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準備室に戻った俺を出迎えたのは意外な人物だった。
「あら……。兄さん、来てたんですか」
「そりゃこっちのセリフだ」
優雅にコーヒーカップを傾けるその少女は名を遙瀬空といって、間違いなく俺の実妹である。であるのだが、これがどういう訳か空の振る舞いは全てお嬢様然としている。今年の春、三年振りに空が家に帰ってきてからは実家が王宮か何かに思えて戸惑ったくらいだ。
空は肩に掛かる黒い髪を払い、カップを机の上に置いた。
「それは愚問ですよ。そもそも朔夜さんを兄さんに紹介したのはわたしなんだから、わたしが朔夜さんのところにいても可笑しくは無いでしょう? それとも兄さんには、わたしがここにいては都合の悪い事情でもあるんですか?」
丁寧なくせに挑発的な言葉だ。これも今となっては慣れたものだが。
空のイメージは常識知らずのお嬢様という訳ではなく、むしろその逆だ。
世の中の理を知った上でそれに逆らっている感じがある。
さながら王族に生まれながら、世の支配に抗う王子といったところ。勿論この場合はプリンスではなくプリンセスだが。
そんなことを考えながら、俺は空の対面の席に腰を下ろす。
その様子を空はカップに口を付けながら上目遣いに眺めていた。
どことなく睨み付けている風なのは、空が持つ常に何かに挑んでいる雰囲気のせいだろう。
「そういえば、空」
唐突に俺が切り出した。さっき暦とした会話を思い出したからで他意はない。
「お前、弓道部に仮入部してたらしいな」
空が立ち上がるのと、俺がそう言うのは同時だった。
不意を討たれたように空が動きを止める。顔だけを振り向かせた表情はいつもの冷静なそれと変わらない。
「ええ、一度だけ練習に参加しました」
言い終えると、空はため息染みた吐息を溢し、
「暦に誘われたんだけど、暦自身は練習にこなかったんだっけ……」
言葉遣いから考えて独り言のようだ。
空はその過去を思い出して嘆息しているが、その反面俺は合点がいっていた。
弓道部のことなのにまるで他所事のように話していた暦を思い出す。伝聞口調の原因はつまりそういうことか。話全体がどこか借り物染みていた訳だ。
空は今一度大きなため息を吐く。世話の掛かる妹を思い出す姉の様な姿。
俺はカップ片手に行動停止している姉姿に声を掛ける。
「それで、何で入部しなかったんだ? お前、聞くところによると相当な腕なんだろ?」
その言葉で空は忘我の果てから意識を蘇生させた。はっ、として顔を上げる。
「……別段弓に興味があったわけではないですから。そんな人間が混じっては悪いと思ったので」
「なんだそりゃ。部活くらい気軽にやればいいだろ」
これは空の昔からの癖だったりする。
責任感が強いと言えばあり体だが、空のそれは他とは異なる。
或る一つのモノに固執できない。それは責任感とは反対であるように思えて、実は連結した意味を持っているのかもしれない。責任感が強いからこそ、無責任に何かを背負うことをしないのだ。
空はまさしくその典型で頼み事をすれば必ずそれをこなしてくれるが、逆に自分からは何にも執着しようとしない。
だからこそ弓道を真剣にやる気の無い自分が、本気になってその道を極めようとしている他人と肩を並べることが許せないのだろう。一度そこに入ってしまえば、自分も同じ覚悟を背負う責務を負ってしまうから。
……何もそこまで気にしなくていいと思うけどさ。
「それはダメなの」
ここに来てまた口調が変わる。
歳相応の少女口調をした空の目は、けれどしっかりと俺を見据えていた。
一体、何が違うというのだろう。
「……いえ、なんでありません。聞き流してください、兄さん」
結局疑念は晴れぬまま、空は俺に背を向けた。
どうも始末の悪い会話ではあったが、それでも空が話し難いのなら深く追求することは止めておく。そんなことをしても無駄な時間を浪費するだけということは、兄である俺がよく知っていることだ。妹に自分の強情さに似たものを感じているこの頃だからな。
「ところで兄さん、朔夜さんはどこですか?」
背中越しに空が尋ねてくる。
俺は空が開いている本を遠くを見る目で眺めながら、
「朔夜さん……って、そういえばいないな」
今更ながらそんなことに気がつく。この部屋にいて当たり前の人物の姿が無い。
壁際の散らかったデスク。唯一の窓を背にするその場所に朔夜さんは不在。
俺が昼飯の為に部屋を出たときにはまだ朔夜さんはそこにいた。
……まさか、何も言わずに自分だけ帰った、なんてことは無いだろうな。あの人なら遣りかねない。
思いの他早く仕事が片付いてな、先日は先に帰宅させてもらった。なんて全く罪悪感を感じていない表情で言う朔夜さんが思い浮かぶ。
「わたしがここに来たときには、もう不在でした」
振り返った空の両手にはそれぞれコーヒーが注がれたカップが握られていた。
二つのカップを机の上に置いて、空はその片方を俺に差し出す。
「先に帰ったんじゃないのか? あの人ならそれぐらいするぞ」
「それは無いですよ。朔夜さんは面倒見のいい人ですし、呼び出しておいてそんな無責任なことはしません」
何を根拠にそう言うのか、揺ぎ無い瞳で空は言い放った。
いや、それは違うぞ空。
奴は教師という仮面を被った残虐非道な悪魔なのだ。小悪魔なんて可愛らしいものじゃない。自分の退屈を紛らわすためなら、全人類を巻き込んで命を賭けた死のゲームを開催しかねないほどの極悪人だ。
六月の事件を思い出しながら、俺がそんなことを言うと、
「そんなことは無いですよ」
コーヒーを啜って、空は断固否定した。
「朔夜さんはいい教師です。実際、彼女に信頼を寄せる生徒も少なくはないんですよ」
「……あのな、空。お前がどんなペテンに掛かったのかは知らんが、取り合えずあの人には気をつけろ。取って食われるかも知れんぞ」
一向に引かない俺を、空は一層強い目で見据えた。
なんだ、その目は……?
