眼鏡の内に秘められし可能性
その日の晩からみっちりレッジーナとアッジルの丁寧なレクチャーが続いた。
着付け、作法、礼儀、マナー、しきたり、振る舞い、方言などなど。
庶民の知識に加え富豪になりきるために必要な知識を覚えては練習し、覚えては練習する。
今まで想像の域を抜けなかった婚潰しのイメージが段々と固まっていった。
結局、泊まりがけでコーチングしてもらうことになった。
翌日の晩にはややぎこちないながら富豪に見えるレベルまで仕上がった。
3人共、猛特訓や店番のせいで疲れの色が隠せない。
「して、いかがでしょうかマダム。今宵は旦那様とまみえ私と三人でディナーなど……」
レッジーナがグッっと拳を握った。
「いいわぁ!! それっぽく見える。無理のないように”祖父の遺産を受け継いだ駆け出しの青年実業家”って設定で調整してみたけど上出来よ。そのキャラクターなら無理して声のトーンを意識する必要はないわ。いつもどおり喋って。ウフフ、こんなどこの馬の骨ともわからない若造にラーレンズが一杯食わされるかと思うとたまらないわぁ!!」
ファイセルは長時間の特訓に脱力して座敷にへたり込んだ。
「あ~、今日は良くノダールが売れたなぁ。2人共おつかれさま。コフォーラ君の仕上がりは私から見ても素晴らしい。これなら余計な嫌疑を抱かれること無く、潰しに集中できるだろう」
レッジーナが思い出したように言った。
「そういえば、あなたコフォーラって名乗ってたわね。どうせ偽名ならもっとこっちの地方っぽい名前に変えたほうがいいわ。そうね……」
夫妻が2人でああだこうだ言い合っている。
なんだかんだでこの夫婦は仲睦まじい。
レクチャーを受けていても思ったが、なんというか相性がとてもいいのだ。
「決めた!! あなたはカルバッジアと名乗りなさい!! 青年実業家カルバッジアの誕生よ!!」
夫妻は気の抜けた様に座り込んでいるファイセルのそばへ駆け寄った。
「よし、明日に備えて皆、早く寝るとしよう。直接的な手助けは出来ないかもしれないが、私も家内も明日は高級な服を身にまとって、できるだけ前列で見守るつもりだ」
訓練を終えた少年はやや、やつれた様子で不敵に笑った。
気分はもう完全に富豪だと言わんばかりだ。
3人は向かい合って明日の健闘を祈り、床についた。
赤山猫の月の21日、とうとう結婚式当日の朝が来た。
ファイセルが目を覚ますと既に夫妻は目覚めており、慌ただしく身支度をしていた。
「あ、カルバッジアさん、おはようございます。今日着るノダールですが、着たまま歩くのもいかがなものかと思いますので、当初の予定通りにロンカ・ロンカで着付けをしましょう。お貸ししている普段着のまま、ロンカ・ロンカの宿屋へお向かいください。私どもと一緒に行きますと関係を疑われる可能性がありますので先に出発してください」
ファイセルは首を立てに振り、アッジルたちにに見送られながらボークスを出発した。
「リーリンカの奴、別れ際だと思い込んで好き勝手書いて!! 会ったらよくも身勝手な事をしたなって叱りつけてやらなきゃな!!」
ファイセルはリーリンカがこんな形での別れを決意したことについて、内心ではかなり腹を立てていた。
最初の頃こそ自分が手紙を見過ごしてしまったせいだという後ろめたさもあった。
だが、いくらなんでもこんな展開は予想しようがなかったという結論に至った。
そんな大事なことを誰にも相談してくれなかったリーリンカの水臭さにも憤りを感じていた。
イライラというかもやもやした感情を抱きながら、ファイセルはロンカ・ロンカ入りした。
朝っぱらなのに花火が上がっている。人通りも一昨日より遥かに多い。
マギ・ウォッチを見るとまだ朝の8時だ。それなのにこの賑やかさである。
とりあえず広場に向かってみたが、まだ式は始まっている様子がない。
ただ、式を見ようとあちらこちらから人が集まりつつあった。
予定の書かれた看板の文字を読んでみた。
(開宴は……9時半か……)
そうかからないうちにアッジル夫妻が到着するだろうとファイセルは宿屋に向かった。
