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 通り過ぎる夏の風が御巫暦の髪を揺らす。

 虚ろな瞳が捉えるのは既に老朽化が進み、今はもう使われることも無くなった旧体育館。周囲を囲う深い緑が夏の日差しを遮り、暑さは影の中では和らいでいた。今はもうこの場所に訪れる生徒はなく、老朽化した木造の体育館は部活動にも使用されていない。

 校舎の裏側に位置し、繁みの奥にひっそりと佇むこの木造建築の周辺には暦のそれを除いて人気は当然のように皆無に等しかった。

 肌寒さを感じるほどの静寂に満たされ陽光の侵入を阻もうとするこの空間を、暦は不気味に思いながら見上げていた。

 さながら幽霊屋敷。昼間でさえそう思える。これが夜ならば悪い冗談にも聞こえないだろう。長い年月を耐え抜いたこの空間が、ここだけが周囲から取り残されている。その在り方が不気味さを一層強くしていた。

 普段ならばそう感じた直後にその場から逃走するであろう少女はしかし――今確かな、一つの小さな想いだけに縋ってその瞳は決意の色を宿し光を放つ。

 御巫暦は逃げる訳には行かなかった。自らの宿命に向き合うことを決めた――その代償も。その罪悪も。全て背負うことを決めた。目を背け続けるだけの逃避を、涙を流すだけの後悔の日々を終わらせると決めた。

 けれど今、この瞬間の少女の意志を繋ぎ止めているのはそんなモノではない。

 自意識ならとっくに壊れている。自分という存在の定義を見失い、唯夢現の幻を追って彷徨い続けるだけの迷子でしかない少女には、もはや一片たりとも自己は残されていない。

 なら、どうして。

 なら、なにが。

 今この瞬間の御巫暦をここに在らせるのか。

 なにが、少女をカンナギコヨミのカタチを形成し、突き動かすのか――。

 その答えを知りたくて。――或いは知っているから。

 御巫暦はもう、後戻りもその場で崩れてしまうことも許されない。

 抱えてしまったモノの重さを小さな体躯で支えながら、千切れてしまいそうな意識を繋ぎとめ。今此処に在る自分と、自分が救えなかった全ての存在の嘆きを再生し。この瞬間も夢想と現実を迷い歩く少女は今。


 終焉無き循環を終わらせる為に。

 自らが背負った罪の贖罪の為に、


 御巫暦は、重く軋む体育館の扉を開放した。



 ……



 ぎしり、と重い扉が音を立てる。重量の割りに少し押し動かしてしまえば鉄の扉はそれほどの力を必要としなかった。むしろそれが繋がる木造の壁の方が今にも崩れてしまいそうだった。

 薄暗さは外と比べ物にならない。キャットウォーク横の壁に穿たれた窓から入る光は影を生み出し、或いは一層深く濃くする。濃厚な闇の中に指す一筋の光はスポットライトの様だった。

 長く手入れが行き届いていなかった体育館の足元から埃が舞う。少しでも動けば、それは肌に纏わりつく霧の様に舞い上がった。

 脚に感じる嫌悪感の正体を知ろうにも、見下ろした視界は闇に覆われて答えを見出さない。

 しかしそんなことは気にならなかった。

 暦にとって、この場での一番の驚きはその『暗闇』に他ならない。

 体育館に入る前、暦には一つの覚悟があった。読んで字の如く、火中に飛び込む覚悟が。

 けれどその心構えも無意味なモノとなり、何よりそれが現状では暦の思考を驚愕に陥れている。こんな光景は有り得ない。これは、自分が思い描いていた風景とは違いすぎる。この静謐も、静寂も、閑散とした影の視界も。全部が全部、何もかもが全て夢想だにし得なかった景色だった。

