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◇
日が暮れ始め、下校時間を報せるチャイムとともに俺達は帰宅の途に着いた。
昼からのことはわざわざ語るまでもない。朔夜さんも空も何かしらの作業に没頭していて、俺はそれをぼんやり眺めて時間を過ごした。
しかし本当に、俺はあの部屋にいても仕方がないだろう。結局朔夜さんを楽しませる会話なんて発生しなかったし、そもそも発生したとしても俺は何にも楽しくなんか無い。むしろ疲れる。
太陽がオレンジ色に染め上げる夕方の世界。
部活を終えて帰宅する生徒達に混じって俺と空は校門を出る。
途中何人かの女子生徒が空に声を掛けていたが、その全員が俺へと驚きの眼差しを向けていた。おそらくは俺と空の血縁関係に驚愕していたものと推測する。これがもう見飽きた光景だったりするのだ。
自分に話しかけてくる友人の対応をしている空は、何というか……普通だった。
正直に言ってしまうと――俺は空を妹とか以前にどこか遠い存在の様に感じていた。
何年か顔を合わせていなかったという事実は確かに兄妹の関係を曖昧にしてしまっていたらしい。もっとも、そればかりが原因ではないのだが。
よく考えれば。
俺はこの空とまだ約四ヶ月しか過ごしていないのだ。
勿論、まるで知らない他人が突然目の前に現れたわけではない。あまつさえ血を分けた妹である。
空の振る舞いは完璧であるが故にどうにもとっつき難い。
家族だというのに俺が空を遠く感じることの最も大きな要因はそれだ。
ただ、同級生と話をする空はそれこそ歳相応の少女でしかない。
学校であまり会うことが無いために俺にとってこういう空を見るのは珍しい体験だった。
「兄さん。どうかした?」
声を掛けられる。
空はいつの間にか俺の隣で肩を並べていた。
「あ……、いや、なんでもない」
よもや考えていたことをそのまま口にするわけにはいくまい。
おそらく俺がそれを口にしたところで空は皮肉九割の感想を述べて一蹴して気にも留めないと思うけれど。わざわざ口に出さなくて言い事柄は存在するのだ。
「そうですか」
行儀のいい立ち姿が短くそう告げて歩き出す。
夕日の逆光で小さな背中が影に覆われる。
空のストレートの黒髪が小さく風に揺れていた。
◇
「あれ……?」
揃っていた足音が片方、ぴたりと止まる。
別段会話も存在しなかったこの場で唯一生きていた音が足音だっただけに、辺りが急に静まったような錯覚を覚える。
呟きは空のもので俺よりも二歩ほど後ろの位置で立ち止まっている。
あらぬ方向を向いた空の視線の先には一人の少女がいた。
「暦?」
空の目線を辿った先。
制服姿のままで御巫暦がそこにいた。
「空…………さん。えっと、こんにちは」
空に気づいた暦があたふたしながら挨拶する。
余談だが、この時間帯の正しい時頃の挨拶とは何なのだろう。こんばんは、はまだ早い気がするし。こんにちはというのも違う気がする。
「暦、家この辺りじゃないでしょ? どうしたのよ」
「ええと、少し用事がありまして!」
暦がぶんぶん首を振りながら話すものだから、会話している二人は全く目が合っていない。
それにしてもこの二人、本当に同級生なのだろうか。
小柄な上に童顔であるのが暦の特徴の一つである。それに加えて、腕を上下にばたつかせながら話す姿も子供染みている。なまじ会話している相手が空だ。この状況では同級生というよりも姉妹といった方がまだ通じるだろう。
「用事って?」
落ち着きの無い暦を窘めるかの様に、空の口調は平坦な音で紡がれる。
その冷静さが逆に不気味だ。慣れ過ぎているというのもどうなのだろう。
「ええと、それは、それはですね、えっと――――あ、先輩! こんばんはです!」
態度があまりにも対照的な両者の会話を傍観していた俺に挨拶の言葉が飛ぶ。
さっき空にはこんにちは、だったのにその辺の変化は何なのかという部分には触れないことにして、俺は別のことが気になっていた。
暦の奴……誤魔化したのか?
