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ガールズカルテット 作者:双色
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 ……


 夢を見た。
 またいつもの赤い夢。
 それはこんなにも近くにあるというのに、こんなにもずっと絶望的なまでに遠い。直ぐ傍に在るのに手を伸ばしても届かなくて、声を上げても届かない。
 肌を焼く灼熱と噎せ返るほどの煙だけがどこまでも本当で、それは間違いなく自分がここに在ることの証明の筈なのに。
 どうして同じ世界(ユメ)の中に居るのにこの声は届かない。
 いつだってそうだった。何度も誰かの最期を見てきて、何度もその誰かに声を掛けようとした。けれど結果は同じ。何度も声を張り上げても、何度叫んでも。唯の一度だってそれが叶ったことなんて無い。みんな避けられぬ結末に消えてゆく。
 この苦しみも、この悲しみも、この痛みも何もかも。何度訴えても届かない。
 ぎしり。木材が断末魔の鳴を上げる。黒い煙を燻らせながら軋む空間。いよいよこの夢も終わりに近づいてきた。
 もう少しでまた救いの無い悪夢が終わる。無為な存在としてここに在るわたしも――これで終わる。
 ふと思った。これは本当に夢なのかと。
 毎夜繰り返されるこの赤い悪夢は果たして本当に夢なのか。
 重なる夢。その見果てぬその最果てにきっと答えはある。
 だから確かめなくちゃ。この夢が本当に夢なのか――この夢の終わりに救いが在るのかどうかを。 轟々と炎上する世界。木の軋む音は世界の悲鳴、断末魔の様。
 その悲しいだけの音に掻き消されると解っていても。この声はきっと届かないものと知っていても。
 それでもわたしは、それを口にしてしまった。
「……先輩、わたしは、人を殺しました」
 悲しい赤に満たされた世界の中、遙瀬橙弥という先輩の横顔に呟き掛ける。
「それでも――わたしは……」
 その続きを口にすることが出来ない。……そこに続く言葉が出てこない。
 いつもこうして夢から醒める。このどこまでも(うつつ)のような繰り返しの赤い夢から――


 ……


「俺の方が相応しいって、どういうことですか?」
 既に学内喫煙を注意する気にもならない。
 俺は天上へ昇っていっては蟠る紫煙を眺めながら訊いた。換気扇が起動していないことを確認すると、朔夜さんは思い出したように窓を開けて持ち前の鋭い目を俺へと向ける。
「まあ、もともとの話題は空が出したものだったが、私が気になっていたことはお前の発言についてだからな。覚えていないか、遙瀬?」
 何のことやらと思考を巡らせる。
 そもそも俺は、空が持ち込んできた話題についても早速忘却しようとしていた頃合だったのだ。細かい内容など既に覚えていないし、自分の発言で朔夜さんに疑念を抱かさせるものがあったとしてもそれが何だったか思い付く筈もない。
 換気用にと開放した窓の外へ、朔夜さんが煙を吹き出す。その紫煙が薄くなっていく様を見守ってから、
「すいません、覚えてません」
「なんだ、ついこの間の話だろ。一週間以内に起こった物事は全て記憶しておくことを薦めるぞ。人生、最後を迎えたときに記憶の中に在る映像が多ければ多いほどいいからな。お前もなんの想い出もないまま、空虚に死んでいくのは嫌だろ」
「それ、話が違ってきてますよ」
 相変わらず意味の解らない方向に朔夜さんの話は脱線していく。それも本人は大真面目に。
 覚えていないのなら仕方ない、と呟いて、まだ長い煙草を灰皿に揉み消した。必要以上に先端を灰皿に擦り付けるその姿が、どこか寂しげに見えるのは一本の煙草を弔ってでもいるのだろうか。だとしたら、この人の情は生身の人間よりも嗜好品に向けられることが多いということになる。
