を戻した。
バイト後。
店を出る時、店主がまた声をかけてきた。
「春人」
「はい」
「今度、少し厨房も手伝え」
「え?」
「注文取るだけじゃなくてな。手も動かせ」
「いや、俺、料理なんて家で適当に作るくらいで」
「だからだよ」
店主はタオルで手を拭いた。
「小説やめろって話じゃねえ」
「……」
「ただな、飯を作れる奴は、わりとどこでも死なねえ」
その言葉は、妙に重かった。
「夢を追うにしても、腹は減るだろ」
「……はい」
「だったら、腹を満たす側の仕事も覚えとけ」
店主はそれだけ言って、奥へ引っ込んだ。
俺は、しばらく店の外で立っていた。
ありがたい。
本当にありがたい。
店主は俺を馬鹿にしているわけじゃない。
むしろ、ちゃんと見てくれている。
小説がうまくいかなくても。
飯を作れる人間なら、どこかで生きていける。
そういう逃げ道を、俺の前に置こうとしてくれている。
それが分かるから。
少し痛かった。
帰り道、店主の声が残っていた。
『お前、最近顔色悪いぞ』
顔色が悪い理由は、一つではない。
バイト。
原稿。
生活費。
光熱費。
食費。
そして、家にいる二人。
俺は、それを誰にも説明できない。
説明できないまま、アパートの階段を上った。
ギシ。
ギシ。
部屋の前に立つ。
中から声が聞こえた。
「アイ様、そちらは洗濯済みですわ」
「これは?」
「春人様の部屋着ですわ」
「春人の布か」
「言い方が×ですわ」
「布ではないのか?」
「衣類ですわ」
俺はドアの前で少しだけ止まった。
帰ってきたら、声がする。
数日前までなかったことだ。
うるさい。
面倒くさい。
金もかかる。
時間も削れる。
でも。
鍵を開ける手が、少しだけ軽かった。
「ただいま」
「おかえり、春人」
「おかえりなさいませ、春人様」
二人分の返事が返ってくる。
店主に言えなかった理由が、部屋の中にいた。
俺は靴を脱ぎながら、少しだけ息を吐いた。
「春人」
アイが俺を見た。
「疲れているな」
「まあ、バイトだったからな」
「店の匂いがする」
「中華屋だからな」
「油の匂いじゃ」
「よく分かるな」
「昨日のカツとは違う。もっと強い」
「唐揚げも出たからな」
「からあげ」
アイの目が少しだけ動いた。
しまった。
新しい単語を与えてしまった。
「春人様」
エクスが横から言う。
「唐揚げとは、鶏肉に下味をつけ、粉をまぶして油で揚げる料理ですわ」
「説明するな」
「町中華においては人気メニューの一つです」
「さらに説明するな」
アイは真剣な顔で言った。
「春人」
「なんだ」
「からあげは、強いのか?」
「強いと思う」
「そうか」
アイは何かを記録するようにうなずいた。
「世界には、まだ強いものがあるのだな」
「大げさだな」
「我には、まだ新しい」
その言葉で、少しだけ胸のあたりが引っかかった。
アイには、まだ新しい。
薄いカツも。
玉ねぎ卵丼も。
唐揚げの匂いも。
ただいまに返事があることも。
俺にはただの生活で。
しかも、あまりうまくいっていない生活で。
貧乏で、疲れていて、原稿も進まない生活で。
それでも、アイにはまだ新しい。
夜。
夕飯は豆腐ともやしだった。
さすがに昼と同じ玉ねぎ卵丼をもう一回出す気にはならなかった。
アイは「これは静かな飯じゃな」と言った。
エクスは豆腐の価格効率を褒めた。
豆腐を褒める黒髪美少女AI。
なんだこの生活。
食後、俺はノートパソコンを開いた。
バイト後の体は重い。
目も少し疲れている。
店主の言葉も残っている。
『飯を作れる奴は、わりとどこでも死なねえ』
ありがたい。
痛い。
その両方が、まだ胸に残っている。
「春人」
アイが言った。
「なんだ」
「開いた」
「まだ書いてない」
「開かねば書けない」
「正論だな」
エクスが生活運用表を見た。
「本日の原稿進捗、午前三行。夜間目標、五行」
「勝手に目標を立てるな」
「合計八行なら昨日を上回りますわ」
「数字で追い込むな」
「数字から逃げるのは×ですわ」
俺は画面を見る。
書く。
一文字。
止まる。
また一文字。
消す。
また書く。
三行。
四行。
そこで止まった。
エクスが何か言いかけた。
だが、アイが先に言った。
「春人」
「なんだ」
「今日は、カツがなかった」
「そうだな」
「だが、四行ある」
「四行しか、だろ」
