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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第111話「光って、音がして、それだけで、十分」

 窓の外から聞こえる稲光と、遅れて低く鈍く届く雷鳴から身を守るように、近衛(このえ)薫子(かおるこ)はブランケットにくるまっていた。赤ん坊の肌のような薄ピンク色は、子どもじみている、と彼女自身が冗談の種にしたばかりだ。
 だから、この落雷もかるい天罰だ、と内藤(ないとう)叶音(かのん)は思っていた。

「大丈夫だって。遠い遠い」

 雷との距離の測り方は、昔理科の授業で教わったのをぼんやり覚えている。音は大きいけれど、距離は5キロ以上離れているみたいだし、この辺に落ちたりはしないだろう。
 叶音の言葉にも、薫子は青ざめた表情を変えようとはしない。

「そんなの関係ないわよ……光って、音がして、それだけで、十分」
「カメラのフラッシュも恐い?」
「それとこれとは別でしょう!」

 かなり本気の声で怒られ、叶音は肩をすくめた。ベッドの上でダルマのようにうずくまっている薫子は、両手でブランケットを抱え込みながら、またぶるぶるとかすかに震え出す。自分の大声に、自分でびっくりしたかのようだった。
 不安げに、彼女はつぶやく。

「帰れるかしら」
「ただの夕立だよ、すぐ終わるって」
「でも、早く帰らないと、支度が」
「めぼしい準備は終わってるんでしょ?」

 薫子が叶音の家を訪れたのは、旅立ち前の最後の別れだということだった。明日、予定していた北欧旅行と実家訪問に出発するのだ。
 とはいえ、今生の別れというわけでもなし、さほど辛気臭い雰囲気にはならなかった。薫子から旅程を見せてもらって、白々としたノルウェーの光景に魅了され、緑に覆われた田舎の景色にはしゃいだ。向こうから日本に写真を送る方法を検討して、昔ながらの絵はがきもおもしろいのではないか、と言い合った。

 そうして、薫子が夕方前に帰ろうと言い出したところで、いきなり外から雷鳴が響いて、彼女はあっという間にブランケットの中に逃げ込んだのだった。

 ちいさくなった薫子は、普段の背筋を伸ばした凛々しいたたずまいとは正反対の、か弱い女の子に見えた。
 叶音は、すっかり片づけられたテーブルに両肘をついて、薫子を見つめる。彼女の膝の先にあるゴミ箱には、お菓子の包み紙が丸めて放り込まれている。飲み干されたカップの中で、わずかに溶け残った氷が転がる。北半球にある北欧もきっと真夏で、流氷は見られない、と、薫子はすこしだけ残念がっていた。

「……そろそろ、雷、やんだかしら」

 ブランケットの奥に隠れた薫子の口から、くぐもった問いが聞こえる。
 叶音は立ち上がって、カーテンの向こうの街の景色を眺める。こぎれいに整頓されたような住宅街に、ぼたぼたと大粒の雨が降り注いでいる。先の雷鳴でみんな家の中に避難したのか、路上に人影はなく、ただ雨粒がアスファルトを真っ黒に染めていた。向かいの家の裏庭に、あっというまに水たまりができて、叩きつけるような雨が波紋を描きだしている。
 夕立は、たいてい、雷の後に雨がくる。

「いまは、雨のほうが強くなってきた」
「……傘を借りていけるかしら」
「10日以上借りてくつもり?」

 いたずらっぽく笑い、叶音は座り直した。

「ちょっと粘れば、雨はやむよ。もうすこし待てば?」
「……そうね」

 叶音の部屋のベランダにも、大粒の雨が落ちてくる。平板な騒音に包まれながら、ふたりはなんとなく、目線を交わす。

 電車が遅れて、車内に閉じこめられている間は、何となく会話する気分にもなれずに黙り込んでしまう。元通りに電車が動き出せば、自然と言葉もよみがえるのだけれど、それまでの時間は、なにか、心までダイヤの異常に狂わされてしまう。
 そんなふうに、予定外に引き延ばされた出発は、彼女たちの気持ちまでも、べったりと変形させているみたいだった。

 真っ青だった薫子の表情も、いくぶん平静さを取り戻していた。あったかいものでも飲むか、熱いシャワーでも浴びていけば、もっとすっきりするだろう。
 そんなことを考える自分を、叶音は、すこし不思議に思う。時間がないこと、ほんとうは薫子も急いでいることを、自分でも承知しているはずなのに。