「暦、話誤魔化さないで」
しかし当然ながら空を出し抜くことは出来ない。というよりも、今のでは空以外の相手でさえ通じはしないだろう。浅はかだ、暦。
空は冷淡な口調で話題を引き戻しに掛かる。
自身にしてみれば今のが百点満点の欺きだったのか、暦は異常なリアクションで飛び跳ねた。
「あの……それは……その、ですね」
空のつま先辺りへ向けて口ごもる。
俯いて逡巡する暦の動作は、状況を把握している俺でさえ空が暦をイジメているように見えてしまうほどのものだった。
同じことを空もまた感じたのだろうか。
「まあ……言いたくないなら無理には訊かないわ」
と、追求する意思を無くした。
言った空は腰に手を当てて一度ため息を吐き出す。
確かに暦のテンションに付き合うのは気力がいることなので、空のため息には同意できる。それがハイの時でも、ローの時でもまた然り。
追求を免れた暦はそれで安堵したのか気の抜けた表情へ様変わりした。薄暗くなり始めた街の中、夕日に照らされるその姿が何とも言えない悲愴感を醸し出している。
そんな俺の主観など知らないであろう暦は俯いた顔を上げて、
「……ごめんなさい。空、さん」
後半を歪な発音で口にした。
捨てられた子犬みたいな目をして、暦は眼前の同級生を上目遣いに見上げる。
そこに打算や何かしらの思惑が無いことが明白なものだから、
「別に、いいわよ。言いたくないことなんて誰にでも在ることなんだから、気にしないで」
それまで険しかった空の表情が打ち解ける。
ふん、と鼻を鳴らした空はしかし、再び声の調子を僅かに荒げて、
「でもね、暦。いい加減『空さん』は止めなさいよ。わたし達友達でしょ?」
何と言うか、実にその通りなのだが空が言うと何故か可笑しい気がする。
それは偏に俺がこんな空を見慣れていない所為なのだろうか。
「あ……はい、努力しますっ!」
びしっ、と敬礼の姿勢を取る暦。
努力して直すことでは無いと思うのだが、暦にしてみれば一大事なのかもしれない。
呆れるように、けれどどこか安心したように空は苦笑していた。その表情の意味を俺は知ることが無いが、曖昧ながらその心境は読み取れる。これでもそれなりの付き合いだからな。空にしても暦にしても。
「それでは兄さん」
保護者のような感想を浮かべて傍観していた俺に空が向き直る。
頭の中でスイッチを切り替えるように、空の口調が一瞬にして余所行きへと移り変わる。
「わたしは先に帰りますから、暦をお願いします」
「お願いしますって……」
どういうことだろう。
暦がこの辺りをうろついている理由は何らかの私情があるからで、その詳細は解らないが空にも言いたくないようなことであることは間違いない。ならばそこに俺が参入していい理由など微塵も見当たらないのだが。
そもそもお願いします、という言葉が何をお願いしているのかも解せない。
俺が明確な返事返さないことを勝手に肯定と受け取ったのか、空は済ました顔で歩みを進め、
「暦ならきっと迷子になっているだけだと思いますので、兄さんがしっかりと道案内して上げてください」
横目で背後の少女を窺いながら、俺の耳元でそう囁く。
僅かな間背伸びした空は浮いた踵を地に付けると、暦へと上半身だけを振り返らせた。
「それじゃあね、暦。兄さんをよろしく」
にこり、と最後にお嬢様的な笑みを浮かべて空が退場した。
さて、と。ここからどうしたものか。
文句を言う相手も今は遠くの方で影のようになっているし、暦は俺から何らかのアクションを起こさなければ能動的な行動は見せない。
「えあ、あの、先輩」
前言撤回、しなければなるまい。先に口を開いたのは暦の方だった。
精神に僅かな衝撃を喰らって、その動揺が表に出ないように振り向く。
内心の驚きを隠す俺だが、一方で暦は内情を全開の表情でおどおどと俺を見据えていた。
「あの……わたし、本当に大丈夫なんで、気にしないで帰ってください」
つぎはぎの口調だった。
俺はもう見えなくなった空の背中を探すように遠くへ目を遣り、どうするべきかを思考する。
正直、この場に暦一人を放置していくのは危険な気がする。空の言う通り、リアルな迷子なのかもしれないし。暦がこの辺りにどれだけの知識が在るのかは知らないが、異郷の地で一人女の子を残していくのは俺自身も気が引ける。
……それにこのまま帰っては空に何を言われることやら。
お願いしますと言った妹の姿を思い出し、決意した。
「……そんじゃ、行くか」
呟きは思ったよりも沈んでいない。
むしろ何が面白いのかと問いたくなるほどに楽しげだった。
「行くって…………いえ、ダメです先輩! わたし本当に大丈夫なんで……!」
頑なに否定する。
他人の意思をやたらと主張する暦にしては、これは珍しいことだ。
人の厚意は跳ね除けず受け取って、それを倍返しするのが俺の知る御巫暦という娘なのだが……これはどういった心変わりの結果なのだろう。
「あのな、お前の言う通り俺も一応先輩なんだよ。だから迷子の後輩を放置して置く訳にはいかねえんだよ。それに――」
そこまで言って閉口する。
それに――なんだと言うのか。学校の後輩が迷子になっているから放っておけない、それ以外で執拗に暦を気遣う理由は要るのだろうか?