 そう。御巫暦は先に知っていた。

 幽霊屋敷みたいだと見上げた体育館の中が今、どのような状態になっているのか。その光景を毎日、毎晩視てきた故に知っていた。

 地獄のような火炎の海の中。それこそが扉を開いた時、まっさきに視界に入るべき光景だったのだ。しかし、

 一面の赤を夢想していた視界は――濃密な闇の海に支配された。

 驚きは次の瞬間に恐怖へと姿を変える。固い決意が、まるで砂の上に造られた城のように崩れ落ちた。

 大切な人を救う。その願いにも似た決意は、それ自体の強度と比べものにならない脆さの少女の中にあったモノ。必然、壊れるのは少女の方に決まっている。

 絶望するよりも早く、暦の足元が崩れる。屈した膝が床に打ち付けられる痛みさえ遠い。

 涙は、知らぬ間に頬を伝っていた。

「また……また……わたし……」

 涙する顔を覆うことさえ忘れて、暗黒の天を仰ぐ。

 自分には誰も救えない。知っているのに。誰かが消えてしまうと知っているのに救えない。――だから、彼らを殺したのはわたし。

 それしか考えられなかった。自分が死の瞬間を知ってしまうが故に誰かが死んでしまう。全て、その罪は自分の夢に在る。

 そしてまた、唯一つ残された贖罪の希望さえ失った。

 間に合わなかったのだ。いつも視る赤い地獄の景色の中で、いつもそこにいる大切な人はもういなくなってしまった。この静謐が物語るのは既に全てが終わったということ。

 手遅れ。それだけでなく、暦は大切な人の最期の瞬間にその場面に立ち会うことも出来なかった。

 その絶望が今になって湧き上がる。喉が潰れるほどに叫びたい。けれどそれが出来ない。そう思うことさえ出来ない。――喉よりも先に潰れたのは心の方だったのだから。

 泣いてしまえば楽になれただろう。自分が悪いと叫ぶことが出来たなら、どれだけ楽になれるだろう。けれど今はもうそう思うことさえ叶わない。

 ――ぴしゃり、と音がした。

 虚空の闇に泳いでいた暦の視線が地に落ちる。当然何も見えない。

 音の正体は、自分の頬に触れることにより思考が理解が及んだ。

 濡れている。確かに一筋の雫が伝った跡がある。その温もまだ新しい涙の残した軌跡を確かに指先に感じる。

 とっさにもう一度視線を闇に向ける。果たして、そこに映る景色は一変していた。

 濃厚な闇に閉ざされていた筈の視界が光を取り戻していた。舞台の上、その一部分だけが切り取られた一枚の絵のようにはっきりと其処に映し出されている。

 そしてそこに一人。一人の、少女がいた。

 暦にも見覚えがある。彼女と会ったのはいつのことだったかと思い返しながら気付く。

「……遅く、なかった」

 手遅れなんかじゃなかった。と、消えてしまった灯火の希望が再び息を吹き返す。

 暦は瞬時の内に理解した。舞台の上にいる少女とどこで邂逅を果たしたのか。否、邂逅などしていない。暦は少女のことを知っているだけ。

 夢。炎の中にいた一人の少年と一人の少女。暦は二人を毎晩視ていた。

 遠く鮮明に窺えない表情は、けれど夢の中の朧気な輪郭と重なる。

 無意識に立ち上がる。足下では、ぴしゃり、と今度は一層大きな音が上がる。

「わたし……まだ先輩を殺してなかった……」

 それは、泣き出しそうな歓喜の声だった。

 遅かったのではなく――早かった。ここはまだ火が上がる前の夢の中。ならば、まだ。

 小さな希望が湧く。全てが終わった後でないのなら、まだ何も始まってなどいないなら、ここから先の運命は変えられるかもしれない。

 暦が拳を握る。一度壊れてしまった想いを叱咤するように。今一度、決意の固さを確認するように。

 舞台上の少女はそんな暦の存在の一切を意に介さず、何もない闇に視線を投じている。

 見果てぬ闇の先に、在る筈もない何かの答えを求める様に。儚げな横顔は今にも泣き出してしまいそうな――それでいてどこまでも哀さを湛えた、無表情。

「あ……あの――――!」

 その横顔に暦が呼び掛ける。

 焦燥の叫びは張り詰めた空気を揺らし、閉鎖された空間の中で何度も反響した。それが、きぃんと鼓膜に響いて暦は不意に耳を塞いでしまう。大音声で発せられた希望の一声は、果たしてそれが向けられた少女には届かない。

 舞台上を独占する少女は糸が切れた人形の様に、すとん、と膝から崩れ落ちる。

 暦の存在など、其処に無いモノだと言わんばかりの無干渉。同じ空間で同じ時間を共有している二人の間を隔てる壁でも在る様に。暦の叫びは、暦の世界にだけ反響してやがて消えて行く。

 続く第二声を発しようとして、暦は異変に気づく。

 舞台に跪いた少女の頬を、透明の液体が滴っていた。時間という概念を無視するようにその雫だけが周囲とは異なって遅く流れる。ゆっくりと、躊躇うように、涙は確実に、少女の膝へと堕ちて行った。