「もし、さあ」

 落ち着くためのブレイクタイムの提案をする代わりに、叶音は面白がって訊ねる。

「飛行機が雷雲に巻き込まれたらどうする?」
「やめてよ」

 縮こまる薫子は、また顔を青くする。

「逃げ場ないから恐いよね、飛行機」

 叶音の軽口は止まらない。いつもなら空気を読んですこしは加減するのだけど、今日は、薫子の前だから、調子に乗った。

「ハイジャックとか、テロとか、事故とか、確率としちゃ珍しいかもしれないけど、巻き込まれたらたいがい大惨事だしね。ふつうに地上にいるより安心、とはいえないかな。それに海外旅行ってなれば日本よりも犯罪率も」
「やめてってば!」

 ぴしゃり、と、叩きつけられた薫子の叱咤が、叶音の呼吸をつかのま止めた。ひきつった音を残し、叶音は言葉を止めてしまう。
 怒りにまかせてブランケットを脱いだ薫子が、ベッドから立ち上がって叶音に詰め寄る。その堂々たる圧力は、実に彼女らしくて、勇ましくて、痛烈。

「旅行の前なんだから不安に決まってるでしょう! それをよけいに怖がらせて何が楽しいの! どういうつもりよ! 叶音さんらしくないわ!」

「……そりゃそうよ。こっちだって寂しいんだから」

 薫子があんまり激するから、つい、叶音も本心がこぼれた。

「今年もいっしょに夏祭り行けるかと思ったのに。何なん、急に家族旅行とか。冷たくない?」

 一瞬、薫子は戸惑った様子だった。まばたきして、首を振って、振り上げた拳の置き所を求めるみたいに髪を一度大きく引っかいた。

「そんなこと、いまさら……」
「いまさらでなきゃ、いつ言うんよ。はしゃいでるかおさんに水させないし、かっつって出発してからじゃ手遅れだし」
「なら何? 私はどうすればいいの? あなたのために飛行場から引き返して、いっしょにお祭り行こうね、って笑ってあげるの? そんなメロドラマが必要なシチュエーションかしら?」
「……まさか」

 叶音の声は、ため息とも苦笑ともつかない。

「だから、そんな深刻な話じゃないんよ。かるく受け流してさ、安心して飛行機乗ればいいって、そういうこと」

 実際、落雷の恐怖なんか、薫子には笑い飛ばしてほしかった。なんでもない顔をして、平然と、機内で映画でも観ながら両親と仲睦まじく過ごしていればいい、と思った。

 たかが夏休みの旅行で離ればなれになるのが、泣きそうに辛いなんて、そんなの子どもの冗談でしかない。
 そういうふうに解釈して、叶音のことばなんか、全部戯れ言だと思って聞き流してほしかった。

 自分がこれからの10日間を、泣きそうになりながら過ごすなんて、そんなの、絶対冗談に決まっていた。決まっている、はずだった。

 でも、たぶん薫子は、額面通りにその言葉を受け取ってはくれない。いくら彼女が素直で率直でも、そこまで鈍くはないだろう。

 部屋に沈黙がよぎる。夕立は、ほんとうにあっというまに通り過ぎたのか、もう雨音はゆるやかになっていた。誰かがアスファルトの水を踏んで、はしゃぐ声がした。

 薫子が、ちいさく吐息をついた。それから、やにわにベッドの上からピンク色のブランケットをひったくって、両手で抱える。

 そのブランケットを、叶音にむけて放り投げた。

 空中で大きく広がった桃色の布は、叶音を包囲するように落下する。虚を突かれた彼女は為すすべもなく、その布の中に取り込まれてしまう。視界が淡く暗くなって、ふいに、ひどい不安感がよぎる。布をはぎ取ったら、もうそこに薫子がいないのではないか、という、ぞっとするような想像。

 震えかけた叶音の体を、ふいに、あたたかいものが包んだ。
 布越しに薫子の気配がして、叶音はゆるやかな腕に抱えられた。両肩に力がくわえられて、逆に叶音の胸から緊張がほどけて消える。

 あいまいな声が、聞こえた。

「すぐに戻るから。泣かないで待っていて」
「……泣くわけないし」

 ブランケット越しの小声が聞こえるかどうか不安だったけれど、薫子はかすかに笑って反応を返してきた。きっと、腕を介して音が通じた。

「ほんとうに?」
「約束」
「なら、毎日、私に笑顔の写真を送ってよ。でなかったら、泣いていたことにするから」
「……ずっこい」
「先に意地悪したのは、叶音さんのほうだもの。そのくらいでなければ、釣り合わないわ」

 くすくすと、薫子の声が聞こえる。
 布と、腕とから、彼女のかすかな笑いが全身に伝わってきて、叶音は、その声と、薫子の体温のあたたかさに包まれて、一瞬、とろけてしまった。
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