第五章:禁忌破綻の空色/1
凍えた月の夜。
見上げた蒼穹は翳り無く煌びやかで。
三千世界を満たす理は綺羅星の様。
小さな頃の夢は溢れんばかりの禁忌に犯されて。
いつしか何もない空白ばかりを求めていた。
見えてるものは世界の理。ずっと遠くの開闢。
見えないものは自分の心。ずっと近くの終焉。
手にした叡智は色褪せた世界。
鏡写しの心象。
幻想にも似たいつかの理想、見失ったいつかの純真。
綺麗なモノに汚れて欲しくなかったから、
ずっと大切にしていたい想いが在ったから、
わたしは大切なそれを禁忌にして、ずっと遠くから眺めていた。
それはきっと、ずっと見えなかった心の奥。
それがきっと、探し続けた大切な宝物。
――――亡くしてしまった、あの日の恋慕。
/禁忌破綻の空色
/1
十二月が始まって、今日の空模様はわたしの心象を具現化しているみたいに曇りきっていた。それが同じ名前同士ということに関係しているのかしていないかで言えば、九割方後者だと思う。そもそも、こっちの空は胸中ブルーだと陰鬱を意味するのに、あっちの空は青ければ青いほど快晴なのだ。共通する心情の表現はこの曇天だけだから、なんというか複雑な気分は否めない。
寒々しい廊下の窓から天を仰ぎつつ、わたしこと遙瀬空はそんなことを考えながらため息を吐いた。はあ、と吐き出した息が窓ガラスを白く曇らせる。そこに写っていたわたしの顔が靄に包まれた。
期末考査も既に過ぎ去り、後は冬休みの始まりを待つだけとなった師走の頃は、もう短縮授業が始まっている。わたしだって勿論例外ではない。今日も午前中だけの授業で帰宅していいのだけれど、そうしないのがわたしの日常だったりする。
本来ならエスカレーター式で入学するはずだった私立学園に比べて、やはりというかなんというか、財力の違いから当然のごとくこの公立校の校舎は古びて小さい。小さいといってもそれは無論金持ち私立と比べてのこと。むしろ一般的な公立高校と比べれば、少しばかり大きいのかもしれない。
校舎の数は三つ。向かい合うように一棟と二棟、その間に三棟が在る。一棟は一三年の教室が集まっていて、二棟は二年の教室と一部の特別教室が設けられている。三棟は二つの校舎を繋ぐ役割も果たしていて、設けられる教室は職員室を初めとして生徒指導室や保健室、各教科の特別教室。音楽室とか、美術室とか、実験室とかエトセトラ。
わたしは今三棟の廊下にいて、目的地に向かう途中で脚を止めていた。
それにしても、寒い。一応エアコンは完備されているのだけれど、性能はお世辞にもいいとは言えない。焼け石に水、とでもいうのだろうか。今こそそれは熱量の関係が逆転している例えなのだけど。
豪奢な造りだった中学時代の校舎を思い出す。……まあ、比べちゃいけないってのは解ってるんだけどさ。それでも、どうしても。こればっかりはどうしようもない。人間なんて何でも格差を付けたがる習性を遺伝子的に持ってるんだから。
嘆息をやめて、わたしは再び歩き始める。止まっていちゃそれこそ体温が奪われていくみたいだ。体を動かしている方が少しだけマシだと思う。これだけ寒いならいっそのこと雪でも降ってしまえばいいのに。ほんとう、中途半端だ。
灰色の雲を凝視していれば、或いはその想いも届くのではないかと思いながら歩を進めていく。結果、願いは届かず無念。よかったことといえば、寒さを意識しないで済んだこと。
国語科準備室。そうプレートが張られている。正直なことを言えば、ここはそんな高尚な部屋じゃない。朱空朔夜さんという人の私室だ。
わたしはいつものようにスライド式のドアをノックして、入室を試みる。
瞬間、その手を止めた。
「…………」
なんて、リアクションしたらいいんだろう。
その場から一歩退いて、背伸びをしてみる。手を伸ばせば、届く。でもそれも何となく億劫だ。
「はあ……ま、いいかな、今日ぐらい」
呟いて、僅かに空いたドアの隙間に上履きに包まれた右足を差込み――ドアをスライドさせた。その際、脚に力を入れるのは最初だけ。ドアが慣性の法則に従い、運動エネルギーの方向に動き始めたのを確認して脚を引っ込める。
