薬歴その2 「薬剤師って惚れ薬作れるの?」
薬歴その2「薬剤師って惚れ薬作れるの?」
「薬剤師って何のためにいるの?」
「私なんて薬剤師に間違った説明された」
「薬剤師いらないから薬の値段安くして」
普段テレビなんてほとんど見ないのに、お風呂上りにふとつけたテレビで自称コメンテーターのおじさんやおばさんが大声で言っていた。
濡れた髪を乾かそうと思っていたけど、内容が気になってついつい最後まで見てしまった。けれども、結局何が言いたいのかわからなかったし、ただタレントたちが愚痴を言いたいだけに見えて、まったく面白みのない内容だった。終わってみれば気分が不愉快になる上に中途半端に乾いてしまった髪の毛を乾かしても、いつもよりパサパサになっただけで、うっかりテレビをつけた事を後悔した。
最近、薬剤師が批判される事が多くなっているのは事実だ。それは薬剤師のアピールが足りないからだと思っている。もっと薬剤師の事を知ってもらえれば批判される事は無くなると思う。かといって薬剤師でそこまでの発言力をもつ人なんていないし、私が政治家になって薬剤師の地位をあげようとか、政治で医療を変えようとか思わない。
それよりも、私の身近にいる人たちを変えていけば世界が変わる可能性があると思っている。私が大好きな映画のセリフで「私も世界の一部なんだから、私が変われば世界も変わる可能性があるでしょ?」。やっぱりまずは私が頑張る事、これが一番大事だ。明日も頑張ろう。そう思ってイライラした気持ちを明日へのやる気に切り替えて今日はゆっくり休む事にした。
八時半から薬剤課の調剤室で行われる朝礼が終わると、それぞれ持ち場に別れていく。私は一番最初に薬剤課を飛び出し、担当している東4階病棟へ階段で駆け上がる。よほど疲れていない限りエレベーターを使わない。その理由はエレベーターを待つ時間も惜しいからだ。病院のエレベーターは各階に止まる事もしょっちゅうあるからその時間が勿体無い。自分の足で駆け上がった方が断然早い。今日は4階まで三十二秒で駆けあがれることができた。まぁまぁのタイムだ。階段を上ると、目の前に東4病棟のスタッフステーションがある。すでに看護師さんたちは朝礼も終わり、業務を開始していて、パソコンで指示を確認したりケア表にたくさんのメモをしたり、点滴の準備などをしていた。
その中に私は大声で「おはようございます!」と挨拶をして入っていく。そうすると、みんな私に振り向いてくれる。少し声が大きすぎるのは自分でもわかっている。でも、それもわざとだ。自分がいる事をみんなに知らせるために大声を出している。
「おはよう、奈々ちゃん今日も元気だね」
「はい! 今日も元気です!!」
最初に話しかけてきたのは、リウマチ科の下田先生だ。三十八歳で三年前まで大学で臨床と研究をしていたが、臨床を極めようと医局を抜け当院に就職した。
「奈々ちゃん、朝一で悪いんだけど頼みたい事があるんだ」
私の朝一の仕事はたいてい下田先生からの問い合わせだ。九時にお迎えがきて退院する予定の患者さんがいる時にも空気を読まずに声をかけてくる。あえて私は今忙しいですよという雰囲気を作っていても、そんなものはお構いなしに。しかし、今日は退院する患者もいないので下田先生の問い合わせにも心からの笑顔で対応ができる。
「先生、今日は何ですか?」
「実はね、この間入院してきた強皮症の田中さんなんだけど、前に漢方薬を使った事あったみたいで結構効いたみたいなんだ。でも、その薬を特定できなかったから、奈々ちゃんちょっと田中さんに話を聞いて、何だったか教えて欲しいんだ」
「らじゃです」
私は下田先生に向かって小さく敬礼をする。
「分かり次第、患者限定で採用して使おうと思うから、よろしくね」
「はい!」
「じゃぁ、僕今日は外来だから、またね」
下田先生は右手を軽く上げてそう言うと、外来のある二階へエレベーターを使って降りていった。
さて、いきなり問い合わせ。強皮症に使う漢方薬とは何か。血流を良くする何かが配合された漢方なのだろうがさっぱり見当がつかない。調べてはみるけど、板橋先輩に頼る事になりそうだ。
板橋先輩はDI業務、いわゆる薬の情報提供を主に行う業務を行っていて、常に医薬品の情報を聴取していて、医薬品情報のプロフェッショナルだ。性格は良く言うとクールビューティーなので、近寄りがたいという人もいるが、私は凄くいい人だと思っているし、話しかけづらいとは思った事がない。それも、板橋先輩は私のプレセプターで新人の時に一年間教育係としてお世話になったからかもしれない。仕事にはめちゃくちゃ厳しいけれど、薬剤師としてのプロ意識はそこで培われたと思っている。「あなたこれくらい自分で調べなさいよ」とか「こんな事知らないで薬剤師やっているの?」とか、言われるけど最終的には力になってくれる。だから、自分で調べてわからない時にはついつい板橋先輩に頼ってしまう。今回もそうなりそうだなぁと思ってスタッフステーションを出ようとすると、白衣の袖をつままれた。
「奈々ちゃん、忙しいのにごめんね。昨日入院した椎名さんの点滴なんだけど、同じルートで大丈夫かな?」
下田先生の問い合わせもすぐに対応したかったけれども、同期の杏ちゃんに捕まってしまった。杏ちゃんは同期入職だけれども、私は薬学部六年卒で、杏ちゃんは専門学校卒なので私の三歳年下になる。それ以上に童顔で小柄なため、みんなに妹のように可愛がられている。そんな杏ちゃんの童顔キュートな困り顔を見せられて断れる人はいない。私は杏ちゃんが私の目の前に差し出した注射処方箋を覗き込み処方内容を確認した。
「炭酸水素ナトリウム点滴静注7%とリンゲル液ね。同じルートで大丈夫」
「ありがとう、さすが奈々ちゃんね」
「えへへ」
これぐらいの問い合わせは自信をもって即答しろ、と板橋先輩に言われた事を思い出す。それと、何かを聞かれたら聞き返すチャンスだともよく言われた。私は処方箋に記載された名前が見た事ない人だったので、情報を聴取しておくことにした。
「その椎名さんってどんな人?」
それとなく、私は杏ちゃんに質問返しをした。
「四十五歳の男性でめまいで入院。夜勤の先輩からは渋くてかっこいいって申し送られたんだけど、私はそれほどでもないと思うの。あっ、それとね、お薬関係の人みたいよ。でも薬剤師さんじゃないみたい」
看護師さん達の情報は早く、病気と関係ないような事もたくさん知っている。情報量は豊富だ。だから私はカルテを見るよりも先に看護師さんに話を聞いちゃうことも少なくない。そうしたほうがすぐに情報を得る事ができるけど、かっこいいかどうかという今は必要ない情報も同時にもらえるから、こちらから必要な情報は狙って引き出さなければならない。
「その人薬持ってた?」
特に今、私が必要なのは患者さんの医学的な情報と薬の情報だ。
「ううん。でも薬は飲んでたみたいよ」
「お薬手帳は?」
「ベッドサイドにあるよ」
「そっか、ありがとう」