「『正夢』と『予知夢』の違いについてだよ。この辺りに口を挟んだのはお前だっただろ」
「ああ、その話ですか……」
 はっきりにとは言わないが思い出した。
 空が未来のことが夢で解るとかそんな話を持ち出して、『予知夢』とそれを称した朔夜さんに意見したのは間違いなく俺だ。何を思って意見したのかまでは思い出せないが。
「何の話かは解ったんですけど、それって違わないんじゃないですか? 『正夢』も『予知夢』も同じことを表す言葉じゃないですか」
 そう、そこまで結論付けたのは思い出せた。それに今からでも両者は同じモノだとしか思えない。
 朔夜さんはデスクに頬杖を突きながら、興味なさ気の胡乱な瞳を部屋中に這わせる。その行動に何の意味があるのかは理解できない。
「大雑把に言うなら、な。だが両者は微妙に異なるニュアンスを持っている。お前だってそう感じたからこそ、あの時異を唱えたんじゃないのか?」
 彷徨っていた朔夜さんの視線がぴたりと止まる。その目先の終着点を俺が発見するよりも早く、冷徹な瞳がようやくこちらを向いた。
「え、はい……多分、そんなだったと思います」
 正直なところ覚えていない。が、言われてみればそんな気もする。指摘されてみれば確かに、二つの言葉の間には言い表せない違いが在るような気もする。具体的にそれが何なのかは、未だに掴めないのだが。
 ふん、と朔夜さんが鼻を鳴らす。俺の返事に事実的な胸中が伴わないことを看破して、呆れているような態度。
「お前、なんか変だぞ。心此処に在らず、って感じだな」
 じっ、と目の奥を覗き込むように見つめてくる。普段の朔夜さんらしからぬその様子は、何だかこちらの様子を探っている猫の様に見える。
「そうですかね」
 空返事で答えてみると、それまで隠していた感情が遂に堤防を破った。内なる感情のダムを決壊させたのは間違いなく喜色。文字通り喜色満面となった国語教師が悪戯に言葉を紡ぐ。
「空と喧嘩でもしたか、ええ? なあ、おにいちゃん」
「ほっといてくださいよ。それと、その身の毛もよだつような呼称は止めてください。癪に障ります」
 からからと笑う悪魔。
 よく考えれば、朔夜さんが俺の嘘を見破る要素などこの部屋には満載だったのだ。空が置いていった本から、飲み掛けで放置され若干周囲に飛沫を飛ばす日本茶まで。あらぬ洞察力の持ち主である朔夜さんにしてみれば、先ほどまでの出来事を想像するくらい容易いことなんだろう。
「ほら、さっさと本題に移りましょう。そもそも話を振ってきたのは朔夜さんの方なんだから、いちいち脱線しないでくださいよ」
「生徒間の問題は教師として見過ごせないんだがな。まあいい。それじゃあ本題に移るとしようか。遙瀬、お前は『予知夢』と『正夢』の違いはどの辺りにあると捉える?」
 発言に文句をつけてやりたい部分はあるが、後半を口にする朔夜さんの口調こそ真剣なモノに他ならない。ここは俺も切り替えて命題に取り込むべきだろう。
 改めて思案してみる。
 そも俺が『予知夢』と『正夢』という言葉の間にどんな違いを感じているのか。
 予知夢というのは読んで字の如く、或る現象が起こるよりも先に幻視してしまう夢のことを言う。目の前で初めて起こった筈の現象に、これ前にも見たぞ、というような既視感を持ってしまう――イメージとしてはデジャブに近い。
 それに対して正夢は、自分が見たものが現実の世界でも現象として発生する夢のこと。この言葉で想起することは――夢が本当になった、という事後感想。この辺りが二つの夢に在る違いだとしたら……
「そう、か。つまり、『予知夢』は飽くまで『後で在る現象を先に視る夢』で『正夢』は『先に視たことが後で現実になる夢』だってことですね?」
 その答えに辿り着く。
