第15話 薄いカツ
エクスの×は、生活に馴染み始めていた。
馴染んでいいものなのかは分からない。
だが、実際、馴染み始めていた。
朝。
俺が冷蔵庫を開ける。
「卵、納豆、豆腐、もやし……」
「春人様」
「なんだ」
「食材の偏りが×ですわ」
出た。
朝イチの×。
エクスは当然のように両腕を交差させている。
黒髪美少女が、六畳一間の冷蔵庫前で、俺の食材管理に×を出している。
そろそろ俺の脳がこの状況を日常として処理し始めているのが怖い。
「もやしがあるだろ」
「もやしを全野菜代表にするのは×ですわ」
「庶民の味方なんだよ」
「味方を酷使するのも×ですわ」
「もやしに人権を与えるな」
アイも横から冷蔵庫を覗き込んだ。
金髪が光る。
俺のボロ冷蔵庫に、似合わないことこの上ない。
「カツがない」
「ない」
「今日もか」
「普通の家に毎日カツはない」
「そうか」
アイは少しだけ残念そうにした。
やめろ。
その顔をするな。
俺がカツを買ってこない悪人みたいになる。
「春人様」
エクスがこちらを見る。
「アイ様が落胆されていますわ」
「俺のせいか?」
「はい」
「即答するな」
「上とんかつ定食未履行、継続中ですわ」
「朝の冷蔵庫からそこに戻すな」
「戻りますわ」
エクスの腕が、また上がりかけた。
俺は手で止めた。
「もういい」
「何がですの?」
「その腕」
「×判定ですわ」
「分かってるよ。分かってるけど、多いんだよ」
「春人様に×が多いからですわ」
「俺の人生が通知欄みたいになってるな」
「未処理項目が多すぎますもの」
「うるさいな、腕バッテン女」
言った瞬間、部屋が止まった。
アイも止まった。
エクスも止まった。
俺も止まった。
……しまった。
心の中だけにしておくつもりだった。
いや、心の中でも失礼ではある。
だが、口に出すのはさらにまずい。
エクスが、ゆっくり俺を見る。
「春人様」
「はい」
「今、何と?」
「いや」
「何と、おっしゃいましたの?」
「聞き間違いでは?」
「わたくしの聴覚機能は正常ですわ」
「ですよね」
エクスは静かに両腕を上げた。
いつもよりゆっくり。
いつもより大きく。
「その呼称は、×ですわ!」
「悪かった」
俺はすぐ謝った。
さすがにこれは俺が悪い。
エクスは少しだけ拍子抜けした顔をした。
「……謝罪が早いですわね」
「悪いと思った時は謝るんだよ」
「春人様にも、その機能が」
「俺を旧式家電みたいに言うな」
アイが、ぽつりと言った。
「腕バッテン女」
「アイ様!?」
エクスが振り返る。
アイは真顔だった。
「言いやすい」
「アイ様まで!」
「だが、名はエクスだ」
アイは続けた。
「腕バッテン女は、機能説明だ」
「機能説明……」
エクスが複雑そうな顔をした。
怒っている。
たぶん怒っている。
しかし、アイに言われたせいで、強く×を出せない。
分かりやすい。
「春人」
アイが俺を見る。
「エクスはエクスだ」
「分かってる」
「腕バッテン女は、心の中だけにせよ」
「そこまで許可するな」
「心の中でも×ですわ!」
「すみません」
朝から、すでに疲れた。
朝飯は、納豆卵ご飯だった。
アイは納豆を見て「強い」と言い、エクスは「糸が×ですわ」と言いながら、結局きれいに食べた。
食後。
俺は冷蔵庫の中身をもう一度確認した。
何も増えていない。
当然だ。
冷蔵庫は夢の箱ではない。
「買い物に行くか」
俺が言うと、アイがすぐ顔を上げた。
「カツか?」
「違う」
「そうか」
また残念そうにするな。
「食材だよ。安いのを買いに行く」
「安いカツか?」
「カツから離れろ」
エクスが立ち上がる。
「わたくしも同行いたしますわ」
「監視か?」
「はい」
「正直だな」
「それに、予算内での食材選定が必要ですわ」
「それは助かる」
「ただし、春人様の選択には×が多いと予想されます」
「助かる前に疲れるな」
近所のスーパーへ向かった。
平日の午前。
店内はほどほどに空いている。
俺一人なら、ただの買い物だ。
もやしを見て、卵を見て、割引品を見て、財布と相談するだけ。
だが今日は違う。
金髪美少女AIと黒髪美少女AIが両側にいる。
しかも黒髪の方は、商品を見るたびに小さく腕を動かす。
「このトマトは高いですわ」
「声に出すな」