とりあえず必要な情報は杏ちゃんから得る事ができたから、後でその椎名さんにも会いに行き、自覚症状と常用薬を確認しておかなければ。しかし優先順位の高さとしたら、頼まれごとである下田先生からの問い合わせが先だ。ついさっき駆け上って来た階段を今度は駆け下り一階にあるDI室に向かう。DI室のドアを開けると入口すぐに板橋先輩のデスクがあり、そこには板橋先輩がパソコンに向かいながら電話をしていた。
問い合わせ対応だろうか。それを横目に私は医薬品関連の棚で漢方薬の書籍を探した。ちょっと茶色くなった書籍を三冊ほど確認したが、求めているエビデンスは見つからなかった。しょうがなくDI室の奥、板橋先輩のデスクとは正反対の場所に設置されているパソコンで検索する事にした。
ブラウザを起動して検索サイトで「漢方薬 強皮症」と打ち込む。すると、漢方専門のクリニックや個人のサイトが表示されいくつか見てみたものの、それっぽい情報はない。午前中には問い合わせ以外にも前日の処方内容の確認もしたいし、あと一時間後には泌尿器科のカンファレンスもある。そう思うと気持ちに焦りが募り、だんだんイライラしてきた。
「片岡、問い合わせなの?」
私は板橋先輩の声に振り返る。板橋先輩は電話をガチャリと乱暴に置き、私に声をかけてくれたがこちらを振り向く事なくパソコンに向かって作業をしていた。いつも忙しいのにそれでも私を気にかけてくれるのがありがたい。
「下田先生からなんですけど、強皮症に使う漢方薬は何かって聞かれて」
「それで? 他には?」
「えっ、他に?」
「漢方薬の数字が何番だったか、とか、パッケージの色とか、聞かなかったの?」
漢方薬は薬ごとに数字が振られており、その一桁の数字でパッケージの色が決まっている。例えば葛根湯であれば、水色の円の中に1と記載されていて患者さんはその数字や色で覚えている事も多い。しかし、私は問い合わせの返答を急ぐあまり患者さんの所に行く事すらも忘れ、大事な事を聞きそびれていた。
「ちょっと、患者さんに聞いてきます」
私はすぐに患者さんの元へ向かおうとDI室を出ようとしたその時、
「人参養栄湯じゃないかしら」
と、言って板橋先輩はたった今プリンターから出力された私にA4の紙を差し出した。その紙には「全身性強皮症のレイノー現象に人参養栄湯が奏功した一例」と記載されていた。
「先輩、早いです」
「あなたね、これくらいすぐに検索できなくてどうするのよ」
私が一生懸命検索したのに、ほんの一瞬で欲しい情報を手に入れてしまうのだ。毎日DI担当として医師からの問い合わせをたくさん受けているからなのか。やっぱり板橋先輩はすごい。
「ありがとうございます」
「患者さんにもパッケージを見せて、これで間違いなかったかしっかり確認するのよ」
「はいっ!」
私は板橋先輩から渡された症例の紙と人参養栄湯の写真が印刷された用紙を持ってまた東4階への階段を駆け上った。到着するとちょうど泌尿器科のカンファレンスが始まるところで、慌てて席に着いた。残念だけど、漢方薬の確認はカンファの後だ。
カンファレンスでは治療方針の共有が行われる。また、普段気になっている事や自分の意見を医師に伝えるチャンスでもある。
尿路感染で入院し、敗血症になっていた重症患者は、入院直後状態も悪くメロペネムが使用されていたのだが、血液培養の結果別の抗菌剤であるレボフロキサシンにも感受性があることもわかっていた。加えて患者さんの体調も改善傾向であったため、変更を提案したところ採用してもらい、明日からレボフロキサシンの内服へ変更される事となった。
「ところで、レボフロキサシンで耐性菌は大丈夫かな?」
泌尿器科の百合丘先生が質問してきた。
今回の尿路感染の原因菌であった大腸菌はすぐに遺伝子を変化させ薬剤耐性を引き起こす。そのため、抗生剤を上手に使わないと耐性ができて、すぐに使えなくなってしまうのだ。
「うちのアンチバイオグラムは大腸菌ではまだ95%がレボフロキサシンに効果があるので大丈夫だと思います。私も状態を見ていきますので、状態が悪くなったら抗生剤をまた検討しましょう。それと腎機能はクレアチニンクリアランスでいうと48ml/分で添付文書上ぎりぎり減量基準に入りますけど、ここは減量せず一気に叩きましょう」
「わかった、そうしよう。じゃぁ、それでオーダしておくよ、ありがとう」
「いいえ」と、笑顔で百合丘医師に答えた。また一つ適正な薬物治療に貢献してしまったと、私はほくそ笑む。
これで泌尿器科のカンファレンスは終了。やっと、漢方薬を確認に行く事ができる。
私は先ほどの書類を握りしめ、田中さんの病室へ向かった。田中さんの病室は東四病棟の一番隅にある個室であり、私は三回ノックをして返事を確認してから入室した。
「田中さん、失礼します」
「あら、片岡さん」
田中さんは笑顔の素敵な小柄の女性で68歳になった今も旦那さんと一緒にもんじゃ焼き屋さんをやっている。
「今日は田中さんに確認したいことがあって来ました。以前、漢方薬使ってたって下田先生から伺って、それが何だったのかなぁと思って」
「えっと、先生からも聞かれたんですけど、思い出せなくてねぇ」
「もしかして、これじゃないですか?」
私は板橋先輩からもらった人参養栄湯が印刷してされた紙を見せた。
「これ、これ!」
田中さんは嬉しそうに指をさして言った。見事特定する事に成功。私はよしっと心の中でガッツポーズをした。
「あなたよくわかったわね。超能力でもあるの?」
「私、田中さんの手を握るだけでどんな薬を使ったかがわかるんです」
「あら、すごいじゃない」
田中さんは笑顔で私の肩をポンポン叩いた。
「ところで、最近手の症状はどうですか?」
私が尋ねると田中さんは私が見やすいように小さな手を広げて目の前に出してくれた。
強皮症という病気は病態が十分に解明されていない難病の一つだ。田中さんの場合は、強皮症の血流障害が起きており、手の血流が非常に悪い。そのせいで手のひらは白みがかっており、指の先端が壊死している。
「変わらないわね」
「そうですか、でもこの漢方薬を使えば良くなるかもしれません」
「そうね、それは今日からもらえるのかしら?」
「それがですね、当院に採用がないので、急げば一週間後くらいには使えるようになると思います」
「そう、じゃあそれまで待とうかしら。急いでもしょうがないしね」
田中さんは両手をさすりながら、笑顔で返事してくれた。
私は他に薬で困った事や気になっている事などないか、現在使用している薬で副作用が起きていないかなどを確認してスタッフステーションへ戻った。
するとちょうどよく外来を終えたところなのか、下田先生がパソコンの前で作業をしていた。
「下田先生、朝の問い合わせなのですが、漢方薬は人参養栄湯で間違いありません」
「ありがとう、早いね。驚いたよ」
「いえいえ、それとこれ。エビデンスです」
私は「全身性強皮症のレイノー現象に人参養栄湯が奏功した一例」が印刷された紙を手渡した