ばふ、なんて擬音染みた音がして、足元に小さな白煙が舞う。
わたしは落下したそれ――黒板消しを拾い上げて、今度こそ部屋へと入った。
入室早速、頬杖を突いてつまらない表情をしている朔夜さんにわたしは言う。
「どういうつもりですか? こんなの、今時小学生だって引っ掛かりませんよ」
デスクで何やらの作業をしている朔夜さん。この結果は解り切っていた、とその瞳が言っていた。
「いやなに。もしかしたら、お前も同じ轍を踏むんじゃないかと思っただけだよ。赦せ。可愛いイタヅラじゃないか、悪意は無い」
「イタヅラって漢字で書いてみてください。悪の戯れですよ」
そこに必ずしも悪意が介在しているのかどうかは、考えるだけ無駄なことだ。
それにしても、朔夜さんは『お前も』と言った。わたしの前に、同じ様な罠を仕掛けられた誰かがいるとでも言うのだろうか。高校生にもなって、こんなのに気づかないというのはどうかと思うな。
少しだけ考えてみた。考える必要なんてないけど、それでも。考えることは大事なことだし。
この部屋を訪れる人物というのは、わたしが知る限りでは兄の遙瀬橙弥だけだった。まさか、他の教諭が来室したときに同じことをするとは思えない。三年の生徒がやってきたのだとしても、それを事前に知ることが出来なければトラップは仕掛けられない。呼び出しを掛ける、という手もあるけど……こんなことをする程の相手ならその生徒は朔夜さんのお気に入りだということで、だったら一度もここで鉢合わせていないというのは不自然極まる。…………それなら、もしかして。
答えは自然と出てきて、必然的に一人に絞られた。
「………………橙弥にも、同じことをしたんですか?」
「半年ほど前にな。お前とは対照的な結果だった。事後の表情は二人とも似ていたが」
半年……というと、丁度わたしが朔夜さんに橙弥を紹介した時期だ。なるほど。確かにそれなら来客の存在を事前に知ることが出来てかつ――後の始末に困らないというわけだ。
なんてこった。まさか、たった今この瞬間に自分が罵倒した誰かが二親等血族だったなんて。……なんだろう。この、複雑な気持ちは。……うん。今度遠回しにからかってみよう。
「それよりも、まただな、空」
何と切り出そうか思案していると、煙草を銜えた朔夜さんがそんなことを言った。
わたしは朧だった視界の焦点を朔夜さんの目に合わせる。相変わらずの鋭い視線に射抜かれて、不意に背筋が冷たくなった。……あ、ドア、開けっ放しだったんだ。
「なにがですか?」
と、訊いて後ろ手に部屋を閉鎖する。
どうでもいいけれど、この部屋は他のどの教室よりも暖かい。面積の関係もあるけれど、エアコンに加えてさらに電気ストーブまで備え付けられているというのが一番の理由だろう。いつからかは知らないけど、完全に朔夜さんの私室だ。いっそここに泊り込めばいいのに。電気代も何もかも、学校経費で降りて生活費が安く上がる。
なにと訊いたわたしの質問に、朔夜さんは紫煙を吹き出しながら答える。
「呼び方だよ。お前、中途半端に遙瀬の呼称が代わるだろ? 『兄さん』とか『橙弥』とか『お兄ちゃん』とか」
「最後のは言ったことありません。少なくとも、朔夜さんの前では、一度も」
「ってことは、わたしの前以外では言ったことがあるんだな? あ、言わなくてもいいぞ。推理してやる。そうだな……進行形で兄妹の関係に於ける禁忌を犯している最中に連呼してでもいるんじゃないのか。ん? 解り辛いか? うん。はっきり言うとつまり近親そ――」
「それ以上言うと、色々面倒なことになりますよ、朔夜さん。わたしに隠し事が出来ないくらい、貴女だって知ってるでしょう?」
引き攣る頬を笑みに換えて、わたしは言う。……断っておくと、朔夜さんの言葉は全部非現実でしかない。言うまでもないけれど。
握った黒板消しを投げつけ兼ねない勢いだと悟ったか、朔夜さんは、
「すまんすまん。冗談だよ。まったく……お前をからかっても面白くないな。兄妹でこうも反応が違うというのは、それはそれで面白くないこともないが」