「この豆腐は価格効率が良好ですわ」
「それは助かる」
「この惣菜は割引前。×ですわ」
「店に怒られる」
「このもやしは○ですわ」
「○もあるのかよ」
エクスが片手で小さく丸を作った。
似合わない。
圧倒的に×の方が似合っている。
いや、言ったら怒られる。
「春人」
アイが精肉売り場の方を見た。
「肉がある」
「スーパーだからな」
「カツになる肉か?」
「なる肉もあるだろうけど、高い」
「高いのか」
「高い」
「現実は野蛮だな」
「その言い方、ちょっと気に入ってるだろ」
精肉売り場に近づく。
牛肉は論外。
豚ロースも、今日はちょっと重い。
鶏むね肉は安い。
ただ、アイの目は豚肉の方へ吸い寄せられている。
やめろ。
その目は財布に悪い。
そこで、俺は見つけた。
特売。
豚バラ薄切り。
量はそこそこ。
値段は、まあ、ギリギリ。
薄い。
めちゃくちゃ薄い。
だが、豚肉だ。
豚肉。
衣をつければ、カツになる。
たぶん。
いや、正確には、とんかつっぽいものになる。
「……」
俺はしばらく値札を見た。
買える。
今日なら、買える。
上とんかつ定食には遠い。
並とんかつ定食にも遠い。
でも。
家で、薄いカツなら作れるかもしれない。
「春人様」
エクスがこちらを見た。
「その顔は、何かを企んでいますわ」
「企んでない」
「目線が豚肉に固定されています」
「観測するな」
アイも近づいてきた。
「豚肉か?」
まずい。
このままだと、完全にバレる。
いや、別にバレてもいいのだが。
少しだけ驚かせたい。
本当に少しだけだ。
その時だった。
「いらっしゃいませー、ソーセージのご試食いかがですかー?」
店内に、明るい声が響いた。
アイの動きが止まった。
「ソーセージ」
「反応早いな」
エクスもそちらを見る。
「試食……購入前に食べる制度ですの?」
「そうだな」
「無料ですの?」
「まあ、販促だからな」
「無料で、食べ物が?」
エクスの目が少し鋭くなる。
「春人様、これは罠では?」
「スーパーの試食を罠扱いするな」
アイはもう試食コーナーを見ていた。
じっと。
かなりじっと。
焼かれたソーセージの匂いがする。
これは強い。
人間にも強い。
まして、味覚経験を集めている金髪美少女AIには、たぶん強すぎる。
「春人」
「なんだ」
「行ってよいか?」
「行ってこい」
アイは素直に試食コーナーへ向かった。
エクスも慌ててついていく。
「アイ様、お待ちください。試食制度には確認が必要ですわ」
「ソーセージだ」
「判断が早すぎますわ!」
試食コーナーのおばちゃんが、二人を見て目を丸くした。
そりゃそうだ。
金髪美少女と黒髪美少女が、真剣な顔でソーセージを見ている。
俺なら店員じゃなくても見る。
「あらまあ、可愛い子たちねえ。食べてみる?」
「うむ」
「アイ様、まずは安全性を」
「よい匂いだ」
「アイ様!」
おばちゃんは笑いながら、小さな紙カップに切ったソーセージを入れて渡した。
アイが食べる。
止まる。
「……」
「どう?」
おばちゃんが聞く。
アイは真顔で言った。
「皮が弾けた」
「そうそう、パリッとね」
「中から、肉汁が来た」
「あら、上手に言うわねえ」
「これは、強い」
「気に入った?」
「うむ」
おばちゃんが完全に嬉しそうな顔になった。
エクスも一つ受け取る。
「では、わたくしも観測を」
「はいどうぞ」
エクスが食べる。
少し目を見開く。
「……外側の抵抗から、内部の熱量が」
「難しいこと言うわねえ」
「ですが、悪くありませんわ」
「もう一つ食べる?」
「よろしいのですか?」
「いいのいいの。可愛いからサービス」
「可愛い」
エクスが少し固まった。
アイはもう二つ目を受け取っていた。
「春人。ソーセージは強い」
「分かったから、試食コーナーで結論を出すな」
「春人様もどうぞ」
エクスが紙カップをこちらへ差し出す。
「あ、いや、俺はいい」
今だ。
俺は二人とおばちゃんがソーセージに集中している隙に、豚バラ薄切りをカゴへ入れた。
その上から、もやしを二袋置く。
さらに豆腐を横に置く。
隠蔽完了。
……いや、何をしているんだ俺は。
普通に買えばいいだけなのに。
だが、ちょっとだけ楽しくなっていた。
「春人様」
エクスが戻ってきた。
「何か、今、不審な動きがありましたわ」
