第91話「裏口とか詳しそうだから」
職員室の前の貼り紙を、まっすぐ立って見上げているクラスメートの姿を見て、武藤貴美はデジャヴらしきものを感じた。ちょっと前に、同じような光景に立ち会ったような気がする。
彼女は、背伸びするでもなく、首を左右に振り向けながら何か探しているそぶりだったが、すぐにあきらめて踵を返す。
「弥生さん?」
貴美が声をかけると、内海弥生は、いきなり不審者に肩を引っ張られたみたいなオーバーな反応で、貴美のほうを振り返った。そこにいたのがクラスメートだとわかって、彼女は露骨にほっとした様子で胸をなで下ろす。
「貴美さん……びっくりした」
「どうかしたの? バイトでもするの?」
前のことを思い出して貴美が訊ねると、弥生は目をぱちくりさせる。
「バイト?」
「いや、違うならいいけど。何探してたの?」
「うん……貴美さんなら知ってそう」
「何?」
「バイクの免許って取っていいのかな?」
「……バイクと来たか」
貴美は唇を指で隠すように、顔に右手を添えた。口元だけにこもる低い声で、彼女は胸中の感慨をあふれさせる。
「どうしてうちのクラスの子は、こう、微妙なラインをついてくるのかな」
「何の話?」
「いや、ごめん、ひとりごと」
1年撫子組の生徒は総じていささか自由な傾向があり、どことなく、翠林女学院の伝統の幅に収まりきっていない。
その中でも、弥生はかなり正統派なほうだと思っていたので、貴美にとって彼女の言葉はなかなか意外ではあった。好奇心をおさえつつ、貴美は生徒手帳の内容を思い出して告げる。
「免許は先生の許可を取らないと駄目だね。条件はその都度検討だけど……遠隔地からの通学とか、そういう特殊事情がないと通らないんじゃないかな」
貴美も各自のケースを正確に把握しているわけではなく、クラス委員の集まりの際に、何となく聞いたことがある程度だ。都度検討、といえば柔軟にも思えるが、実際はそうとうちゃんとした条件を揃えなくてはならないらしい。
「通学に不自由はないでしょう? それとも二学期から引っ越しでもする?」
「ううん、そういうわけじゃ」
「じゃあ、無理だと思った方がいいと思う」
バイク通学をしている生徒なんて、高等部では見たことがない。大学のほうにさえ、どれだけ駐輪スペースがあるかわからないくらいだ。徒歩か、せいぜい自転車くらいが、翠林の空気を乱さないぎりぎりの線であろう。
貴美の言葉に、弥生は露骨にがっかりした様子だった。
「そうか……貴美さんなら、と思ったんだけど」
「何で?」
「裏口とか詳しそうだから」
「人聞き悪いこといわないでよ」
さすがに聞き捨てならなくて、口調がきつくなった。弥生はその剣幕にもきょとんとした顔で、首をひねる。
「褒めたつもりだったんだけど……融通が利く、って」
「言い方」
憮然として、貴美は弥生の顔をじっと見つめる。いつも誰より早く学校に来ているまじめな優等生、という感じの彼女だが、心の底ではどこかへんてこなところがあるのかもしれない。
さすが、あの初野千鳥と親友でいられるだけはある、ということか。
「ひょっとして、千鳥さんと関係ある?」
思いついて貴美が口にすると、弥生はまた激しくまばたきして、貴美をじっと見つめてきた。あまり特徴のない顔立ちだが、よく見ていると、ころころと表情が変わっておもしろい。驚いた弥生は、目がきゅっと開いて、街角に突っ立っているマスコットの人形のような顔になる。
「……よく気づいたね」
「なんとなくね。千鳥さんに対抗したいの?」
「対抗、っていうか」
ぺたん、と頬に手を当て、弥生はむにゅむにゅと唇を波打たせて、言葉を選ぶ。
そうして、ようやく告げた言葉は、どこか照れくさそうな小声だった。
「……同じような景色を見れるところまで、届きたい」
健脚自慢の千鳥は、街を隅から隅まで歩き回り、しばしば街の北側を区切る山にものぼっている。リュックとカートでキャンプ用品を持ち歩いては、野外活動をも楽しんでいるらしい。物理的にいえば、いちばん翠林の枠を外れているのは彼女だろう。
見るからにおとなしくて、あまりスタミナもなさそうな弥生だ。彼女にほんとうについて行こうと思えば、エンジンの助けくらいは借りたくもなろう。
貴美は、納得しながらも、すこし笑ってしまう。
「だからっていきなりバイク?」
「悪い?」
ぴょん、と弥生の眉の端が跳ね上がった。やっぱり、どこか子どものおもちゃみたいな、極端な感情表現だ。
「一足飛び過ぎじゃない?」
「だって、千鳥さん、自分でテントとか担いで運んでるんだよ。私じゃそんなの、持てっこないし、だったらバイクか原付は」
息を吐いて、貴美は、まじめな顔をして弥生と向き合う。じっと真正面から、弥生と目線を合わせると、彼女はぐっと息を呑むようにして押し黙った。
「そんな重いもの持って、慣れない乗り物運転してたら、転んじゃうよ。そしたら、それこそ自分ひとりじゃない大損害じゃん」
「……でも」
あからさまに気落ちして、弥生はうつむいてしまう。
こういうときに、うっかり感情のコントロールを間違えて、相手を過剰反応させてしまうのが、貴美の悪い癖だ。
貴美はとっさに、笑顔を作る。
「無理に荷物抱え込まなくても、だいじょうぶだよ」
「……そうかな」
「いきなりバイクじゃなくても、自転車とかさ。ママチャリじゃなくて本格的な奴」
貴美の提案を聞いて、弥生は、ちいさく息を吐きながらうつむいた。内側に気持ちが入り込んでいくと、だんだん、彼女の表情が消える。そうして突っ立っている弥生は、古い家の客間に飾られる日本人形にも似ていた。
そして、その沈黙の奥から、か細い声が漏れてくる。
「……ありがとう、貴美さん」
「ん」
たいしたアイディアでもなかったが、とりあえず、役には立てたらしい。貴美は弥生に背を向け、その場を去る。
買いかぶられて、怒られて、最後は放っておかれて、少々損な役回りだ。でも、そういうのも、嫌いではない。
二学期になって、弥生と千鳥が、自転車で並んで登校してくるかもしれない。そんな姿を見れば、たぶん貴美は今日のことを思い出して、ひとりで笑うだろう。長い夏休みの先のことを想像して、貴美はすこし、おかしくなった。
貴実の思い出したエピソードは75話ですね。