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薬歴その1 「薬剤師って何をしたらいいの?」

薬歴その1 お菓子おじちゃん


「春香、あなたに渡すものがあるの。ちょっと事務室に来なさい」

 朝礼が終わるとクローバー薬局の薬局長である久美子さんは、神妙な面持ちで白封筒を手に調剤室から事務室に私を呼びつけた。久美子さんの後ろをついて行くその間、右手に握られた白封筒をじっと見つめていた。私の勤めているクローバー薬局では、給料明細をはじめ会社から渡される紙は会社のイメージカラーである薄いグリーンにすべて統一されている。しかし、一つだけ例外があった。白色の封筒、白色の紙で渡されるのが「白紙」こと退職勧告である。

「もうわかっていると思うけど、白紙がきたわ」

 この時期に呼び出され白い封筒を見れば、それが白紙である事は容易に予想がついた。それでも、久美子さんの口から「白紙」と言われるまで、まだそれが退職勧告ではないのではないかもしれないという淡い期待を持っていたのだが、あっけなく打ち砕かれた。

「あなたは入社してからこの三年と五ヶ月間、あなたは一人も指名が取れなかった。だから、社内の規定によりあと一ヶ月指名が取れない場合は辞職してもらう事になるわ」


 私がクローバー薬局に入社したのは、平成二十八年四月一日。時を同じくして、その日「かかりつけ薬剤師」の算定が開始となった。これは薬局業界に大きな変革をもたらすものだった。

 患者が特定の薬剤師を「かかりつけ薬剤師」と指名すると、薬局は算定が取れるようになった。これは、複数の薬局で薬をもらうのではなく、一つの薬局、一人の薬剤師に集約させる事で、相互作用の回避や、患者ひとりひとりに合わせた服薬指導につなげ、患者の健康を向上させる目的がある。薬局経営者にとっては、収入源を増やせる算定が増えたと、躍起になって算定を取るよう動いていった。

 かかりつけ薬剤師の算定を取るには、まず患者を薬局に集客させなければ始まらない。ある薬局では、内装、外装をすべて改装し、入りやすい環境を整えたり、別の薬局では、まるでカフェと見間違うような雰囲気で、実際に入るとコーヒーの香りまでしてくるような薬局も出てきた。別の薬局では、患者と話す投薬カウンターを完全密閉個室とし、患者情報が絶対に漏れませんというキャッチフレーズで集客するものもあった。

 そして、薬局に入りやすくした後肝心な事は、そのかかりつけ薬剤師に選んでもらえるかである。指名をとるために、資格を片っ端から取得しネームバリューを上げる者、SNSでセルフブランディングと称し、名前を売ろうとする者、見た目の印象を少しでも良くしようとプチ整形をする者も現れた。

 しかし、かかりつけ薬剤師制度が始まり、三年五ヶ月経過した今も、指名がまったく取れない薬剤師は少なくなかった。私、朝倉春香もその一人だ。


「春香、どうして今まで指名とれなかったの? 同期の相田も横松も指名とっているじゃない?」

 事務室の壁には、「かかりつけ薬剤師指名件数表」が貼られている。まず、薬局長の尾崎久美子、管理薬剤師の桑原真澄、と、役職者の名前が記載され、その下には入社した順で名前が記載されている。

 私の同期は三人いて上から「相田」「朝倉」「横松」の順に名前が並ぶ。

 久美子さんの言う通り、相田君も横松さんも名前の右横に赤いシールが貼られていて、指名をとっているのがわかる。私の名前の横にはシールが一枚もない。

「あなた、今月指名とれないと本当にクビよ」

 社内規定で指名が取れないとクビになる事は知っている。

「でも、私どうしたら良いかわからなくて」

「春香……」

 久美子さんは睨むように私を見つめた。


 入社してからの三年間はあっという間だった。

 入社一年目は、仕事や薬の事を覚えるので精一杯だった。薬の事なんて国家試験に合格するために嫌という程勉強したはずなのに四月に入社した時にはすっかり忘れていて、結局勉強は一から始める事となった。薬の辞書を1ページから読み、わからなかった事は逐一調べノートにまとめていた。あのころは勉強していたし、やる気もあり三年後にはたくさん指名を取るぞという意気込みでいた。

 しかし、転機となったのは二年目だった。

 この年は同僚の小林美紀に振り回された酷い年だった。

 仕事には慣れてきて、だんだんと面白くなってきたところだったのだが、美紀が頻繁に合コンに誘ってくるようになったのだ。それも、毎週強引に。

 断りきれなかった私は、誘われたすべての合コンに参加した。そのおかげで、生まれて初めての彼氏ができた。彼氏ができたころから合コンには誘われなくなり、誘われたとしても行かなくなった。その代わり、毎週末は合コンではなく、彼の家でご飯を作る日になっていた。 

 今思い出せば、彼に何かをしてもらった事もないし、プレゼントをもらった事もない。ただ一緒にご飯を食べて寝るだけ。最初はそれも新鮮で楽しかったのだが、次第にこの状況に疑問を持ち始めた私は、時々用事があると嘘をついて彼の家には行く事をサボった。それでも彼はいいよ、と言っていたし私も彼の家に行かない事に何かほっとした気分さえ感じていた。 

 結局その彼とは春まで持たず、私が彼の家に行かなくなると、そのまま彼からも連絡が途絶え、そのまま終わった。

 彼の家に一ヶ月行かなくなってから、ふと仕事をしなければいけないのではないかと思う事が多くなった。このままいくと、指名が取れない気がする。そんな焦りを感じていた。

 その矢先、異動を命じられた。今まで勤めていた武蔵小杉店からみなとみらい店への異動だった。その理由は欠員補充で、その欠員というのが、小林美紀だった。

 私と美紀は同期入社だから、同じような能力だろうし、若いから薬局が変わっても柔軟に対応できると思われたらしい。しかし、現実は苦労の連続だった。

 彼女の薬局はみなとみらい病院の向かいで、武蔵小杉店のクリニックモールの薬局とは違い、処方箋枚数は三倍であり、処方される薬も難しいものばかりだった。

 せっかく慣れてきた店舗での仕事から離れる事には納得はいかなかったが、それ以上に納得いかなかった事が、彼女の退職した理由が「でき婚」だったからだ。

 彼女の口癖は「働きたくない」だった。

 一度社会人になってしまうとアルバイトとは違い、そう簡単には辞める事ができない。しかし、女子には結婚・出産という辞職の切り札を持っている。彼女はここぞとばかりに「でき婚」という最強の切り札を切ったのだ。

 たくさん合コンをこなしていたのも、たくさんの男性と知り合うためだったのだろう。美紀はそのつてをたどって医療ベンチャーの若手経営者の一人と結ばれた。

 でも、決して彼女を心底恨んでいるわけではなく、こういう生き方がある事を知った。社会人になったら仕事を一生懸命やる事が良い事だと思っていたのだが、家庭に入って家族のために尽くすというのも悪くないのではないかと思った。もちろん、私をもらってくれる人がいればの話だけど。


 三年目は、勝負の年だった。来年指名をとるための準備が必要だ。

 かかりつけ薬剤師になるためには条件がある。一つ目は地域活動を行う事。二つ目は認定薬剤師になる事。この二点は算定要件に含まれるため、必須の条件だ。これが満たされていなければクローバー薬局では四年目になる前にクビにされる。

 クローバー薬局みなとみらい店で行われている地域活動の手伝いをしながら、なんとか認定薬剤師は取得してギリギリクビは免れた。けれども、なかなか患者さんとの信頼関係を築く事はできなかった。

 改めて三年間を振り返ってみたが、自分なりには一生懸命やってきたつもりだった。しかし、現実は指名ゼロでクビ間近なのである。


「あなたの得意な分野って何? 例えば、糖尿病とか呼吸器とか」

 私はたった今振り返った三年間で、自分の得意な分野を探してみたのだが、何も思い浮かばない。

「得意な分野は、ありません」

 そう言った瞬間、久美子さんの顔が歪んだ。しかし、それは私が予想した通りの状況だった。嘘をついてもばれるだろうし、かと言って上手な言い訳も思いつかない。だから、怒られるのを覚悟で正直に話すしかないのだ。

「じゃあ、あなたのできる事って何?」

「できる事……」

 この三年間では、得意な事や専門分野は作れなかったが、これまでやってきた仕事は何だっただろうかと再度振り返る。

 三年間で任された仕事は、掃除係と掲示物係、地域活動をしている先輩の手伝い。だれでもできるような仕事しか与えられていなかった。

 やっぱり、わたしはダメな薬剤師なのだろう。

 私が黙ってうつむいていると、久美子さんは苛立ち声を荒げた。

「あなた、いったい三年間何やっていたのよ!」

 久美子さんのセリフは言われなくてもわかってる。自分自身が一番痛感している事だ。しかし、過ぎ去った時間を取り戻す事なんてできない。もうどうする事もできないのだ。

 言葉が出てこない私はずっとうつむいていた。久美子さんを恐る恐る見てみると、自分の胸の前で組んだ右手人差し指をしきりに動かしたり、上を見上げたり、下を見たり、窓の外を見たり、時折「あーっ」という声をあげたりしている。