「エビデンスまで! 君はスーパー薬剤師だね」
下田医師はさらに驚いた表情を浮かべた。
「いやいや、これぐらい普通ですよ」
そう言いつつも、嬉し恥ずかしの表情は隠しきれない。
「ところで、先生。人参養栄湯は使用しますか? 院内に採用がないので、患者限定で採用すれば使えるのですけど、その場合申請書の提出が必要になりますし、実際に使えるようになるまでには約一週間かかります」
「んー、一週間か。しょうがないね。じゃぁ、申請書記載しておくよ」
「よろしくお願いします」
これで下田先生からの頼まれごとは完了。
さて、次の仕事は杏ちゃんが朝話していた昨日入院してきた椎名さんの薬の確認だ。電子カルテに入力された診察記事や基本情報を確認する。
45歳男性、昨日23時に一時的に意識を失い転倒。妻が救急要請。自覚症状は改善するも、精査目的に入院。BP:93/58、HR:83回/分、体温:36.3℃。軽度の頭痛あるが、CT上異常所見なし。明日、脳波測定後、耳鼻科へコンサルト。
血圧はやや低めだが、CT上異常がないという事は緊急性はなさそうだ。ということは、すぐに退院かなぁなんて思いながら私は田中さんの隣の個室部屋をノックした。
「どうぞ〜」という声を確認後ドアを開けて入室しようとすると、ドアが自動的に開いた。そこには綺麗な女性が立っており、彼女がドアを開けてくれたのだ。きっと椎名さんの奥さまなのだろう。見た目は三十代前半くらいに見える。三十代で淑女と呼ぶには失礼な気がするけど、気品があるという意味では十分に淑女と言える。
部屋の入り口で奥様に会釈を返してベッドのある奥まで少し足を進めると、ベッド上に椎名さんが座っていた。最初に思う事は確かに渋い感じの素敵な男性だが、私としてはそれほどでもない。杏ちゃんの言っていた事に激しく同意する。しかし、私のするべき事は男としての評価ではなく、薬と自覚症状の評価だ。
「椎名さん、初めまして。薬剤師の片岡です。こちらの病棟を担当していまして、お薬の事について確認しにきました」
「宜しくお願いします」
椎名さんは優しい笑顔で答えた。いや、やっぱり渋くてなかなかいいかもしれない。うちの薬局長もこれくらいカッコよければいいのに。
「椎名さん、お薬手帳はお持ちですか?」
「えぇ、持っていますよ」
椎名さんはベッドサイドの移動式テレビ台の引き出しからお薬手帳を取り出し私に差し出した。それを受け取り、内容を確認していく。
『フェキソフェナジン塩酸塩/塩酸プソイドエフェドリン配合錠』という鼻炎の治療薬と、『クラリスロマイシン』という抗生剤が呉耳鼻科から、『アゼルニジピン』という降圧剤が内田クリニックから数日前に処方されていた。
「副鼻腔炎ですか?」
「副鼻腔炎は通年であるね」
『クラリスロマイシン』は抗生剤であり基本的には感染症の治療に一日二回で使うのだが、一日一回で使用する時がある。それは副鼻腔炎に使用する時だ。『クラリスロマイシン』には抗炎症作用や分泌抑制や活性酸素の生成抑制、サイトカインの分泌制御、原因菌のバイオフィルムの形成阻害と言われていて、それを目的に使う場合が一日一回で良いとされる。
「それに、花粉症も。今月に入ってきてからだいぶ良くなってきたけど。先月は『フェキソフェナジン塩酸塩/塩酸プソイドエフェドリン配合錠』を毎日飲まないと鼻水が止まらなかったね」
『フェキソフェナジン塩酸塩/塩酸プソイドエフェドリン配合錠』は鼻水を止めてくれる成分が2種類配合されている。1種類が『フェキソフェナジン』という抗ヒスタミン剤で、アレルギー症状を抑えてくれる。そしてもう一つが、『塩酸プソイドエフェドリン』だ。これが、血管を収縮させて鼻水を止めてくれる。
そして、内田クリニックから処方されているアゼルニジピンは降圧剤だ。普段から血圧が高かったのだろうか。
「椎名さん、内田クリニックから降圧剤が処方されていますけれど、血圧は普段いくつぐらいですか?」
「薬始める前、血圧は140越すことがあったけど、薬を飲み始めてから100を切る事も多くてね」
「そうですか、それなら薬を減らしてもらったほうが良いかと思います。この薬を飲み始めてからふらつく事はありませんでしたか?」
「急に立ち上がろうとすると、立ちくらみになる事はたまにあったね。今回ほどじゃなかったけど……。それってもしかして薬のせいだったのかな?」
「たぶんそうだと思います」
血圧が低かったのはきっと薬のせいだろう。立ちくらみだって血圧が下がり過ぎたらよく起こる事だ。このままだと血圧が低いままなので、主治医の速水先生に常用薬を報告する時に薬の減量も提案してみよう。
「それと、他に薬はお飲みではないですか?例えば市販薬とかサプリメントとかも……」
「普段飲んでいるのはこれだけです」
普段服用している薬は以上……。でも、一瞬奥様のほうを見た気がする。気のせいだろうか。
「あと、アレルギーや薬で具合が悪くなった事はありませんか?」
「ないです」
「わかりました」
とりあえず、私が最低限聴取すべき事は以上だ。
私は椎名さんが自宅から持ってきた薬を一旦預かりし「これから宜しくお願いします」と頭を下げて、部屋を退出し自分のデスクのある東4病棟のスタッフステーションへ戻った。
一旦お預かりした薬を自分のデスクの上に広げて薬の数を数え、一つ一つ薬の用法・用量、処方元等を入力し、持参薬鑑別書という一枚の報告書にまとめる。この作業が案外面倒だ。しかも、この報告書の内容が間違えてしまうと薬を間違えて飲ませてしまう事になるので、患者さんの健康に関わる。面倒くさいわりに気が抜けない大変な仕事なのだ。しかも、気がつけばすでに十六時三十分を過ぎている。急がなければいけない。速水先生は生粋のスポーツマンで、仕事が終わると速攻で走って帰るため、十七時以降はほとんど院内にいないので、それまでに完成させ報告をしなければならない。
それに、忙しさですっかり今まで忘れていたけれども、今日の夜は大学時代から親友のユイカとご飯を食べに行く約束をしていた。だから、私も残業をするわけにはいかないと、超スピードでパソコンに打ち込んでいく。
「よし、できた!」
持参薬鑑別書を完成させ、プリントアウトすると、それを持って薬と一緒に薬剤課へ駆け下りる。薬剤課で別の薬剤師にダブルチェックをしてもらうためだ。
薬剤課では主に入院患者の薬の調剤を行っている。ここも常に忙しくて、とりあえず私の一番信頼している後輩「夏目ちゃん」にダブルチェックを依頼した。「はぁ〜い。おまかせくださぁ〜い」という可愛い返事をしてくるわりには、仕事をさせると想像以上のスピードで終わらせてくるから大好きだ。
「片岡さぁ〜ん、できましたぁ〜」
私がちょっとトイレに行って薬剤課に戻る間に、夏目ちゃんはダブルチェックを終わらせていて、先ほど渡した薬と鑑別書をゆるふわ笑顔で手渡された。私はその笑顔にちょっとだけ癒される。
「ありがとうね!夏目ちゃん!」
早速駆け出し、階段の途中で速水先生のPHSにコールする。