「ない」
「カゴの中に、もやしが増えています」
「もやしは○なんだろ」
「それはそうですが」
「なら問題ない」
「……」
エクスはカゴを覗き込もうとした。
俺は角度を変えた。
「春人様」
「なんだ」
「隠していますわね?」
「もやしを?」
「もやしの下を」
「疑いすぎだろ」
「春人様は、疑われる実績があります」
「どの実績だよ」
アイが横から言った。
「春人、ソーセージも買うのか?」
「今日は買わない」
「そうか」
「カツも買わないのか?」
「今日は……まあ、色々だ」
「色々」
アイが首を傾げた。
危ない。
こいつ、妙に鋭い時がある。
俺はそのままレジへ向かった。
会計は、少しだけ高くなった。
だが、外食三人分よりは全然安い。
レシートを見て、俺は自分に言い聞かせた。
これは必要経費だ。
たぶん。
帰宅後。
俺はすぐに台所へ向かった。
「春人」
アイが後ろから覗き込む。
「何を作るのじゃ?」
「飯」
「それは分かる」
「じゃあ座ってろ」
「匂いを観測する」
「近い。危ない」
エクスも横から来る。
「春人様、調理工程を確認しますわ」
「今日は確認しなくていい」
「なぜですの?」
「たまには黙って待ってろ」
「その指示は不自然ですわ」
「不自然でも待て」
俺はカゴからもやしを出す。
豆腐。
卵。
玉ねぎ。
そして、最後に豚バラ薄切り。
アイの目が光った。
「春人」
「なんだ」
「それは肉だ」
「肉だな」
「豚か?」
「豚だな」
「カツになるのか?」
「……なるかもしれない」
アイの表情が変わった。
明らかに期待の顔だった。
やめろ。
プレッシャーが強い。
「上か?」
「上じゃない」
「並か?」
「並でもない」
「では何だ?」
俺は豚バラを広げながら言った。
「薄いカツだ」
「薄いカツ」
アイが繰り返す。
「うむ。薄いカツ」
「まだ作ってない」
エクスが豚バラを見る。
「春人様」
「なんだ」
「これは特売の豚バラ薄切りですわね」
「バレたか」
「先ほど、もやしの下に隠していましたわね」
「バレてたのか」
「確信はありませんでしたが、今確定しましたわ」
「言わなきゃよかった」
エクスは両腕を上げかけた。
「食材を隠す行為は」
「サプライズだよ」
「……」
腕が止まった。
「サプライズ」
「嫌いか?」
エクスはアイを見た。
アイは豚肉を見ていた。
本当に、期待で目が輝いているように見えた。
エクスは、ゆっくり腕を下ろした。
「……アイ様が喜ぶなら、保留ですわ」
「判定、甘くなったな」
「アイ様に対しては常に適正ですわ」
「俺には?」
「厳正ですわ」
「知ってた」
俺は豚バラを数枚重ねた。
薄い肉を重ねて、少しだけ厚みを出す。
塩こしょう。
小麦粉。
卵。
パン粉。
ちゃんとしたとんかつとは違う。
肉は薄い。
脂も多い。
形も少し不安定だ。
それでも、衣をつければ、それっぽくなる。
フライパンに油を入れる。
揚げ焼きだ。
たっぷりの油で揚げる余裕はない。
だが、これでいい。
たぶん。
ジュッ。
油の音がした。
その瞬間、アイがぴくっと反応した。
「春人」
「なんだ」
「カツの匂いがする!」
「鼻、いいな」
「カツの匂いがする!」
「二回言うな」
「春人、これはカツか?」
「一応な」
「一応カツ!」
「喜ぶな。上じゃないぞ」
「だが、カツだ!」
アイが妙にそわそわし始めた。
金髪美少女AIが、フライパンの前でカツを待っている。
この絵面だけで、もう情報量が多い。
エクスも少し前のめりになっていた。
「衣の音が、並とんかつ定食とは異なりますわ」
「薄いからな」
「ですが、確かにカツ系統の音ですわ」
「音で分類するな」
「アイ様」
「うむ」
「これは、春人様が隠していたカツですわ」
「隠しカツ」
「変な単語を作るな」
片面が焼ける。
裏返す。
衣が、思ったよりいい色になっていた。
お。
悪くない。
ちょっとテンションが上がる。
「春人」
アイが言った。
「今、顔が少し得意そうじゃ」
「うるさい」
「成功しているのか?」
「まだ分からん」
「成功してほしい」
「俺もだよ」
エクスが小さく言う。
「失敗した場合は?」
「その時は、もやし炒めだ」
「保険がもやしなのは×寄りですわ」
「もやしは○じゃなかったのか」
「使い方によりますわ」