「随分とメルヘンな例えが好きなんですね、兄さん。帰りに御伽噺の本でも買ってきてあげましょうか? それとも紙芝居がいいでしょうか。ああ、心配はいりませんよ。難しい平仮名があったら変わりに読んであげますから」
よほど癇に障ったらしい。空の言葉には容赦が無い。
一度奮起した空を宥めるのは難しい。
最善の解決策はただ言われるがまま言葉攻めのサンドバックになることだ。
あくまで冷静に兄を罵倒する空。そこへ、
「――――なんだ、私がいない間に随分と盛り上がっているな。お前達」
扉を開いて、件の変人が戻ってきた。
朔夜さんは取り立てて興味がある風でもなく呟いてデスクへ向かった。
「私のいない間に楽しむとは、遺憾だ」
鬼の居ぬ間に洗濯とは、まさにそういうことだろう。
それにしても朔夜さんには俺たちが楽しんでいる様に見えるのか? だとしたら俺は改めて彼女の人格を疑わざるを得ない。
「どこへ行ってたんですか?」
「昼食だ。食堂へ行っていた」
空の問いに答え、朔夜さんは俺の前に置かれたカップを啜った。……いや、それ俺のだから。
「……朔夜さん、学食を利用するんですか?」
「当然だろう。高校の楽しみは学食だ。それとも私が学食を利用していては可笑しいか?」
可笑しい。この人が生徒に交じって食事をしている姿なぞ、一体誰が想像できよう。
食堂を利用する一般生徒たちが心配になってきた。よもや生徒から金を巻き上げてやしないだろうな?
「ところで空、遙瀬と何の話をしていたんだ?」
空に対してその質問のしかたは可笑しい。他にあるだろ、国語教師。
開いていた本を閉じ、空が顔を上げる。
「大した話はしていません。弓道部に仮入部していたことについて適当な会話です」
「なんだお前、弓道に興味があったのか」
「興味はありません。仮入部していたといっても一度練習に参加しただけですから」
ふん、と朔夜さんが小さく鼻で笑う。
「熱心な勧誘を受けたことだろうな。お前なら弓の腕も相当なはずだ」
「ええ、まあ」
誇る風でもなく、空は肯定する。
空はそんなことより、と静かに朔夜さんへ振り向き、
「それより朔夜さん、早速ですが本題に入ってよろしいでしょうか?」
こと、とコーヒーの入ったカップの底が音を立てる。朔夜さんが俺から奪ったカップを置いた音だ。
「なんだ、随分と急ぐじゃないか空」
からかう様な微笑を浮かべて、
「お前から電話して来るなんて珍しいと思っていたが……よほど気に掛かるようだな。お前はそんなことに興味は無いと思っていたのだが」
言いながら、朔夜さんの瞳は新しい玩具を手に入れた子供のように変化する。何にも興味が無さそうな虚ろな瞳は、光を取り戻して生きた人間のそれへと蘇生した。
嬉々としたその笑顔を見ながら俺は驚嘆していた。
てっきり空の方が呼び出されたのかと思っていたが、実は逆だったということか。我が妹ながら、自らこの変人の根城に乗り込むとは。考えられん。
などと考えていると朔夜さんの視線が俺に向き、
「だったら、お兄さんには席を外してもらうか?」
なんてことを口にした。
……席を外すとはどういうことだろう。俺が退場しなければならない理由はなんだ?
