表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/40

8

 /8



 ◇



 幼い日の想い出。

 記憶のどこで確かに残留する、私の過去。

 いつの日のことだったかはもう覚えていない。

 けれど、それが思い出したくない記憶であることだけは、曖昧な残滓に対してでも確信を持つことが出来る唯一の事柄だった。

 記憶の中の私。幼い子供そのものである少女の目は、社会の厳しさや汚さを知らぬ、純粋で明日への希望に満ち溢れた光で満ちていた。

 ある日の夜中。

 理由は解らないけれど、私は電気も点いていない廊下に一人で座り込んでいる。映像はピントがズレた写真の様で、そこに在った私の記憶は、雨に打たれて字が霞んだ書物の様。古い映画のような記憶の再生。パジャマ姿で膝を抱える私は、そこに在る闇だけを見つめていた。

 ――やがて、声が聞こえてくる。

 少女の背後から聞こえるそれは、少女が背を預けている扉を一枚隔てて闇の中に響く。

 私は、いつもここで思い出すのだ。

 少女(わたし)がこうしているのは、この声を聞くためだったのだ、と。

 そうして目的を果たした私は、けれどその場を離れようとはしない。

 時刻は深夜。既に、日付は変わっている。

 深淵の中で生きているのは、二人の男女の声と時計の針の音。それと、私の心臓の鼓動だけだった。

 やがて。

 穏やかだった会話は少しずつ不穏に変わっていった。

 泣き出しそうな感情を抑えながら、会話に耳を傾ける。

 熱くなる瞳。大きくなっていく鼓動。感覚が短くなっていくと錯覚する時計の針の音。

 会話は既に討論へと変わっていた。

 男の怒声。

 女の泣き声。

 私は二人の会話の内容を知っていた。

 二人――両親は一週間前から、毎晩私が眠りについてからこうした言い争いを続けていた。いや、本当はもっとずっと前からかもしれない。一週間前の晩。トイレに起きた私は、それから毎晩二人のやり取りを盗聴している。

 やがて声は、耳を塞ぎたくなるほどに悲痛な叫びに姿を変えていた。

 かたかたかた。

 上下の歯がぶつかりあって、そんなリズムを刻む。

 寒いわけでもないのに膝は震える速度を上げていく。

 やがて零れだした涙は頬を伝って、床に落ちる。

 両親の会話を聞いていれば、自分が堪え切れず泣いてしまうことは解っていた。だって、もう一週間もこうしているのだから。それでも私は二人の会話を毎晩聞いていたのだ。どうしても、それを聞き逃してはいけない気がしていたから。

 何よりも。自分が眠っている間に、二人がいなくなってしまうのではないかと、心の底から恐怖していたから――。

 曖昧すぎる記憶は、そこから先を思い出させてくれない。

 深すぎる闇はやがて孤独になって、私の中に充満した。



 ◇



 茜色に染まった空と道。

 放課後になって俺は、とある理由からクラスメイトである橘湊人の家に向かっていた。

 そのとある理由というのは――そもそも高校生がクラスメイトの家を訪ねるのに大した理由が必要なのかは謎だが――昼休みの一件だった。

 朱空朔夜なる変人教師を空に紹介された俺は貴重な昼休みの時間を割いて彼女との対面を果たしていた。無論そこに俺の希望は含まれていないし、拒否権も与えられてはいない。お陰で昼飯を喰いそびれた、というのは百歩譲って気にしないでおくにしても、部屋の扉に仕掛けられたトラップには流石に憤怒を抑えきることは出来なかった。