 微妙なニュアンスの違いというのは其処に在る訳だ。
『予知夢』は飽くまで後の出来事を先に視るだけ現象。
『正夢』は先に視た夢が後で現実になるという現象。
 俺が自ずと解答を導き出したことが意外だったのか、朔夜さんは細い目を大きくしてこちらを見返してくる。仕舞いには、ほお、なんて嘆じたりもするから俺の解答には相当期待されていなかったのだろうか。
「今日は冴えてるみたいだな遙瀬。とても妹にフラれて傷心中とは思えないぞ、むしろいつもより頭の回転が早い」
「勝手な既成事実を創作しないでください。事実、俺は傷心中じゃありません」
「ははは、そうかそうか。解ったよ。いやしかし、あの空が兄妹喧嘩とはなあ。どんな惨状だったのか是非とも聞かせてほしいな」
「断固としてお断りします」
 むっ、として返す言葉にありたけの怒気を乗せて。朔夜さんはその怨嗟さえも滑稽だと言わんばかりに爆笑に拍車を掛ける。……改めて、どこまでも人でなしだ、この教師は。
 人の不幸に腹を抱えながら一頻り笑い続けると、急な発作みたいに跳ねていた双肩が動きを止め、滲んだ涙を指で拭いとる。
「それじゃあな、次の質問だ」
 今にも酸欠になりそうな程爆笑していた人間が出す声とは思えない程にシリアスな声音がそれを紡いだ。
 緩んでいた表情が一変して威を取り戻す。さながら表情を仮面みたいに付け替えているかのような早業は何度見ても慣れない。頭の中に感情を切り替えるスイッチでも持っているみたいだというのが初見の感想で、それは今も変わらない。
 神妙な面持ちで朔夜さんは次の句を発する。
「『予知夢』と『正夢』――お前は危険なのはどっちだと思う?」
 単純な形式の問い。二択問題の体でそれは紡がれた。
 意味が在るか無いかは別にして思案する。二つの怪奇な夢について、その違いは先の通りと理解した。ならばどちらがより危険性を孕んでいるのか。
 考えるまでもない。まず初めに行き着く解答は提示された二つの選択肢ではなく、この質問に対する根本的な疑問。危険――そもそも、夢にそんなものが含まれるのだろうか。
「……あの、朔夜さん。これって質問から矛盾してるんじゃないですか? 『予知夢』にしても『正夢』にしても、結果を先に視ることに違いは無いわけですよね。だったらその結果を回避することだって出来るということでしょう。勿論、その夢が悪い内容ばかりだとは限りませんけど。というよりも、二つの夢に危険も何も無いんじゃないですか?」
 当然にそう考える。
 性質が微妙に異なるとはいえ共通した二つの現象に危険性で差を付けるのは難しい。それどころか、今回に於いては元より危険性なんてものが伴うかも怪しい。根本的な部分で、二つの現象は『事後に現象が発生する』といった点で同じ性質を持つ。なら、むしろこれは危険を回避できる現象なんじゃないか。
「あー違う違う」
 首振り人形みたいに朔夜さんの顔が左右に動く。
 俺の解答はその一言によって一蹴の元に否定された。
「お前が言ってるのは夢が現実に変わることについての危険性だろ。違うんだよ、私が言ってるのはそういうことじゃなくて、当事者が背負う危険についてだよ」
 がりがりと朔夜さんは頭を掻く。自分の質問が意図していることを何故理解できないのかと非難しているような仕草と表情。
「それにお前、危機を回避できるとはいっても、それは飽くまで自分の視た夢が現実化すると解った上の仮定だろ。それに、前にも言ったと思うけど夢に視るのは結末部分だけかもしれないだろ。だったら、当事者が自分の夢が現実化したと気づくのは『事が起きた後』じゃないか」
 言われてみれば確かにそうなる。夢なんて曖昧なモノ、意識が覚醒してから一時間もすれば殆ど輪郭を失っている。眠りに就く前に、『あなたが今晩視る夢は明日、現実に起こることですよ』とでも言われなければ、それを頼りにすることなんて出来ない。俺は現象の性質だけを視野に入れて、根本的なところで考え違いをしていたということだ。