 私の事を一生懸命考えてくれているのが伝わって来るが、何もできない自分につくづく嫌気がさしてくる。数分後、急にハッと思いついたのか私をまっすぐ見つめこう言った。

「春香、知り合いを呼びなさい。もうそれしかないわ」

 知り合い。その手があった。

「あなたのお父さん、お母さん、兄弟、友人。だれでもいいから処方箋を持ってきてもらうのよ」

「でも、家族は今年からダメになったんじゃ……」

「あっ、そうだったわね」

 昨年、指名が取れないクローバー薬局のある薬剤師が指名ゼロでのクビを免れるため、親の処方箋を受け付けた。この事には問題はなかったのだが、この事をきっかけに、家族しか指名のない薬剤師が急増してしまったのだ。指名が家族ばかりでは社会に貢献できていないという理由で、クローバー薬局の内規により、二親等以内の家族は指名数に入らなくなってしまったのだ。

「じゃぁ、友達を呼びなさい」

「友達はすでに他の薬局に取られていました」

 私は友達が多い方ではない。危機感を感じていた私は白紙が来る前に、数人の友人に声をかけていた。しかし、すでに他の薬局にかかりつけ薬剤師がいた。

 私の友人というは大体が大学時代の友人で、つまり、薬学部を出て薬剤師になっているのだ。薬局に勤めていると、同じように指名のノルマがある事が少なくない。それをクリアするためにすでにお互いにかかりつけ薬剤師になっていたのだ。 

 指名が取れなかったのもショックだったが、それ以上に大学時代に親友と思っていた友人がすでに私以外のかかりつけ薬剤師になっていたのはショックだった。私が声をかけるのが遅かっただけなのかもしれないけど、私が思っている程、仲が良くなかったのかもしれない。

「久美子さん、私どうしたら……」

「……」

「……」

「とにかく、全力でやりなさい」

「はい……」

「私の薬局から、クビなんて出さないからね!」

 大した解決策は見いだせなかったが、言う事を言い切った久美子さんは早足で休憩室を出ていった。

「はぁ、私このままクビなのかな」

 どうして今まで患者さんとの信頼関係を築けなかった自分を責めると同時に、もしこのままクビになったらどうしようか、美紀みたいにでき婚できないかなぁ、なんて事も考えてしまう。


 クローバー薬局は、創立十年と薬局業界では新しい会社だ。しかし、たった十年で売り上げを大幅に上昇させ、業界四位までのし上がってきた。その方法は徹底的な効率化と社内における激しい競争にある。

 総薬局数はすでに百を超すが、売り上げ下位5%の薬局は一年以内に閉店させ、指名が取れない薬剤師はクビを切る。徹底的にダメなものは排除する方針だ。その代わり、できる者にはしっかり評価をする。

「かかりつけ薬剤師」の算定件数もその評価項目の一つだ。

 かかりつけ薬剤師算定は、かかりつけ薬剤師として患者から指名してもらうと一人につき保険点数70点、つまり700円が支払い基金より薬局に支払われる。その算定が開始となった時、薬剤師へのキックバックについても議論された。かかりつけ薬剤師なんて、やって当たり前だと言い放ちキックバック不要とする会社も多かった。キックバックするにしても、会社に50%本人に50%、金額にすると350円までが限界ではないかと言われた。

 しかし、クローバー薬局は業界の常識を覆す、指名一人あたり2000円という異常ともいえる数字を提示したのだ。指名一人で毎月2000円、10人で2万円、20人で4万円が基本給に上乗せされる。さらに、それはボーナスにも反映され指名人数×20,000円が査定として加算される。

 会社としては、赤字覚悟の決断である。しかし、これを機会に薬剤師の質を向上させ、患者を一気に抱え込めば、必ず元はとれるとの算段であった。

 三年後、結果はその通りになった。

 多くの患者が質の高い薬剤師を求めて、クローバー薬局に来局するようになり、株価もうなぎ上りに上昇していった。そして、増えたのは患者だけではない。高額な給料を狙って多くの薬剤師が入社をしてきた。そして、十分に人員が確保した後、クローバー薬局の算定要件三ヶ条が発表された。


 クローバー薬局「かかりつけ薬剤師三ヶ条」

・かかりつけ患者の年齢、性別、連絡先、薬歴、受診機関、病歴、アレルギー・副作用歴の有無、を即座に言える。

・かかりつけ患者の性格、家族構成、社会的背景を言える。

・24時間笑顔で対応できる。

 通常の算定要件である三年以上従事し認定薬剤師を取得している事や、地域活動に貢献している事は当たり前の事とし、それに加えて三ヶ条を満たす事としたのだ。クローバー薬局は、まず患者に指名の許可をもらい、その後患者の情報は薬局長より口頭で試験される。それに合格して初めて、かかりつけ薬剤師となれるのだ。金目的で入社した薬剤師は、会社から求められるクオリティに応える事ができず、すぐに辞めてしまった。それもあり、クローバー薬局の年間離職率は30%を超えている。

 この経営方針は批難される事も多いが、現在在籍している社員は事前に理解した上での入社のため、不満を持つものは少ない。というより、不満を持つような薬剤師はたいてい指名が取れない薬剤師で、辞めるかクビになるため会社にいないのだ。そのため、内部批判はほとんど上がらない。


 私が休憩室から調剤室へ戻ると業務はいつも通り始まっていた。自分は指名が取れないクビ間近の状況であるのに、周りはいつもと変わらず仕事をしている。その光景に、私はこの薬局に必要ないのではないかという気持ちさえ芽生えてくる。

 病院の受診を終えた患者が、すでに処方箋を持って続々と薬局にやってきている。調剤室は薬を取り揃える薬剤師が所狭しと走り回り、薬を渡す投薬カウンターもすべて埋まっている。

「おーい、風邪薬頼むよ! 誰か行けるー?」

 調剤室のリーダー薬剤師が、投薬にいける薬剤師を探していた。投薬とは薬局用語で、お薬をお渡しし説明する事である。そして、風邪薬の服薬指導は誰もやりたがらない。なぜなら、風邪薬をもらいに来る患者はその場限りの来局が多く、リピートしないため無駄な時間を使いたくないと投薬を避ける。また、ベテラン薬剤師はたいていの場合、指名患者の服薬指導に出払っているため、風邪薬の指導に入れない状況もある。

「春香、あなた行きなさい」

 久美子さんが調剤された風邪薬の入ったカゴを私の胸に押し付けながら言った。

「は、はい……」

 私はカゴの中身を見てうつむいた。

「春香、あなた風邪薬をバカにしているの?」

 私の気持ちを察したのか、久美子さんは私を睨む。決してバカにしているわけではない。ただ、風邪薬では指名が取れないと思うと、やる気もあまり出てこなかった。

「これも大事な仕事よ。全力でやりなさい」

「はい……」

 久美子さんの仕事に対して熱くまっすぐな姿勢は、今の私にとってはプレッシャー以外の何物でもない。

「あなた、風邪薬で指名取れないと思ってるの?」

 そう思っている私は久美子さんと目を合わせる事ができない。

「この患者さん、あそこに座っている人よね」

 その視線の先には、少し日焼けした小太りの男性が座っている。

「あれ? あの人……」

 私にはその顔になんとなく見覚えがあった。ただ、遠く昔の記憶のため今はそれ以上思い出せない。

「あの年代なら、必ず併用薬があるわ。今回は無理かもしれないけど、次来た時には指名がとれる。チャンスよ!」

 そう言って、久美子さんは私の背中をバシンと叩いた。それに押し出されるように、投薬カウンターまでゆっくりと進み、患者の名前を呼ぶ。

「岡昌司さーん」

 おかしょうじという名前を呼んだ途端、記憶が急に呼び戻された。

「おぉ!やっぱり春香ちゃんじゃねぇか」

 小太りの中年男性は右手を上げて、私の元まで近寄ってくる。

「お菓子おじちゃん!!」

 お菓子おじちゃんというのは、私が幼稚園の時につけたあだ名だ。おじちゃんが私の家に遊びに来た時、「岡昌司さん」とお父さんが紹介したのを「お菓子おじちゃん」と聞き間違えた事がきっかけで、「お菓子おじちゃん」というあだ名がついた。

