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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第109話「叱るのだって、それなりに力を使うんです」

 博物館の建物を出るなり、大垣(おおがき)風夏(ふうか)は深いため息をついてしまった。

「窮屈でしたか?」

 芳野(よしの)つづみが、気遣わしげに訊ねてくる。はっとして、風夏は口元を手で押さえた。居眠りを指摘された小学生みたいだった。

「えっと、あの」
「いいんですよ。素直な感想をもらえたほうが」
「……すみません」

 ますます恐縮して、風夏は全身で縮こまってしまう。夏にそなえて新調した流行色のワンピースが、肌にまとわりついてくしゃくしゃに潰れてしまったような気がした。
 傍らのつづみは、制服かと見まがうような渋い色のスカートと、サマージャケットを羽織っている。この炎天下では暑苦しそうに思えるが、つづみは汗ひとつかかない。
 まるで、博物館の展示物さながら、おだやかな冷気と乾燥で守られているかのようだ。

 今日の博物館デートは、つづみの提案だった。
 翠林女学院の最寄り駅からふたつ先、そこからさらに山側に歩いたところにある、風光明媚でモダンなデザインの博物館は、キリスト教関連の絵画や芸術作品をたくさん所蔵しているらしい。翠林を設立したのと同じ資産家が関わっているそうで、両者の縁は長くて深い。
 その博物館のチケットに割引が利くのだ、とつづみから教えられたのが、夏休みに入ってからのこと。
 特別展があるので、いっしょに行こうと誘われて、風夏はふたつ返事でうなずいたのだった。

 もちろん風夏は、自分が芸術を鑑賞する素養なんて持っていないことを、すっかり忘れていた。

「すこし、どこかで休みますか?」
「ん……」

 つづみの提案にうなずいた風夏は、自分の声が、風邪でも引いたみたいにひどく疲れているのに気づいた。博物館の中の空気は、彼女の体力をすっかり削いでしまったらしい。

 つづみが風夏を連れてきたのは、博物館のそばの裏通りにある、古風なカフェだった。展示会のビラが窓に貼られていて、半券を持っていれば割引してくれる旨が告知されている。
 足を踏み入れると、つづみの顔を見て店主が気安く声をかけてきた。つづみは微笑んでうなずき、勝手知ったる足取りで壁際の席に向かう。風夏はちょっと腰が引けながら、彼女についていった。
 お冷やをいただいて、ようやく人心地ついた。店内に流れる冷房の空気も、肌を締めつけるような厳しさはなく、安心できる温度だった。

「何か食べます? グラタンやエビピラフがおすすめですけど」
「熱そうなメニューばっかだね」

 相談の結果、サンドイッチのセットをふたりで分けることにした。つづみはアイスコーヒーにミルクと砂糖を入れ、風夏はオレンジジュース。
 甘酸っぱいジュースを口に含むと、ようやく気持ちがすっきりして、いくぶん目が冴えた。油絵の具の呪縛が抜けて、眼前のつづみの顔がまともに見えてくる。

「こちらこそ、すみませんでした。誘ってしまって」
「ううん、つづみさんのせいじゃないよ」

 両手でコップを握りしめながら、焦り気味に風夏はいう。組んだ両手をテーブルに載せたままのつづみは、彼女の声をおだやかに受け止めている。風夏は、すこし前のめりになって、言葉を発し続ける。

「断ることも……できたかもしれないし、途中で休んだり、無理しなかったり、力抜いたり、そういう、なんていうか、セルフコントロールができてなくて」

 博物館という世界の生み出す緊張感に、風夏は押し潰されていたのだった。
 薄暗くてひんやりした建物の奥に、自分とは縁もゆかりもない物事を描いた油絵が飾られている。静寂の中、人々はゆったりと、その絵を得々と眺めて回っている。彼らの真似をして、同じような態度を取ってみたけれど、風夏の頭は混迷から抜け出せなかった。
 キャプションの文字も目に入らないし、入り口で借りた音声解説も右から左だった。親に連れられてきた子どもたちの落ち着かない態度も、いっそう風夏をかたくなにさせた。ちいさな子どもとおなじには見られたくなかった。

 ずっと隣にいたつづみに、ひとこと話しかけられれば、きっと一から十まで解説してくれたろう。
 だけれど、まっすぐ、透明な瞳で絵画と向き合う彼女の邪魔をすることは、自分が緊張感に押し潰されることより、ずっと、許せないことだった。