拗ねた子供のように唇を尖らせた。その表情が可笑しくてつい笑いそうになってしまう。
……しかし笑っている場合ではない。こうも簡単に朔夜さんが退いてくるなんて、ちょっと予想外だった。これじゃあ話が戻ってしまう。
「で、だ空。そろそろ一貫させたらどうだ? 兄さんか、橙弥か」
「…………」
負けを認めた瞳が、紫煙の向こうでにやりと笑う。
悔しいけど、やっぱりこの人には敵わないなあ……。
朔夜さんが忌み嫌う人生の要素は『退屈』だ。常に何らかの非日常を求めて餓える獣染みている。もっとも彼女が唯の獣なら、何も苦労しない。人間ならこの地上に存在する殆どの獣を調教することが出来るだろうし、実際、それが可能だということはサーカスでも見ていれば無意識に悟れる。朔夜さんは獣なんて御し易いモノじゃなくて――いうなら、どこまでもヒトらしい人間だ。自分の欲望を抑えず、どうすればそれが叶うか冷静に判断して実行できる。愚鈍さなんて何処にもない。そして自らを鎮める理性だって、持ち合わせているんだ。
「ま、いいけどな、そんなことは。お前と遙瀬がどんな関係であっても、これからどんな関係になっても知ったこっちゃ無い。好きにすればいいさ。でもな、空」
黙りこくったわたしに朔夜さんが折れた。かと思うと最後に付け足して、
「それはあくまで私にとってのことだ。私や、お前以外の他人全員。お前の中でははっきり分別をつけないと、いつか痛い目を見るのはお前の方だぞ」
「えっと……すいません、どういう意味ですか?」
惚けたつもりは無かったし、実際意味が解らなかった。
確かに、このことで後悔とか、それに比類するような思いをするのはわたし以外の誰でもない。誰も傷つかないし、困らない。全部わたし一人で背負うことだし、必然的にそうなること。でも、朔夜さんの言うことはもっと別なことを意味してるような気が――あれ、ちょっと待った。……なにか可笑しい。
「言いましたっけ、わたし……その、橙弥のこと」
「いんや。見りゃ解るんだよ。私の知り合いに、似たような奴がいてな。それで、なんとなくだが――しかしその様子だと間違いじゃないらしいな」
「知り合い、ですか。よく言ってますけど、その『知り合い』は一人の人なんでしょうか?」
「うん? ああ、まあな。それなりに長い付き合いだよ。私のお気に入りでもあったしな」
夏のことを思い出す。精神状態がほとんど崩壊していた暦を預かって、見事に解決を図ってくれたのも朔夜さんが言うその『知り合い』だった。何でも、万屋なんて今時流行らない商売をしている人らしい。ただしその胡散臭い稼業とは裏腹に、実績はあるらしい。これは橙弥の言葉だ。結果として暦が何も無かったみたいに戻ってきたときは、その人に感謝をすることになったけど。
朔夜さんが知り合いと称するのだから、当然普通な人ではない。きっと破綻者だ、間違いない。と根拠無き確信をわたしは抱いている。実際、朔夜さんの目に留まる人間はどこか異常なのは、唯一人遙瀬橙弥という人間を除けば既知の事実だったし。それが確信に至る材料というには少し頼りないんだけど。確率論に於いて大切なのは分子じゃなく、分母と分子の揃った数字なんだから。十分の一と百分の十では、紙の上では同じ結果でも現実ではそうと言えない。十分の一の方がその後九十回を終えた後に百分の十に成り得る可能性は、決して百パーセントではないのだから。そう言った意味では、二分の一は頼りになる数字じゃない。今は五十パーセントでも、今後十パーセントにも一パーセントにも成り得る。
でも朔夜さんの性格をトレースして考えるなら……その『知り合い』も『お気に入りだった』と言われているのだから――――って、あれ? どうして過去形なんだろう。
わたしは思い至った疑問を口にする。
「朔夜さん、『お気に入り』だった、って今は違うってことですか?」
「流石に鋭いな。遙瀬相手ならこうはならな……い、こともないか。あの少年は無駄なところで勘が鋭いからな。ああ、今は違うよ。私はね、昔っから妙なモノに魅せられる性だったんだよ。だから私はあの男を――有り体に言うなら好きだったのかもしれないな」
