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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第28話「ただの蝶結びですよ」

千鳥(ちどり)さん、ほんとうに脱いだまま過ごすつもり?」

 一時間目の授業が始まる寸前、内海(うつみ)弥生(やよい)は、隣の席に座った初野(はつの)千鳥に耳打ちした。

「もちろんです」

 千鳥はひそめた声で、しかし力強くうなずいて断言する。どうやら、彼女の意志はきわめて強固で、そのこだわりを打ち砕くことは弥生にはできそうもない。
 弥生は、ちらりと視線を動かす。人目につかないところとはいえ、本来なら隠しているべき部分の素肌をさらしているのは、他人のことでもなんだか気恥ずかしい。しかし、当の千鳥自身は、恥ずかしげもなく、隠れもしないという態度で先生が来るのを待ち受けている。
 弥生は説得するのをあきらめ、最後に一度、千鳥の机の下に目をやる。

 千鳥の素足が、机の下でゆらゆらと前後に揺れていた。


「このところ、スリッパがますます苦手になってしまって」

 休み時間になっても、千鳥は素足のままだった。

「ふだんの靴と違って、固定されてないのが落ち着かないんです」
「だからって、はだしになることはないんじゃない?」
「せっかくですから。開放的になるなら、とことんまで」

 千鳥はまるで自由をアピールするように、机の前につきだした両足の指を広げたり閉じたりしてみせる。子どもが冗談でやる足指ジャンケンみたいだった。

「先生に指名されたらどうするの?」
「はだしで立っていてもばれないと思います」

 足の裏が汚れるのは苦にならないのだろうか、と思う弥生だったが、千鳥のリュックからぶら下がるタオルを見て、言わずにおいた。

「……板書は?」
「なんとかなります、おそらく」
「だんだん言うことがいい加減になっているよね……」

「弥生さんも試してみてはいかがです? 清々しいですよ」

 ちょん、と、千鳥は器用に足の親指で弥生のすねをつついた。きれいな桃色をした親指の爪が、弥生のソックスの厚みを透かして淡い感触を残す。
 千鳥の素肌は、はっとするほど白い。教室の薄い光のなかで皮膚の色は際だち、一瞬、残像となって弥生の視界に焼き付くようだった。
 山を歩き、野を駆けるのを愛する千鳥のことだ、きっと素足で幾度も川に飛び込んだことだろう。尖った石も、川魚もものともせず、真っ白な足で水を蹴立てていく千鳥の姿は、容易に想像できた。水をすくい、しぶきをあげて、踊るように自然を楽しむ彼女は、どんな顔をしているのだろう。

「ほら、もう時間ですよ弥生さん。そちらこそ、予習は大丈夫ですか?」

 千鳥に言われて、弥生は自分が空想にふけっていたのに気づいた。黒板の上の時計を見れば、もう休み時間は終わる寸前だ。弥生はあわてて席に座り、教科書を取り出した。


 結局、千鳥はトイレに立つ以外の時間をはだしで過ごした。
 放課後、片手にぶら下げたスリッパを自分の下足箱に直して、千鳥は百メートル走のベストタイムを出した人みたいに、やり遂げた表情をしていた。

「意外と誰も気づかないものですね」
「いや、突っ込まなかっただけだと思うよ」

 千鳥の放言に、思わず弥生は突っ込んでしまう。たぶんほかの生徒も分かっていたと思うが、千鳥にそれを指摘しても無駄だと思っていたのだろう。

貴実(たかみ)さんやつづみさんも何も言わなかったんだから、まあ、校則には反してないんだろうけど」

 だからといって、足の裏が汚れるのをいとわない生徒は、翠林でも千鳥くらいのものだ。弥生には当然、そこまでする勇気はない。すこしでも、尖ったものや柔らかいものが落ちていたら、と思うと、素足で学校の床に立つ気にはならない。自室で気を抜いているときがせいぜいだ。

 千鳥は下足箱から、いつものトレッキングシューズを取り出す。足首まで覆うハイカットで、山野を歩くにも便利な優れものだ。弥生も持たせてもらったことがあるが、見た目の頑健さと裏腹に軽くて驚いた記憶がある。
 シューズを三和土に置き、座り込んだ千鳥は、リュックサックからベージュ色のタオルを引っ張り出して、足の裏をごしごしと拭き始めた。かかとから、土踏まずを経て、指先へと、丹念に汚れを落としていく。
 人目もはばからずに、千鳥は足をぐるりと裏返すようにし、足指の股にまで指とタオルを押し込んでいく。彼女のスカートが太ももまでまくれあがるのを、弥生はとっさに手を伸ばして押し下げた。

「千鳥さん、危ないって」
「大丈夫ですよ、どうせ女子しかいないんですし」
「そういう問題じゃ……」

 脚の付け根のあたりまで見えそうになっていて、弥生は気が気ではないのだが、千鳥自身は意に介していない。なんだか、弥生のほうが道化になってしまったように思える。
 足の裏をこすりあげて、気持ちよさそうに目を細める千鳥を見て、なぜだか弥生は、野生の獣を連想した。

 ひとしきり足をきれいにして、満足した様子の千鳥は、リュックから今度はソックスを引っ張り出す。何でも出てくる魔法の壷みたいだった。
 シンプルな黒いソックスを履いて、ぎゅっと引っ張りあげて、脚を覆う。そうして、靴を履き、きつく靴紐を締める。

 千鳥が靴紐を結ぶ動作は、手慣れた料理のように素早い。あっという間に、蝶結びが完成する。

「どうやったらそんなに速く結べるの?」
「慣れですよ。難しいことはないです」

 あっさりと千鳥は言うが、弥生にはちっともぴんとこない。ただの蝶結びでさえ、彼女たちの間には何か歴然とした差が生じていて、それはどうにも埋めがたいもののように思えた。

「……教えてよ。結び方」

 甘えたような声が、口から滑り出た。千鳥がふと顔を上げて、アーモンドのような形の目でじっと弥生を見つめる。驚いたように、瞳孔がすこし広がっているのを、弥生は見つめ返す。
 弥生自身も、自分の声に、いくらか困惑していた。できることなら、取り戻したいとでも言うように、彼女は両手をぼんやりと空中に漂わせる。何か言い足したかったけれど、何も思いつかなかった。

 千鳥は、わずかに首を振って、立ち上がった。

「ただの蝶結びですよ。練習すれば、誰でもうまくできます」

 そう言ってから、ほんの一瞬、間をおいて、千鳥はちいさく舌を出した。赤い舌が、千鳥のどことなく印象の薄い顔に、ドキリとするほど強いアクセントを残す。

「かく言う私も、うちでずっと練習していましたから。新しい靴を買った夜に、何度も何度も」
「……そう」

 弥生は、かすかに笑った。放課後の空気に声が溶けた。
 ふたりはいっしょに玄関を出て、砂利道を歩き出した。足音は並んで、夕方の空にそっと舞い上がっていくようだった。
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