 だから、最後まで、何もわからない中で、何かわかったような顔をして、風夏は館内を通過した。
 あとすこし耐えられれば、つづみを失望させずにすんだかもしれない。

 言葉を思い切り吐き出して、風夏はぎゅっと、コップを強く握った。背中に重たく尖ったものが押しつけられているような気分で、うなだれた。
 つづみのおだやかな視線が、風夏の頭上から、水のようにそそがれ続けている。

「わからないことも、それを偽ることも、仕方のないことです」

 そして、つづみはあまりに優しい。

「そうやって頑なになっている人のことは、外から解きほぐすしかない。私がちゃんと見てあげていれば」

「……つづみさん。あんまり、あたしを甘やかさないで」

 ほんとうに疲れていたのだと思うし、無理をしていたのだと思う。
 だから、そんな、いいたくもない言葉が口をついてしまった。

「不出来だったら叱ってくれていいし、まずいことしたら、きちんと注意してよ。でないと、あたし」

「……んん」

 困ったような、つづみの声。それは、流れるようないつもの彼女の声とは違っていた。むしろ、引っかかって外れない、錆び付いた釘のように、風夏の胸に突き刺さった。

 ふと、顔を上げる。
 右手にグラスを持って、つづみは、ストローを唇の端にくわえていた。縦にねじれた微笑のような表情は、困っているようにも、怒っているようにも見えて、風夏はぽかんと口を開けてしまった。
 それで、自分が、歯を食いしばっていたのだと気づいた。

「……あのねえ、風夏さん」

 ストローを口から外して、つづみは、首をひねりながらいう。

「私、お母さんでも、先生でもないので」

 つぶやきながら、もう一度、首を横に振る。

「叱るのだって、それなりに力を使うんです。だから」

 かすかにこぼしたつづみの吐息は、風夏のそれに似ていた。

「便利な道具などと、いっしょの扱いをされるのは、その……」
「……ごめんなさい!」

 さっきよりずっと大きな声が、口から破裂するみたいに飛び出した。びっくりしたつづみがグラスを取り落としかけ、他のお客さんが椅子を揺らす。風夏はまたしても恐縮して、上半身を縮こまらせる。
 そうして、上目遣いで、言葉を続けた。

「あたし、つい……甘えてたよね、つづみさんに」

 つづみがいつも、落ち着いて、優しくて、厳しいから。
 そんな彼女らしさをいつも保っていたように思えたから、つい、風夏はつづみのことを固くて力強い塑像のように思ってしまっていた。
 変わらずにそこにいるものと、確信してしまいそうになっていた。

 芳野つづみは、神様でも何でもなくて、風夏といっしょの地平にいるただの同級生なのに。

 風夏の言葉に、すこし照れたように、つづみは頬を押さえた。
 つづみの力強い指先は、自分の顔をぎゅっと締めつけるみたいで、白い彼女の顔がいっそう、白くなったように見えた。
 聖母が天使に包まれる、そのときの指のやわらかさだ、と、風夏は今日見た絵をおぼろげに思い出している。

「……でも、正直、私のほうも、悪い気はしていなかったんです」

 目線をテーブルの上に落として、つづみは、か細いほどの声で告げた。まるで、懺悔のように。

「風夏さんは、その、とても……かわいらしい方だから」

 つかのま、空気が固まる。ふたりの重ならない視線が、細い細いワイヤーになって、彼女たちの身も心も縛り付けてしまったかのようだった。

 だって、そんなふうにいわれるなんて、風夏は想像もしていなかった。
 いつも超然としていたつづみが、胸のうちで、風夏をそんなふうに評価していたなんて、信じられない。

 風夏はぎゅっとうつむいて、サンドイッチに手を伸ばす。冷めたスクランブルエッグと、すこし萎れたレタスを挟んだサンドイッチを、むりやりねじこむみたいに食べる。
 そうでもしないと、また、声を上げてしまいそうだった。

 だけど、その叫びは今度こそ、つづみと別れるまでとっておかないといけないのだ。
 天使みたいだったつづみの、人間みたいな声を受け止めるのには、すごく、力が必要だから。

 心の準備ができるまで、風夏は、喜びを押し殺す。
 心を抑えつけるのじゃなくて、いつか、ほんとうに激しく、爆発させるために。
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