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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第30話「でも、道に迷いたくはない」

「ひさしぶりだね」

 毎日学校で会っている相手に対して、そのあいさつはいささか奇妙だった。けれど、内海(うつみ)弥生(やよい)はほかのあいさつを思いつかなかったし、初野(はつの)千鳥(ちどり)はとくに違和感を表明するでもなく、ふだんのままのポーカーフェイスで会釈を返した。

「ごきげんよう、弥生さん」

 まっさらに、ぴかぴかに清められた朝の教室に、ふたりの声はりんとした響きを残した。
 まだ、彼女たち以外に1年撫子組の生徒は登校してきていない。教室にいるのは、弥生と千鳥のふたりだけ。
 今日は、千鳥の方が15分ほど弥生より遅かった。そのせいで、千鳥が登校する頃には、弥生は花瓶の水を換え、窓枠に雑巾をかけて、教室をすっかりきれいにしてしまっていた。

 無言でこなす仕事ははかどるけれど、つまらない。

「今日も全部お任せしてしまいましたね」
「いいのいいの、別に、頼んでるわけじゃないし。仕事ってわけでもないし」
「そうですか」

 千鳥があっさりとうなずいて、自分の席にリュックを載せる。ジッパーを手早く開いていく彼女の手際を横目に、弥生はなんだか、脱力感を覚えた。
 もっと千鳥が、積極的に手伝おうとしてくれているような、そんな期待を抱いていたからだ。もちろん、彼女に甘えようという心づもりではない。そもそもそこまでたいそうな作業でもないし、押しつけられた義務というわけでもない。弥生が勝手にしている善意を、千鳥が横からサポートしてくれるというだけだ。

 それにしたって、もうちょっと、千鳥にはやる気があると思っていた。

 リュックから机に教科書を移している千鳥を横目に眺めて、弥生は訊ねる。

「今朝は、どこまで行ってたの?」
「すこし東の方に足を伸ばしてみました。平凡な住宅街ですが、だんだん人の姿も減って、少々廃墟めいた趣が加わってきましたよ」
「不吉だなあ……」

 近隣の街の住人としては、あまり笑える話でもない。人口減少そのものも、人の消えた街をひとり歩く少女も、どことなく怪談の予兆めいている。
 千鳥は弥生が引いている気配をかぎ取ったのか、淡々とした口調で話し続けた。

「山の方に道を折れると、古いトンネルに通じるんですよ。道路からして舗装が剥げて、ひび割れも目立ちます。ガードレールを乗り越えた木々の枝が頭の上にかかって、歩道などはいっそう薄暗く感じましたね。トンネルの間近までくると中からこう、ぬるい風が」
「やめてすでに怖い」
「単に事実を描写しただけですのに」
「そういうのがだめなの」

 おどろおどろしく語られたら、むしろ冗談として片づけられる。事実を抑揚なく列挙されることで、勝手に意識が描写の隙間を埋めようとして、想像力が過剰に働いてしまうのだ。
 たぶん、実際に行ってみれば、ただのおんぼろなトンネルなのだろう。でも、弥生の頭の中では、すでに怪談の舞台としてイメージされていた。それらしいBGMさえ聞こえてきそうだ。

 せっかくの朝のさわやかな空気に、霊とか呪いの気配がこびりつくみたいで、弥生は肩を縮めた。

「そのトンネル、入って行っちゃダメだよ」
「あんまり遠くに行くと、さすがに授業に遅れてしまいますからね」

 弥生の忠告に、千鳥はズレた答えを返した。単なる天然ぼけなのか、わざと言っているのか、彼女の無表情な横顔からは読みとれない。

「トンネルを越えた先はもはや道なき道となっているらしく、興味深いのですが」
「いや、ほんとにやめときなよ……好き好んで迷い込むことないじゃない」

 整備された道を歩くだけなら、まだわかる。気持ちよくて、安心で、いつでも引き返せるなら、遠くに行くのも悪くはないし、散歩には新しい発見もあるだろう。そういう経験なら、弥生だって歓迎だ。
 でも、道に迷いたくはない。

 当たり前だと弥生は思うのに、なぜだか、千鳥はうなずいてこない。

「そういうのを切り開いていくのも、楽しいかと思うのです」
「でも、何も自分の手でやらなくったって」
「……弥生さんは、探検に、意義は感じませんか?」

 問いかけられて、弥生は言葉に窮した。
 誰も見たことのない場所を開拓し、新しい世界の広がりを見届けること。それは確かに、大切なことなのかもしれない。
 だけど、それをするのは、自分たちでなくてもいい。
 もっと強くて、もっと頭のいい人たちが、なんとかしてくれる。

 少なくとも、今となりにいる背の低い少女の役割ではない。
 そんなことを言えば、千鳥はきっと怒る。

「私は、そういうのには、あんまり興味ない、かな」

「そうですか」

 うなずいて、千鳥は、落下するように背中を丸める。リュックを枕代わりにして、うつぶせて、ちいさくつぶやく。

「……めずらしく、今朝は、すこし眠いです」

 そう言うが早いか、彼女は目を閉じてしまった。

「千鳥さん?」

 弥生は、ふと伸ばした手を空中で止めた。
 もはや千鳥は居眠りの姿勢で、ぴくりとも動かない。背中すら微動だにしないので、呼吸まで止めたのではないか、と疑ってしまうほどだ。ほんのすこし、机の脇から垂れた髪の毛先が、かすかに前後に揺れるのだけが、千鳥の意識の断片をうかがわせる。

 とことんまでマイペースだ。
 弥生の心配も意に介さず、放っておけば、どこまでも歩いていってしまうだろう。
 彼女の背負ったリュックも、ふわふわの髪も、彼女自慢の登山用ブーツも、きっと弥生の指さえ引っかけられない。
 そのくらい、千鳥のことが、遠く感じられる。

 千鳥を、じっと見つめる。ふだんはまっすぐに伸びた背筋が、今はなだらかに丸まって、ひとつの丘陵のように机の上に乗っかっている。藍色の制服からはみ出す白い首筋に、うっすらと、骨の形が浮き上がっている。それは、見てはならないもののように、薄い皮膚に覆われて、くっきりと存在感を示している。
 まだ春と言っていい季節なのに、千鳥の肌はほんのりと汗をかいていた。首の後ろの突き出た肌に、うっすら湿り気が浮いている。

 触れたい。
 心臓にばくんと炸裂するような欲望を、弥生は息をのんで押し込める。口を両手で押さえ、赤くなった頬を隠して、目をそらして、何も見ないふりをする。
 すがすがしい朝には、お化けよりもふさわしくないものが、自分の口からわき上がってくるのを抑えつける。

 そして、数秒。
 ゆっくり、ゆっくり、息を吐く。

 スリッパ越しに、足の裏に押しつけられる感触。
 気づけば、弥生は、机の脚をつなぐ棒をぎゅっと踏みしめるようにしていた。

 弥生は両肘を机に載せて、黒板の下、さっききれいにしたばかりのつやつやの床を見つめた。
 もう、となりに、目は向けられない。
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