「春香ちゃん、大きくなったねぇ」

「おじちゃん、ご無沙汰しています」

「しっかし、本当に久しぶりだねぇ。あっ、春香ちゃんお菓子あげるよ」

 おじちゃんは黒い革張りの肩掛けカバンをゴソゴソと漁ると、出てきたのは最近めったに見ることのなくなった昔懐かしいお菓子だ。

「あっ、エリンギの森だ!」

 会うと必ずお菓子をくれた、まるでドラえもんのようなおじちゃんの事を当時小さかった私は大好きだった事を思い出した。

「春香ちゃん、これ好きだったよね」

「私がこれ好きだったのを覚えいてくれたんですね。でも、あれ?」

 私はエリンギの森のパッケージが日本語で書かれていない事に気付いた。そこには、英語と中国語で文字が記載されている。

「シンガポールで売っているやつだ。もう、日本じゃほとんど売ってないだろう?」

「そう! 食べたくてもなかなか売ってなくて」

「だろう? だから、日本に帰る時には山ほど買って、おみやげにしてやろうと思ってな、ほら見てみな。お菓子でカバンはいっぱいだよ。これもあげるよ。あと、これも。全部春香ちゃんにあげちゃう。がははは」

 投薬カウンターは次々と出てくるお土産のお菓子であっという間にいっぱいになった。

「でも、おじちゃん、いつ日本に帰ってきたの?」

 おじちゃんは二十年前、シンガポールに出張に行くと言って日本を離れた。

 小学生だった私はお父さんに「おじちゃんは今どこで何しているの?」と聞いた事を思い出した。その時お父さんは「外国でお菓子を売っているんだよ」と答え、「どこで?」と聞くと「シンガポールだよ」と答えた。シンガポールに行った事のない私は何となく暑そうだなぁなんて思っていた。「いつ帰ってくるの?」と聞くと「わからない」と答えた。その答えを聞いて私はこれ以上質問をしても、おじちゃんが帰ってこないという事に気付き、それからおじちゃんの事を聞くのをやめた。たぶん小学生まではおじちゃんの事を覚えていたと思う。でも、中学生になってからはお菓子を食べる機会も少なくなっていき、それにあわせておじちゃんの事も記憶から薄れていった。

「先週帰ってきたばっかり。シンガポールはあついね。いろんな意味で。ちょっとの出張のつもりで行ったんだけどさ、結局二十年も暮らしちゃったよ。やっぱさぁ、シンガポールが、アジアの中心になっちゃってるんだよ。日本がいかに世界に相手にされてないかってのを痛感するね。それでさ、なんのためにシンガポール行ったかっていうと、この『エリンギの森』売ってたわけ。って、お父さんから聞いてたよね」

 お父さんは元禄製菓のメディカル部門で薬の研究をしている。元禄製菓は医薬品事業と菓子事業がメインであるが、他にも農薬や加工食品の他にも、食と健康を提供している一流企業だ。おじちゃんは、お父さんと同じ会社ではあるが、製菓部門の営業マンで、新作のお菓子が発売されると、スーパーマーケットに営業をかけに行っていた。お父さんとおじちゃんは部署は違えど同期という事もあり昔から仲が良く、お父さんからおじちゃんの話をよく聞いていた事を思い出す。

「お父さんから、おじちゃんが外国でお菓子を売っているって事は聞いていたんだけどね。エリンギの森はシンガポールでも売ってたんだ」

 私はこの懐かしいパッケージを見ながら言った。

「これが大変でさ。うちのお菓子がなかなかシンガポールで売れなくて困ってたんだけど、春香ちゃんがエリンギの森を好きだった事を思い出して賭けに出てみたわけよ。いい感じのキャラがあれば、女子にウケるかもしれないって。見てよ! これ!」

 そう言って、おじちゃんはエリンギの森の形に目と口をつけただけのキャラがついたボールペンを差し出した。

「これ、全然可愛くない……」

 なんど見返しても絶望的に可愛くない。

「だろ? 最初これ見た時、発注ミスかと思ったよ。でも、作ったからにはおまけにつけてみようって事になってな。これが、なぜかウケたんだよ。わかんねぇよな。それでな、」

「あの……」

「このキャラのおかげで、エリンギの森が流行っちゃったから、お前そのまま売ってろって言われて、シンガポールに二十年だよ。まいっちゃうよなぁ。まぁ、相当売ったけどな。がはは」

 昔から話好きのおじちゃんの口は止まらない。このままでは永遠にお菓子の話が続いてしまう。

「あのね、おじちゃん」

「えっ? なんだい? ボールペンもっと欲しいってか?」 

 おじちゃんはそう言って笑顔でもう一本ボールペンを差し出す。

「いや、ボールペンは一本でいいの。それより、今日はどうしたの?」

「あっ、そうそう、昨日から熱出ちゃってさ。バカは風邪ひかないと思ったけど、風邪って誰でもひくものなんだな。それでな、」

「おじちゃん、お話聞きたいのはやまやまなんだけど、そろそろ薬の説明しても良いかな?」

 せっかくの再会だけど、薬局も忙しくてそろそろ仕事をしないと久美子さんに怒られそうな気がしてきた。

「おう、おう。そうだったな。俺は薬をもらいに来たんだから説明してもらわなきゃな。頼むよ、先生」

 おじちゃんは話す側から聞く側に回ったと言わんばかりにこちらに向き直る。私は本題の薬の説明を始めた。

「今日出てるのが総合感冒薬と、これがアセトアミノフェンっていう解熱剤。あれ? 総合風邪薬にもアセトアミノフェンが入っているから成分重複しちゃってる」

「それじゃいけないのかい?」

「絶対ダメってわけじゃないんだけどね」

 頭の中に黄色信号が灯った。

「おじちゃん、風邪引いたって言ったけど、熱は何度だった?」

「昨日の夜は38.5度まででたけど、今日は病院で測ったら37.5度まで下がってたよ」

「そっか、じゃぁ解熱鎮痛剤のアセトアミノフェンは必要ないかな」

 さらに、総合感冒薬の添付文書が思い出される。

 警告:本剤とアセトアミノフェンを含む他の薬剤(一般用医薬品を含む)との併用により,アセトアミノフェンの過量投与による重篤な肝障害が発現するおそれがあることから,これらの薬剤との併用を避けること。

「やっぱり成分が重複しているから、一緒に飲むのは避けたほうが無難かなぁ。あっ、それとお薬手帳持ってる?」

「持ってるよ。一昨日、腰痛くて病院にかかったんだ」

「え? 一昨日?」

「そうだよ。一昨日は他の薬局で薬をもらったんだけどな。ところで、薬なんだけど飲み合わせは大丈夫かい、先生?」

 お薬手帳の内容を確認すると、確かに一昨日別の薬局でトラマドールが調剤された記録が書かれている。トラマドールはオピオイドに分類される鎮痛効果の強い痛み止めだ。

「どこか痛かったの?」

「あぁ、腰痛くてな」

 腰をさすりながらおじちゃんは言った。

「やっぱり、薬変えてもらおうと思うんだけど、良いかな?」

「おぅ、先生の言うことは何でも聞くぜ」

「じゃぁ、ちょっと待っててね。先生に電話で確認してくる」


 私は医師に疑義照会をするために処方元である、みなとみらい病院に電話をかけた。

「お世話になります。クローバー薬局の朝倉春香です。本日おかかりの、岡昌司様なのですが、本日処方された総合感冒薬とアセトアミノフェンが重複しており、過量になる恐れがあります」

 私は顔も見た事のない医師に電話口にその旨を告げると、「え? うちの病院?」と、とぼけた様子でそう答えた。

「そうです」

 他院ならわかるけど、同じ病院で同成分の薬が重複して処方されてしまうというのは、システム的にどうなのだろうなんて考えていると、電話越しでPCをカチャカチャしている音がした後「あっ、本当だ。全然見てなかったよ。じゃぁ、今日の薬やめて「ナプロキセン」を3錠分3で7日分に変更して、熱が下がったら飲まなくていいと伝えてください」と言うので「はい、わかりました」と返事をして電話を切った。


 私は取り急ぎ薬が変更になった旨をおじちゃんに報告し、医師の言うとおりにナプロキセンで調剤し直し投薬カウンターへ戻った。

「おじちゃん、お待たせ。『ナプロキセン』って薬に変わったよ。これは、この前の腰痛の痛み止めと作用が違うから、一緒に飲んで大丈夫。それとね、熱が下がったら飲まなくていいって先生が言ってたよ」

「そうか。サンキューな。しかし、春香ちゃん大したもんだよ」

「いいえ、これくらいみんなやってる事だよ」

 謙遜しつつも久しぶりに褒められたことが恥ずかしくも嬉しくて鼻を掻いた。

「ところで、このかかりつけ薬剤師ってなんだい?」

 おじちゃんは投薬カウンターに貼ってあった、かかりつけ薬剤師を推進するポスターを指さして言った。

「かかりつけ薬剤師っていうのは、患者さんの担当にならせてもらって、お薬の事なら24時間・365日責任を持ちますよって事です」

「ヘぇー。じゃあ、春香ちゃん、俺のかかりつけ薬剤師になってくんねぇかな?」

「えっ? えっ!?」

 突然の指名に私は驚いた。今までこちらからお願いしても指名が取れなかったのに、こんな事ってあるのだろうか。

「ダメなのか?」

「ううん。ただ、びっくりしちゃって」

「この前行った薬局の薬剤師さん、いっちゃ悪けど、イマイチでさぁ。それを春香ちゃんのお父さんに話したら、春香ちゃんが薬剤師やってるっていうし、じゃぁって事で、ここ来たんだよ」