答えは、意識せずとも口から零れた。
「――それにこのまま帰ったら空に何言われるか解らん。だから俺を助けると思って……な、暦」
そういうことだ。時として口走る言葉は思考以上に正確な場合がある。
今が正しくそれであり、それならさっきの妙な声の調子にだって頷ける。
結局俺は自分の意思なんかよりも空の言葉を優先しているのだから。
笑いは、実は滑稽な自身を嘲笑した嗤いだった。…………全然笑い事じゃねえよ、それ。
俯いて黙り込んでしまった暦だったが、しばしの間を置いて顔を上げる。勢いよく跳ね上がった顔がこちらを向いたかと思うと、暦は目が合った途端にそっぽを向いて、
「…………わかりました」
渋々のように肯いた。
◇
空に押し付けられた暦との散歩は何の進展も無いまま直に一時間を迎えようとしていた。
迷子だと空は言っていたが、道を先導しているのは暦の方で、どうやらその読みは外れていたらしい。
何処へ向かっているのかと尋ねてみたが、空の時と同じく暦が言い淀むものだからまだ行き先がはっきりしない。一向に目的地と思しき場所に辿り着かないことから、直接迷ってはいないかと訊いてみてが暦は首を横に振るだけだった。
そんなこんなしながら、俺は違う意味で犬のおまわりさんの気分を味わっていた。
この妙に気まずい散歩が一体どこで終着するのかは依然不明であり、後どれくらいこうしていれば終わるのか予想もつかない。
が、そんなことは別にして気になることが一つある。
前を歩く暦がいつに無く大人しいこと。それに加え定期的に後ろを歩く俺を肩越しに垣間見ていること。
何より――――さっきから同じ所ばかり歩いていることが何よりも気になる。
「……暦、お前本当に迷ってないんだよな?」
「は、はい……。もう少しで着きますから、先輩はもうお帰りになってくださって結構ですよ」
「またそれか」
本当に、暦の様子が可笑しい。
さっきから言葉を交わせば俺に帰れと言ってくる。
初めに空が俺に迷子センター役を押し付けたときからそうだ。暦がここまで何かを否定することは珍しい。
「何かあったのか、お前」
「……な、何も無いです! わたしは元気です!!」
元気なのは解ってるよ……。
こうしていても埒が明かない。
一度どこかで暦の真意を確かめるべきだと判断して、丁度よく現在地が公園の前であることに気づく。取り合えずここで話をしよう。それで何がどうなるかは解らないが、暦の様子が可笑しいことだけは確かなんだから無駄にはなるまい。
提案すると暦はどこか疲れた目をして同意した。
自販機でジュースでも買ってくると言って、暦をブランコに座らせる。
俺が背を向けている間に逃走を図りはしないだろうかと注意を回していたが、暦にその気は無いらしかった。待ってろと言った俺の言葉を律義に守っている。あくまで同意した上でのお帰りをお望みのようだ。
俯いて両サイドの鎖を握る暦に何か粋な台詞を掛けてやれればよかったのだが、生憎俺の語彙群の中にはそのような言の葉は見当たらない。暦は差し出した缶を無言で受け取る。
暦は冷えたアルミ缶を両手で握り締めた。
……温まるぞ。
俺はブランコに座らずその囲いに腰を下ろす。
思った通り、いい感じに鉄が冷えている。 小柄な暦に合わせるには、自然、姿勢は前屈みになる。
「で、どうしたんだ暦? 何か悩み事でもあるのか」
いきなり核心を衝く質問。
やはりと言うか、何と言うか。暦は答えず俯いたまま、缶のポイへ瞳を落としていた。
後になって悔やんだところで取り返しはつかないが、もう少し遠回しに訊くべきだったか……。
陽はすっかり落ちて、公園の中は闇に包まれる。在るのは遠くの外灯が産み出す弱い灯かりだけ。
そして。
ギィ――錆び付いた摩擦音が静寂を割った。
「――――は、ありますか……」
小さな声。それに続いて。
かりかりかり。無機質な音。その正体は暦が缶の上底を引っ掻いている音だと少しして気づく。
「先輩、はありますか……?」
かりかりかり。その音だけが大きくなっていく。
これから自分が口にすることを練習しているようだ。
全部は聞き取れないが、もう何度も同じ言葉を反復している。
かりかりかり。音は次第に大きくなっていき、
――――かりかりかり、かりかり――かり――ッガ……
