第四章:罪悪夢想の迷子/1
唯、一度だけでも助けたいと思った。
自分には何も出来ないと解っていたけれど。
それでも繰り返せばこの声は届くと信じた。
誰かの世界を垣間見て、誰かの死を傍観する。
重ねた罪の大きさに壊れてしまいそうな小さな自我。
けれどそれは。
わたし自身が背負った罪。
罪悪感と彷徨い続ける夢想の中。
或いはこの日常が。
今にも消えてしまいそうに儚い泡沫の日々。
本当は。
この幸せな日々こそが、わたしの夢だったのかもしれない。
だから、ずっと。
遠くから眺めているだけでよかった。
――――夢は、触れてしまったら嘘になるモノだから。
/罪悪夢想の迷子
/1
……
解るのは、ただ其処が燃えているということだけだった。
見渡せる世界の全ては赤く染まり、老朽化した木材が軋む音を上げて崩れ落ちる。
黒い煤が霧のように漂う赤い世界。
ここはどこだろう。この世界をわたしは知っている気がする。
曖昧な視界と、世界を埋める炎がこの場所の認識をさせてくれない。
轟音が遠くで鳴り響いた。
木の焦げた臭いが鼻を突く。
ぱちぱちと音を立てて火の粉が爆ぜる。
ここはまるで地獄の様。
ぼんやりとした視界に収まる全てが炎に焼かれ、悲鳴を上げている。
何故だかわたしは其処にいた。其処にいて、ただ見つめていた。
いつも思う……
――――ほんとうに、どうして自分はこんな所にいるのだろう。
いつ。なんの為に。どこで。どんな風に。わたしが其処に到るまでの経緯がまるで解らない。
……其処にいる。というのも適切ではなかった。
わたしは其処に在るけれど、実在はしていない。実態の無い亡霊のようにぼんやりと佇んで、この凄惨な赤い世界を見つめているだけだった。
ここはわたしの為の世界ではないんだ。
本来いる筈の無い世界なんだ。
この世界に実在しているのは二人だけ。わたしの視界に入る、唯二人の男女。
“――――――”
声にならない叫びは自分でも何と言っているのか解らない。
唯一わかることは、その声は誰にも届かないということだけ。
そう。わたしにはどうすることも出来ない。わたしに出来ることは、最後まで傍観するだけ。
だってここはわたしの世界じゃない。
わたしの存在する場所じゃない。
いつもいつも、わたしは見続けることしか出来ないんだ。
毎夜繰り返し彷徨う、この夢想の果てを――。
……
部屋に差し込む朝日を浴びて、御巫暦は眼を覚ました。
ゆっくりと開いた瞼の下で黒い瞳が濡れている。暦の表情はおよそ彼女が穏やかな眠りに就いていたとは思えないものだった。
額には汗が滲み、呼吸も荒い。
暦は華奢な体を布団の上で起こし、きょろきょろと首を左右に振った。
見慣れた壁紙。見慣れた天井。壁に吊るしている高校の制服。全て見慣れた物。毎朝、毎晩。この場所の主である暦には馴染み深い空間。
少女の部屋。ここは少女のいる世界。
そう視認して、暦はようやくそれまでに自分が見ていたモノが夢だったと気づく。
「ぁ――――はあ……」
零れた吐息は安堵からか、或いは陰鬱からの溜息か。
答えはその両者だった。
「……また、あの夢……か」
一人呟く声は暦自身も驚くほどに沈んでいる。
元気一番、と暦は学校の先輩によく言われていた。その自分が朝から鬱な気分では先輩に示しがつかない。最近では少女が眼を覚ましてから最初の思考は毎朝それだった。
毎朝。
そう毎朝だ。
つまり暦は毎晩悪夢に魘される日々を送っているのだ。
もういつからこんな事になったのかは覚えていない。いつの間にか暦の夢は頻繁に悪夢となって少女を襲い、苦しめていた。何故か、原因はまったく解らない。けれど確実に状況が悪化していることだけは解っていた。初めは数日に一度だった悪夢も、最近では殆ど毎日見るようになっている。