「持参薬鑑別書できました、確認をお願いできますか?」
「わかった、今病棟行く」
私がスタッフステーションに着くやいなや、速水先生が小走りで駆けてきた。このタイミングで出会うという事は医局から猛ダッシュで駆けてきた事になる。この先生はとっても仕事が早いというか、せっかちだ。必要な事だけ端的に伝えないと怒り出すから気をつけなければいけない。
「速水先生、持参薬鑑別書できました。降圧剤と副鼻腔炎の薬です。今回の入院の原因は薬かもしれません」
「それはわかっているんだよ。でも、ここまで下がりすぎるのは絶対におかしい。それとめまいと頭痛の原因もはっきりしないしね。明日、採血で内分泌異常が無いか確認して、あるようなら内分泌科にコンサル。それと脳波をとっててんかんの可能性を探る。めまいは耳鼻科にコンサルをするつもりだ」
ここまで一息もつかず一気にしゃべり続けた。なんという肺活量。速水先生はきっと水泳部だったにちがいない。ブーメランビキニだって似合いそうだ。
「降圧剤はどうしますか?」
「中止で」
と、言い終わる前に持参薬鑑別書にバツをつけ、「じゃ、よろしく」と言って小走りでスタッフステーションを出て行った。
「ふぅ」
嵐が去った。速水先生のスピード感に圧倒されてしまっていた。しかし、指示はもらえた。あとリーダー看護師にその旨を伝えて私の仕事は終了。壁にかけられた時計をみるとちょうど十七時。まだ残業している看護師さんにちょっと申し訳ないので、こっそりとスタッフステーションを出て更衣室に向かう。
さて、これからユイカと飲みに行くぞ、と意気込み急いで着替えて病院を出た。
病院を出て桜木町行きのバスに乗りこむ。目的地は野毛の居酒屋「鳥しげ」だ。ユイカの友達の実家だという事で行ってみたのがきっかけで、今ではすっかり行きつけになってしまった。焼き鳥はもちろん、カツオのたたきやなめろうなど、魚だって美味しい。飲み物も日本酒を豊富に揃えていて飽きる事がない。それに座敷席の落ち着いた感じは実家にいるような安心感があり、いつまでもおしゃべりが続く。「あなたまだ若いんだから野毛よりも桜木町やみなとみらいで飲んだらどうなの?」と、板橋先輩にいつも言われるが、私たちは野毛でサラリーマンの中で飲むほうが好きだ。小洒落たお店では大口あけて笑えないし、みなとみらいはデートや合コンの時に行けばいいし。でも、デートも合コンも今のところ予定はないけど……。
病院からはバスで十五分もすれば桜木町に到着する。そこから、観覧車を背にして野毛を歩き出した。ネオンに照らされた野毛小道の看板をくぐり、小道を進み、鳥しげの暖簾がかかった、玄関のような引き戸を右に開けるといつもの光景が広がる。
奥の座敷でユイカがジョッキを片手に持っていてもう始めているみたいだ。私はユイカに駆け寄る。
「ユイカお待たせ」
「奈々、先に始めちゃってたよ。何飲む?」
ユイカはよっぽどお腹がすいていたのか、生中片手に突き出しの枝豆を食べていた。
「とりあえずビールで」
私は掘りごたつを挟みユイカの向かいに座った。夜は寒くなるかもしれないと思って着てきたカーディガンを脱いで、たたみ終わろうとした時ビールが運ばれてきた。一杯目が速攻で来てくれるのがこの店の好きなところの一つだ。
「じゃぁ、乾杯しよっか」
「うん、じゃあ今日もお仕事お疲れ様でした〜」
カチャンと、私のビールとユイカのハイボールのジョッキが音を立てた。私はビールをジョッキ半分まで一気に流し込む。
「あ〜、美味しい」
ついつい声に出してしまう。自分がおじさんくさいなぁと思ってしまうのだけれども、周りはおじさんばかりだから気にする必要はない。
「ねぇ奈々。ちょっと聞きたいんだけど」
「なに?」
「薬剤師って惚れ薬作れるの?」
「え〜? 作れるわけ無いじゃん」
「そうなんだぁ」
ユイカは明らかに残念そうな表情を作っては顔に浮かべる。しかし、私はこの質問が気に入らない。
「ユイカ、薬剤師ってそういう仕事じゃないの!」
「あっ、ごめん怒った?」
「そりゃ怒るよ」
「奈々って薬剤師を馬鹿にされるとすごい怒るよね」
「だって、薬剤師大好きだもん」
私は薬剤師という仕事に誇りを持っている。冗談だとわかっていても、薬剤師の事は正しく知っていて欲しいのだ。でもそれ以上に気になることがある。
「ってか、作って誰の飲ませようとしているのよ?」
「えっ、ちょっと課長にでも……」
「課長!?」
前回の鳥しげ会でユイカはカミングアウトした。それは今年度になり異動してきた課長が気になっているという事。
前回は気になっているというレベルだったのだけれど、今回はもしかして「恋」に進んでしまったのだろうか。いや、これは「恋」ではなく「不倫」だ。
「でも、課長は既婚者でしょ?」
「そう、しかも奥さん超美人みたいなの」
「じゃぁ、諦めなよ」
ジョッキに半分残ったビールを飲み干し呆れながら答えた。
「でもね、まだ子供いないみたいなの」
「それは関係なく無い? あっ、ビールおかわりください」
私はちょうど通りすがった店員さんを見つけて二杯目を頼む。
「関係大有り! 子供がいなければ別れてくれるかもしれないじゃない。あっ、ハイボールもおかわりで」
続けてユイカも二杯目をオーダーした。
「はぁ? ユイカもうそこまでいっちゃってるの?」
ビールとハイボールのお代わりがドスンと目の前に置かれた。
不倫だ。完全なる不倫だ。
ワイドショーだけの話かと思っていたけど、こんな身近に不倫に落ちてしまう人がいたなんでショックすぎる。薬剤師を馬鹿にされた事も忘れるくらいにショックだ。
「もしもの話よ? もしもの。ただの私の妄想の話」
「本当に? 本当に本気じゃない?」
「やだなー、本気なわけないじゃーん」
惚れ薬の調製を依頼するとは妄想にしては、行き過ぎている気がする。これは早めに引き返させなければ修羅場が待っている気がする。
「でもね、昨日から課長お休みしているんだ。なんだか意識失って頭打ったみたいで」
「え? 転倒して頭打ったの?」
「そう、だから心配で」
私は嫌な予感がした。
「ねぇ、ひょっとしてなんだけど課長の名前って、椎名義弘さん……?」
「なんで知っているの!?」
ユイカは目を見開いた。ただでさえぱっちりな目がいつもの倍にもなりそうな勢いだ。
「うちの病棟に入院してるよ。今日も会ってきたし」
「え〜、早く言ってよ。お見舞い行ったのに」
「早く言ってって言われても、ユイカの課長の名前知らなかったし」
「今から行ってもいいかな?」
「ダメ、面会時間過ぎてるし。それ以上に迷惑でしょ?酔っ払った部下が夜中にお見舞いって」
「そうよね。じゃぁ明日行くから案内してよ」
「それならいいけど……。でも、奥さんいたよ? しかも超美人」
「え〜、テンションさがるー」
「ユイカ何しに行こうと思っているのよ」
「お見舞いだけど……。やっぱり、惚れ薬って本当に無理?」
「もういい加減にして!」