 なら、朔夜さんが言う『当事者に於ける危険』とは何なのか。
「表裏の逆転。因果関係の認識が拗れることで起きる、夢想と現実の逆転現象だよ」
 此方からの返答が望めないと悟ったのか、朔夜さんが先に答えを口にした。
「これも飽くまで自分の夢が現実化していると認識した上での話だけどね。ここでは何度もそういうことが在ったのだと仮定する。遙瀬、私たちが夢と現実を正しく分けて認識できるのは何故だと思う?」
 新たな質問が投げられる。答えは簡単に見付かった。
「そりゃあ、夢なんて記憶に残らないですし、現実は時間の上で連続してます。昨日在ったことと今日在ったことには必ず繋がりが在るじゃないですか。例えば、夜に寝たから朝に起きる、みたいな確かな因果関係があります。けれど夢にはそれがない。条理も理も無視した無秩序の『想像』でしかない。記憶に蓄積されていくのは現実で起きた現象ばかりで、その連続の繋がりが今は現実だと認識させるんじゃないですか?」
 自分でも言いたいことを巧く言葉に出来なくて歯痒い。それでも朔夜さんは俺が言おうとすることを読み取れたようだった。
「そんなところだ。だがな、夢を視ているときにこれが夢だと認識できることは稀なんじゃないか? 大抵の人間は夢が醒めた後にそれが夢想の産物――空想だったと気付く。それはな、夢を見ている間、夢の中に在る意識にとっての『現実』は紛れもなく『夢』だからだ。条理も理も関係ない。今確かに自分はここに在るのだから、自分の現実は今なんだ。そう認識するのが道理だ。人間にとっての世界とは認識に他ならない。その認識が常識や道理といった外部情報に装飾されてその意識にとっての『世界』になる。
 先の仮定で『何度も夢が現実に変わる体験をした』と言ったな。それが毎晩ならどうだ? 夢に視ることと全く同じことが現実に起きたら。しかもそれが毎日なら。いつか思うんじゃないか? もしかしたら、自分は勘違いしているんじゃないか? 本当の『現実』は先に視る『夢』の方で、今まで『現実』だと思っていた方が『夢』なんじゃないか、と。切欠はほんの些細な事柄で構わないんだよ。精神的に参っている人間なら尚更だ」
 滅茶苦茶な話だと、それを否定できるならどれだけ楽なことか。俺にはどうしても朔夜さんの言うことを否定できない。
 言い知れぬ不安を覚える俺に、朔夜さんはさらに付け加えて言った。
「そも、後のことが先に夢に出てくるなんてことが異常なんだ。人間の常識なんてモノは、結局のところ自らが理解できない現象から身を守る防衛本能にすぎない。自分の理解の範疇を越えた現象を自分以外の集合認識が否定してくれればそれほど有難いこともないだろ。そんなもの、全部自分の内側でしか起きていないことだというのに。ここで働く防衛本能こそ、現実と夢想の逆転認識なんだよ。先に起きた現実の現象を今夢に視ているんだ、と脳が思い込む。一度記憶の中にある瞬間が再生されるのは、別段異常ではないからな。自分が正常だと思い込みたい脳にしてみれば、当然の自衛手段だ。哀しいかな、その自衛手段が結果として破滅に繋がるというのに。逆転認識の末期症状とも言えるのが、それの循環だ。自らの身を護るために行われる逆転認識が連続で行われ、やがてどちらが本来の現実か完全に見失う。そうなれば最後、夢想も現実も無い。どちらにも依存できず、夢と現実の境界を失ったまま定まらぬ認識の狭間で永遠に循迷い続けることになる」
 醒めた口調はどこかヒトの構造を嘲笑している様に聞こえる。
 夢と現実の逆転現象。……それも事実上は当事者だけの反転認識でしかない。夢想と現実の間を行き来し、どちらが本来いるべき場所かを見失ってしまう。自分のいるべき場所が――――帰る場所が解らなくなった、
