第110話「風邪の日の天井ってさびしいよね。何か、降ってきそう」
「リンゴ、食べる?」
小室雪花がいうと、ベッドの中から梅宮美礼がうつろな目で見つめ返してきた。雪花の差し出した白い皿は、彼女の視界には入っていないかのようだった。
「雪花さんって、なんだか、すごく……」
つぶやいてから、美礼はちいさくせきこむ。雪花は気遣わしげに、彼女の分厚い掛け布団をかるくたたく。
「無理にしゃべることないよ。眠たいなら寝とけば?」
「うん……」
うなずいた美礼は、いわれるがままに目を閉じる。あっというまに彼女の呼吸はゆっくりになり、かすかになる。熱っぽく赤らむ彼女の肌には、ぽつぽつと汗が浮いていて、余剰の体温がわずかずつ外に吐き出されているのが目に見えるようだった。
話し相手がいなくなって、雪花は、ぼんやりと部屋を見回す。
美礼の家を訪れるのは初めてだったし、そもそもそんなつもりは初めはなかったのだ。
近所にある香西恋の家にでも遊びに行こうと思った雪花は、家を出たところでその恋とはち合わせた。美礼が夏風邪を引いたと聞き、心配して見舞いに行くのだという。彼女に誘われ、雪花も恋についていくことにした。そのくらい退屈していたのだ。
雪花を誘った恋は、いまは階下のキッチンで美礼の母親の手伝いをしている。よその子どもをキッチンに入れるというのは、美礼の母がよほど鷹揚なのか、それとも恋のコミュニケーション能力が意外に高いのか。どちらかというと、後者のような気がする。恋はあれで、押しも強いし、ふしぎと何事にも我を通してしまうところがある。
ともあれ、恋もおらず、美礼が眠ってしまうと、雪花はとたんに手持ちぶさたになる。
美礼の部屋は、さっき恋がいくらか片づけていたとはいえ、それでもずいぶん雑然としていた。読みさしの本が床に放り出されたままだったり、よくわからないガラクタが机の上に積み上げられていたりする。
その机の片隅にある黒くて四角い板は、彼女が愛用しているタブレットだ。たいてい美礼は、それで絵だかマンガだかを描いている。
そういえば、部屋にはマンガ本はすくない。本棚にあるのも、大判のイラスト集や、イラストの練習法といった実用的な書籍が大半だ。案外、自分では楽しまないものなのかもしれない。いずれにせよ雪花には興味のないものだし、人のものを勝手に物色するのも失礼に思えて、手を伸ばすのは控えた。
だから、ほかに目を向ける場所もなくて、雪花は美礼の寝顔を見つめる。
授業中の薄ぼんやりした姿か、絵を描いているときの熱中した様子しか見たことがなかったから、この、熱っぽいとはいえ穏やかな彼女の様子は、いささか物珍しい。いつも無造作でざんばら気味の髪が、枕の上で花が咲いたみたいに広がっている。
目を閉じていると、眉のりりしさも手伝って、顔全体がわりと引き締まっているのがわかる。案外、美少年っぽい顔だ。
こんなに間近に人の顔を見る機会は、ありそうでなかなかない。
つい、引き込まれるように、雪花は美礼の顔をのぞき込んでしまう。
突然、バネ仕掛けのように、美礼が起きあがった。
「……は!」
「わ!」
雪花はびっくりしてのけぞる。美礼は雪花の顔なんか目に入らない様子できょろきょろと辺りを見回し、床に広げてあったスケッチブックを手に取る。
ずっと手に持っていたらしき鉛筆で、彼女は、紙の上に何かをさらさらと描き始めた。
雪花がスケッチブックをのぞき込むと、そこに描かれていたのは、生物の授業でみた細胞分裂の光景に似た、意味不明の曲線と楕円が交錯しあう世界。
「何それ」
思わず問うと、美礼はこちらを見もせず答える。
「夢」
「……はあ」
なんの説明にもなっていなかった。雪花は、それ以上は何も訊かないことにした。たぶん、満足なことばは得られないだろう。
雪花はただ、一心不乱な美礼の横顔を見つめる。熱はまだ下がっているはずもなく、横顔の頬は紅潮して、目も血走って赤い。鉛筆を動かす手も、どこか危うげだ。
彼女の絵も理解できないし、その行動を駆り立てる情熱も、ぴんとこない。