あははと二人で大笑いしたあと、私とユイカは三杯目の飲み物と串焼き盛り合わせ、カツオのたたき、明太子入りポテトサラダを注文した。こんなバカなおしゃべりができるのはユイカだけだ。ユイカは唯一無二の親友だからこそ素敵な恋をして幸せになって欲しいと心から思う。
「ねぇ、奈々は恋してないの?」
ユイカは明太子入りポテトサラダの明太子の無い部分だけを狙って食べながらそう言った。
「恋ねぇ」
恋なんてしばらくしていない。
思い返せば大学生に付き合った彼氏が最後だ。彼は大学のテニスサークルで部長を務めたさわやかイケメンで、少し強引な性格だったけれど、それも嫌いじゃなかった。でも、その彼とは卒業と同時に別れてしまった。彼が就職で地方に行く事になり、それについていく事が出来なかった。当時はついていく勇気が出なかった事にひどく後悔して泣き明かす日もあったたけど、今ではついていかなくて良かったと思う。その理由が今の仕事だ。今の病院に勤める事が出来て本当に幸せだと思っている。忙しくも充実した楽しい日々を過ごせているのだから。
「病院に素敵な先生とかいないの?」
「医者ねぇ……」
最初に思い浮かんだのが下田先生だったが、それは違うと思う頭を揺すって放出した。性格は穏やかで話しやすいけど、年は十も上だし、それ以上に空気を読めなさすぎる。もう少し空気を読める人の方が良い。
「いない」
「本当に?」
「本当に」
「じゃぁ、真澄ちゃんは?」
「真澄ちゃんは女子だし」
「性別は男だよ?」
「ありえないから」
真澄ちゃんは大学の同期の薬剤師で、私の職場のみなとみらい病院の向かいのクローバー薬局で働いている。いいひとなのだが、どうでもいいひとでもある。そして、おねぇキャラだ。といっても、私たちが無理やりキャラ付けしただけなんだけど。まぁ、とにかくありえない。
「もしさ、奈々に好きな人ができたら惚れ薬作って、余ったらちょうだい」
「だからさぁ〜」
私はまだ恋をしていない。それでも私は仕事で充実しているから良いのだ。
その後、私たちはくだらない話をしたと思うけど、全然内容は覚えていないし、多分覚えておく必要のない話だったと思う。
翌日、私が昼休憩から戻り、仕事やる気マックスの勢いで薬剤かから四階まで猛ダッシュで駆け上ると、スタッフステーションの前に大きな果物かごを持っている人がいた。顔は隠れていてわからないが、間違いなくユイカだ。ユイカは私との待ち合わせではしょっちゅう遅れてくるくせにこういうときはちゃんと時間を守る。
「ユイカ!」
と、声をかけると果物かごの横からユイカのひょっこりと顔が出てきた。
「奈々、来ちゃった」
来ると宣言していたので、来ちゃったというのは違うと思うが、「既婚者のもとに」来ちゃったという意味なら納得できる。
「それ、大きすぎない?」
「え?そうかなぁ」
ユイカはフルーツ盛り合わせを両手で抱えているが明らかに大きい。ユイカの顔が見えないくらいだから普通の人なら引くほど。
「しかも、千疋屋? いったいいくらしたのよ」
「数万円。でも、大丈夫。他のスタッフから少しずつ徴収したから。会社のみんなからのお見舞い品」
「いや、そういう問題じゃないと思うけど」
何も悪びれる様子もなく、素直に自分はとっても良い事をしているというような笑顔を浮かべる少女のようなユイカ。これほどまで自分に正直に生きられるならきっと相当幸せなのだろう。
「それより、早く行こうよ」
「でも、ちょっと待って」
私はフルーツ詰め合わせの中に数本入っている生絞り100%ジュースを見つけ、グレープフルーツジュースだけを抜いた。
「これはダメね」
「え?なんで?」
「薬と飲み合わせが悪いの」
「でも、課長グレープルーツジュース大好きなのに。毎朝飲んでるよ?」
「だからか……」
「えっ?」
私はアゼルニジピンの添付文書を思い出す。
・グレープフルーツジュースとの相互作用
健康な成人男子8例(23~40歳)にアゼルニジピン錠8mgをグレープフルーツジュースとともに単回経口投与したところ、水で服用した場合に比較してCmax及びAUCはそれぞれ2.5倍(1.6~3.2倍)、3.3倍(2.3~4.3倍)に増加した。
つまり、グレープフルーツジュースとアゼルニジピンを一緒に飲むと薬が効き過ぎてしまう事を意味する。
「椎名さんがアゼルニジピンっていう血圧を下げる薬を飲んでいるのだけど、その薬とグレープフルーツジュースが特に相互作用を起こすの。だから今回血圧が下がり過ぎたのはこのせいね」
「ふーん、その薬は今でも飲んでるの?」
「入院してからは止めているけど……」
「じゃあ、いいじゃん」
「だめ! また薬再開するかもしれないし、グレープフルーツジュースの効果は数日続く事もあるから、ダメ!」
「わかったよー」
口を尖らせて不満そうな様子だけれども、これは薬剤師としてストップをかけなければいけない事なのだ。というか、ダメなものはダメ。
「じゃぁ、奈々にあげる。私グレープフルーツ好きじゃ無いし」
「ありがたく頂戴いたします」
私は貰ったジュースをとりあえずステーションの自分のデスクに置いた。
「じゃぁ、行こうか。椎名さんのところ」
「うん」
私は椎名さんの部屋までユイカを案内する。すぐに到着しノックをすると、今日も素敵な奥様がドアを開けてくれた。
「どうも、主人がお世話になっています」
「こちらこそ、課長にはいつもお世話になっています。本島です。課長が急に入院したって聞いて、職場を代表してお見舞いに伺いました」
ユイカは持ち前の輝かしい営業スマイルと一緒に、椎名さんの奥さまへその大きすぎるフルーツ盛り合わせをお渡しした。
「こんなにたくさん。気を使わせてごめんなさいね」
椎名さんの奥様はそれにも勝る上品な笑顔で受け取った。ユイカは可愛いけれど、奥様ほどの気品は兼ね備えていない。本気でやりあった場合、部が悪いのではないかと思ってしまう。それとも、若さでアタックか? いや、そんな事にはなる前に食い止めたい。
「あなた、心配かけないでくださいね」
奥様がその大きすぎるフルーツ詰め合わせをサイドテーブルに置くと、椎名さんに優しい笑顔を向けた。
「もう何ともないよ。脳波も問題なかったし、耳鼻科の先生も大丈夫だって言っていたし、主治医の速水先生も明日には退院できるって」
「もう、課長心配かけないで下さいよー。みんな心配してたんですよー」
「ごめん、ごめん」
「あっ、そうだ。仕事の事なんですけどね……」
ユイカは椎名さんと少しだけ仕事の話をしたあと、あまりお邪魔してはいけないからもう帰ろっか、と私に言い病室をでた。
それまで、ユイカは終始笑顔で振る舞っていたが、病室をでた瞬間表情は沈んでいてうつむいて、奥さん素敵なひとだったねと、小声で言うと病院を後にした。
ユイカは本気で課長と付き合いたいと思っていたわけじゃないと思う。でも、好きな人に家庭があって、しかもそれがとても幸せそうに見えたら、やっぱり辛い思いはするだろう。そうは言っても結果的に不倫をせずに済んだのだから、これでよかったのだと思う。またあとで飲みに誘ってフォローしておかなければ。