部屋を借りてロビーで待っているとアッジルが大きなトランクを持って現れた。
「やあやあ、お待たせしました。家内は先に会場に向かいました。さて、早速ノダールを着つけるとしましょうか」
ファイセルとアッジルは借りた部屋に入って着付けを行った。
この間とは少し身につけるノダールの趣が違う。
黒を基調として華やかな紋様がこの間のものより多く施されている。
「こちらでは黒は上品な色として認識されているんですよ。よっぽど身分が高く無いと真っ黒な衣服やアクセサリーは付けないほどです。これはとっておきの一着です」
着付けが終わり、鏡の前に立ってみた。
相変わらず頭が布でグルグル巻きにされているので自分の顔がよくわからない。
一方のアッジルは暗め紺色のノダールでコーディネイトしてきた。
「私はしがない洋服店店主ですので大げさに着飾ってもこの位の色で。あとは頭に1枚、首と口元に1枚といったとこですな」
アッジルは慣れた手つきで首にノダールを巻きつつ、口元を覆った。
頭にささっとターバンのように2枚目を巻く。
アッジル夫妻から教わった限りではこの地方の男性の正装は基本的に口を隠すらしい。
女性の正装は特に決まりはないとの事だ。
ただ、ひと目でわかるように花嫁と同じ色の服は着てはならないそうだ。
男性とは逆に女性の場合は服の色が明るければ明るいほど身分が高いとされているらしい。
なので結婚式では必然的に花嫁が最も明るい色のドレスを着るのだという。
このあたりでは最も明るい白は逆に”忌み色”と呼ばれ縁起が悪いとされていて、新婦が着ることはないらしい。
「よし、着付けのチェックは万全です。これで簡単に脱げることはないでしょう」
しっかり着つけた割には体を圧迫されている感覚がない。
他の地域での正装に比べて非常に緩やかで快適だ。
巻いている箇所もそれなりにあるが、窮屈さがない。
頭部の暑さと脱ぎにくいという問題はあるが、他の地域でも採用すればいいのではと思うほどだ。
「ではカルバッジア殿、準備は宜しいですかな?」
ファイセルはゆっくり頷いた。
アッジルとはまた別々の時間に宿を出て、結婚開始前に広場についた。
広場は人でごった返していて、更にまだ人出が見込まれそうだった。
早速、広場の角で人混みに紛れる。
進もうと人だかりの後ろにつくと、小さな男の子がぶつかってきた。
「あっ、ごめんなさ……」
謝りかけた少年はすぐに母親にかばうように後ろにおいやられた。
「ああああ!! すいません!! 子供の粗相ですので何卒、何卒お許し下さい!!」
母親は息子が身分の高い人物にぶつかって難癖つけられるのでは思ったらしい。
このあたりではそれが当たり前の反応なのだろう。
彼女はパニックになり、頭を何度も深く下げて謝罪を繰り返した。
軽い騒ぎになってあたりの人が散った。
「いえいえ奥さん、私はこんな些細な事は気にしませんので。どうか頭を上げてください」
母親は思いがけない言葉をかけられ、驚いてつい無言になっていた。
「ぼうや、これだけ沢山の人がいるんだ。しっかり前を見ていないと迷子になってしまうよ? 気をつけることだね」
ファイセルが男の子にそう声をかけると少年は無邪気に頷き、母にしがみついた。
しがみつかれた母はすぐに我に帰って再び頭を深く下げた。
幸か不幸かその騒ぎのせいで一気にファイセルに視線が集まる。
歩く先々で人が道を開けた。堂々と花道を歩くように悠々(ゆうゆう)と舞台へ向けて歩いて行く。
「おい見ろよ、あのノダール。すげー!! さぞかし名のある貴族か何かなんだろうな」
「キャーーー!! 聞いた?! あんなに優しい富豪さん初めて見たわ~~~。どこの方かしら!?」
「かなり若いんじゃないか? それにしてはやけに貫禄があるな……」
人だかりがあれこれガヤガヤとうわさ話をしている。
歩いて行くと徐々に服の色から周囲の人々の身分が変わっていくのがわかった。
夫婦で参加している者は服の色の明暗が男女でハッキリ分かれていて、コントラストが映えている。