 そういう事だったのか。わざわざ私の薬局にきて指名をしてくれるなんて話が出来すぎていると思った。お父さんが話をしてくれてたなんて。

「おじちゃん、ありがとう」

 私は小さくお辞儀をし、顔を上げると改めてこう言った。

「ぜひ、おじちゃんのかかりつけ薬剤師にならせてください!」

「いやいや、お願いするのはこっちの方だからよー。頼むよ、先生」

「はいっ! でも、かかりつけ薬剤師になれるのはうちの決まりで二回目の来局からなの」

「おぉ、そうなのか。じゃぁ、一週間後にまた来るぜ。再診入ってるからな」

「じゃぁ、来週来てくれるなら先に書類だけでも書いてもらおうかな」

「いいぜ。必ず来るからよ」

「じゃぁ、これに必要事項を記入してね」

「おぅ」

 おじちゃんが記入している間、まじまじとおじちゃんを観察した。どうしてあんなに好きだったおじちゃんの事をすぐにわからなかったかのだろう。ただ、記憶が薄れていただけなのだろうか。上から下までジロジロと眺めてみる。頭髪は年相応に薄くはなっていたが、以前と大して変わらない。顔は少し老けてこけた気もするけどこれも年相応だと思う。視線を顔から少しずつ下げていくと、理由がわかった。

 おじちゃんが痩せたからだ。おじちゃんはもっと丸々と太っていた。幼稚園児の私はおじちゃんのふくよかなお腹に頭突きをして遊んでいた記憶がある。しかし、今はその時のような脂肪はなく、ベルトの上にちょっと肉が乗っている程度である。

「よし、書けた。これで良いか?」

「うん。ありがとう」

 私はおじちゃんからかかりつけ薬剤師の同意書を受け取り、内容を確認し「これから宜しくお願いします」と頭をさげると、おじちゃんもそれに答え「これからよろしく頼むよ。じゃあ、また来るな。あぁ、体痛ぇ」と、言って腰を押さえながら薬局を出て行った。


 私が調剤室に戻ると、久美子さんが駆け寄ってきた。

「あなた、指名とれて良かったじゃない!!」

 そう言って、久美子さんは私の背中をバーンと叩くと、私はよろけてしまった。

「は、はい。まだ、指名の約束ですけど……」

「どうしたの? 嬉しくないの?」

「いえ、嬉しいですけど……」

 これでクビにならずに済んで嬉しいのだけれど、私はおじちゃんの痩せ方に違和感が拭えず素直に喜べなかった。どうしてあそこまで痩せてしまったのだろう。ダイエットをしたのだろうか? でも、ダイエットで健康的に痩せたようには見えなかった。日本に戻ってきたのは体調を崩したからではないだろうか。

「春香、これでクビは免れたわね。これで私も安心したわ。これからは指名を切られないように頑張りなさい」

 久美子さんはそう言うと、早足で自分の業務へ戻っていった。安心したのか、調剤しながら鼻歌を歌っている。とはいえ、おじちゃんが日本に戻ってきてくれたおかげで指名を取る事が出来たのだ。ここは久美子さんの言う通り、素直に喜ぶべきだろう。けれども、私のモヤモヤした気持ちは続いていた。その原因を探ろうと、もう一度先ほどのやり取りを思い出してみた。


 おじちゃんは発熱で受診した。

 今回処方されたアセトアミノフェンと、総合感冒薬に配合されているアセトアミノフェンが重複していたから薬を変えてもらった。

 変更された薬は、ロキソプロフェンやジクロフェなくのような一般的な解熱鎮痛剤でなくて、普段あまり使用されない「ナプロキセン」だった。一昨日、整形外科で受診してもらった薬は「トラマドール」だった。腰痛にトラマドールを使う事もあるけど、普通の痛み止めより効果の高い薬を選択したって事は……。


 おじちゃんは癌!?

 癌だと仮定すると、すべて説明がつく。今回の熱発の原因は腫瘍熱。癌患者では感染症じゃないのに熱が出る事がある。だから、わざわざ医師は「ナプロキセン」に変えたのだ。腫瘍熱には「ナプロキセン」がよく効く。それと、トラマドールも腰痛ではなくて「癌性疼痛」に使っていたのだ。癌の痛みには、ロキソプロフェンやアセトアミノフェンではなくて、トラマドールのような強い薬を使わないと楽にならない。そして、やせた原因もきっと癌。帰国した理由もきっと癌の治療のためなんじゃないだろうか。どうしてあの時気づけなかったのだろう。


 一週間後、クローバー薬局に現れたおじちゃんは少し疲れた顔をしていた。

「よぅ、春香ちゃん。今日も頼むよ」

「あっ、おじちゃん。処方箋お預かりしますね」

 私はおじちゃんから処方箋を両手で受け取り、コピーを取った後、パソコンに処方内容を入力してくれている薬局事務さんに渡した。薬局事務さんが入力している間に先ほどのコピーで薬を調剤する。内容を見た私は立ち尽くしてしまった。

 処方された薬は「エルロチニブ」という抗がん剤だった。

 タルセバの適応は三つ。

○切除不能な再発・進行性で、がん化学療法施行後に増悪した非小細胞肺癌

○EGFR遺伝子変異陽性の切除不能な再発・進行性で、がん化学療法未治療の非小細胞肺癌

○治癒切除不能な膵癌

 という事は、おじちゃんの病名は、非小細胞肺癌か、膵癌。どちらにしても、手術不能であり予後は長くない。そして、もし膵癌だとしたらさらに進行は早い。手術不能の膵癌であれば、一年生存率は約9%。

 私の手に持っていた薬の入ったカゴが小刻みに震えた。


「岡昌司さーん」

 私が力なくおじちゃんの名前を呼んだ時、自分がどんな顔をしているか想像したくもないほど、絶望的な表情をしていたと思う。

「おぅ」

 おじちゃんが右手を上げてゆっくりと投薬カウンターまで来る。私はそれを直視できずにいた。これはきっと夢なんじゃないか。何度も頭の中で繰り返しても、目の前にある処方箋の内容が変わる事はなかった。

「おじちゃん、今日の薬って初めて飲む薬?」

 私はおじちゃんの顔を見れずに下を向いたまま尋ねた。

「先生からは、これをもらったよ」

 おじちゃんは一枚の紙を春香の前で広げた。

『ゲムシタビン+エルロチニブ併用療法を受ける患者様へ』と、書かれている。

抗がん剤を受ける患者向けに作成された資料だ。「ゲムシタビン」も「エルロチニブ」も抗がん剤。エルロチニブの飲み始めを1日目とし、エルロチニブを1週間服用後、ゲムシタビンを8日目、15日目点滴する。その治療法の一連の流れが記載されている。

「今日からこの治療が開始だ。本当は先週から開始する予定だったんだけど、熱出たから今週からになっちまった」

 私の頭の中で、今まで得た知識が呼び返される。

『ゲムシタビン+エルロチニブ併用療法』を使用する患者の状態は……。

「膵臓癌ステージⅣだとよ」

 おじちゃんに言われる前に私はわかっていた。そのレジメンを使用する人は癌が他臓器に転移している最悪の状況だということを。

「いろんなとこに転移してるから、手術はできねぇ。余命を延ばすために今日から抗がん剤をやる。余命はあと半年。膵癌の進行は早いから、人によっちゃあ半年持つかもわからねえって。まぁ、半年って言われたけど、ガッツであと1年は生きるけどな。なんだよ、そんな暗い顔するなよ」

 おじちゃんは私の肩をバチンと叩いて、がっはっはっと、大きく笑った。

「だって……」

「人間はいつか死ぬ。ただそれだけじゃねぇか」

 おじちゃんの言う通り、人はいつか死ぬ。それはわかっている事なのだけれど、それが自分の身近な人で起こる事なんて想像した事は無かった。それに、せっかく再会できたのに、もう会えなくなるなんて。

 私は今にも泣き出しそうだった。むしろ、その場で大声で泣いて何もかも放り出してしまおうかとも思った。唇を噛みながら瞼から溢れそうな涙をぐっとこらえていると、おじちゃんは優しい口調で私に言った。

「春香ちゃん、今日の薬がどんな薬か教えてくれねぇかな? 今日からかかりつけ薬剤師なんだろ?」

 私は流れ落ちる寸前の涙を人差し指で拭った。未だに状況を受け入れられずにいたが、やるべき事はやらなければいけない。

「わかった。今から説明するね」

 おじちゃんの言うとおり、私はおじちゃんのかかりつけ薬剤師になったのだ。一度、深呼吸をしてゆっくりと薬について説明していった。

「でね、特に注意してほしいのが、肺炎と発疹。息苦しくなったり、空咳がよく出るようになったり熱がでたら、肺炎の可能性があるからすぐに教えてね。それと、発疹は乾燥させると起こりやすくなったり、ひどくなりやすいから、保湿は十分にしてね」