さて、ユイカの事はとりあえず置いておいて、私は自分の仕事をしなければと思い、スタッフステーションに戻ると例によって下田先生が私の顔を見た途端、声をかけてきた。
「あっ、奈々ちゃん。強皮症の田中さんが肺高血圧症も併発してたみたいだから、タダラフィル使うよ。患者限定で申請書書いておいたから使える準備してもらっていい? あと、それとニフェジピンを明日の朝から使うから説明してもらってもいいかな? これから講演会の準備でさ」
「あっ、はい」
私は下田先生から「タダラフィル」の患者限定の医薬品採用申請書を受け取った。
肺高血圧症かぁ。全然わからないや。あとでDI室に行って勉強しくちゃ。でも、その前に田中さんにニフェジピンの話をしに行かなければ。
私は早速、明日の朝から開始になったニフェジピンの入った薬袋を持って指導に向かった。指導では、この薬は血圧を下げる薬である事を説明し、グレープフルーツとの相互作用や副作用では歯肉肥厚、めまいも起こることがあることを説明した。田中さんはしっかりしている方だし、理解が早いので指導はすぐに終わった。
田中さんに指導している間も椎名さんの事が気になっていた。
今回の入院の原因はアゼルニジピンとグレープフルーツジュースとの相互作用だけなのだろうか。降圧剤が効きすぎたのは間違いないと思う。でも降圧剤が効きすぎただけで、血圧が150台から90台まで落ちるだろうか。それに、椎名さんは何かを隠している気がする。あの時目をそらしたもの。
ダメだ。考えても答えは出ない。とりあえず、今日やるべき事をやろう。このあと、NSTで栄養のカンファレンスをこなし(またその時にも点滴の変更を提案し採用された)他の患者さんのラウンドにも行った。
気がついたら今日も十七時だった。
一通りの仕事を終えたので、リーダー看護師さんに下に降りる事を伝え、DI室に向かった。
DI室では今日も板橋先輩が一人で黙々と仕事をしており、邪魔しないようにそーっと横を通って四方に囲まれた薬品情報の棚からタダラフィルのファイルをあ行の棚から探す。それはすぐに見つかり、DI室の中心に置いてある机に置き1ページ目からめくっていく。ファイルの中身は添付文書、インタビューフォーム、メーカー資料と順にファイリングされている。その中でも一番わかりやすいメーカー資料から目を通し、薬の概要を確認していく。
「片岡、問い合わせ?」
板橋先輩はピクリとも動かなかったけれども、やっぱり私の気配に気づいていたのだ。
「いえ、今日は勉強です。あっ、そうだ。タダラフィルの患者限定申請書が出たのでお渡しします」
忙しくてすっかり申請書の事を忘れていた。私は下田先生から預かった薬の採用申請書を板橋先輩に手渡した。板橋先輩はそれをノールックで受け取り、山盛りになった書類の山の頂上に置いた。崩れそうで崩れない絶妙なバランスであり、私がくしゃみでもしたら雪崩のごとく崩れてきそうだから細心の注意を払わなければいけない。
私は机に戻ると、タダラフィルの資料をパラパラとめくりながら椎名さんの事を思い出す。病気の事はもう何も思いつかない事がわかったので考えるのは止めて、今度はユイカのあの落ち込みようをどうしようか考えていた。
やっぱり、ユイカのために惚れ薬を作ってみようか。
「あの、板橋先輩。惚れ薬って作れると思います?」
「すでにあるわ」
板橋先輩はキーボードをものすごいスピードで叩きながら、ノールックで答える。
「え!? どこに?」
私は驚き周りをキョロキョロとしたが、もちろんこんなところにあるわけもない。
「強心作用のある薬があるじゃない。例えばジゴキシンとか。それを飲ませればドキドキするから、私に気があると勘違いすると思わない? 吊り橋効果的な」
「ちょっと、何言っているんですか?」
私は焦った。こんな発想があったとは。胸のドキドキを自分のドキドキと勘違いさせるという吊り橋効果を使うとは目から鱗だった。いや、これは真似してはいけない。そもそも吊り橋効果じゃ惚れるとは違う気がするし……。
「他にもシルデナフィルだって、こっそり飲ませれば、自分に興奮してくれるでしょう?」
「だから、先輩!」
これはいささか直接的な効果だ。でも、先輩の言う事は間違っていない気もする。いやいや、これはダメ! こんなことしたら犯罪だから! 良い子は真似しないように。
「そういえば、この採用申請のタダラフィルって、シルデナフィルのお友達のタダラフィルと同成分なのよね」
「へぇー、そうなんだぁ」
「へぇー、そうなんだぁって、あなた勉強不足すぎるわ。ってか、この間勉強会したばかりじゃない」
「その日当直だったから勉強会でていなくて……」
「そんなの言い訳にならないわ」
「スミマセン……」
板橋先輩はこちらを見ていなくても、つい頭を下げてしまう。
「タダラフィルは相互作用も多いから気をつけなさいよ」
「相互作用……。あっ、椎名さんってもしかして」
私がある事に気がついた時、PHSが鳴った。下田先生からだ。
「奈々ちゃん? 田中さんに処方したニフェジピンなんだけど、降圧剤じゃなくてレイノー症状に使っているんだ。さっき田中さんのところいったら、降圧剤って説明されたって言われたって僕から訂正しておいたけど、片岡さんからも一言伝えてもらっても良いかな?」
「あっ、はい!すぐ行きます」
「よろしくね〜」
そう言って電話が切れた。
やってしまった。完全に間違った説明をしてしまった。
下田先生は怒ってはいなかったけど、信頼を失ったことは間違いない。それよりも、田中さんからの信頼を失ったことが大きいかもしれない。
「片岡、これね」
板橋先輩が速攻で印刷し資料を私に渡しに来た。今のやりとりを聞いていたのだろう。私がニフェジピンを強皮症のレイノー症状に使うことを完全に知らなかったこともお見通しだ。
板橋先輩がくれた紙の一枚目には強皮症ガイドラインと書かれて、二枚目にはニフェジピンがレイノー症状に効果があるという事が詳細に書かれている。ニフェジピンは通常高血圧の治療に使う。それは血管を拡張させる作用があるからだ。それで血流が良くなるというデータがあり、適応外で使用したのだ。
私は指導に行くときカルテもちゃんと見ていなかったし、血圧も確認していなかった。
しかし、今は後悔するときではない。いち早く田中さんに謝罪して説明し直すべきだろう。私は四階まで駆け上がり、田中さんの病室に向かった。
田中さんに謝罪の言葉を述べて説明仕直し、頭をさげるとそこには笑顔で「いいのよ」といつもの笑顔で答えてくれた。そして「あなたいつも頑張っているわね。飴あげるわ」と言って、引き出しから一握りの飴を私の手に乗せてくれた。田中さんのやさしさとその手の暖かさに、涙がこぼれそうになる。でも、今は仕事中だから泣いてはいけない。患者さんの前ではいつも笑顔で元気づけるのが私の仕事だもの。私は笑顔で「また来ますね」と言って、田中さんの病室を去った。