「四行ある」
アイは、まっすぐ言った。
「昨日は薄いカツがあった。今日はカツがない。だが、四行ある」
「カツと行数を同じ表に入れるな」
エクスが横から言う。
「本日の判定は、保留ですわ」
「また保留か」
「はい。カツはありませんでしたが、進行はありましたので」
「お前も同じ表に入れてるじゃねえか」
「生活運用上、重要な項目ですわ」
「カツが?」
「アイ様の満足度に関わります」
「原稿は?」
「春人様の生存意欲に関わります」
「重くするな」
でも、言い返しきれなかった。
原稿。
生活。
飯。
カツ。
バイト。
店主の言葉。
どれも、別々のようで、少しずつつながっている。
昨日の薄いカツが、今日の玉ねぎ卵丼を少し静かにした。
今日のカツのなさが、四行を少しだけ大事にした。
店主の言葉が、白い画面を少し重くした。
そういう日もあるのかもしれない。
俺は画面を見た。
今日の進捗、四行。
多くはない。
むしろ少ない。
バイトをして、飯を作って、片付けて、二人と話して。
そのあとに残った四行。
昔の俺なら、鼻で笑っていたかもしれない。
いや、今も少し笑いそうだ。
でも。
その四行は、消えていない。
「春人様」
エクスが言った。
「何だ」
「自虐しかけていますわ」
「まだ何も言ってない」
「顔が×寄りでした」
「顔の判定やめろ」
「自虐は禁止項目です」
「生活運用表に入ってるからな」
「はい」
俺はため息をついた。
そして、もう一行だけ書いた。
五行。
夜の目標には届いた。
午前と合わせて八行。
エクスが生活運用表に何かを書き込む。
「春人様」
「なんだ」
「本日の夜間目標、達成ですわ」
「おお」
「ただし、総合的には保留です」
「なぜだ」
「明日も継続できるか不明ですもの」
「厳しい」
アイは画面を見ていた。
「五行」
「夜だけならな」
「午前と合わせて八進行」
「その構文、やっぱり変だぞ」
「だが、進んだ」
「……まあな」
アイは少しだけ笑った。
「カツがなくても、進むのだな」
「毎日カツがあったら、財布が進まないからな」
「財布は進まない方がよいのか?」
「減るって意味だよ」
「難しい」
「難しくない」
俺はノートパソコンを閉じた。
今日は、もう書けない。
だが、完全に書けなかったわけでもない。
薄いカツはない。
プリンもない。
紅茶もない。
特別なことは、何もなかった。
ただ、生活運用表が増えて。
玉ねぎ卵丼を食べて。
バイト先で顔色を心配されて。
小説がうまくいかなかった時の逃げ道みたいなものを、少しだけ見せられて。
帰ってきたら、ただいまに返事があって。
原稿が八行増えた。
それだけ。
たぶん、これが日常なのだろう。
派手ではない。
強くもない。
薄いカツより、さらに薄い日。
でも。
「春人」
アイが言った。
「なんだ」
「明日は、明日の飯なのだな」
「まあ、そうだな」
「昨日は薄いカツ。今日は玉ねぎ卵丼と豆腐ともやし。明日は、まだ分からぬ」
「普通のこと言ってるだけなのに、なんか壮大だな」
「普通なのか?」
「普通だよ」
アイは部屋を見回した。
生活運用表。
畳まれた洗濯物。
空になった丼。
閉じたノートパソコン。
「春人の普通は、思ったより忙しいな」
「そうでもない」
「そうか?」
「たぶん」
アイは少しだけ考えてから、うなずいた。
「我には、まだ新しい」
エクスが生活運用表を畳んだ。
「明日は、買い物予算の再確認と原稿進捗の継続観測ですわ」
「明日も管理されるのか」
「当然ですわ」
「厳しいな」
「三人暮らしですもの」
三人暮らし。
その言葉にも、少しずつ慣れてきた。
慣れていいのかは分からない。
だが、少なくとも今夜。
六畳一間には、俺一人ではなかった。
カツのない日常。
金のない日常。
時間のない日常。
原稿が少ししか進まない日常。
それでも、誰かが「八進行」と変な言い方をして。
誰かが「保留ですわ」と腕を上げかける。
俺は布団を敷きながら思った。
上とんかつ定食は、まだ遠い。
本も、まだ遠い。
毎日カツがあるわけではない。
毎日、大きく進むわけでもない。
けれど。
今日の八行は、消えなかった。
それだけは、少しだけ。
カツがなくても、悪くなかった。
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