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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第90話「びっくりするくらいしゃっきりした声で怒ってたよ」

 昼下がりの礼拝堂の会衆席に、梅宮(うめみや)美礼(みれい)の姿を見つけて、芳野(よしの)つづみは身廊の真ん中で足を止めた。
 美礼の様子は、祈っているとも、眠っているともつかない。ふだんから持ち歩いているタブレットは、膝の上で裏返しにされている。両手は胸の前でゆるく組み合わされ、体は背もたれにゆったりと預け、リラックスした様子だ。
 それが眠っているふうに見えなかったのは、頭ばかりがまっすぐに、芯をすっと通したように固定されていたからだ。

 つづみは、彼女の眠り、あるいは祈りを妨げないよう、足音を殺して歩を進める。身廊を挟んで真横の席に腰を下ろして、つづみは、そっと目を閉じた。

 数分の沈黙。

 つづみが目を開けると、椅子に横座りして、美礼がこちらを向いていた。タブレットを手にして、スタイラスを画面の上ですばやく左右させ、何か描いている様子だ。

「お絵描きなら、外でなさっては?」

 そう、つづみが窘めると、美礼はタブレットに視線を落としたまま答える。

「そうはいかない。つづみさんを描いてるんだから」
「……もっと、他に描くものがあるのではないですか?」

 美礼はつづみの言葉を聞き流して、スタイラスを動かし続ける。迷いのないその筆さばきに、一瞬、つづみは目を奪われてしまう。美礼のマンガにはさほど関心はないのだけれど、その高校生離れした技術はつづみも知っている。
 かんたんにできているように見えることほど、その奥底には艱難辛苦の積み重ねがあるものだ。

 美礼の衣擦れの音だけが、礼拝堂の広大な空間をかすかに伝っていく。
 つづみは身じろぎもせず、まっすぐに背筋を伸ばしている。美礼は、つづみのほうを見たり見なかったりしながら、ひたすらに手を動かす。

 と、ふと美礼が目を上げた。

「何かしゃべってもいいよ。退屈じゃない?」

 あっけらかんというので、つづみはすこし拍子抜けした。緊張に満ちた美礼の面差しには、言葉どころか物音ひとつさせることも憚られるような、ぴりぴりした圧力を感じていたからだ。
 つづみが思うほどには、美礼は気むずかしくはなかったらしい。

「……大丈夫なのですか? わたしが、モデルなのでしょう?」
「一度つかんじゃえば、あとは形にするだけ。動いてもしゃべっても平気、そこにいてくれれば」

 それは、ほんとうにモデルとして機能しているのだろうか。つづみは疑わしく思うけれど、美礼の方法には口出しすべきではないとも思い、いわずにおいた。
 そのまま、黙って座っていてもかまわなかったし、ほんとうに教室に戻るという選択もあり得た。そうしたら、たぶん美礼は無言でつづみの絵を描き上げて、何事もなかったみたいに礼拝堂を出て、一年撫子組の教室に戻ってくるだけだろう。
 つづみは、そんなに薄情ではない。

「わたしを描いてくれるの、そういえば、初めてですね」

 お互い幼稚部からの翠林生で、顔ぐらいは古くから見知っていたし、同じクラスになったことも複数あった。しかし、入学当初からいつも”おいのりがかり”で、大人たちの覚えもめでたかった芳野つづみと、お絵描きばかりに精を出し、しばしば行方不明になったり教室を汚したりした問題児の梅宮美礼とでは、住む世界が違っているようなものだった。
 必要な会話はしたし、つづみから美礼にお説教したことくらいはある。けれど、美礼のほうから、つづみにこんな接触を求めてきたのは、つづみの覚えている限りでは、前代未聞だ。

「どういう風の吹き回しですか? よほど題材に困っているとか」
「それはありえない。撫子組はおもしろい子ばっかりだもん」

 そういって、美礼はタブレットの画面をかるくつついた。

「つづみさんも、おもしろくなりそうだったから」
「そうですか?」

 自分では、何かが変わったつもりはない。中等部のころと同じに、礼拝と信仰に勤め、学業に励み、ときおり友人たちとの交遊をはかるだけ。
 誰かを引きつけるような魅力のないことは、自覚している。外に魅力を発信することより、内面を磨くことのほうが、そしてそれ以上に主と対話することのほうが、彼女には大事だった。
 彼女自身が、興味の対象にならなくてもかまわない。そんなつもりでいた。