「いえ」
俺の反論や同意よりも早く空が肯定した。
端正な顔がこちらへ向く。
「話は電話の続きですから、兄さんは空気のようなモノです」
「はは。そうだったな」
俺は既に蚊帳の外にいる。
一方で二人の間では話が通ってしまったらしい。
「しかし珍しいな。お前の方から話題を持ち出すなんて。夏休みで相当暇を持て余していたのか?」
「ええ、まあ。そういうことにしておきましょう」
話がまるで理解出来ない。いや、まだ本題には入っていないようだが。
それでも俺に解ることは、今から始まる二人の会話が常識の範疇を越えているということ。裏付けなら朔夜さんの表情から取れる。
「それで、実際にそういうことはあるんですか?」
「前例が無いとは言えないさ。世間にはそれを表す固有名詞だってあるんだからな。と言っても、それだって細かく分ければ幾つかの種類に分かれる。今の情報量じゃ、私には大したことは言えないな。百円を拾うのと、地球に巨大隕石が落下するのとではモノが違うだろ? ――夢に見たことが現実に成ることはあるんですか? なんて、アバウトな質問では私の回答も限られてしまうぞ」
夢に見たことが現実になる……? それはつまり――
「予知夢、といったところか。空、お前の言うそれはどんな未来を予知しているんだ?」
朔夜さんの言葉は俺が予想したものとは違っていた。
予知夢。それは読んで字の如く先に起こることを予知する夢のことを表しているのだろうけれど。
「朔夜さん、それ予知夢じゃなくて正夢なんじゃないですか?」
知らず、挙手もせずに俺は二人の会話に口を挟んでしまった。
驚いたのはむしろ空の方だったらしい。朔夜さんは無関心な目をこちらに向けるだけで眉一つ動かさない。それに対して空の方は持ち上げたカップを静止させて、あからさまに驚愕の瞳を俺に向けている。
……どうやら、俺が首を突っ込んではいけない会話だったらしい。
「確かに」
停止した空気を動かしたのは朔夜さんだった。
「私も詳しいことを知らない以上、一概にこれを予知夢とは言えない。お前の言うとおり、正夢の類かもしれないな。今の段階でその辺が解るのは空だけだ」
同意するようなその言葉は何処となく可笑しい。
…………いや。よく考えれば、そもそも可笑しな発言をしたのは俺の方だった。
殆ど何も考えずに口に出してしまったが、予知夢と正夢は結局同一の言葉でしかない。だというのにそれらを別物のように扱う朔夜さんの言動が可笑しく感じたのか。
「で、空。お前が言う『夢』は、一体どんな夢なんだ?」
「それは…………」
言い難そうに空が口淀む。何となく横目で俺に視線を飛ばしているようだが、その意味はまるで解せ無かった。
ややあって、
「…………人が、死ぬ夢です」
泳いでいた視線を朔夜さんへ固定し、その言葉を外に出した。
人が死ぬ夢。それが俺の脳髄に浸透するよりも早く、室内に調子はずれな声が響いた。
「は? いや、私が訊いているのは夢の内容じゃないぞ、空」
苦心の末に出したような空の言葉に朔夜さんはそう言い放った。
「私が聞きたかったのはな、空。その夢が現実になるまでの過程だよ」
さも当然のように朔夜さんは言う。
しかし今の会話から朔夜さんが言うような質問の内容を読み取れる人間はそういないだろう。何せ空さえも解せないのだから、一般人の大部分には理解不能なはずだ。
なによりそんなことを聞いて、一体何になるというのか。
同じ事を考えているように、空はきょとんとして目を瞬かせている。
「え……。すいません。そこまでは解りません」
「なんだそれは。……まあ、解らないなら仕方が無い。それにしても、どうしてそんな質問をするに至ったんだ空? その様子だと、夢が現実になるという現象を体験したのはお前じゃないようだが」
朔夜さんの言うことは正しい。意図は解らないが、空の疑問が実体験に基づいたモノだとしたら、その質問にも答えられるのが当然だ。
……と、ちょっと待てよ。
「朔夜さん、それって夢の内容を訊いてるのと同じですよ」
些細な矛盾点に気が付く。
「夢が現実になるってことはつまり、その過程も『夢』ってことでしょう? だったら『過程』を尋ねることは夢の内容を尋ねることと同じことじゃないですか」
「それは違うだろ。夢に出てくる場面が結末のワンシーンだけなら、現実における結末までの過程は夢とは別物じゃないか」
言われてみれば確かにそうなる。
だとしたら、朔夜さんが尋ねているのは一体どういうことなんだろうか。
「この話は終わりにしよう。空、相談に乗るのは構わんが次はもう少し情報を揃えておけ。私も無責任にものは言えんからな」
その言葉で、この場における空が持ち出した現実になる夢の話は収束した。