 そんなこんながつい何時間か前にあったのだが、それはそれで全くの無意味というわけではない。事実俺自身収穫と呼んでいいもの手にしていた。

 連続通り魔。

 先日のホームルームで耳にした物騒な噂。

 誰も殺さない通り魔が出没する、というこの噂こそが俺と朱空朔夜を引き合わせた要因であり、得られた収穫もこの噂についてである。

 矛盾と謎が多すぎた噂の内容だったが、それも昼休みの会話で殆どの説明がついた。

 残された疑問は二つ。未解決のまま取り残されている。

 ……いや、正確には一つは確信のない状態だ。

 それを解決するために、俺はここに来ているのだから。

「ところで」

 呟いて俺は視線を自分の右横に移す。

 声は、どこか非難がましい響きだった。

「何でこう、放課後の俺の行動には毎回お前が付き添ってるんだ?」

 それも、こんな状況でなら許されることだろう。

 先日に引き続き、俺の隣には御桜流深の姿があった。

「放課後は暇だからね」

「暇だったら、お前は俺に付き纏うのか?」

「それで、これからどこ行くの?」

 質問しているのは俺だというのに。中学からの知り合いは、そんなことなどお構い無しに関連性の無い自分の疑問を投げかけてくる。何でこう、俺の周りの連中は俺の質問に対してこうなのか。

「橘くんのお見舞いだよね?」

「何で知ってんだよ。俺、一言もお前にそんなこと言ってねえだろ」

「あれだけ色んな人に家の場所訊いてたら、誰だってそうだと思うでしょ」

「……お前、そんな所から同伴してたのか」



 聞き込みによって知り得た橘宅に辿り着いた。高級マンションでもなければ、見るからに欠陥住宅丸出しの問題建造物でもない、一見普通の三階建てマンション。高校生が一人暮らししているといっても、特に不思議は無い。

 教えられた部屋の前に言って、俺は周囲を見回す。

 よもや暦の追跡がここまで及んでいるのでは無いかとの行動だったが、ここから見る限りではその心配も無いらしい。

 気にすると言えばさも当然のようにここまで同伴してきた流深の存在であり、出来ればこれ以上はお引取り願いたいところだ。しかしながらそんなことを言って聞くようなやつではないから厄介なのだ。

 そんな事実を改めて理解し小さな溜息を吐く。

 今ならまだ流深を伴って行動していても大きな問題は発生しない。これが終わったら、何としても帰ってもらわねば困るところだが。その時のことはその時に考えるとしよう。

 ここが最終妥協線だと定めて、俺はインターホンを鳴らす。

 ぴーん、ぽーん。と明るい音が部屋の中から漏れて外にまで響いた。

 ………………。

 待つこと数十秒。

 中から応答は、無い。

「留守かな?」

 流深が首を傾げるのと同時にもう一度インターホンを鳴らしてみる。

 結果は同じ。中から漏れて来る機械音以外、後はずっと無音を肯定している。

 ……これはどうも見当違いだったのかもしれない。朔夜さんとの会話から、最近欠席者が多いのはそいつらが全員事件の被害者だからだと予想を立てていたのだが……。橘は例外なのか、或いはその考え自体が誤認だったのかもしれない。

 クラスメイトが自殺者候補として名を連ねていないのなら、それはそれで大いに安堵できることだ。とはいっても部屋を訪ねてみただけでそうだと決め付け、ことが起こってから後悔するのはバカらしい。

 鞄から携帯を取り出して、住所と一緒に聞いておいた橘の携帯番号を入れる。

 これでもし何食わぬ声色で『もしもし』などと聞こえてきたなら、橘はただのサボリだったのだと決定して帰ることにしよう。そう決めて、通話ボタンを押し込む。


「ぅああ――――ああああああああああああああアアアアアアァァァァ!!」


 スリーコールほどの間。

 場を支配していた静寂を切り裂いたのは、そんなおよそ声とは思い難い絶叫だった。

 騒然、という言葉が正しいか。それとも唖然と言うべきか。

 おそらくはそのどちらも正しいのだろう。空気をかち割らんばかりのシャウトが場を満たし、その中で俺は携帯を握る握力さえ入れることを忘れてしまいそうな状況なのだから。

「……なんだか凄い着信音だね」

「……こんな着信音、誰が設定するんだよ」

 忘我の果てから俺を呼び戻したのはそんな流深の言葉だった。本気で言っていないことは明らかで、おそらくはこの場を満たす妙な空気を換気したかったのだろう。

 携帯から聞こえる声が、いつしか留守番電話サービスに繋がっていることに気付く。

 部屋の中から漏れる轟音は呼応するように静まっていき、やがて場にはまた静寂が戻ってきた。

 爆発音の様な絶叫に流深はまだ面食らっているように見える。そんな中で俺は努めて冷静に思考していた。部屋の中から聞こえた声はどう考えても異常。タイミングから考えて、原因は間違いなく携帯電話だろう。