 美礼は、手のなかでくるりとタブレットを回転させ、小脇に抱えた。どうやら、作業は済んだらしい。それから彼女は、すぐに席を立つでもなく、まっすぐにつづみを見つめる。
 思わず、つづみは眉をひそめた。美礼は自分の外見には気を遣わないようで、髪も眉もあまり手入れした感じがない。制服も、着崩しているわけではないのに、どことなくぱりっとしていなくて、なんだか丸めて放りだしておいたのをそのまま着てきてしまったような感じがある。
 主の前では、もっと身だしなみを整えるべきだ。つづみの脳裏に、そんな思いが浮かぶ。

 けれど、それをいまの彼女は口にしなかった。
 その自然さ、粗雑ささえも、美礼を構成する大切な側面だ。あえて飾りたてたり、わざとらしく整えたりしない。それもひとつのあり方かもしれない、と、つづみは思う。
 たしかにそれは、幼いころの彼女には、なかった思考だ。

「……つづみさんは、勘違いしてる」

 美礼が口を開いた。

「勘違い?」
「私、一度、つづみさんを描いたことあるんだよ。幼稚部のころ」
「……そうでしたか?」

 今日みたいに、つづみの知らないうちに描いて、そのままにしたとか、そういうことだろうか。首をかしげたつづみに、美礼は、苦笑を返した。

「幼稚部でいちばん最初のおいのりの時間。私、礼拝そっちのけで、絵を描き始めちゃって……しかも床にクレヨンでさ。先生は怒るし、当のつづみさんも、びっくりするくらいしゃっきりした声で怒ってたよ。主の前にひざまづけ、みたいなこと」
「え」

 そういわれても、まるきり思い出せない。最初、ということは彼女も美礼も4歳、10年以上前のことだから、覚えていなくても仕方がない。
 とはいうものの、美礼がそうも明確に言い切るのだから、事実なのだろう。
 自分の記憶にないことを人から聞かされるには、なんだか、ひどく居心地が悪い。口を半開きにして唖然とするつづみを見て、美礼の表情が、ふいに優しい色を帯びる。目元がすこしゆるみ、唇が三日月よりも淡い笑みを形作ると、彼女の面差しには、はっとするような魅力があふれる。

「あのときさ。ほんとうに、きれいな子だな、って思ったんだよね。つづみさんのこと」

「……冗談でしょう」

 つづみは首を振った。翠林のほかの生徒と比べても、自分の容姿が凡庸であることくらい、さすがのつづみも自覚している。
 しかし、美礼も、そっくりそのまま、首を横に振った。

「顔の話なんてしてないよ。外見には、あんまり興味ない」

 美礼が立ち上がって、身廊を横切り、つづみのそばに歩み寄ってくる。

「おいのりしてるつづみさんって、ほんとにきれいでさ。だからつい、描きたくなったんだけど……でも、学年が上がるにつれて、ただきれいなだけで、そんなにおもしろみないかな、って思うようになって」

 ぽかんと、つづみは美礼を見つめる。
 美礼は、さっきまでスタイラスを握っていた手をそっとつづみのほおに伸ばし、触れた。
 しなやかに、水しぶきのように跳ねる美礼の指先は、いくぶん冷たく、そのうえに心地よく、つづみの頬をなでる。

「でも、いまのつづみさんは、ずっとおもしろい」
「……!」

 ばちんっ、と。
 電気がはじけたみたいに、つづみは立ち上がった。よろけるように一歩退いて、美礼から離れる。上半身がくらりと横に揺らいで、倒れ込みそうになるのを、片手で椅子の背を握りしめて支えた。
 無意識に、口元を二の腕で覆っていた。

 ふと、美礼の表情が変わった。ほほえみの優美さがかき消えて、残ったのは、あいまいで固い微笑だけ。

「ごめん。近づきすぎたね」

 首を振り、美礼は、タブレットを手に早足で礼拝堂を出ていく。激しい足音は、静謐な礼拝堂に不躾に響きわたったが、つづみは、それを注意することさえできなかった。
 ばたん、と、重たい音を立てて扉が閉まる。静まりかえった礼拝堂に、耳の痛くなるような沈黙が訪れる。

 立ち尽くしたつづみは、しばし、動けなかった。

 美礼の手は、いけない。あの手は、人の触れてはいけないところをのぞきこんでくる。次に彼女の指先がつづみを描くときがあったら、そのときはきっと、全力で止めないといけない。でないと、何か、とんでもないことが起こる。
 つづみは、そう確信していた。

 けれど、ほんとうに、美礼を止められるかどうか、つづみにはまったく自信がなかった。
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