モノローグと一人称地の文についての好み
最近のWeb小説を読んでいて、自分はどうも「主人公の内心が多いこと」そのものが嫌なのではないらしい、と気づいた。
最初は、出来事も会話も何もかも主人公の一人称視点で説明され続ける作品に違和感があった。
しかし考えてみると、問題は内心の量ではなかった。
自分が読みたいのは、内心のすべてではない。
内心には少なくとも二つの役割があると思っている。
一つは、その人物がなぜその選択をしたのかを示すもの。
どこで迷い、何を決断し、何によって変化したのか。
これは物語にとっての分岐点の記録であり、次に何が起きるのかという興味につながる。
物語の「引き」を作る内心だ。
もう一つは、その人物らしさを示すもの。
同じ景色を見ても何に目が行くのか。
同じ出来事をどう受け取るのか。
何度も反復される考え方の癖や認知の偏り。
そういうものを知ることで、読者はその人物を理解し始める。
次第に、
「この人ならこう考えるだろうな」
という予感が生まれる。
それは安心感でもあり、愛着でもある。
物語への「引き込み」を作る内心だと思う。
逆に、あまり惹かれないのは思考の逐次記録である。
何を見た。
何を思った。
次に何を思った。
さらに何を思った。
そうした思考のトレースログが延々と続くもの。
もちろん人間はそうやって考えている。
だが、それをすべて読むことが面白さになるとは限らない。
その思考が人物の変化を示すわけでもなく、その人物の個性を深めるわけでもないなら、ただの処理ログのように感じてしまう。
だから自分は、内心を減らしたいわけではない。
むしろ好きな内心はたくさんある。
ただ、それが「何を決めたのか」と「どんな人なのか」を語っていてほしい。
主人公の頭の中を全部知りたいのではなく、その人物の輪郭が見たい。
モノローグや一人称地の文に求めているのは、たぶんそういうことなのだと思う。
そして、おそらくこれは創作論というより、単なる読者としての好みである。
自分は説明される思考よりも、その人らしさと変化の痕跡を読むほうが好きらしい。