寝不足を訴える重たい瞼を無理やり開き、暦は着替えを済ませて朝食へ向かった。
家には暦しか居ない。両親は早くから神社へ出ていて、朝はいつも一人で過ごす。それ故に食卓に会話は無く、気分を紛らわすことも難しい。そんなことを無意識に感じととって、暦はテレビの電源を入れた。
暗転した画面に明かりが点り、映像が映し出される。
「あれ……?」
小さな声。驚きと、恐怖が作用して口をついて出た短い言葉。
呟きは言うまでも無く暦の発したもの。
電源の入ったテレビが映し出しているのは朝のニュース番組だった。その内容は朝という時間に似合わず人死沙汰。
今の時代、そんな報道は特に珍しいということも無い。
暦が驚きの声を出した理由は他にある。
(これ……夢の……)
心中で呟くと共にフラッシュバックする光景。
飛び散った鮮血、爛れた傷口、死の恐怖に歪んだ表情。
少女の中でブラウン管が映し出す次の映像が逸早く連想される。
どういうことか、リアルタイムで放送しているニュース番組の内容を暦は先に知っていた。
報道されている事件が起きたのは昨夜。報道されるのは夜が明けてからだ。勿論その場に暦は居合わせてなどいない。――ならば、少女は如何にしてその事実を知りえたのか。
答えは瞬時に見つかった。
御巫暦の意識に反して、脳は一瞬で疑問を解決してしまう。認めたくない事実を脳は肯定してしまう。
何故か。それは当然のことなのだ。
――――こんなことは、これまでに何度もあったのだから。
「ぅあああ…………」
夢。即ち御巫暦という一人の少女が直視する死。
少女が見る悪夢は、その内容こそ様々だが或る一つの事柄で共通していた。
それは死。これから先、誰かの身に訪れる死を彼女は夢想に予見する。
予見。少女の夢は未来に存在する死を事前に見せる。今まさに画面に映し出されている光景も、彼女は数日前に既に見ていたのだ。
違うことといえば一つだけ。
報道されている現場は既に事が済んだ後の現場。事後映像に過ぎない。
暦が見た夢。それは地面が新鮮な血を吸った瞬間。夢の中の確かな現実。
誰かの死の現場に居合わせ、何も出来ないままにそれを見届ける。助けを求めて死んで逝く者も、絶望の叫びを上げて死んで逝く者も――誰一人、声を掛けることさえ許される傍観させられる。
どくん、と暦は自らの心臓が大きくなったのが解った。
例えようの無い居心地の悪さを体全体が感じる。
わたしの所為だ……――――
浮かび上がる一つの感情。
暦の頭の中はその言葉だけでいっぱいになっていた。
頭の中に別の誰かがいて、その言葉を語りかけるように何度も口にしている。何度も何度も。気が狂うほどに幾度も。暗示のように、催眠術のように。耳を塞ぐことも許されない。言葉は直接脳に響いている不可避な音声。
他人の死が自分の所為だと感じ、恐怖に頭を抱える。
どうしようもなく溢れ出て来る感情に、人格が壊されそうな状況。
上下の歯がぶつかり合い、がちがちと音を立てる。
わたしの所為だ。わたしの所為だ。わたしの所為だ。わたしの所為だ。わたしの所為だ。わたしの所為だ。わたしの所為だ。わたしの――わたしの所為――
自ら繰り返すその思考は呪い染みている。
わたしの所為だ。思考の全てを埋め尽くすその言葉は、
――…………わたしが、殺した。
いつしか凶悪な呪いとなり、少女は自らその罪を背負ってしまった。
夢想に植えつけられた罪悪感。いつしか、それは少女の全てを塗り潰す。
穏やかな朝の時間。
一人の少女が流した涙。
一人の少女が背負った罪。
決して消えてくれない罪悪感。
日常という悪夢が少女の存在を虚無へ導こうとしていた。