 何だろう。胸騒ぎを抑えながら俺は徐に一歩前に出る。と、眼前の扉に拳をぶつける。

「おい、橘! なにやってんだ――!?」

 無駄だとは思っていたが、取り合えず呼びかけてみる。

 予想していた通り返答は無し。物言わぬ扉は平然とそこに立ちはだかっていた。

 鉄の扉に何度も拳をぶつける姿はさながら借金取りか何かのようにも見えるだろう。この様子を事情を知らない第三者に目撃されていないことを祈るばかりだ。

「――あれ……?」

 可能性、とかそんなものに期待していたわけではない。ただ他にすることがなくなってしまったために殆ど無意識でそれを行い、そして無意識に声は出ていた。

 手を掛けたドアノブは驚くほどあっさりと回ってしまい、扉は至極あっさりと道を開けた。

「鍵、掛かってなかったみたいだね」

「らしいな」

 ノブを握ったまま半開きの扉を一度閉める。

 ここが最終妥協線だと思っていたが、どうやらそうも行かないらしい。……流深には、どうあってもここで帰ってもらわねばならない。

「流深、悪いが今日はもう帰ってくれ。橘には俺一人で会う」

「どうして?」

 言葉の意味が解らない、と言いたげな眼で流深は俺を見返す。橘がどうにかなってしまっていることは今の叫びで流深にも理解できている筈だ。それ故にここで引き返すということはに抵抗があるのだろう。

 そうであっても、俺はどうしてもこれ以上流深を関わらせる訳には行かなかった。

「実はな、今日俺が橘に会いに来たのはお見舞いが目的じゃないんだ」

「え、そうなの?」

「ああ。詰まる所俺は橘にある物を借りていて、それを返しにきたんだ。で、それを返却する場面にお前には立ち会ってもらいたくないわけだ。……あー、つまり、俺が橘に返さなければならないものというのが……」

「それってつまり――」

 口の動きから次の一言を予測して、俺は大急ぎにその口を手で覆う。

「まあ、そういうことだ。だからお前は速やかに帰宅してくれ。お前が橘を心配していたことは俺からよーく言っておいてやる。……頼む。帰ってくれ」

 懇願する俺を、流深は冷ややかな眼で見ていた。どうとでも思うがいい。これで踵を返してくれるのなら、俺の面子は仕方の無い代償だと思おう。

 黙視の非難を表情を変えずに受け止めること僅か、先に折れたのは流深の方だった。

 自分の口にまだ蓋をしている俺の手をどけて、

「わかった。……今日は帰る」

 まだ遊び足りない子供の様な、拗ねた口調で受諾した。

 何度か振り返っては冷ややかな視線を浴びせてくる。そんな風にして去っていく流深の姿を無言のまま見送り、来た道を辿って帰っていく後姿が見えなくなるまでそうしていた。

 今更ながら、もう少し別の手段は無かったもんか。咄嗟のことだっただけに、あまり込み入った話を持ち出せばどこかで確実に矛盾が生じてしまうだろうから、それならと単純さを追求したつもりだったのだが……。

「……さて」

 と一息ついて、俺は思考を切り替えた。

 これ以上済んだことを考えたところでどうしようもない。それよりも今は目の前の目的を達成すべきだ。

 俺は再びノブに手を掛けた。鍵の閉まっていない扉を開く。

 中から出てきたのは、闇だった。

 陽は落ちてきたと言っても、まだ太陽は健在。部屋の中の窓を全てカーテンか何かで閉ざすなりしなければ、こんな状況にはなり得ない。そんなことを無意識に理解して、俺は自分のクラスメイトが置かれている現状が常軌を逸していることを改めて認識した。

 ばたん、と音を立てて扉がしまる。一切の光が遮断され、場は虚無に支配された。

 視界が黒一色の状態のまま、壁に手を這わせて電気のスイッチを探す。しまった。こんなことなら入ってすぐに扉を閉めずに、ある程度玄関の様子を見てから閉めればよかった。

 もう一度扉を開けようと決めると、まさに暗中模索状態で指先がどうにか突起物を探り当てる。かち、と音がして頭上の電灯が点灯。失われた視界が復活した。

 ようやく視界に納まる部屋の内部。フローリングの床。短い廊下の奥。ダイニングと思しきその部屋と廊下との境には木製の扉があり、中央に穿たれた長方形のすりガラスからは中が真っ暗であること以外に何の情報も得られない。