「わかった。クリームとか塗った事ねぇけど、しっかり塗る事にするよ」

 こぼれ落ちそうな涙は何とかこらえて、副作用に続き薬の飲み方や生活上の注意点などを説明していく。この説明が終わったら、私は何を言えば良いのだろう。少しでも時間を稼ぐために最後のほうは無駄にゆっくり話をしていたが、ついに説明は終了してしまった。

「どう? 今の説明で、気になる事は無かった?」

「おう、よくわかったよ」

 おじちゃんがそう言うと、しばらく沈黙が続いた。何かを言おうとしても言葉が喉につまり、声にして出して言う事ができない。

「なぁ、春香ちゃんに一つだけ頼みがあるんだ」

 うつむいたままだった私は、おじちゃんの声にハッとして顔を上げた。

「なぁに? 私、何でもするよ」

 おじちゃんは真面目な顔で私をじっと見つめていた。それに応えるように私も見つめ返す。

「俺があの世に行く時、見送ってくれねぇか?」

「も、もちろん! わたし、おじちゃんのかかりつけ薬剤師だから!」

 おじちゃんのために何かしてあげたい。だから、おじちゃんの希望通り天国に旅立つ時には絶対に見送るのだ。

「ありがとうな」

 そう言うと、おじちゃんは私の右肩をぽんぽんと二回叩き、笑顔で薬を受け取ると、クローバー薬局を出て行った。足取りは重く、その背中は少し震えているように見えた。

 次に私がおじちゃんに会ったのは病室だった。



 私がおじちゃんと再会してからわずか一ヶ月後の出来事だった。

 おじちゃんは、膵癌の治療のためシンガポールから急遽帰国し、私が説明を行った日から抗がん剤を開始。しかし、抗がん剤開始も1クールで体調を崩し入院してしまった。私はおじちゃんが入院した事を聞いた日から毎日仕事終わりに顔を出すようにしていた。

「おじちゃん具合はどう?」

「まぁまぁかな。それより春香ちゃん、新しく指名はとれたかい?」

「ううん。全然ダメ」

「なんだよ。俺がいなくなったら指名ゼロじゃねぇか」

 私はおじちゃんの事で頭がいっぱいで、指名なんてどうでも良くて指名を取ろうともしていなかった。おじちゃんが亡くなったら指名もゼロになるけど、そのままクビにされてもいいかもしれない。そんな事も思ってしまう。私はダメな人間だ。それなのに、おじちゃんは自分の病状より先に、私の仕事を心配してくれる。そのおかげで私は情けない気持ちでいっぱいになってしまった。

「ねぇ、おじちゃん」

「なんだい?」

「ううん、なんでもない」

 本当は「死なないで」って言いたかった。でも、その言葉はぐっと飲み込んだ。

 予後が数ヶ月。死にゆく運命を変える事は出来ない。どんなに予後を伸ばしても一年はもたないだろう。それでも死なないでって思う事はいけない事だろうか。


 おじちゃんは、入院直後は元気に話をしていた。食事も足りないくらいで、売店に買い物に行くことも多かったが、それも入院後一週間だけだった。病状は想像以上に急速に進行し、体力も日に日に失われていった。加えて、タルセバの副作用である湿疹も発現しまい、軟膏を塗ってあげる事が最近の日課になっていた。

「おじちゃん、背中まくって」

「悪いな」

「ううん、全然」

 湿疹はエルロチニブの副作用であるが、湿疹が発現する人ほど効果があると言われる。そのため、抗がん剤を中止する事は出来ない。抗がん剤を使用しながら、癌の進行が留まるのを待つのだ。

「春香ちゃん、俺よぉ、子供いねぇだろ? それに、奥さんには逃げられちまったから、もう血縁関係と言えるのは春香ちゃんのお父さんと春香ちゃんだけなんだよ」

「え? そうなの? おじちゃん、奥さんと離婚してたんだ」

 おじちゃんが離婚したというのは初耳だった。

「言ってなかったか?」

「うん、聞いてない」

「仕事でシンガポール行く事になったって言ったら、離婚だ! ってなってな」

「うん……」

 私は頷きながら、ゆっくりとおじちゃんの背中の湿疹に軟膏を塗っていく。

「でも、シンガポール行かなくても離婚はしてたな」

「え? どうして?」

「仕事ばっかりの俺にすでに愛想は尽きてたからな。それに、子供いなかったから離婚はしやすかったんじゃねぇかな」

「そうなんだ……」

 おじちゃんが二十年前結婚していた事は覚えている。たまに二人でうちに来ていたような気もする。でも、もう奥さんの顔までは思い出せない。

「あいつはどこ行ったかわからねぇし」

「そっか」

 私は答えに困って、適当な相槌しか打てない。軟膏は湿疹の半分くらいは塗り終えた。あと半分を塗りながら私は考えていた。もし、おじちゃんに娘がいたら、こうやって軟膏を塗ってあげるのだろうか。それとも、奥さんと離婚していなければ、奥さんが軟膏を塗ってあげていたのだろうか。でも現実は、身寄りはなく私しかおじちゃんに軟膏を塗ってあげられる人はいない。  

「つまらねぇ話しちまったな」

「ううん。はい、おじちゃん、塗り終わったよ」

 おしゃべりをしながら、ゆっくりと軟膏を塗っていたため、十五分もかかってしまった。やっと軟膏を塗り終えた背中を一度眺めて、湿疹が良くならないなぁと思いながら、捲り上げていたパジャマをそっと元に戻した。

「おぉ、サンキューな。どうだ? 良くなったか? 背中」

「うん、少し良くなってきたかな」

 私は嘘をついた。背中はおじちゃんから見えはしない。良くなっているという希望を持って欲しくて、嘘をついた。

「そうか。春香ちゃんのおかげだな」

「どういたしまして。また塗ってあげるね」

「あぁ、ありがとうな。しかし、腰痛ぇな」

「おじちゃん、薬飲む?」

「おう、そうするよ」

 私はナースコールで看護師さんを呼ぶと、痛み止めを飲みたい旨を伝えた。すぐに看護師さんはオキシコドン散を一包持ってきてくれて飲ませてくれた。

 オキシコドン散は以前使用していたトラマドールよりも効果の強い薬だ。医療用麻薬のため、病棟では金庫管理されており、ナースコールをしないと薬がもらえないのだ。管理は大変だけどその代わり鎮痛作用は強くて、一包飲むだけですぐに痛みが楽になった。

 しかし、オキシコドン散を飲む回数が次第に増えていき、内服では痛みを抑えきれなくなり、辛い日々が続いた。


 ある日、私とお父さんが一緒にお見舞いに来ている時、看護師さんに面談室に呼ばれた。

 面談室は中心に大きなテーブルとその上にはPCが置かれた六畳程度の広さで、私とお父さんは隣同士に座って待っていると、程なくして、先ほどの看護師さんとは別に三人の女性が入室してきた。

「はじめまして、朝倉さん。緩和ケア医の安西です」

 安西先生の名札には麻酔科医と書かれていてその下に緩和ケア医ともかかれている。麻酔科医というのは手術での全身管理に加えて、痛みのコントロールのプロフェッショナル。それと先生の優しい笑顔が私を安心させた。

「緩和ケア認定看護師の木暮です」

 その隣には、瘦せ型で丸メガネの女性看護師が立っていた。

 緩和ケア認定看護師というのは、辞書的には「疼痛、呼吸困難、全身倦怠感、浮腫などの苦痛症状の緩和」「患者・家族への喪失と悲嘆のケア」を行ってくれる看護師さんで、一言でいうと看護師の立場で痛みのコントロールと精神的なサポートをしてくれると人だ。

「薬剤師の片岡です」

 片岡さんはたぶん自分と同い年か少しさんくらいに見える。若くてチームに加わっているというのはすごいと思うし、私と同じ薬剤師がいるという事はやっぱり嬉しい。

 全員挨拶をすると、テーブルを囲むように座った。

「あの、話って……」

「実は、今までの消化器内科の先生から紹介がありまして、主治医が私、安西に変わる事になりました。消化器内科の先生からは痛みのコントロールが難しくなっていると聞いています。私たち緩和ケアのチームでこれから担当させていただく事になります」

「あっ、はい……」

 消化器内科の先生から、そんな話はなかった。けれども、緩和ケアの先生や看護師さんの優しそうな顔や、薬剤師がいるという事に安心感があった。

「それと、今まで内服で痛みをコントロールしようとしていたのですが、それが難しくなってきたので、一度注射にして痛みのコントロールを行おうと思います」

「はい……」

「それと、今後の方針ですが、急変しても無理な延命をせず、自然な形でお看取りをしようと思います。もし、同意していただけるなら、こちらにサインをお願いします」

 安西先生が差し出した同意書には、『心肺停止した時には、心臓マッサージや気管挿管はしません。自然な形でお看取りします』と、書かれていた。お父さんは一度私を見て、私が頷くのを確認すると、同意書にサインをした。

