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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第92話「思い浮かべると、心がとろとろになる人」

 準備室のドアを、なるべく音がしないようにそっと閉めて、西園寺(さいおんじ)るなは細く息を吐いた。誰にも、出来れば中にいた人々にも、その音が聞こえていなければいい、と思いつつ、彼女はきびすを返す。
 すぐそばに、人影があった。

「わ」

 るなは大声を上げかけて、とっさに自分の口をふさぐ。その目の前で、小首をかしげた桂城(かつらぎ)恵理早(えりさ)は、一度大きくまばたきをして、つぶやいた。

「見ちゃった?」
「……うん」

 るなの脳裏に、薄明かりに覆われた、生物準備室の情景が甦ってくる。両側の壁に設置された棚、ずらりと並んだ標本を守るガラス戸、そこに映り込む、白衣の先生と、制服の女生徒。重なったふたりの影は、あわく伸びて、部屋の真ん中の机の上を横切っていた。
 背のちいさな、若い生物教師は、わずかに背伸びをして、生徒の唇に、顔を寄せていた。
 ふたりの唇が重なっていたかどうか、確かめる余裕なんてなかった。

 顔の表面に意図せず湧き上がる熱を、るなは自覚した。頬に、そっと手を当てる。
 恵理早は、準備室の扉にちょっと目をやった。

「いまの時間は、ああだから」
「ああ、って?」
「ぽわぽわ」

 擬音語とも何ともつかない恵理早の言葉は、いまひとつ理解しがたかった。が、言いたいことはよくわかる。

「ともかく、邪魔するなってことね」
「そう」

 素っ気なくうなずく恵理早の頭の中は、どうなっているのだろう。準備室で起きていることを知っていて、それでも平然としているのだろうか。
 ひとりで焦っている自分が、ひどくウブなのかもしれない、と思えてきた。

「待った方がいいの?」
「急ぎなら」

 るなはちょっと考える。こんな所で立ち話をしていて、中にいる人たちに気づかれてはバツが悪い。
 ちらり、と窓の外を見やる。まだ放課後になったばかりで、外は明るい。すこし開いた窓から、グラウンドの控えめな歓声が聞こえてくる。

「……明日でもいっか」

 とりあえず早くここから去りたくて、わざとらしく口にしつつ、るなは歩き出した。恵理早は自然に、彼女の隣にくっついてくる。彼女のふわふわとした髪の毛が、るなのかたわらで上下にバネみたいに揺れる。
 丸っこい目がくるりと動いて、るなの横顔を見つめてくる。恵理早の無表情には、しかし、強い好奇心が抑えきれずににじみ出て、放っておいたらいつまでも見つめ続けられそうな予感がした。

「……もう1学期終わりでしょう? 成績やばいから、今のうちに相談受け付ける、って話で」

 るなの成績は、はっきり言って悪い。
 中間も期末も目も当てられない成績で、追試の連続と温情で何とか切り抜けた、という状態だった。しかし、いつまでもこの調子で、最悪留年となれば、勘当とは言わないまでも、祖父に大目玉を食らうに違いない。
 温情を求めるなり、自主的に補習を受けるなり、対策する必要があった。
 ひとまず、期末で特にひどかった生物の先生に相談に来た結果が、これだ。

「まさか、毎日あの調子じゃないでしょ?」
「部活がある日の方がいい。人の出入りが多いし、変なこと出来ないから」
「……そうでない日は?」
「近づかない方が身のため」

 恵理早の口ぶりは素っ気なかった。彼女自身も、何も見ず、聞かなかったことにしている、とでも言うような様子だ。
 何も知らないはずはない。けれどもさすがに、あえて聞き出すつもりにはなれなかった。るなは額に手を当てて、首を横に振った。

「そっちこそ、何か用事じゃなかったの?」
「るなさんがぐちょぐちょに踏み込んじゃいそうだったから、引き留めようと思っただけ。遅かったけど」
「ぐちょ……」

 そこまで状況は進展していなかった、はずだ。想像すると、また顔が赤くなる。
 るなのそんな反応を無視して、恵理早はひとりごとみたいにつぶやく。

「何もなければ、すこし標本を弄りたかったんだけど」
「……熱心ね、恵理早さん」
「これくらいふつう」
「ふつう……?」

 薄ぼんやりとした夕暮れの中にいるせいか、恵理早の肌はふだんよりいっそう冷えて、硬い陶器のような質感に見えた。彼女の仕草や外見は時として、意志の通わない操り人形を思わせる。
 その、どこか人間離れした仕草の奥には、鋭利な感性と確かな知性、そして情熱が燃え盛っている。

「ふつう、って、どのくらいのことを言うんだろうね」
「人それぞれ」

 恵理早の答えに、るなは一瞬、面食らった。ふつう、という概念から大きくかけ離れた、ちぐはぐな言葉のような気がした。
 共有できない”ふつう”なんて。

 でも、恵理早の言いたいことは、すこしわかる気もする。
 万人がほんとうに当然と認められることなんて、きっと、そんなにない。

 恵理早はすでに、自分の尺度を自分の中に構築してしまっているのだろう。だからこうして、自分のペースを保っていられる。
 るなには、それがかなりうらやましい。彼女はまだまだ、目に見えない、遠い何かに振り回されてばかりだ。胸のうちさえ、上手に制御できていない。

 ふたりで階段を降りる。踊り場を曲がり、下る階段にはちょうど日射しも明かりも届きにくくて、足元がおぼつかない。あえて強めに段を踏むと、上靴が床を叩く音が甲高く響いた。自分で驚いて、今度は静かに、闇の底に足を下ろしていく。
 るなのそんな態度を横目に、恵理早はひょいひょいと階段を降りていく。

「……さっきみたいなのは、ふつうなのかな」

 恵理早の背中に、るなは訊ねた。二階の廊下に駆け下りた恵理早は、薄暗い廊下の真ん中できびすを返す。薄く茶色みを帯びた髪が、ふわりときらめく。

「ぽわぽわ?」
「するな、とか、変、とか、そういうのは思わないけど。なんだか、いきなり見せられると……」
「びっくり?」
「……なのかな」

「るなさん、意外とがちがちだね」

 恵理早に言われると、返す言葉もない。
 立ち止まったるなに、恵理早はわずかに前のめりになって、顔を近づけてくる。首を持ち上げ、まっすぐに、あごの下から見つめられると、逆に圧迫されているような気になる。
 影に染まったリノリウムの上に、恵理早の白い顔が浮かんでいる。

「とろとろな人、いないの?」
「とろ……?」
「思い浮かべると、心がとろとろになる人。あなたの心を、溶かしちゃう人」

「……すくなくとも、あなたではないね」

 目の前にいる彼女は、あんまり硬質すぎて、きっとつるつるでがちがちだ。るなの心に割り込んできても、きっと硬くて尖ったままで取り除けない。
 忘れられないかもしれなくても、きっととろけたりはしない。

「こういうのも、恋バナって言うのかな?」
「知らない」

 そういう話には、恵理早も詳しくないらしい。るなは、無言で肩をすくめた。
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