 或いはそれが皮切りだったのかもしれない。


 ――ごめんなさい。


 暦は、そんな言葉を聞いた気がした。

 瞬間――――


 世界が、色を変えた。


 一瞬の出来事に暦の理解が遅れる。自分の背後で落下した照明の一つに、知らず舞台の上に注意を向けていた暦は気づくことが出来なかった。ばちり、と電気が空間を迸る音と、照明を天井に吊るす強固なワイヤーの切れる音。落下に伴い、小さく爆ぜた火花が床一面に撒き散らされたガソリンに引火し、燃え上がる。

 振り返れば、既に其処は火の海。

 赤い視界が夢と重なる。これまでに何度も視た、今宵も視てしまうだろう赤い景色。

 怖いとは思わなかった。ただ、有り得ないと思った。

 炎が走る。空間を満たすガソリンを伝って炎は急速に勢力を増す。その様子を支援するかのごとく、まだ天上に留まっていた照明が一つまた一つと続け様に落下していく。

 地獄絵図。その言葉が相応しい。降り注ぐ幾つもの照明はまるで隕石。それが舞い上がる炎に照らされて赤く染め上げられる。

 轟、と巻き上がる炎。落下音はさながら空間が爆ぜる爆発音。地獄に降り注ぐ隕石の落下を知らせる音は雷鳴。爆ぜる炎は泡沫。――空間の全てを焼き払い、灰にする煉獄の炎。

 この光景を暦は知っていた。

 後は、この場に必要な役者が一人足りないだけ。

「あの――――ッ!!」

 さっきよりも声量を上げて叫ぶ。爆音の合間を狙って飛ばされた叫びは体育館全体のどこにいたとしても聞こえていただろう。

 それでも、依然として少女の関心は暦に向かわない。

 最初の照明が落下したときと同じ体勢で、ゼンマイが切れた人形のように微動だにせず。空っぽの表情が虚空を見上げていた。

 どうして――焦燥だけが暦の中に蓄積していく。

 何度叫んでも、どうして気づいてくれない。どうして、自分の叫びは届かないのか。

 時間がない。焦りは確かな言葉となって呪いの様に脳裏を巡る。赤い世界は着実に広がっていく。夢想の中に視るあの地獄が、後数刻としない内にここに顕現する。

 だから早く。今、この場に居ない人物が現れてしまう前に、ここから逃げなければならない。早く外に出なければ、また。この夢が人を殺してしまう。

「…………っ!」

 祈りに似た何度目かの叫びがようやく実を結ぶ。

 事切れた様に時間を止めていた舞台上の少女が立ち上がった。

 ふらり、と向けられた表情。空っぽの無表情が、どこか優しさを含んでいるように見えてしまう矛盾。その視線が暦の立つ方向に向けられていることが何よりの救い。ここに来てやっと、暦の表情が和らいだ。

「あ……あの! 早く、ここから出ないと!」

 一歩踏み出しながらそれを言葉にする。

 三度、歩を進める音がして、そして止まった。

「そん、な…………」

 伸ばした手は何もない空間を握って、力なく項垂(うなだ)れる。

 語られるまでもない。解ってしまった。

 舞台から注がれる視線が自分になど向いていないということ。やはり、自分の声は届いていなかったということ。何よりも。そんなことよりも。

 ――ここに、不足していた最後の一人が現れてしまった。

 悪夢を視る気分で振り返る。気づいてしまったとしてもまだ確信には至らない。そこにその人物の姿がなければ何も問題はない。暦は自分の直感を杞憂だとして安堵できる。

 けれど、悪夢は確かにそこにカタチを成していた。

「先輩…………」

 体育館の入り口。膝に両手を宛がい肩で息をしながら、それでもその眼光は真っ直ぐに前だけを見据えている。遙瀬橙弥という少年は確かにそこに居て、その視線を舞台上へと向けている。

 始まった。始まってしまった。

 暦は思い出す。

 自分の夢が現実になる。そのことに気づいたのはいつのことだっただろう。

 誰かが死ぬ夢を視た。話したことも、会ったことも、声を聞いたことも、その姿を一瞬たりとも見たことなどない。全く面識のない誰かが死んでしまう夢。初めは気にしなかった。そんなことは別段不思議でもなんでもない。たまたま運が悪かっただけ。道で躓いて転んだこととなんら変わりない不運。