 ……冷静に考えてみると、俺は今不法侵入しているんだな。そう考えるとあまりいい気はしない。

 ダイニングの灯りは玄関に比べると簡単に点ける事が出来た。だいたいこういうマンションの場合は、扉のすぐ隣に電気のスイッチがあるものだ。

 俺は部屋の隅に眼を向ける。……そこには頭から布団を被って蹲る橘湊人の姿があった。

 部屋の中には唯一、荒い呼吸音だけが響いている。

「橘」

 呼びかけると、上下に揺れていた布団が動きを停止させた。

「……誰……だよ」

 声は掠れていて、何度か聞いたことのある橘湊人の声とは違っていた。

 声だけではない。振り向いたその顔は以前教室で見たものとは、まるで別人の物。充血し切った真っ赤な眼や、ぐしゃぐしゃになった金髪。随分とやつれている様子を見ると、数日間何も食べていないことは明らかだ。……まさか、今までずっとこの状況のまま震えていたのだろうか。

 警戒心と恐怖に満ちた赤い眼に俺は言った。

「遙瀬橙弥。覚えてないかもしれんが、お前のクラスメイトだ」

「遙……瀬……?」

 数回しか話したことはなかったが、どうやら俺のことを覚えていたらしい。

 橘の眼から警戒心が消えた。

「お前……なんで、何しにきたんだよ……?」

「ちょっと話を聞きたくてな。……訊くまでも無いと思うがお前、学校休んでる理由は風邪じゃないな?」

 橘は小さく頷く。がちがちと歯を鳴らして、膝を抱えて再び震えだす。

 ……それは次の質問を予想してしまい、それに答えなければならないことへの恐怖心がそうさせているのだろう。そうだと解っていながらも、俺は次の質問を口にしなければならない。その為に俺はここにきたのだから。

 一旦意味無く硬く閉ざされたカーテンに視線を投げかけて、俺は言った。

「お前が学校を休んでる理由を、俺に教えてくれ」

「ああ……あああ」

 覚悟はしていたが、質問すると橘は頭を抱えて俯いてしまった。

「歌が……歌が聞こえてくるん……だよ」

 手詰まりかと次の手を考案し始めた俺の耳に、そんな声が届く。

「歌……?」

 その言葉には何故か抵抗が無い。おそらく朔夜さんが通り魔事件を『歌姫事件』なんて呼んでいたからだろう。

 問い返すと橘は余計に震えだしてしまった。何かを必死に伝えようとしているようだが、口が震えて上手く言葉を紡ぎだす事が出来ないのだろう。

「……それってどんな歌なんだ?」

「……解らない……でも、それが怖いんだ……気を抜いたら聞こえてくる音が全部その歌に聞こえて……それを聴いてるだけで、俺、どうにかなっちまいそうで……俺…………このままじゃ、死んじまう……」

「孤独死……か」

 呟いて、橘の異常な震えを見る。

 これまでに自殺した人たちも皆こんな状態だったのだろうか。他の症例を見たことが無いだけに、今の橘がどれだけ危険な状態なのかは解らないが。自殺をする人間は必ず死ぬ前にその兆候を見せると言う話を聞いたことがある。……となると、今の橘は相当危ないということか。

 俺は橘と対角になるように部屋の隅に凭れ掛かる。

 ……別人のようなクラスメイトを見て、俺は意を決した。

「橘、お前がそうなった原因を教えてくれ」

 それこそが聞きたかった答え。今日俺がここに来た理由。

 時刻は次期に夕方の六時を過ぎようとしている。

 掠れた声で、橘はその問いに答えた。



 ◇



「なるほど……」

 橘の話でようやく確信を持つことが出来た。

 歌姫事件。そう名付けられた通り魔事件の真相と、その犯人。

 橘の口から出てきた人物像は、俺達と同じ高校の制服を着た女――ということだけで名前までは出ていない。だというのに俺はその女が誰であるかを理解していた。……告白してしまえば、