それでもなお、美礼の姿は、なにか雪花の胸を打つものがあって、だから雪花は美礼の無謀さを止められないでいる。
そうして、数分。
「……はう」
ぷっつりと、糸が切れたみたいに、美礼はスケッチブックを放り出して枕にうつ伏せに倒れ込んだ。ぼん、と爆発に似た音がする。
「ちょっと、大丈夫? 無理しすぎじゃない?」
「でも、描かないと、忘れそうだったし」
「風邪のときのことなんて、わざわざ残さなくてもいいじゃない」
不調をおして無理をしても、いい結果はついてこない。すくなくとも、雪花にはそんな経験はなく、むしろフォームを崩して後々まで苦労することのほうが多かった。だから雪花は、調子が悪いときにはすぐに泳ぐのをやめるようにしている。
けれど、絵を描くというのは、そういうものではないのかもしれない。
不調のとき、頭がぼんやりしているとき、いつもと違うとき。そういう瞬間にしかとらえられないものが、あるのかもしれない。
雪花は、むしろ、平板であること、いつも同じ調子であることを意識していた。大切な大会の日が近づくと、朝起きてから寝るまでのルーティンがどんどん固まっていき、家を出るのに右足から踏み出す、というようなことまで固定されるようになる。
そうでないと、ベストの結果が出ない、と信じていたから。
それとはまるで違う、炸裂して狂うような何かが、美礼には大切なのかもしれなかった。
ずるり、と、枕からわずかに顔を横にずらして、美礼が雪花を見た。
「……雪花さん、なぜここに?」
「お見舞い。さっき挨拶したし、リンゴもあげたじゃない。まだ寝ぼけてるの?」
「ああ、そうだった」
美礼は枕の上でずるずるとうなずくように顔を動かして、ごろり、と横になる。
そうして、雪花を見上げる。
「ごめんね。わざわざきてもらっちゃって」
「……ううん。私はただのつきあいだし。いいだしたのは恋さん」
「ふうん」
じっ、と、美礼は、値踏みするように、雪花の様子を頭から足下まで見回す。それから、ちいさく鼻をすすって、つぶやく。
「今日は鼻が利かないから、よくわからないな」
「何が?」
「雪花さん、描きたいような、そうでもないような、微妙な」
「……ほんと、寝てなよ。まだ熱あるんでしょ?」
雪花は膝で美礼の布団にいざりよって、彼女の額に手を当てる。まだ体温が高い。雪花が彼女の身を押さえるようにしてやると、美礼はごろりと上を向いて、ちいさく息を吐いた。
「……風邪の日の天井ってさびしいよね。何か、降ってきそう」
「蜘蛛とか?」
「そういうのじゃなくて」
雪花の問いに、美礼は憮然とした声で返してきた。どうもいい返答ではなかったらしいが、雪花にはよくわからない。美礼の感性は、雪花からは遠いところにある。
それでも、雪花は座り直して、美礼と向き合おうとする。
「さっき、何かいおうとしてなかった?」
「さっきって昨日?」
「何それ。寝る前だよ……私が何か、すごく、どうとか」
「ああ。あれ……あれ、夢か何かだと思ってた」
「……じゃあいいや」
美礼の夢の話なんて、きっと、聞いても伝わらないだろう。絵で描かれてさえ、よくわからないのに。
ため息をついた雪花を、美礼はすこし、ほほえんで見つめた。
「そういうところ」
「え」
布団の中から、美礼の手が伸びてくる。いつのまにか鉛筆を手放していた彼女の右手の指が、その繊細な描線のタッチさながら、ゆるやかに、しかし力強く、雪花のまるい頬骨の上に沿って動く。
「その、カラッポなとこ。すごくおもしろい」
「……カラッポ、って」
「風邪引いてなきゃ、もっと、うまく描けるのに」
するり、と、雪花の肌をなでていた指が滑り落ちる。指先が、一瞬だけ唇をかすめて、そのまま布団の上に落下する。
美礼は、あっというまに寝息を立て始めた。気まぐれな彼女は、眠りも目覚めもいつも唐突で、まったく予測できない。
そんな彼女のことは、雪花には、まるで理解できない。彼女の言葉の意味も、うまく、感得できない。
それなのに、それからずっと、雪花は、美礼の寝顔から、目を離せないでいた。彼女の、熱を帯びた、細い吐息を、ずっと聞いていた。