 それがいつしか畏怖の対象に変わったのは、誰かが死ぬその夢が現実に変わったとき。

 偶然ならばどれだけ良かったことだろう。たった一度だけの不運な偶然ならばいい。それが、毎晩繰り返されるのだ。

 自分が視た夢が現実になる。ならば、それはつまり自分が夢を視るから誰かが死ぬことと同じ。

 だから、自分が殺した。

 謝罪など届くはずもない。どんな言葉を以っても償えない罪。元より、その言葉さえも届きはしない。

 どうすることも出来ない絶望。

 それが今は身近な――大切な人の身に訪れようとしていた。

「先輩ッ! 先輩ッ! 来ないでください! そこにいてください!」

 懇願の叫び。掠れた声がそれを告げる。

 橙弥は何かを言っていた。首を振ったりしながら、鬼気迫る形相で何かを叫んでいる。それが暦に聞こえないのは、きっと今も続く爆音の所為。炎が燃え上がる轟音の所為。

「先輩――!」

 絶え間ない爆音に掻き消されるお互いの声。

 暦の願いの叫びは、果たして遙瀬橙弥を止めることが出来なかった。

 轟然と燃え盛る炎を恐れようともせず――そんなものなど元から眼中にない様に、橙弥が走り出す。

 一直線に駆ける疾走を目にして、暦は気づいた。どれだけ自分が叫ぼうとそれは無駄なことなのだ。自分がここにいるということが、それだけで先輩を動かしてしまう。先輩は、優しい人だから。だから、自分がここにいてはきっと助けに来てしまう。

 トロイの木馬もいいところだ。何よりも性質が悪いのは、木馬の中に潜む悪魔は暦自身だということ。

「ダメです来ないでください! わたしは大丈夫ですから! お願いです、先輩! ……お願いだから、来ないでください……。先輩だけでも逃げてください……!」

 自分などどうでもいい。

 どうせ、この先などないのだ。それは、ここに来るまでに固く決意したこと。

 橙弥の脚は止まらなかった。手を伸ばせば、直ぐにでも暦の手を取ることが出来る距離にまで走り寄る。それが一層暦を焦らせ、涙を溢れさせた。その涙は、自分に向けられた優しさ故か……救う救われるの立場が逆転したことの愚かさ故か。

「先輩――――! 来ないでください、せんぱ――――」

 声が出なかった。

 信じられない。それだけが意中に浮かぶ。

 橙弥を牽制するように伸ばした手は、走り来る少年の体に触れ――そして擦り抜けていった。

 ホログラム映像を掴もうとしていた様に。有り得ない蜃気楼に手を伸ばす様に。

 暦の存在は、それこそこの場に有り得ない存在なのだ。

 御巫暦という一人の少女は既に終わった幻想。カタチを持った一つの夢想でしかない。だから初めから何かを成しえる筈などなかった。声は届くはずなどないし、何かに触れることさえ叶わない。

 暦は力なく振り返り、走り去っていく少年の背中を見つめる。

 絶望が再来した。

 暦の中で正常な思考は既に皆無に等しかった。一連の現象を頭の中で整理するなど出来る筈もない。哀しみに涙が流れる。滂沱の様に零れ落ちる涙の雫は、炎の中に落ちて尚健在だった。

 辛かったことは唯一つ。大好きな人に見捨てられたこと。

 遙瀬橙弥という少年が自分の手をすり抜けて行ってしまったこと。

 その一点だけが、哀しかった。

「……でも、まだ……」

 それでもまだ暦を動かすのは、確固とした一つの決意。

 この夢だけは現実にしてはならない。大切な人を消してしまうこの夢だけは、決して。

 初めの絶望とは違う。今ならばまだ、先輩を助けることが出来る。終わってなんかいない。終わらせてしまう前に、自分が決着をつければいい。

 その想いとともに走り出す。何も成し得ない夢ではない。人に死を与える夢があるならば、人に生を与える夢だってある筈だから。

 体を翻して走り出した第一歩。しかしそれで、暦の体が前に進むことは無かった。

 ……何かが、脚を掴んでいる。

 これまで炎の熱さも、爆発の風も感じなかった暦に干渉してきた何か。

「あ……」

 振り向いて声が漏れる。まだ何の感情も浮かんでこないのは、その光景が意味するところを正常に理解できていないから。

「うあああああ…………」

 けれどそれは救いだった。これが何か理解できなければ、こんな感情だって生まれなかったのだから。

 暦は必死に首を振って否定する。

 怖い――そう思ってしまった。

 暦の脚を掴んでいたのは手、人間の手だった。それも一つではなく、三つ。どれも元を辿っていけば別々の胴体に繋がれている。腐敗した肉体。零れ落ちる脳漿。頭蓋が露出した頭部。朱色の涙を零す終わった瞳。どれも――生者の持つ体のパーツではない。