 俺は橘の話を聞く前から、その人物が連続通り魔だということを知っていた。


 今から思えば、本当はそれを否定するために話を聞きに来ただけなのかもしれない。

「遙瀬……助けてくれよ……俺、どうしたらいいか……」

 橘の声からはもう、死への恐怖しか感じられない。

 助けてくれと言われても……。

 朔夜さんの言っていたことが当たっているのなら、俺にはどうすることも出来ない。

「ああ……取り合えず、やれるだけのことはやってみるよ」

 俺にやれることがあるのかは不明だが、少しでも安心させてやれるのならと気休めにしかならないと思いながらも俺はそう言って部屋を出て行った。



 ◇



 外は順調に夜へ向かっている。

 茜色を飲み込んでゆく藍色が、夕陽の勢力が弱まってきていることを明確に示していた。

 俺は橘のマンションを出て一息つく。さて、ここからどうするべきか……。

 ある程度今後の行動は決まっているものの、それには色々と必要な情報がある。それをどのようにして手に入れるかが現状での懸案だったりするのだが、さてどうしたものか。

 ここで俺はあることを思い出す。……今日一日にあったことで思い出すことと言えばそれは間違いなく昼休みのことに他ならず、この先様々な意味で衝撃的だったそれを忘れることは簡単には出来ないだろう。

 ポケットの中に手を入れる。そこには昼休みの終わり、教室へ戻ろうとする俺に朔夜さんが渡した紙切れが入っている。あの時は他の事で頭がいっぱいだったために、中身を確認することを忘れていたがもしかすると今の状況に役立つものかもしれない。

 ノートの切れ端みたいなそれを取り出して、開いてみる。

 中身の予想は当たらずとも遠からず、といった所だろうか。

 そこに記されていたのは単純な数字の羅列だった。横一列に並んだそれ以外には他に何も書かれていない。それが意味するところは考えずとも理解するのは容易なことだった。それは何かの暗号でもなければ、誰かのテストの点数でもない――数字の羅列の正体は携帯の電話番号だ。

「役に立つ……か」

 確かにそうだ。この紙切れを渡したのが朔夜さんだから、おそらくこれは朔夜さんに繋がる番号である筈だ。……しかし彼女の行動が齎す結果を常識に当てはめて考えてはいけない。もしかすると『宇宙に繋がる電話番号』とか、そんな類の有料ダイアルかもしれない可能性は、ゼロではないのだ。

 最悪の結果を想定しながらも、俺は紙に書かれた番号へ電話を掛けた。これで多額の請求を受けたなら、学校に訴えてやろう。

『そろそろ掛けてくる頃だと思ってたよ』

 果たして、聞こえてきた声は朔夜さんのもので間違いなかった。

 それにしても、もしもしが第一声で無いというのには違和感を感じる。これでもしも電話の相手が俺でなかったらどうするつもりだったんだろう。

 まったくの他人を装うという悪戯を思いついたがそれはまたの機会にしておくことを決めて、俺は矢継ぎ早に要件を告げた。

「調べて欲しい事があるんですけど」

『楠涼音のことか?』

 ……この人は。

「……朔夜さん、あんた初めから知ってたんですね」

『まあね。橘湊人以外にも、私の愛する生徒達の中には被害者がいてね、私も話を伺った。もっとも、その生徒から有力な情報はあまり得られなかったけれどね。それで、どうだったんだ? 橘湊人の様子は』

 この人が間違っても愛する生徒達、なんて熱血教師みたいなことは言ってはいけない気がする。それと連続通り魔の正体――歌姫事件の犯人がわかっていながら、それで有力な情報が得られなかった、というのはどうだろう。

 その点を指摘してやると、朔夜さんは言っている意味が解らないと言いたげに溜息をつき、

『私が興味があるのはね、人を自殺に追い込むほどの孤独をどうすれば与えられるかだ。別にそれを誰がやったのか、とかそんなことに興味は無いんだよ。

 いいから、さっさと橘湊人の様子を話せ』

 こんな冷徹人間を教師にしてもいいのだろうかと、俺は本気で考えてしまった。

 いいわけが無い。今すぐにでも解職請求をしてやりたい気持ちを抑えて、俺はついさっきのことを全て話した。何かに怯えている橘の異常な様子や、頭の中に流れる歌のこと。ただ一部だけ省いた部分は橘が見た人物像が制服姿の女だという部分で、その辺は話しても無駄だと思ったからだ。