「迷子だな、まるで。夢想と現実のどちらが本来の世界か解らなくなって彷徨う迷子だ」
 俺の考えを読み取るように、朔夜さんが先手を打つ。
 夢と現を循迷う迷子――その表現が頭のどこかで思考を揺らしている。酷く、その言葉が当て嵌まる様子を、自分が知っている気がしてならない。
「質問に戻ろうか。……と、まあ、やっぱりそんなことはいいか。特別気に掛けるようなことでもないしな。私としてはお前に話したいことは全て話し終えたし、これ以上長く語るつもりもない」
 あっさり言い切って、新たな煙草に火が点けられる。紫煙を吐き出した朔夜さんの目は虚ろで、本当にこれ以上話すことは無いらしい。
「私も相当餓えてるのかもな……こんな、答えの出ない問いに無意味な時間を費やすなんて」
 呟く自嘲は独り言だと無表情が言う。朔夜さんの視線は空が置いていった本へ向けられ、固定されている。
「なあ遙瀬、私は今からさっきまでの話を根本から否定することを言うが……独り言として聞き流してくれ」
 感情無き相貌と、蜃気楼みたいに揺れる紫煙。虚無感を伴ってそれは言葉に変わる。
「報われないよ。どれだけ後に理屈を繋げても、結局二つを隔てる確かな理なんてありはしないんだから」
 それは本当に、何処までも独白の域を出ない心情吐露だった。語るべくして語られたのではない。心から意味の無い、唯そこに在ったから紡がれた言の葉。
 言い終えた朔夜さんは、新しい玩具に飽きた子供のような表情で窓の外を眺めている。窺える横顔から感じられるのはやはり圧倒的な喪失感。
 ここ数日の間、朔夜さんはきっと先の命題に取り組むことで退屈を紛らわせていたのだろう。見付かった答えに納得がいっていないことは歴然としている。
「今日はもう帰っていいぞ。それで早く空と仲直りでもしろ。空の機嫌が治ったたら暇潰しに話を聞かせて貰うことにしよう」
 それが唯一の希望だと遠い目が言う。
「それじゃあ失礼します」
 手をひらひらさせている朔夜さんにそう言って席を立つ。空が残していった本は毎日この部屋に置いて帰っているものなので放置する。
 去り際に一度だけ振り向くと、国語教師はこれ以上無いほどに憂鬱な面持ちで窓の外を眺めていた。


 ◇


 準備室から出て時刻を確認すると、まだ下校時間まではまだ時間があった。
 確認した時刻を再度目に入れて、さて、と考える。
 このまま帰宅するのは構わないが、そこで間違いなく遭遇する空にはどのような態度を取って接するべきか。珍しく憤激した妹を宥める算段がまだつかないだけに、自然足取りは重くなる。決定。もう少し学校で善後策を模索しよう。
 決断してみると脚は無意識に止まった。しばし窓の外へ視線を飛ばしてみる。
 そこには何があるというわけではなく、ただただ青いだけの晴れ空が広がるだけ。窓から身を乗り出して風に吹かれるだけで、何となく清涼感を感じられるのは夏の風流だと思う。
 そんなことをしていると、制服のポケットが震えた。
 意味のない数分程度の時間を中断させた携帯のバイブレーション。浮遊していた意識はそれで引き戻される。
「御巫、暦」
 携帯のディスプレイに映し出された名前を口にする。小柄な後輩の姿が脳裏に浮かんだ。
 自分の声が何処か落胆している風だったことが妙に気に掛かる。この期に及んで、まさか在らぬ期待を抱いてしまったなんてことは考えたくない。自嘲しながら、通話ボタンを押し込んだ。
「もしもし」
『先輩ですか……?』
 携帯に電話を掛けてきた相手にしては可笑しな言葉に苦笑してしまう。
 今更ながら疑問に思う――暦が俺に電話を掛ける理由とは何なのか。そもそも暦から電話が掛かってきたことなんて一度もない。面識があるからといってアドレスの交換はしていたがそれだけで、メールも電話も一度だってしたことがないはずだ――。