 一心不乱にかぶりを振るう。幻想だ。こんなものは有り得ない。これは全部マヤカシでしかない。

 なのに、その幻想が。

「あああああああああああああ――――!!」

 叫ぶ声で聴覚を遮断する。

 聞こえてしまうのだ。音にならない断末魔や、苦悶の叫び――助けを求めて懇願する死者の声が。

 暦の脚を掴むのは三人。その三人の体にしがみ付き、這うようにして近づいてくるのがさらに三人。そこから同じようにしてまた三人。その姿だけが異なる者達が作り出す死の鎖。人間の肉体を以ってして生み出された、死の連鎖。

 そこに在るどの姿も暦は知っていた。

 嘗て暦の夢に現れ、その最期を少女の夢に記した者達。忘れることなど出来るはずもない。ここにいる全員が暦が殺した人物達。蠢く様にして呻くその屍全てが暦に助けを求めている。

「ごめんなさい……ごめんなさい…………」

 頭を抱えて、耳を塞いで膝を曲げる。それでもまだ死者の声は聞こえてくる。永遠に腐敗し続ける死の塊が暦の精神を蝕んでいく。

「ごめんなさい――ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 涙目が映し出す遠い光景。舞台の下で肩を震わせる大好きな先輩。その後姿が決して自分には届かないモノの様に愛しい――触れてはいけないその憧れの愛しい姿。罪に汚れた自分では決して触れられない遠く狂おしいほどに愛しい少年。

 その幻想も今、死の腐敗に埋められる。

 もう既に声すらも上げられない。恐怖すらない。血に濡れることに嫌悪だってない。暦の体に纏わり付いた死者の数は既に数えようも無い。何も見えない。何も聞こえない。何も無い。自分自身も既に無い。虚無と死だけが連結して創り出す贖罪の煉獄。それがこの闇の中。

 暦はそれを受け入れるしかなかった。

 初めから覚悟はしていたのだ。自分の所為で死んだ人間全てに、その罪を償うには永遠よりも長い時間が必要だと知っていた。だからいつかこんな断罪の瞬間が訪れることも解っていた。


 けれど、その前に――……

 一人だけでいい、大切な人を助けたかった……


 どんな感情さえ遠退いて行く無限の煉獄の中で、暦の中に残ったのは悔恨だけだった。

 救いたかった大切な人を救えなかった自分への、恨みと後悔。

 伝えたかった一言も伝えられないまま……

 消えていく最期の意志。結局成し遂げることが出来なかった小さな想い。

 ずっと遠くで声がする。誰かが呼んでいる気がする。

 薄れていく意識と真っ暗な世界。どこにも救いなんてありはしない。逃れることの出来ない絶望の牢獄。これが、これまで自分が他人に与えてきたモノ。

 拭えない絶望の中。今でさえ尊い哀しみの中で、


“――暦”


 誰かが、少女の名を呼んだ。



 ……



 世界はいつしか光を取り戻していた。

 朧気な視界が、ここが全て終わった後の夢の中だと認識させる。

 嗚呼……これが、わたしの最期。

 虚無の中で誰に看取られることもなく何もかもが終わり行くだけの時間。それは、きっと夢の中と何ら変わりない時間。

「先輩……?」

 最期の夢の中に現れたのは、やっぱり大好きな先輩。

 何だ、わたし、まだ、見失ってなかったんだ……。

 どんなに遠く感じても、どんなに大切なものを失っても、それでもやっぱり、先輩だけは忘れられない。だって――先輩は、わたしの一番大切な人だから。こんな人殺しの自分なんかよりも、ずっと、ずっと大切で愛しい人だから。