衝撃の告白だった。……でも、そんなことを無表情で言い放つ朔夜さんの神経はやっぱり疑わしい。それに無表情というにも少し語弊がある。鉄仮面染みた冷徹――玲瓏の方が似合う――の表情を肯定し続ける朔夜さんだけど、その瞳は案外彼女の心境を表しやすい。わたしだから解るのかもしれないけど、それにしても、それじゃあ完全な無表情じゃない。
今、朔夜さんの瞳に浮かんだのは……失望、憮然……諦めにも似た負の感情だった。
「アレはもう、そんな次元じゃなかった。私はね、どうこう言ってもやはり普通の人間なんだよ。アレは、そんな私が踏み込んでいい相手ではなかった。お気に入り、なんて言葉は、それこそ私の中にアレを置くことを認めることだ。そんなのは、嫌だ」
苦い過去を想起しているみたいな表情が煙の向こう側で、それにね、と付け足す。
「哀しすぎるんだ、あいつは。きっと、世界中どこを探しても奴ほどに哀しい人間はいない。いいや、人間と比較することさえ間違っている。全ての存在は現象だが――アレは既にヒトという現象の域を逸脱していたからな」
紫煙が吹き出される。換気扇の活動が追いつかず、閉鎖された小さな部屋にはどんどん副流煙と朔夜さんの灰から出てくる主流煙に溢れていく。
わたしは蜃気楼みたいに霞む朔夜さんの瞳を見据えながら、その奥を凝視する。
色即是空という考え方がある。煎じ詰めて言えば全ての存在は現象であり、色であって全てが対となる色と支え合って存在しているという考えだ。その考えに従うなら人間は世界の上に在る、ヒトという現象なんだけど……朔夜さんの言うことは、その人は『ヒト』という現象から外れて他の現象に成り果てたということを意味する。つまりそれは、『異常者』とか『破綻者』とか『社会不適合者』とか――そんなではなく、ただの『異常』でしかないということ。
朔夜さんがそこまで言う存在に、或いはこのとき、わたしは興味を持ってしまったのかもしれなかった。
「さて」
と朔夜さんが立ち上がる。デスクの上に散乱していた資料だか何だかがいつの間にか整理され、今は一つの纏まりになって朔夜さんの手の中。雑談に精を出しているようで、実は朔夜さんはしっかり仕事をしていたということか。なんていうか……やっぱり、この人には叶わない。
「長い話だったが、ここまでだ。終わったことに執着するのは好きじゃないんだよ、私は」
どこか非難がましい口調だった。
とんとん、とデスクの上で紙の集合体が音を立てる。綺麗になったデスクの上に散らばっていたプリントの数々は、今や朔夜さんが小脇に抱える茶色い封筒の中だった。さらにそれを鞄に仕舞って……何だか、帰り支度をしているみたいに見える。
「それじゃあな、空。ちゃんと戸締りするんだぞ」
「…………はい?」
今度こそ正真正銘、心の底から何もかもが理解できないと言いたかった。それが収束した二つの文字が生み出す言葉。時に肯定の意味を持つそれは、今は感動詞としての役割を担った。
「少し野暮用――出張でな。午後からは出なければならないんだ。ああ、先に来た遙瀬には言っておいた。言ったら、早々に帰っていった。確かに、帰ってもいいとは言ったが……薄情な奴だな。お前も好きにすればいいぞ」
「え、いや、あの、その」
暦の顔が思い浮かぶ。うん、初めて親友の心境を共有できた気分だ。上手く口が回らない。
「後のことは任せた。ほら、鍵だ。職員室なんかに持っていくな? あそこは信用なら無いからね。お前が持っていろ」
「ちょっと、朔夜さ――」
ばたん。虚しく扉が閉まる音。静まり返った室内。
……どうして、こうなるんだろう。
わたしは預けられた鍵を見る。職員室が信用なら無いなんて、教師の言うことじゃないと思うけど。今はそんなことなんてどうでもいい。
さて、どうしようかな。
答えはとっくに出ているというのに、何故だかわたしはわざとらしくそんなことを思ってみたりするのだ。そう。わたしの放課後は既に変わらぬ一つの形になっているんだ。今日はちょっとだけ、それがいつもと違うだけ。
かくして、遙瀬空はいつものように自分専用のマグカップを用意した。