 それだけの理由で、俺の中には言い知れぬ不安が渦を巻いて回転を始めていた。
「ああ、俺だよ」
 肯定する。すると次に聞こえてきたのは、予想し得なかった安堵の吐息。
『よかった……先輩。まだ無事だったんですね』
 心から安心したように、暦の声がそんなことを言う。
『先輩、大丈夫ですよ。わたしが今から行きますから。――きっと、大丈夫です』
 要領を得ないことを暦は口にしている。
 普段ならいつもの狂言だと苦笑して済ますことが、何故か今はそうできない。
 不安は確かにあった。
 いつからかと明確なことは解らないまでも、確かに不安と称して差し支えない靄は(わだかまっていた。その正体も、それが何に対しての不安なのかも解らない――そも、それが不安という感情何のかも明らかでない。それが今ではこうして、明らかに形を伴った危機感が心中を掻き乱す。
「暦お前、さっきから何言ってるんだ?」
 努めて冷静に問いただす。
 目の前に本人がいるのなら少しは焦燥もましだったかもしれない。それが今は実体を伴わない声のみの会話。今すぐに何かが起きたとしたら――俺にはどうすることも出来ない。
『先輩……わたし、人を殺しました』
 泣きそうな声が見当違いの言葉を紡ぐ。凍えるように震えた弱弱しい声。
 それが意図するところなど考えるまでもない。否、意図などない。発言内容は検討するまでもなく罪の告白であると明確なのだから。それが何かの暗喩ならばどれだけ救われるだろう。生憎、御巫暦という少女は冗談など口にしない。
『夢を見るんです……。人が死ぬ夢を。毎日、毎晩――わたしは人を殺します。わたしが夢を見るから、きっとその人たちが死んでしまうんです。……でも先輩、わたしには何も出来ないんです。わたしには誰も助けられないんです』
 嗚咽を交えた声が掠れる音声を伝える。
 或いは、さっき朔夜さんと交わした会話があったからかもしれない。不確かな形でしかなかった不安が確固とした一つの形を成し、俺はそれを受け入れる他になかった。
 もっと早く――気付く機会なら在った。あの晩、暦の様子がどこか異様だったのも……それよりも以前、昼の段階で可笑しな予兆は始まっていた。
 ――――夢と現を循迷う迷子。朔夜さんの言葉が思う出される。どちらが本来の世界かを見失ってしまえば、いつか夢想と現実が逆転する。それ故に迷子。自らの居る世界を見失って永遠に循迷い続ける存在。暦の現状は間違いなく朔夜さんが言った末期症状だ。けれどそれとは別に、何か暦を追い込む――少女の認識(セカイ)を壊す何かがある。
 掠れる声で暦がした告白。自分が人を殺したと言った一人の少女。
 そこに在るのは間違いなく、罪悪感。恐らく、御巫暦の逆転認識は罪悪感に寄るモノ。それが、彼女の脳に自衛本能を働かせた。
 思いの外結論は容易に導き出された。
『待っててくださいね……先輩』
 その声が再び意識を現実へと引き戻す。今にも途切れてしまいそうな掠れる声。それが何より、暦の状態を明確に示していた。
『わたしの声は、届かないとわかっています……。それでも、先輩にだけは届いて欲しいんです。唯一度だけで構いません……だから』
「おい暦! お前今どこに居るんだ?」
 叫びは虚しくも廊下に反響するだけで、泣き出しそうに言葉を繋ぐ後輩には届いてくれない。
『……だから、待っててください。わたしが、直ぐに行きますから――』
「暦――――!!」
 何度呼び掛けても返事は同じ。聞こえてくるのは唯、通話が途切れたことを意味する虚しい機械音だけだった。
+注意+
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