「先輩……」

 見殺しにしてきた人たちには、その罪を償うことなんて出来ないと思った。

 どんな懺悔も足りない。償える命は一つだけ。それも、こんな汚れた命だけ。

 そんなわたしが、こんな、幸せな夢を最期にして、許されるのかな、先輩。

 先輩の表情は何だか悲しそうだった。きっと、優しい先輩だからわたしに同情してくれているんだと思う。でも、それはダメなことなんですよ、先輩。わたしは人殺しなんだから、誰にも理解されてはいけない。誰にも、同情なんてしてもらっちゃいけないんです……。

 先輩の手の甲に掌を重ねる。確かに暖かいその手が、それだけで泣いてしまいそうなくらい愛しい。

「先輩……」

 何を言えばいいだろう。

 罪悪感だけで自我を保っていた今までから開放されて、わたしは今、何を思えばいいんだろう。大好きな先輩に何と言えばいいんだろう。わたしは、何と言えば救われるのだろう。

 嗚呼そうか……。

 何を言えば救われるか、なんて考えてはいけなかったんだ。

 わたしはせめて、最期に救えなかった先輩に謝らなければいけないんだ。

 ならきっと、この夢もその為に在る泡沫の幻。

 御巫暦という夢の欠片が、最後に殺してしまった人へ謝罪することを許された機会なんだ。

 でも、それなら。

 それなら、どうして。

 先輩は、こんなにも悲しそうにしているのかな。

 そんな顔をするのは違うと思う。先輩は、わたしをもっといっぱい恨んでいる筈なのに。どうして、こんな。わたしを哀れむようにして哀しい目をしているのだろう。

 やっと気がついた。今、わたしが言わなければならないことに。


「笑ってください、先輩……」


 声は意識せずに震えていた。

 先輩に悲しい顔をして欲しくなかった。大切な人に泣いて欲しくなかった。先輩はいつも、ちょっと疲れてて、それでも他人のことを大事に考えて。誰よりも幸せであって欲しい人だから。だから、悲しい顔はして欲しくない。幸福を湛えた笑顔が、この人には相応しい。

 ……笑ってください、先輩。

 でも、その言葉は、本当は笑顔の先輩に見送られたいと思ったわたしの我侭でしかなかったのに。口にしてから気がついた。そんな都合のいい言い訳に。

「笑っていてください」

 覚えたての言葉を繰り返す赤ん坊のように、わたしは繰り返した。

 懇願する声は掠れていて、頬は何だか熱い。何かが、そこを流れているみたいだ。

「先輩……先輩……わたし……」

 何を言えばいいのか。言葉が出てこない。

 それでも、言わなければならないことは知っている。

 それをずっと後回しにして逃げてきた――心のどこかで断罪を恐れていたから。

 最期くらいは、大好きな先輩に咎めて欲しいから。

 だから、言わなきゃいけない。


「――先輩……わたし、人を殺しました」


 罪人は裁かれるもの。

 わたしという人殺しを、裁いてくれる存在は無かった。

 だから、先輩に。赦されることなら大好きな先輩に裁かれたかった。

 先輩の手がわたしの頬に触れる。滴っていた熱い何かを拭い取って、先輩はわたしの願いを聞き入れてくれる。優しい微笑を一瞬見せてくれた後で、またさっきの哀しい瞳に戻ると、


“お前は――人殺しなんかじゃない”


 そんなことを、言った。

 どうして……? 

 どうして、そんなことが言えるんですか。

「違います」

 その声は罅割れていた。

 先輩の言葉を否定しても、先輩は首を横に振る。

 頑として、わたしの言葉を受け入れようとしない。

 庇うように慰めるように。首を振って否定の言葉を重ねてくる。

 それが、わたしには解らなかった。どうして先輩には解らないのか。わたしが夢を視るから人が死ぬ。それはわたしが夢を視るという行為で殺人を行っているということ。だから、わたしは人殺しなんです、先輩。

“違うよ”

 どんな言葉を口にしても先輩はそれを認めてくれなかった。

「違いません……!」

 初めて反抗の意を籠めた言葉を怒声にする。不思議と、相手を跳ね除けるその言葉は自分自身を庇うみたいに聞こえた。

 可笑しい……。先輩がわたしを庇ってくれている筈なのに、どうしてそれは糾弾のように刺がある。その刺が心のどこかに刺さって抜けてくれない。……それが、とても痛い。

“お前は誰も殺していないよ”

「どうして……。どうしてですか先輩。わたしは――わたしが夢を視るせいで誰かが死んでしまうんですよ? だったら、だったらそれはわたしが殺したことと同じじゃないですか、先輩」

