第29話「もやっとしてる。それに、ふらふらしてる」
花壇、教室、植物園。
そういう場所ではたぶん見つからないだろう花を探して、内海弥生は図書館を訪れていた。彼女の目当ては、窓際にある低い棚にずらりと並んだ図鑑だ。きっとこの中でなら、何か珍しい花を捜し当てられるのではないか。
大小、軽重さまざまの図鑑のうちから、彼女は何冊か選び出して、両腕で抱えて近くの机に運ぶ。
なるべく音を立てないよう、そっと机に本を置き、静かに一息。
「やあ」
いきなり声をかけられて、びくりと息が止まる。
おそるおそる、振り向く。机の上にべったりと、ほとんど溶けているように体を横たえた桂城恵理早が、顔だけこちらに向けていた。もっさりした髪を、ずるずると引きずるようにしているその様子は、なんだか地べたをはいずる軟体生物のようだ。
「ここで会うなんて珍しいわね」
「え、ええ……」
のろのろと、押し出されるような恵理早の声に、弥生はすこし引いてしまう。
教室では、恵理早と弥生の席は隣同士なのだが、あまり喋ったことはない。恵理早はいつも心ここにあらずの風情でぼうっとしているし、弥生は弥生で逆隣の席の初野千鳥と話してばかりだ。ふたりの関係は、近くて遠い。
恵理早は、すぐに弥生に興味をなくしたようで、ぐるりと頭を動かす。彼女の頭のすぐ前には、何か数式のようなものの書かれた専門書が開かれている。数学だろうか、と思ったが、よく見るとそれは数式ではなく化学式だ。
のろのろと恵理早はページをめくる。次のページには、また化学式と説明、そして顕微鏡写真。弥生は、教科書で見たことのある細胞のそれを思い出した。
ともあれ、覗き見ばかりしていてもしょうがない。弥生は手元に植物図鑑を広げた。
図鑑の中には、未知の世界が広がっている。
家の近くでも見つけられそうな春の野草のとなりに、北国にしか咲かない高山植物の写真がある。別の本をめくれば、毒々しい色で実際猛毒を持つキノコや、不気味な形に進化した南国の花の威容がカラー写真で掲載されている。
けれど、彼女は、そんな珍しい花が欲しいわけではなかった。
弥生が探していたのは、すこしだけ冒険すれば探し出せるような、教室にふさわしい色と形を持った、そういう花。
いつか千鳥に言われたことを、ずっと考えていたのだった。
花の名前をリクエストしてくれたら、それを摘んでくる。可能な限り、要望には応える。
そしてその花を、教室の花瓶に飾ろう。弥生が毎朝、水を換え、世話をする花を選んで、飾ろう。
千鳥の提案は、弥生にとって嬉しくもあり、不安でもあった。
弥生は、花の名前なんてあまり知らない。チューリップ、レンゲ、カスミソウ、ヒマワリ、ツツジ……思いつく名前は、誰でも知っているような安易なものばかりだし、言葉しか知らないものだって多い。月桂樹が黄色く白い花をたくさんつけるというのを、彼女はいま初めて知った。
そんな自分に、花を選ぶなんてできない。千鳥の手を煩わせることなんて、よけいに。
焦りに突き動かされたように、弥生は図鑑をめくり続けた。
そして気がつくと、チャイムが鳴る。図書館は人の姿もまばらで、みな教室に戻る準備を急いでいる。
例外は、さっきと変わらぬ姿勢でページをめくる恵理早くらいだ。
「恵理早さん。授業、始まるよ」
言わずもがなの忠告をして、弥生は図鑑を閉じ、元の棚に戻す。
その背中に、ふいに、恵理早の声がした。
「それでいいの?」
「え?」
振り返れば、相変わらず机に横たわったままの恵理早が、弥生を見ている。
横になって、退屈そうで、あくびでも漏らしそうなその顔は、しかし奇妙に弥生の心をつかんで離さない。
瞳の色は薄ぼんやりと淡いのに、奇妙に鋭くこちらの胸を貫いてくる。図書館のほの暗い蛍光灯の下で、恵理早の目は、夜行性の生き物のように光っていた。
「もやっとしてる。それに、ふらふらしてる。探し物、見つかってないんでしょう?」
見透かされた。弥生は答えも返せず、つかのま立ち尽くす。
恵理早の言うとおりだった。
図鑑の中に広がる、大きすぎる世界に圧倒されて、弥生は何も決められなかった。花の名前ひとつさえ、満足に選べなかった。
「ずっと探していけばいいのに」
「それは……でも、授業があるし」
「からからだよね、弥生さん」
突然の恵理早の言葉は、弥生にはとっさに読み解けない。恵理早の独創的な擬音表現は、会話する相手をしばしば戸惑わせる。時には授業でさえそんな受け答えをして、教師をぽかんとさせることがあった。
今、その直撃を受けて、弥生は為すすべもなく突っ立っていることしかできない。
本鈴が鳴り響く。我に返った弥生は、恵理早に挨拶もせず、小走りに図書館を飛び出していた。恵理早はずっと机に横たわったまま、動き出そうとさえしなかった。
恵理早の無断欠席より、自分の遅刻をどう言い訳しようかと頭を巡らせながら、弥生は教室へと向かう。
小走りになって、焦って、呼吸が荒くなる。口の中が、やけに乾いている。
ふいに、乾燥しきった砂漠の写真が思い浮かぶ。図鑑の中にあった、熱帯植物の写真。棒のように、身ひとつで突っ立っているその植物は、灼熱の陽射しの中でただ懸命に生き延びようとしているのだろう。
けれど、それはいやに寂しい姿だった。
きれいな花を咲かすでもなく、水を求めて葉を伸ばすでもなく、根を広げるわけでもなく。
ただ、ぴんと、まっすぐに立っているだけ。
「……からから、って、そういうこと?」
花の名前さえろくに知らない。
つまらない授業に出ることに汲々としている。
千鳥のように冒険に出ることもできない。
毎朝、ただ早く来て、することと言えば花の世話だけ。
何の理由もない。
弥生はそれだけのものだ、と。
恵理早は、そう言いたかったのだろうか。
踵を返し、図書館に駆け戻って、恵理早をどやしつけてやりたかった。
だけど、弥生の足は自然と教室に向かっていて、すでに授業の始まっている教室の横をおそるおそる歩き抜けて、階段を忍び足で下りている。
教室のドアをこっそりと開けて、先生に、なかば困惑したような顔で注意される。
最前列の自分の席に腰を下ろすと、隣の席で、千鳥がふしぎそうな表情をしていた。遅れるなんて珍しい、と、そう言いたげな顔。
弥生はそれに、曖昧に肩をすくめて、席に着き、古めかしい黒板に向かい合う。
授業には、ほとんど身が入らなかった。
乾いた体を潤してくれるものは、そこにはない。
ないのに、弥生は、そこにじっと座っているだけ。
左隣、空っぽの恵理早の席の向こうから、陽射しが彼女の足下に落ちてくる。
なんだか、このまま、ひょろひょろの乾物になって、へし折れてしまいそうだった。