 安西先生の話が終わると、次に看護師の木暮さんが私の気持ちを上手に聞き出してくれた。出会ってすぐにこんな状況になってしまったことに共感してくれたり、これからどうしたら良いのか、病院で看取るのかそれとも家にかえるのか、社会的なことも相談に乗ってくれた。そのおかげで頭の中に散乱していた情報が丁寧に整理されどうしたら良いのかわからないという、なんとなく不安な状態が解消されたように感じた。

 そして薬剤師さんからは、お薬の効き目や副作用を教えてもらった。説明はとても丁寧で、もし私にやってみろと言われた時、ここまで丁寧にできる自信なんてない。年齢的にはたぶん同じくらいなのに、薬剤師としてのレベルでは私のはるか上をいっていると思った。

 二十分程度で一通りの話が終わり、私はおじちゃんの部屋に戻った。

 おじちゃんに主治医が変わることや緩和ケアのチームで治療していくとを伝えると「おぅ」と弱い声で返事をして、その後はまたうとうととしてしまった。すると間もなく、いつもの担当看護師さんがオキシコドン皮下注をつなげに来て、片岡さんも訪室してきた。

「ルートの確認と流量の確認しますね」と言い、手元の確認用紙なのかチェックをいれていく。その内容をチラ見すると、麻薬が正しくセットされているか、流量は適正か、血圧、脈、呼吸数、便秘、吐き気、眠気、など細かくチェック項目があった。程なくして薬剤のチェックが終わると、片岡さんは私に笑顔をくれて、去ろうとしたが、私の持っている本をみてこう言った。

「あっ、もしかして朝倉さんって、医療関係者ですか?」

 緩和ケアについて勉強をしようと思って先日購入した本で今日の復習をしていたところだったので、それを見て言ってきたのだろう。

「あっ、はい……」

「もしかして、薬剤師さんですか?」

「そうです……」

「やっぱり〜」

 片岡さんは笑顔で答える。

「でも、どうしてわかったのですか?」

「だって、私もその本全部持ってるから」

 私は自分の本と片倉さんの顔を交互に見る。

「その本わかりやすくていいですよね」

「あっ、はい」

「でも、薬剤師さんならさっきの説明はもう知っている内容でしたね。なんか長々話しちゃってごめんなさい」

「いえ、すごく勉強になりました。普段なかなか緩和ケアに携わる事もなくて、ぜんぜん知らない事ばかりでした」

「そんな事ないですよ、そんなに勉強しているなら」

 今日から勉強し始めたばかりなのに、いつも勉強していると思われている事が恥ずかしくも後ろめたい。

「もし、お薬のことで困ったらいつでも相談してくださいね」

「あっ、はい……。あの、片岡さん」

「どうされましたか?」

「これから、宜しくお願いします」

 私は師匠に弟子入りするようなつもりで深々と頭を下げた。それに応じて片岡さんも頭を下げた。

 それから、おじちゃんがずっと眠そうにする事はなくなり、日中も起きていられるようになった。たまに痛むことはあったけれども、その時にはオキシコドン注を一時間分早回しで使用することで、痛みはすぐに改善された。


「おじちゃん、今日いい天気だね」

 病室の窓から見える空を見上げて私は言った。

「春香ちゃんのおかげで、毎日快適だよ」

 快適という表現は強がりを含んでいた。癌が全身に転移していて倦怠感は甚だしいはずで、痛みがコントロールされているだけで決して快適でない事はわかっていた。でも痛みのコントロールがつくだけでこれだけ変わるのかとも思った。

「それはね、薬剤師さんのおかげなの」

「さすが春香大先生」

「ちがうの、おじちゃんを担当してくれている、片岡さんっていう薬剤師さんがいるんだけどね、その人がこまめに薬を調節してくれているからなの」

「そうか、薬剤師ってすごいな。こんなに楽になるとは思わなかったよ」

 片岡さんは病棟で見かけるといつも忙しそうだった。病棟ステーションでは看護師さんや医師ともディスカッションをしていて、階段は一段抜かしで駆け上がっていて、廊下はいつも小走りに駆け抜けていった。それなのに疲れた様子なんてなくて、いつもハツラツとした笑顔で楽しそうに仕事をしていた。薬剤師が天職というのはあの人の事をいうのだろう。しかし、忙しい中でも時間をかけるところはしっかりかけているのか、おじちゃんのところへ来る時はきちんと流量の確認や副作用の確認をして、その時だけは落ち着いているように見えた。

「わたしね、あの片岡さんみたいになりたい」

「そうか?俺には二人とも同じように良い薬剤師さんに見えるぜ」

「ううん、全然ちがう。片岡さんってすごいと思う」

「そうかな」

 扉が開く音がして、入室してきたのは噂をしていた片岡さんだった。

「あっ、片岡さん」

「朝倉さん、今日も来てくれているのですね」

「はい、実は休暇をいただいているんです」

 おじちゃんがもう長くないと医師に言われてから、私は有給をとって日中は一緒にいることにしていた。

「やっぱりそうだったんですね。最近毎日、日中も一緒にいてくれるから、もしかしたらと思ったんですけど」

 片岡さんは改めて私を見つめて言った。

「それで、朝倉さんに相談なのですけれど……」

「あっ、はい……」

 私はあわてて背筋を正した。

「レスキューは今看護師か私がいたら投与しているのですけれど、それを朝倉さんにお願いしたほうがいいんじゃないかって思っていて……。朝倉さんも薬剤師だし管理は大丈夫だと思うのです。それに一緒にいてくれるなら私たちがやるよりも早く投与できて、岡さん的にも良いのではないかと思っていて……。いかがですか?」

 急な痛みが出た時は、「レスキュー投与」と言って、一時間分のオキシコドン注を投与して痛みを抑えている。しかし、沖ファストは麻薬にあたるため、きちんと投与・管理しないといけない。その権限をくれるという事だった。

「私で大丈夫なんでしょうか……」

「シリンジポンプでのレスキュー投与のやり方は簡単です。きっとすぐにできるようになります。じゃぁ、それで先生にも話してみますね」

 イエスと言っていないけれども、やる方向で話が進んでしまった。一抹の不安があったものの、片岡さんにレスキューのやり方を教わると言う通り簡単にできた。そして、管理の問題も医師や看護師にも話を通してくれていたみたいだった。

 翌日から私はおじちゃんのレスキューができるようになった。片岡さんが医師に話を通してくれたおかげだ。今までは痛い時はおじちゃんがナースコールを押してから看護師さんが来てレスキューをしていたのが、おじちゃんが痛んだらその場ですぐにレスキューできるため、痛む時間がかなり短くなった。

 ただし、条件もある。使用したら必ず時間を記録して看護師に報告する事、それと意識レベルが急に下がったり、バイタルの変化があったらすぐにナースコールをするという事。これぐらいの条件でレスキューの許可をしてくれるというのは、私を信頼してくれての事だと思った。

「おじちゃん、痛いのは平気?」

「おぉ、前より全然いいな。これも先生のおかげだな」

 レスキュー投与が自由にできるおかげで痛みはだいぶコントロールできるようになってきた。しかし、体力は減っていることが目に見えてわかる。顔はどんどんやせ細っていき頬骨も見える様になってしまう反面、癌も肝臓にも転移しているため腹水もたまってきてお腹がどんどん膨らんでいき、死へのカウントダウンが始まっている。

「安西先生も薬剤師の片倉さんもすごく良くしてくれるから」

「ちがうよ。春香大先生の事だよ」

「え? 私? でも、私先生じゃないよ」

「俺にとっちゃ、大先生だよ」

 褒められるとやっぱり照れる。薬剤師になって褒められた事なんてほとんどないから、それはとても嬉しかった。

「おじちゃん、何かしてほしい事ない?」

 以前、看護師の木暮さんから言われていた事がある。残りの人生をどのように過ごしたいかを聞いておくといいと。

「してほしい事かぁ。もう無いかな」

「じゃぁ、食べたいものとかは?」

「食べたいものか……」

「ない?」

「あえて言えば、エリンギの森かなぁ」

「わかった。私、買ってくるね」

 以前おじちゃんからもらったエリンギの森はすべて食べてしまったので、買いに行くしかなかった。

「いま、行くのか?」

「うん、やりたい事はすぐにやらないとね」

 おじちゃんにはもう残された時間が少ない。残された時間でやりたい事をやるために私は休みをもらっているのだから。

「おう、じゃぁ、頼むよ」

「まかせて。すぐに買ってくるから」

 私はカバンを手に持つと、ナースステーションにいる看護師さんに外出する事を伝えエリンギの森を探しに向かった。

 