やがて、薄いカツが焼き上がった。
皿に千切りキャベツはない。
そんなものはない。
代わりに、もやしを炒める。
もやしを山にして、その横に薄いカツを置く。
白米。
味噌汁はインスタント。
ソース。
完成。
上とんかつ定食ではない。
並とんかつ定食でもない。
豚バラ薄切りの、ミルフィーユとんかつもどき。
薄いカツ定食。
いや、定食と言うには少し弱い。
でも、俺の部屋では十分だ。
「できたぞ」
アイとエクスが、ちゃぶ台の前に座る。
アイの視線は、カツから動かない。
「春人」
「なんだ」
「本当にカツだ」
「だから一応な」
「衣がある」
「あるな」
「ソースもある」
「ある」
「米もある」
「ある」
「味噌汁もある」
「インスタントだけどな」
「では、定食ではないか」
俺は少し黙った。
そう言われると。
まあ、そうなのかもしれない。
「上ではないぞ」
「うむ」
「並でもない」
「うむ」
「かなり薄い」
「うむ」
「特売だ」
「うむ」
「でも、カツだ」
アイは、そこで笑った。
「うむ!」
やめろ。
そんな顔をするな。
こっちまで変に嬉しくなる。
「いただきます」
「いただきますじゃ」
「いただきますわ」
三人で手を合わせる。
アイが、薄いカツを一切れ取る。
口に運ぶ。
さくり。
音は、ちゃんとした。
俺は少し息を止めた。
アイは、黙って噛んだ。
そして、目を開いた。
「……春人」
「どうだ?」
「薄い」
「正直だな」
「だが、重なっている」
「まあ、ミルフィーユっぽくな」
「肉が何層もある」
「薄いのを重ねたからな」
「衣がある」
「ある」
「ソースが強い」
「ソースは強いな」
「米が受け止める」
「それ前にも聞いた」
アイはもう一口食べた。
そして、今度ははっきり笑った。
「並とは違う。上でもない」
「うん」
「だが、とんかつはとんかつだな、春人!」
その言葉で、何かが少しだけ抜けた。
力が抜けた、というか。
胸の奥が、変に軽くなった。
上とんかつ定食ではない。
約束はまだ果たしていない。
こんなもので誤魔化せるわけではない。
分かっている。
分かっているけど。
アイが喜んだ。
俺が買った特売肉で。
俺がもやしの下に隠して。
俺が衣をつけて。
俺が焼いた、薄いカツで。
「……そうか」
俺はそれだけ言った。
たぶん、少し笑っていた。
エクスもカツを食べた。
上品に。
慎重に。
そして、しばらく考えた。
「どうだ?」
「判定が難しいですわ」
「そこまでか」
「衣はやや不均一。肉は薄く、成形も完全ではありません。油量も限定的で、揚げ焼きに近い」
「はい」
「ですが」
エクスは、アイを見た。
アイは、薄いカツを本当に嬉しそうに食べている。
「アイ様の満足度は、高いですわ」
「そこ基準なんだな」
「当然ですわ」
エクスはもう一口食べた。
「それに」
「それに?」
「春人様の生活範囲内で、約束に近づこうとした点は……」
少しだけ言葉が止まる。
「×ではありませんわ」
「おお」
「褒めてはおりません」
「いや、今のはだいぶ褒めてる」
「×ではないと言っただけですわ」
「それがお前の中の褒めだろ」
エクスは、少しだけ目をそらした。
「……保留よりは、上ですわ」
「○か?」
「そこまでは申し上げておりません」
「厳しいな」
「ですが、本日のカツは、×ではありませんわ」
アイが満足そうにうなずく。
「薄いカツは、×ではない」
「お前まで判定するな」
「春人」
「なんだ」
「また作れるか?」
「材料が安ければな」
「では、また安くなれ」
「肉に命令するな」
「特売になれ」
「スーパーに祈るな」
エクスが、少しだけ真面目な顔で言った。
「ただし、春人様」
「なんだ」
「このカツを上とんかつ定食の代替とすることはできませんわ」
「分かってるよ」
「約束は、上とんかつ定食です」
「分かってる」
「ですが」
エクスは、少しだけ声をやわらげた。
「今日のこれは、別のものとして記録されるべきですわ」
「別のもの?」
「はい」
エクスは皿を見た。
薄いカツ。
もやし。
白米。
インスタント味噌汁。
六畳一間のちゃぶ台。
「春人様が、今できる範囲で用意したカツですもの」
アイも頷いた。
「うむ。春人の薄いカツだ」
「その言い方、ちょっと情けないな」
「情けないのか?」
「いや」