いつも階段は自分の足で降りるのに、帰りは階段を使う元気がなくて、エレベーターのボタンを押した。
エレベーターの中で私は数日前に見たテレビの内容を思い出していた。
「私、薬剤師に間違った説明をされた」
それをいやらしい顔で笑いながら大声で話す女性タレント、輪をかけて薬剤師の悪口をいうお笑いタレントたち。私はその説明を間違えた張本人だ。医師にも看護師にも患者さんにも認められてもらっている。自分は馬鹿にされるような薬剤師ではない。そう思っていた。しかし、現実は違った。私は完全に思い上がっていたのだ。
エレベーターが一階に到着し、ゆっくりとドアが開く。私は、とぼとぼとDI室を目指した。さっきまで勉強していたタダラフィルの資料を出しっぱなしにしてしまっていた事を思い出し、元にあった場所に戻さなくてはいけなかった。DI室のドアを開けるとすでに電気は消えており、板橋先輩専用のパソコンもシャットダウンされていて、出しっ放しにしていたはずの資料も綺麗に片付けられていた。
シンとしたDI室で私は一人で立ち尽くしてしまった。
今日の事を思い返すと一度に疲れが押し寄せてきたので、板橋先輩がいつも座っているイスに腰をかけた。パソコンは起動していないため画面は黒く、そこにはいつものような笑顔はなくて、情けない顔の自分が写っているだけだった。
私は私の顔を見たくなくて、ついパソコンを起動してしまった。まったくパソコンを使う理由なんてなかったけれども、私の顔が映らなくなるだけでよかった。
起動音が鳴り画面が表示される。
いつも板橋先輩の影に隠れて見えなかったパソコンの背景画像は五年前に撮った薬剤課の集合写真だった。二十人の薬剤師が調剤室に集まってみんな笑顔で写っている。私も右端にいてその右となりが板橋先輩だ。あの頃私は一年目の新人薬剤師で右も左もわからない中、板橋先輩は私のプレセプターとして私の指導をしてくれていた。いつも板橋先輩に怒られていたっけ。あの頃が懐かしい。あれから五年経ったけど、私もまだまだ一人前には程遠い。これからも頑張らなければ。こんな事をしていてもしょうがないと思ったのは、先ほど板橋先輩と話をした内容を思い出したからだ。
私は立ち上がったパソコンから添付文書を検索した。
タダラフィル、フェキソフェナジン塩酸塩/塩酸プソイドエフェドリン配合錠、アゼルニジピン。
椎名さんの服用していた薬の添付文書を調べては内容を確認する。
「やっぱりそうか……」
私は腕時計で時間を確認すると二十時十五分だった。少し遅いけど、消灯の二十一時までにはまだ少し時間がある。椎名さんの病室に行って話を聞く時間があると思い、椎名さんの部屋に向かった。
「どうぞ」
部屋のドアは今回は自動的には開かなかった。という事は椎名さん一人だ。隠し事もきっと今なら聞くことができる。
「こんばんは、薬剤師の片岡です。夜分にすみません」
私はドアを開け、部屋の入り口から椎名さんのベットまで足を進める。
「片岡さん、夜遅くまで大変だね」
ベッド上で椎名さんがいて、声をかけてくれる。穏やかな声色と優しい笑顔、それと気遣い。ユイカが好きになるのもわからなくはないと改めて思う。でも、私がこれから話す事はそういう事ではない。椎名さんの健康についての話だ。
「そうだ、片岡さん。明日退院になりました」
「そうですね、でも先生からは今回の入院の原因はなんて言われましたか?」
「薬の相互作用が原因で起立性低血圧になった可能性があると言われたけど、ここまで血圧が低下した原因は不明ですといわれました」
「実は、その事でちょっと確認したい事があって」
「何かな?」
椎名さんは少し怪訝な顔をした。
「私、椎名さんが入院した今回の事をハッキリさせたくて、単刀直入に聞きます」
私は一呼吸おいてから言った。
「お薬手帳に記載された薬以外で別のお薬を飲んでいませんか?」
数秒の沈黙が続いたあと、椎名さんは顔を上げて言った。
「君にはかなわないな」
やっぱり飲んでいた。ということは、薬はアレに間違いない。
「その薬って『タダラフィル』ではないですか?」
「薬も見てないのに、よくわかったね。凄いよ」
『タダラフィル』はED(勃起障害)の薬だ。あまり飲んでいる事を知られたくないから隠していたのだ。それに以前薬の聴取時に言っていた「普段は飲まない」という表現に嘘はないから、隠していたわけではないかもしれない。
「私、超能力があるんです」
と、言ってえへへと笑いつつももう一度真面目モードに切り替える。
「今回こうなってしまったのはその薬によるものなのかい?」
私は今回の件を最初から説明をする事にした。
「今回こうなってしまった原因は、全て薬の相互作用にあります」
「相互作用……」
「椎名さんは、副鼻腔炎でクラリスロマイシンを飲んでいます。それと、降圧剤のアゼルニジピンも。この二剤は相互作用があって、クラリスロマイシンが降圧剤の効果を強めてしまいました。加えて、椎名さんはグレープフルーツジュースがとても好きだとユイカから聞きました。これにも相互作用があって、薬の効果を強めてしまうのです。これでさらに血圧を下げる結果となりました」
「ジュースもダメなのかい?」
「ダメなんです。あと、タダラフィルは血管を拡張させます。それに、クラリスロマイシンにもアゼルニジピンも、グレープフルーツジュースも全部に相互作用があります。だから、血圧が100を切るほどになってしまったのだと思います。頭痛もタダラフィルが効きすぎて頭の血管が広がったせいだと思います」
「気にせず毎日ジュース飲んじゃってたよ」
「それに……」
「まだあるのか?」
「はい、そもそもタダラフィルを服用する事になった原因も薬にあったと思います」
「その原因も薬なのか?」
「たぶん、そうだと思います。椎名さんの花粉症治療薬のフェキソフェナジン塩酸塩/塩酸プソイドエフェドリン配合錠です。これは血管収縮剤が含まれています。それにより鼻水を止めるのですが、これが原因で血圧が上がり、降圧剤が増えたのだと思います。それに、この薬が原因で薬剤性のEDになってしまっていたかもしれません」
「というと……」
「勃起という現象は陰茎の血管が拡張する事により起こります。それを血管収縮剤が抑えてしまっていたのだと思います。うまくいかなかったのはその時期からではありませんか?」
「確かに言われてみれば、そうかもしれない。仕事のストレスなのかと思っていたのだけど、花粉症の薬が原因だったとはね」
椎名さんは腕を組んで「なるほどな」と唸る。
「そういえば、奥様にはタダラフィルの事を話しましたか?」
「いや、カッコ悪くてね。後で言おうとは思っていたのだけどね」
「そうですか。でも、今回の事、奥様は大変心配されていたと思います。思い切ってすべて話しませんか?」
「そうだね、妻にも心配かけたからね。すべて話す事にするよ」
「先生には私のほうから報告しておきますね」
「片岡さん、ありがとう」