進むにつれより色の明度差は大きくなり、その様子はまるで暗い闇の中に光る星のようにも見えた。
広場の半分を過ぎて、しばらく進むと舞台に続く大きな道があり、カーペットがしかれていた。
その左右に座席が用意されている。
参加者席にはいかにも貴族や富豪のような服装をした人々だ。
席にはまだ空きがあったが、ファイセルは迷うことなく舞台に向けて更に前進した。
すると係員らしき男に止められた。
「すいません、ここから先は親族席となります。申し訳ございませんが、親族外の方は直後の席にお座りください」
そう言われて仕方なく親族席の1列後ろの席に腰掛けた。
親族席と周りの席から大勢の視線が集まる。一際目立つ黒いノダールだったので無理もない。
座った位置から舞台までの距離はそう遠くはなかった。
式の進行が完全に把握できる距離で、まずまずの好条件といったところだ。
緊張を解くため首を左右に振って伸びをし、体の力を抜いた。
いよいよ式が始まる。
「あー、あーあー。皆さん、本日はラーレンズ様の結婚式へのご来場、誠にありがとうございます。では、ラーレンズさんから入場していただきましょう!!」
司会が進行を始めるとそれなりの歓声が上がり、中年男性が舞台袖から現れた。
真っ黒なノダールを着ている。顔は全くわからないが、かなり太っていることはわかった。
「えー、ごふんごふん。諸君、私の結婚式に来たことを後悔させないような豪華な式を用意したつもりだ。飲んだり食ったりで楽しんでいってくれたまえ。あー、座る席のない冷やかしの見物客は終わったらとっとと帰るように」
このふざけたかのような態度にブーイングが来ると思った。
だが、ラーレンズに逆らうのが恐ろしいのか誰一人として声を上げるものが居なかった。
この場において彼は絶対なのだ。
「では、花嫁の入場です。ラーレンズ様の7番目の花嫁、リーリンカ様です」
反対の袖から明るい黄色のドレスを来て青い髪をなびかせた女性が姿を現した。
「んっ?!」
ファイセルは思わず素っ頓狂な声を上げてしまい、口を塞いだ。
(な、なんなんだあの美少女は……これリーリンカの結婚式だろ?! 間違ってないよな!?)
低い身長に綺麗な青い髪は確かにリーリンカだ。
だが、あまりにも美少女すぎるではないか。
ブ厚い眼鏡をかけていないと同一人物とはとても思えない。
どうやら眼鏡の下は美人という噂は本当だったらしい。
「わ、私がラーレンズ様の新しい花嫁になりますリーリンカです。皆様、以後お見知り置きを……」
広場中から拍手が上がる。
声を聞いてようやく彼女がリーリンカだと認識した。
顔がはっきり見える席だったのでもう一度目をこすって顔を見つめる。
(え~、ウソでしょ~。確定じゃないですか~。そりゃあ美人だったら嬉しいけど、男友達みたいに接してきちゃったからなぁ……ちょっと後悔してるかもしれない……)
改めて色目を使うつもりはなかったが、女の子扱いを態度をしなかった点がひっかかる。
もっともそんな態度だったからこそラーシェやアイネより近い距離で接してこれたのだが。
ぼんやりそんな事を考えていたが、急いで気分を切り替え直した。
式は着々と進んでいったが、その殆どがラーレンズの自慢じみた紹介ばかり。
花嫁なのにも関わらず、ほとんどリーリンカが話題に上がることはなかった。
前のほうの列にはテーブルがあり、食事や酒が振る舞われた。
いわずもがな、一般庶民は指をくわえて見ているだけである。
ラーレンズは貴族や富豪にコネ作りのために声をかけて回っていた。
しかし、ファイセルの方を見るとそっぽを向いて別の来賓達と話をしていた。
まるで利用価値がないとでも言いたげな扱いだ。少年は密かに怒りと闘志を燃やした。
昼食会が終わると、婚姻の儀式などで神官が来て2人を拝んだりした。
そしてリーリンカがノダールをラーレンズにかけたりと聞いていた通りのお決まりの手順で式は進んだ。
広場はひっきりなしに花火があがり、徐々に来賓も見物人も盛り上がっていった。
そしてついに式のクライマックスである婚姻の証の交換の時がきた。