 最初に病院内のコンビニに入ったが、そこにはエリンギの森は無かった。まぁ、最近じゃ置いてないからね。そう思いながら次の店はどこにしようかと考える。病院から少し離れたところに、このあたりで一番大きいスーパーマーケットがある。そこならばきっと置いてあるはずだ。

 十五分くらい歩くとスーパーマーケットに到着し、急いでお菓子売り場に向かう。お菓子売り場には、幼稚園児くらいの女の子がお母さんにお菓子を買って欲しくて大声で泣いていた。それを見かねたお父さんと思われる男性が、お母さんをなだめて女の子が握りしめていたお菓子をカゴの中にいれた。今も昔もお菓子を買ってもらうために泣くのは変わらないんだな、なんて思った。

 私の場合は、いつもお菓子をくれるおじちゃんがいたから、お菓子を買ってもらおうとして泣く事はなかったけど。試供品もたくさんもらったし、会えば必ずお菓子をくれた。子供の私にとって、おじちゃんはまるで一年中活躍するサンタクロースのようだった。今度は私がサンタクロースにお礼をする番だ。

 お菓子売り場を端から端まで見たが、エリンギの森は見当たらない。もしかしたら、見逃していたのではないかと思い、もう一往復して注意深く探した。それでも、見当たらなかった。地域で一番と思われるスーパーマーケットなのに取り扱いがないのだろうか。再度、お菓子売り場を往復しようとすると、ちょうど良く中年の店員さんが通りすがったので、取り扱いがあるかどうか尋ねてみた。

「あのー、エリンギの森の取り扱いはないですか?」

「エリンギの森? あー、あれかぁ。懐かしいなぁ。古いお菓子だからねぇ。最近じゃぁもう見ないな。もう、取り扱ってるところは無いんじゃないかな」

「そうですか……。ありがとうございます」

 店員さんは私がお礼をいうと、忙しそうにバックヤードへ去っていった。

 これだけ大きなスーパーマーケットでも取り扱いが無いという事は、もうエリンギの森は手に入らないのだろうか。

 どうにかしておじちゃんに食べさせてあげたいなぁ。

 私はスーパーマーケットを出ると、頭上に広がる青く澄んだ空を見上げて昔を思い出した。

 あの頃、おじちゃんが笑顔で私にお菓子をくれたように、私も笑顔でおじちゃんにお菓子をあげたい。この気持ちはもう叶わないのだろうか。

 ぼんやりと歩きながら病院への道を歩く。スーパーマーケットから病院への道は昔よく歩いた道だ。小さな公園があって、ブランコやジャングルジム、回転する地球儀のような遊具がある。私は小学校低学年の時、そこのブランコから落ちて頭を打って病院に運ばれた事がある。

 そういえば、私もおじちゃんと同じ病院に入院したっけ。こぶができただけでなんともなかったけど親には心配かけたな。公園を横目で通り過ぎると、私の通った小学校が見えてくる。小学校の帰り道、友達とこの道を一緒に歩いて帰った。帰り道に駄菓子屋によって、お菓子を買って帰った。

「あっ、あそこならあるかもしれない」

 二十年前に通いつめた駄菓子屋さんをすっかり忘れていた。もう昔すぎて、取り扱いがあるかどうかよりそのお店がやっているかさえも怪しい。でも、あるとしたらそのお店しかない。なぜなら、おじちゃんが最初に営業をかける店がその駄菓子屋だったからだ。

 その駄菓子屋で売れるお菓子は必ず全国的にヒットする、というおじちゃんのジンクスがあった。実際その通りで、みんなが買ったお菓子は全国的にヒットした。また、全然売れなかったお菓子はすぐに廃れた。日本のお菓子市場の縮図ともいえるその駄菓子屋に、元禄製菓の社員であるおじちゃんがガンガン営業をかけたおかげで、いつの間にか元禄製菓のお菓子は全て取り扱いするようになっていた。もはや元禄製菓のお菓子屋さんといっても過言ではないくらいで、もし、その駄菓子屋が今でも営業していれば必ず取り扱いがあるはずだ。そこに無ければ諦めよう。私はそう決意すると、最後の希望を持って駄菓子屋に向かった。


 駄菓子屋に到着すると、そこは二十年前と変わらない佇まいで、そこだけあの頃の時間が流れているように見えた。

「ごめんくださーい」

 常時開放してある店先から、呼びかけてみたが返事はない。大きく息を吸って、もう一度大きな声で呼びかけてみた。

「ごめんくださーい!!」

 奥の方でわずかに声が聞こえ、店の奥の住居部分を覗き込むとあの頃より一回り小さくなったおばちゃんが見えた。

 二十年も経てば、おばちゃんはおばあちゃんになり腰も曲がっていた。それでもあの頃の雰囲気は変わらず、あの時のおばちゃんと同じ人だと思い出せる。おばあちゃんは奥の部屋から一歩一歩踏みしめるように廊下を歩き、ゆっくりゆっくりやってくる。その間私は元禄製菓のお菓子が綺麗に並べられた棚からエリンギの森を見つけ、強く強く握りしめていた。

 おばあちゃんが、戸を開け「いらっしゃい」と言う間もなく、すぐに「これ、これください!」と言った。

「はい、百円ね」

 おばあちゃんは百円を受け取ると、自分の前掛けのポケットに入れた。

「やっと見つけた。良かった……」

 私は嬉しさのあまり、エリンギの里を両手で抱きしめていた。

「それね、ぜんぜん売れないんだけど、たまーに買っていく人がいるんだよ。まぁ、だいたい物好きの大人だけどね。あんたも、これ好きなんかい?」

「はい! 大好きです!!」

「そうかい、そうかい。元禄製菓のお菓子は美味しいからねぇ」

 この駄菓子屋にはたくさんの思い出がある。

 お菓子が食べたくなったらおじちゃんを連れて駄菓子屋に行き、お菓子を買ってもらった事。その後、お母さんにバレて怒られた事。それでも懲りずにおじちゃんと駄菓子屋に行った事。

 もっと思い出に浸りたい気分だったが、エリンギの森を手に入れた今、少しでも早くおじちゃんに食べさせるために病院へ急いだ。


 私は病院に戻ると、真っ先にナースステーションを覗き込んだ。このところ毎日来ているから、目があっただけで誰かが声をかけてくれる。最初に気づいてくれたのは、やっぱりおじちゃんの担当看護師さんだ。

「ただいま戻りました。おじちゃん、変わりありませんでしたか?」

「変わり無いわよ。あなたが来てくれてから、状態は安定してるもの」

「良かった」

「ねぇ、看護師さん、これおじちゃんに食べさせてもいいですか?」

 看護師さんは私の持っていたエリンギの森を手に取ると、成分表を一瞥した。

「うーん、これかぁ。岡さん最近血糖値高いのよね」

 膵臓癌は膵臓に腫瘍ができる。そのため、インスリンが出なくなる事も多くて血糖値を下げられない人も多い。実際おじちゃんも高血糖だったのでインスリンを打って血糖値を調節していた。

「ダメですか? これ、おじちゃんの大好きなお菓子なんです。食べたいものを聞いたら、これが食べたいって言って」

「ううん、ダメじゃないと思うの。でも……」

「ダメですか?」

 私は良いと言ってくれなければこの場を動かないという目つきで、看護師さんに詰め寄った。

「私、先生に聞いてみますね」

 私が看護師さんをじっと見つめていると、ナースステーションにいた片岡さんが助け舟を出してくれた。看護師はしょうがないなぁという表情をしていたけど、片岡さんは笑顔で医師に電話をしてくれた。

「朝倉さん、先生来るって。ちょっと病室で待ってて」

 

 私がエリンギの森を抱きしめながら、眠っているおじちゃんを見つめ病室で待っていると、その数分後、安西先生が現れた。

「朝倉さん。片岡さんから、話は聞きました」

「これ食べさせてあげたいんですけど……」

「その件なんだけどね。少しお話しさせてください。向こうの面談室でいいですか?」

 安西先生はそう言うと、病室を出て面談室にむかった。私は後についていき、面談室で安西先生の向かい合わせで座ると安西先生はゆっくりとした口調で話し始めた。

「朝倉さん、岡さんは以前お伝えしたように、いつ亡くなってもおかしくありません」

「はい、わかっています」

「余命わずかの人が、大好きなものを食べると、その達成感からそのまま亡くなる事があります」

「えっ、そうなんですか」

 私は驚いたと同時にせっかく手に入れたエリンギの森を食べさせてあげられないのかと思い、とても残念に思った。しかし、安西先生は続けて言った。

「朝倉さんの気持ちはとてもよくわかります。それはきっと思い出のお菓子なのでしょう?」

「はい、私とおじちゃんの思い出のお菓子なんです」

「そうですか……。もし、それを食べさせるのであれば、念のためお父さんを呼んで、そろったら私に伝えてください」

「はい、わかりました……」

 おじちゃんは今、生きている。だから、生きているうちに少しでも幸せに感じる事をしてあげたい。エリンギの森はただの美味しいお菓子ではなく、二人にとっては、思い出のつまったアルバムのようなものだ。だから、私はおじちゃんと一緒にエリンギの森を食べたかったのだ。