椎名さんはちょっとばつの悪そうな顔をしていたけど、今回こうなった理由がわかって安心した様子にも見えた。
椎名さんの入院理由はこれで完全解決だし、あとはユイカのフォローだ。私はタイムカードを押し更衣室でカバンからスマホを取り出し、ユイカにメールをしようとすると、ユイカからメールがすでに来ていた。
「鳥しげで待ってます」
スマホの画面には「待ってるよ」の文字がついたぶさかわのニワトリスタンプが動いていた。私は急いで白衣から私服に着替え鳥しげへむかった。
私はバスで桜木町まで向かうまでの間、窓ガラスに映った自分の顔を見つめながら、今日の出来事を思い出してた。
相変わらず問い合わせやスタッフの対応で忙しい一日だった。それに加えて、田中さんの薬の説明を間違えて凹んだあと、椎名さんの原因を究明できた。自分を褒めていいのか反省すべきなのか、どちらも共存した気持ちであったけど、やっぱりそんなことどうでもよくって、また明日から頑張ればいいやと思って、バスの外に流れる景色に目を移した。
桜木町駅を出ると観覧車を背にして野毛へ歩き出す。観覧車やランドマークタワーは、これぞ横浜みなとみらいという夜景なのだけど、私にとっては野毛の昭和な飲み屋街のほうがやっぱり安心する。鳥しげのドアを開けると奥の座敷にユイカが見えた。テーブルの上にはハイボールと思われるジョッキが置いてあり、食べかけの料理も並んでいる。そこまでの窮屈な通路を半身でなんとか通り抜けユイカのテーブルに到着した。
「ユイカお待たせ!」
「あっ、奈々遅いから始めちゃったよ〜。それと一人じゃさみしいから真澄ちゃん呼んじゃった」
ユイカの向かいの席は入り口からは見えなかったけど、そこには真澄ちゃんが座っていた
「奈々ちゃんお疲れ様」
真澄ちゃんは男の割に白くて細い腕を上げて私に手を振る。その仕草だって実に女らしい。むしろ私より女子力高いと思える時さえある。
「真澄ちゃん久しぶり! ちょうどよかった。真澄ちゃんに言いたい事があるんだけど……」
「え〜、なぁに?」
「あんたのせいで患者さん入院したんだから!」
「え!? 俺のせい?」
「そう、椎名さんが入院したのは、真澄ちゃんのせいなの!」
ユイカも「え〜!?」という声を上げる。
私は今回の一連の出来事について事細かに説明した。
「椎名さんは確かに俺のかかりつけ患者さんだけど、タダラフィルの事は一言もいっていなかったよ?」
「ちゃんとすべて聞き出すのがかかりつけ薬剤師ってもんでしょ?」
「そうは言っても、うちで調剤していない薬だし……」
「かかりつけ薬剤師だったら、ちゃんと責任持ってね!!」
と言って、私は真澄ちゃんの肩をバンバンと叩いた。痛い痛いとリアクションするのがなんとも面白い。
「そういえば、片岡ってうちの朝倉と知り合いなの?」
「朝倉ちゃん? この間連絡先交換したけど」
「今日呑むって言ったら、片岡さんによろしくお伝えくださいって」
「朝倉ちゃん、うちの病院で叔父さん亡くしたのよね。あれから元気にしてる?」
「それがね、見違えたように仕事するようになったんだよ。今までは悩みながら仕事しているというか、ちょっと消極的で指名も全然とれなかったんだけどさ、患者さんに積極的に関わるようになってきて、最近は患者さんに「かかりつけ薬剤師に立候補します!」なんて、言ったりするくらい」
「あはは、何それ。可愛い!」
「まぁ、とにかく頑張っているよ。なんだか理想の薬剤師さんがいるんだって」
そう言って真澄ちゃんは私の顔を覗き込んだ。
「え!? もしかして私?」
「たぶん、そうだと思うんだよね。病院ですごい薬剤師さんに会ったって言っていたから」
「え〜、なんだか恥ずかしいなぁ。それに私もまだまだだよ?」
今日だって、間違えた指導しちゃったし。という言葉は言わない事にした。ふと、横をみるとユイカは話に入れず、退屈そうな顔で塩きゅうりをポリポリ食べていた。この会はそもそもユイカを励ます会だった事を思い出し、ユイカに話を振る。
「それと、ユイカ。椎名さんの事はもう大丈夫?」
「私は平気」
「この間、椎名さんのお見舞いから帰るとき、泣きそうな顔してたから……」
「え!? なになに? ユイカってばフラれたの?」
「ちょっと、真澄ちゃんは黙って、もろきゅうでも食べてて」
真澄ちゃんが話に加わろうとしてくるけど、もろきゅうを真澄ちゃんの口に押し込む事で私はそれを制した。
「もう課長の事はなんとも思ってない。だって、あの奥さんにかなうわけないもん」
「もしかして、奥さんがそれほどでもなければ奪うつもりだったの?」
「いや、それは……」
ユイカが視線をそらす。
「そうそう、それはそれと奈々が来るのが遅いから真澄ちゃんの恋愛事情を聞いちゃった」
「ちょっとユイカ、話変えないでよ」
「でもね、凄いの」
「え!? 凄いって何?もしかして相手は男?」
「ふごっ、ふごっ」
「えっ、真澄ちゃん何て言ったの?」
「ごふっ、ごふっ」
真澄ちゃんの口にはキュウリが大量に詰まっており何を言おうとしているかさっぱりわからない。
「男じゃない!」
なんとかもろきゅうを飲み込んだ真澄ちゃんが慌てて否定する。
「じゃあ、誰?」
「話してもいい?」
ユイカが真澄ちゃんにお伺いを立てる。
「まぁ、いいけど……」
「真澄ちゃんの勤める薬局の薬局長なんだって」
「え〜!?」
これは意外だった。真澄ちゃんの薬局に薬を借りに行った事があるから薬局長の事はわかる。すらっとした美人で、いかにも仕事できるキャリアウーマンという人だ。でも、どうみても十歳は年上のはずだし、なよなよとした真澄ちゃんとはどう見ても不釣り合いだ。
「年上が好きなの?」
「好きっていうより、憧れているっていうだけだよ」
「違う! さっき、好きって言ってたもん」
「ユイカ本当?」
「本当!」
「いや、だから、人として好きで……」
「それは恋だよ! 絶対!! ねぇ、奈々?」
恋愛体質のユイカらしく、好きイコール恋愛感情、熱愛という解釈だった。真澄ちゃんの言っている人として好きという感情は私にはわかるけど、ここはいじっておいたほうが面白そうだと思って私もあえて誤解する。
「間違いなく恋だね」
と、言って両腕を組んでは大きく頷いた。
「片岡まで、そんな事言うの?」
真澄ちゃんはドギマギしてくねくねしている。なんとも気色悪い。
「でも、真澄ちゃんの初恋相手って年上なんでしょ? その薬局長の久美子さんって人くらい?」
「まぁ、それくらい……」
「それとね、その真澄ちゃんの初恋の人が薬学部の大学生だったんだって。だから薬剤師になろうと思ったんだって」
「マジで!? やるぅ〜。それじゃあ、その人は今頃薬剤師なんじゃないの?」
「いや、薬剤師ではないんだ」
「じゃぁ、何してるの?」
「それは、秘密〜」
「え〜」
「え〜」
この後真澄ちゃんに何を聞いても教えてくれなかったけど、きっとその人は素敵な人なのだろう。また、絶対飲みに誘って今度こそ聞き出そう。面白そうだし。