 頷いて欲しかった。認めて欲しかった。そうしなければ、今すぐにでも壊れてしまいそうだった。

 だって、それは。

“お前は夢を視てただけだよ。誰も殺しちゃいない。罪なんて元から無いんだよ”

 最後の夢。大好きな人に看取られて生涯を終える――そんな幸福は、やっぱりわたしなんかには許されていなかったんだ……。先輩には、嘘が吐けない。大好きな先輩を欺くことなんて出来ない。

 この先輩はわたしが夢想した優しい先輩。でもその役割は罪の追求。……これはわたしに課せられた罰。断罪でも制裁でもない。逃げ続けた罪と向き合う、ずっとわたしが目を背け続けた清算の時間。

 解っていた。いつかきっと、逃げることが出来なくなるってこと。

 いつか、向き合わなければならないこと。

 罪悪感なんて嘘。本当はそんなの、枷でもなんでもない。――わたしは、わたしは自分を最低だと決め付けなければ生きていけなかった。

 わたしは途切れそうな意識を必死に繋ぎとめて、消えてしまいそうな儚く愛しい顔を見上げる。今でははっきりそうと解るほどに痙攣する唇を動かして、ずっと隠してきた心を音にならない惨めな声に変える。

 そう。

 ――唯、一度だけでも助けたいと思った。

 夢の中の自分は何処までも無力で、生きたいと泣きながら苦しむ人に手を差し伸べる事だって出来ない。すぐそこに迫る死神の存在を叫んで伝えることも出来ない。

 自分には何も出来ないと解っていたけれど。

 それでも繰り返せばこの声は届くと信じた。

 声が枯れるまで。喉が焼けきれてしまうほどに。何度も叫び続ければ、きっといつかは、誰かを救えるものだと信じた。

 誰かの世界を垣間見て、誰かの死を傍観する。

 いつしか自分の夢の中で死んでいく人たちが、夢の外でも死んでしまうことに気がついた。

 声が枯れるまで泣いても。喉が焼け切れてしまうほどに自分を責めても。既に起こってしまったことを変えられる訳がない。わたしの夢が人を殺す。その罪は全てわたしにある。

 重ねた罪の大きさに壊れてしまいそうな小さな自我。

 けれどそれは。

 わたし自身が背負った罪。

 誰かに裁かれるわけじゃない。そうだとしたら楽になれた。

 わたしはわたしの罪を、誰にも咎められることなく永遠に抱えていかなければならなかった。

 だから、自分は人殺しなのだと思わなければやっていられなかった。誰も救えない自分は、無力で無価値で無意味な――幻想のような幻影のような幻のような夢のような……そんな哀しい存在なのだと思いたくなかったから。

 結局全部自分のためでしかなかった。

 夢の中で死んだ人の最後を看取ろうと、何度葬列に並んでも、何度同じ痛みに泣き喚こうとも。それも全部無意味。わたしの存在に意味なんて無い。そう、思いたくなかったから……。

 わたしは……最低です、先輩。

 自分のことしか考えていませんでした。自分だけが可愛くて、我侭で。

 そんなわたしは、先輩のことを好きになんてなってはいけなかったんですよね。


 だから――


 罪悪感と彷徨い続ける夢想の中。

 或いはこの日常が。

 今にも消えてしまいそうに儚い泡沫の日々。

 本当は。

 この幸せな日々こそが、わたしの夢だったのかもしれない。

 だから、ずっと。

 遠くから眺めているだけでよかった。


 わたしは先輩の頬に手を伸ばす。罪に汚れた小さな手を、先輩は拒むことなく握ってくれた。

 もう、きっとこれが最後になる。

 声になる言葉を出せるのは、後一回きり。

 さあ、何を伝えよう。

 罪の清算は済んでいないけれど、わたしはまだ穢れたままだけど。それでも――


“せんぱい、わたしはせんぱいのことが――――だいすきです”


 そう口にして、音にはならなかった。

 でも、それでいい。わたしには気持ちを伝える資格なんてないし。それに、


 ――――夢は、触れてしまったら(ユメ)になるモノだから。


 まだ、終わらせたくない……。

 先輩がいるだけでわたしは幸せなんです。

 だからこれは悪夢なんかじゃないんです。

 先輩がいたから……先輩が笑ってくれたから……。

 どんなに辛くても、この夢は幸福な幻想なんですよ、先輩。

 先輩……

 ごめんなさい、先輩。……さようなら。

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