「い――ッ……」
爪が変に引っ掛かってしまった模様。
「…………よし」
しかしそれで決心が出来たらしい。
暦の顔を上げる速度が尋常ではなく、何か常軌を逸したものを感じたことはわざわざ言うまでも無いことであると思うが――
「先輩!」
――伏せていた瞳が滲んでいるのは、俺が触れてもいい事柄なんだろうか。
思考すること数瞬間。それにはノータッチでいることを決めた。
「先輩、は……ありますか!」
練習した成果がそれであるらしいから、その努力を認めてこけるのは止してやろう。
心中でほっと胸を撫で下ろす。ここに至るまでの暦の努力を知らなければ、俺は間違いなく別の意味で暦の発言を受け取り、然るべき対応を取っていたことだろう。 訂正するべきだ。
暦の視線はどこまでもまっすぐに俺の目を穿っている。自分がひょっとしたら問題発言をしている、などとは露ほども思っていないのだろう。暦の目はどこまでも真剣だ。
「は…………っ!」
大きな瞳が一層開かれる。他人の口出しするところではないらしい。自分で気づいたのだろう。
間髪入れず、暦は次のように修正した。
「先輩! したことありますか!?」
何が!?
どうしようもない威力だった。
背中から鉄柵を軸にして一回転してしまうほどに。
無論、一回転というのは程度を表しただけで実際、俺は九十度回転して脊髄を強打した。
否応無しに夜空を仰ぐ体勢となった体を引き上げる。再び何も無かったかのように振舞って、俺は暦の前に再来した。
「暦……お前、そんなこと聞いてどうするつもりなんだ……?」
「え、だって先輩が『悩み事があるのか?』って訊きましたから」
背筋に嘗て無い戦慄を覚える。
この冷や汗が腰から上へ逆に上っていく感覚はいつ以来だろう。トイレから帰ると何故か俺の部屋から出てきた空に冷ややかな視線を向けられた時以来、かな。おぞまし差としてはダイレクトである分こっちの方が上だ。
「もしかしてお前、そんなことで悩んでるのか……?」
「はい。本当は一人でなんとかしようとおもってたんですけど……。先輩が相談に乗ってくれるって……いいましたから」
相談に乗ると言ったのは確かだが、内容にもよると今更ながら付け足したい。俺はどんな悩みでも解決出来る先輩ではないのだ。
夜の公園。
ブランコの錆びた鎖が風に揺れる。
「……先輩は、後悔したこと、ありますか……?」
キィ――という嫌な高音が耳を衝く。
表情を陰らせた暦が最後にそう質問した。
最終的に訊きたかったことはそれらしい。二度に亘る失敗の末にようやくそこに至ることが出来たということか、あるいはまだこれでも完全でないのか。
「後悔って……そりゃ無いことはないな」
十六年程度の人生でも、振り返ってみて一つも悔いがないと言えば嘘になる。けれどそれはほとんどの人間がそうだろう。
暦の質問の意図が俺には理解出来ずにいる。
「そう……ですか……」
十人に訊けば十人が同じことを言うであろう俺の回答。そんなものでも暦には役に立ったのだろうか。
「そう……ですよね……。それってやっぱり、よくないですよね」
「まあ、良いか悪いかで言えば後者だろうけど、そんなのはどうしようもないことだろ?」
後悔。後になって悔やむという性質上、それは結果の後に付きまとうものだ。ならば結果が解らない段階でそれを回避することは叶わない。補足するように俺はそう付け足した。
言い終えると、暦は何かを納得する様頷き、
「……わたしは……人間は、結局みんな後悔をするものだと思ってます」
その言葉はどうやら俺宛であるらしかった。
「どんなに後悔しない道を選んでも、やっぱりそれは在るものだと思います――だから」
顔を上げる。滲んだ眼光はけれど、それでも一層強い光だった。
「だからわたしは、今出来ることをします……今しか出来ないことをします!」
意気揚々と、そんなことを宣言する。
言っている意味が俺には解らなかった。けれど憑き物の取れたような表情をする暦を見ると、これまでの時間は無駄では無かったんだと思える。
「先輩、ありがとうございます」
小さな頭を下げる。それは見飽きた暦の得意技だ。
すっかり日が落ちた夜の空。
雲の無い星空は、明日が晴天であることを告げているみたいだった。