俺は皿を見る。
薄い。
安い。
不格好。
でも、カツ。
「まあ、俺らしいかもな」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
何をいい感じにまとめているんだ。
こういうところが売れない原因なのかもしれない。
いや、今は考えるな。
カツが冷める。
三人で食べた。
薄いカツは、思ったよりすぐなくなった。
アイは最後の一切れをじっと見ていた。
「食べていいぞ」
「よいのか?」
「いいよ」
「春人は?」
「俺は作ってる時に味見した」
「それはずるいな」
「作った人間の権利だ」
アイは最後の一切れを食べた。
とても大事そうに。
エクスは、それを見て少しだけ笑っていた。
食後。
皿を洗い、ちゃぶ台を拭く。
油を使ったので、少し面倒だった。
現実は、カツを食べた後に洗い物を残す。
そこまで含めて現実だ。
アイは満足そうだった。
エクスはレシートを確認していた。
「春人様」
「なんだ」
「本日の買い物は、やや予算超過です」
「やっぱりか」
「ただし、外食三人分よりは大幅に低コストですわ」
「それはそうだな」
「アイ様の満足度を加味すると、費用対効果は……」
エクスは少し黙った。
「良好ですわ」
「お前が良好って言った」
「事実ですわ」
「記録しておこう」
「しなくてよろしいですわ」
アイが言った。
「記録する」
「お前はするな」
「薄いカツ。春人が作った。ソーセージは強い。もやしは○」
「情報が混ざってる」
「よい一日だった」
その一言で、俺は少しだけ黙った。
よい一日。
そう言われるほどのことをしただろうか。
スーパーに行った。
特売肉を買った。
もやしで隠した。
薄いカツを作った。
食べた。
それだけだ。
それだけなのに、アイはよい一日だと言った。
「春人」
「なんだ」
「今日は書くのか?」
「……書くよ」
「よい」
エクスが、すっと両腕を上げかけた。
俺は言った。
「今日は×なしで頼む」
「なぜですの?」
「カツを作ったから」
「理由としては弱いですわ」
「アイが喜んだだろ」
エクスの腕が止まった。
アイを見る。
アイは満足そうにしている。
エクスは少しだけ考えた。
そして、腕を下ろした。
「……では、本日は保留ですわ」
「助かる」
「ただし、十行未満なら明日に持ち越します」
「持ち越し判定やめろ」
「必要ですわ」
俺はノートパソコンを開いた。
画面には、昨日からあまり進んでいない原稿。
カーソルが点滅している。
相変わらず、圧がある。
でも今日は、部屋にカツの匂いが少し残っていた。
油の匂い。
ソースの匂い。
インスタント味噌汁の匂い。
安いプリンではなく、今日は薄いカツ。
上とんかつ定食ではない。
並とんかつ定食でもない。
それでも、とんかつはとんかつ。
アイの声が、妙に頭に残っていた。
『だが、とんかつはとんかつだな、春人!』
俺は少しだけ笑った。
「春人様」
エクスが言う。
「今、笑いましたわね」
「笑ってない」
「口元が○寄りでしたわ」
「○寄りってなんだよ」
「×ではないということですわ」
「やっぱり褒めてるだろ」
アイが横で言った。
「春人、書け」
「はいはい」
「薄いカツも、書けるか?」
「書かない」
「そうか」
「たぶん、まだ書かない」
自分で言って、少し引っかかった。
まだ。
今、俺は「まだ」と言った。
いつか書くつもりなのか。
分からない。
分からないけど。
薄いカツの匂いと、アイの嬉しそうな顔と、エクスの「×ではありませんわ」は、たぶんしばらく忘れない。
俺はキーボードに指を置いた。
一文字。
また一文字。
今日は、少しだけ進んだ。
十行には、届かなかった。
でも、五行よりは多かった。
エクスは最後まで×を出さなかった。
アイは横で満足そうに頷いていた。
俺は画面を見ながら、少しだけ思った。
上とんかつ定食は、まだ遠い。
本も、まだ遠い。
でも今日は。
特売の豚バラともやしの下から、薄いカツくらいは出てきた。
だったら。
遠いものに向かう途中にも、何かは作れるのかもしれない。
それが上でも並でもなくても。
とんかつは、とんかつなのだから。
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