 三十分後、お父さんが病室に現れた。

 私はおじちゃんに聞かれないようにと思って、お父さんと廊下で話をした。

「ねぇ、お父さん。おじちゃんに、これを食べさせてあげたいの。でも、食べたらそのまま亡くなる事もあるって先生が言ってて。だから、お父さん呼んだの」

「そうか……」

 お父さんはすぐに私の言っている事を理解してくれた。数秒間は考えたものの、結論はすぐに出た。

「春香の意思を尊重するよ」

「ありがとう。お父さん」

 すぐさま、私はおじちゃんの病室に戻る。

「おじちゃん」

 私がおじちゃんの軽く肩を叩くとゆっくりと目を開いた。今の意識レベル低下は麻薬が効きすぎているのではなく癌が肝臓に転移しているためアンモニアがたまったことによる高アンモニア血症による意識低下だった。一時期点滴で治療をしたけど、それも効かなくなっている。

「おぉ、春香ちゃんか」

「買ってきたよ、エリンギの森。おじちゃん、一緒に食べよう」

 ちょっと買ってくるといって、一時間もかからず戻る予定だった。でも、予想以上にエリンギの森は売っていなくて、もうすっかり日が暮れてしまっている。そして、おじちゃんの周りには、私とお父さん、安西先生と看護師の木暮さん、それに片岡さんもいて、勢ぞろいしてしまっていた。

「みんなそろって、どうしたんだよ」

「ううん。なんでも無い」

 私はおじちゃんを見守る人たちをぐるっと見渡してから言った。

「ほら、食べさせてあげるね」

 お菓子のパッケージを開けて、一粒つまんでおじちゃんの口元に運ぶ。それをおじちゃんは目を閉じて、ゆっくりと味わった。

「うめぇな。やっぱりうちの菓子は最高だな」

「うん……」

「俺は世界一幸せだな」

「うん…………」

 おじちゃんは一粒食べ終わるとそのまま眠りに落ちた。眠った事を確認すると、一度集まったスタッフは散り散りに去っていった。

 癌は肝臓にも転移していたため、皮膚は黄疸の黄土色に加え、抗がん剤の副作用により赤みと黒みが足されて、とても綺麗とは言えない色だ。太っていたお腹の中身は脂肪から腹水に変わった。一時腹水をドレーンで抜いたり、利尿剤で抜こうと試みたけど、もうどちらも行う事はできない。

 たまに口元が動く事があった。夢を見ているのだろうかと思っていたら、浅い呼吸を繰り返した。私は、これが死戦気呼吸なのではないかと思って、ナースコールを押した。すると、すぐに安西先生も木暮さんも片岡さんも次々に訪室してきた。

「どうしました?」

「あの、呼吸がおかしくて」

 死戦期呼吸というのは亡くなる直前に発現する呼吸状態で、この呼吸になったら長くても数時間だ。呼吸に苦しむおじちゃんを見て、これまでの事が走馬灯のように蘇る。


 おじちゃんと再会したのは2ヶ月前。

 私が勤めている薬局に来てくれたっけ。

 その時、シンガポールのお土産って言ってエリンギの森をくれた。

 次に会った時は、おじちゃんは抗がん剤の処方箋を持ってきた。

 今、思い出してもショックだったなぁ。

 せっかく再開できたのに、もういなくなっちゃうなんて。

 でも、その時にかかりつけ薬剤師として、責任を持っておじちゃんを見送るって決心したんだ。

 その後は、ずっと病院でしか会ってないね。

 顔にも背中にも軟膏をいっぱい塗ってあげたね。

 もう湿疹は良くなって、よかったね。

 あと、モルヒネの量を増やしたとき効きすぎちゃって眠かったね。

 そのあと、量が減ったら起きれるようになったよね。

 あれは私が先生に提案して量を変えてもらったんだからね?

 おじちゃん、感謝してね。

 それと、あの駄菓子屋さんまだやってたよ。

 おじちゃんのお菓子がいっぱい置いてあったよ。

 おばちゃんが前より小さくなって、おばあちゃんになってた。

 私の事は覚えてなかったみたいだけど、二人で行ったら思い出してくれたかな?

 また、おじちゃんと一緒にあの駄菓子屋さん行きたかったなぁ。

 一緒に行ったら、わがまま言ってお菓子たくさん買ってもらうんだから。


 おじちゃん、まだ死なないで……。


 呼吸も徐々に詰まりむせこむようになり、むせこむのが終わったと思った直後、一瞬全身が硬直し一気に脱力した。心電図モニターも、ピーという単一の音と共に平らになった。

 その音を聞きつけた看護師の木暮さんと安西先生が病室に現れ、呼吸停止、心停止と瞳孔散大を確認し「ご臨終です」と言った。お父さんがただただじっとしている私を見て「春香、後はお父さんがやるから」と言った。そう言われた瞬間、私は急に涙が溢れて止まらなくなっていた。

「私はおじちゃんに、何もしてあげられなかった」

 悔しくて悔しくてその場にへたり込み、声を出して大泣きしてしまった。

 私がもっと良い薬剤師だったら、おじちゃんはもっと長生きできたんじゃないかな?

 違う抗がん剤を提案していれば副作用でなかったんじゃないかな?

 もっと良い薬の使い方があったんじゃないかな?

 もっと勉強していれば良かった。もっと勉強していれば、おじちゃんをもっと幸せにできたかもしれない。

 私は今までいったい何をしていたのだろう。


 私は気づいたら、病院の入り口のベンチに座らされていて、次に気づいた時には家のベッドの中にいた。お母さんが私を家に連れて帰ってくれたみたいだけど、どうやって帰ってきたかほとんど覚えていない。

 お父さんはおじちゃんが亡くなった後の事を全て一人で引き受けてくれている。搬送から葬儀まで全て。私はというと何もしていなかった。最低限必要な時以外には顔を出さずに、全てが終わるまでお父さん任せた。

 私は数日忌引きをもらった。でも、すべてお父さんがやってくれたので実質、私はずる休みをしていたようなものだった。ベッドの中でおじちゃんのことを考えながら少し泣いてはそのまま眠りに落ちて、起きたら夜だった。

 リビングに降りてみると、そこはいつもと変わらない風景があって、おじちゃんが亡くなったことなんて嘘のようだった。日常を感じた私はいつものように働かなければならないと同時に思った。


 翌日、クローバー薬局では出勤してきた私を久美子さんが心配し、誰よりも先に声をかけてきた。

「春香、もう大丈夫なの?」

「はい、おじちゃんは無事天国に行きました。お休みをいただいてご迷惑おかけしました」

「いろいろ大変だったと思うけど、仕事は続けられそう?」

「今回、おじちゃんのかかりつけ薬剤師をやってみて思ったんです。もっと、おじちゃんのために何かできたんじゃないかなぁって。もうおじちゃんには何もしてあげられないけど、他の人にはきっとしてあげられると思うんです。だから、頑張ってもっと成長して、薬剤師として人を幸せにしたいんです」

 私は久美子さんを真正面から見つめ決意を伝えた。

「そう、じゃぁこれからも一緒にがんばりましょう」

「はい」

「朝倉さん、お客様が来てるよ」

「あっ、はい……」

 私は管理薬剤師の真澄さんに言われて、誰だろうなんて思いながら投薬カウンターへ足を運ぶとそこには、みなとみらい病院の薬剤師でおじちゃんの担当をしてくれた薬剤師の片岡さんが立っていた。

「こんにちは」

「片岡さん!」

 私は片岡さんの来局に驚き、そして嬉しかった。

「朝倉さん、もう仕事復帰しているの?」

「はいっ、頑張らなきゃって思って」

「そう、すごいね。あの、これ忘れ物」

 可愛い紙袋に入って手渡されたのは緩和ケアの本三冊だった。

「病室に置いてあって、看護師さんは私の本かと思ったみたいで私の机に置かれてたの。これ、朝倉さんのよね」

「ありがとうございます」

 そういえばどこにいったかなぁと思っていたのだ。すぐに読む本ではないけど、返ってきてよかった。

「それと、岡さんから預かりもの」

 次に手渡されたのが白い封筒だった。白い封筒は偶然にも二ヶ月前に久美子さんから手渡された退職勧告が入った封筒と同じものであり、一瞬びくりとしてしまったが、中をあけるとおじちゃん直筆の手紙だった。

「春香ちゃんへ」と描かれている。

 すぐさまその封筒を開けて便箋を取り出す。内容はたった三行だけで、



春香ちゃんへ

俺の最後を看取ってくれてありがとう

きっといい薬剤師になるよ



 それだけだった。それでも、私は溢れる涙を止めることができなかった。

 絶対いい薬剤師になるんだ。目の前にいる片岡さんのような。涙で片岡さんの顔はぼやけて見える。絶対この人みたいになるんだ。そう思って白い封筒を握りしめた。


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