 意外なことに朔夜さんは俺が事後報告している間終始無言のままで、授業を聞きながら必死にノートを取っている学生を連想させた。

 もしかすると寝ているのかもしれないと思いつつも、話の初めから終わりまでを話した俺が聞いたのは寝息や欠伸ではなく感嘆の声だった。

 ははあ、と一人だけ納得して、朔夜さんは言う。

『なるほどな。解ったよ。遙瀬、前言撤回だ』

「前言……って、どれくらい前のですか?」

『孤独死の謎の正体。どうも私は思い違いをしていたらしい。

 こいつは共鳴(カタルシス)や、ましてや同調(シンクロ)なんかじゃない。こいつの正体は――言霊だ』

 聞きなれない単語に俺は呆気に取られる。

 言霊。聞いたことはあるしその意味だって知っているが、それではあまりにも非現実的すぎて、すんなりと受け入れることが出来ない。

 電話の向こうで朔夜さんはそんな俺の心中を察したのだろう。すぐに補足説明に入った。

『言霊と言っても、お前が思っているような魔法的なモノじゃない。そうだな、言い換えるなら催眠術……いや、強制暗示と言った方が的を射ているかもしれないな。……ああ、こっちの方がしっくりくる』

「どっちにしても、俺はすんなり受け入れることは出来ませんが……」

『孤独死、なんて死に方自体が現実の境界から外れているんだ。全てを現実的な理屈や道理で片付けることは出来ない。万人を全てを納得させる理は、それこそ暗示でしかない。何にだって反論や逆説は存在するんだ』

 最後は少し論点を外したことを言って、この部分だけはやけに適当なことで片付けられる。

 しかしながら、確かに。孤独死なんて異常を解決しようとしているのだから、どこかで非現実的な要因が存在するのは致し方の無いことなのかもしれない。

『暗示は絶対的な孤独。それもその他の全てを消し去って唯一思考を支配する。……例えばね、自分はこの世界に独りだけなんだっていう、すぐ目の前にいる相手さえも自分の存在に気付かない。自分と言う存在がそこに『在るのに無い』という、自覚と錯覚の摩擦。二つは互いに擦れ合い、最終的には消滅してしまい何も残らなくなる。

 ――何の存在の断片さえ実感できず、虚無のままに無に帰する死。それこそが孤独死だ』

 同じような話を俺は楠涼音から聞いている。

 理屈は解った。何人もの人間を孤独死させてきた方法は解ったが、それでも残るのはそんなことをする理由。楠涼音が、どうしてそれだけの孤独を他人に与え続けているのかそれだけがどうしても解らない。

 一人悩み始めると、そんな俺のことを知ってか知らずか。

 肩を持つつもりではないんだけどね、と前置きしてさらに朔夜さんは続ける。

『暗示と言うのは、即ち自分の持っている感情を相手に植え付けることだ。自分の思い描いたことや、自分の抱く感情を相手の深層意識に書き込む。見方によってはそれは共鳴とも言えるかもしれないが。どちらにしても、楠涼音は、これまでに何人もの人間を死に追い込むほどの孤独を今もなお抱えているんだよ』

「……暗示を解く方法は無いんですか? まだ死んでいない人を救う方法は」

 そんなことを俺は呟いていた。

 朔夜さんは肩を持つつもりはないと言ったが、俺にとってそれは弁護になっていたのかもしれない。

 涙ながらに助けてくれと懇願したクラスメイト。

 今もどこかで死に逝こうとしている誰か。


 ――今も誰かを殺そうとしている、一人の少女。

 

 俺が救いたいと思ったのは、果たしてどちらなのか。

 自分では、どうしてもそれが解らなかった。

『無いな。この件に関わってしまった者は諦めた方がいい』

 しかして自問の解答がどちらであったとしても、その両方を否定する言葉は朔夜さんは発した。

『言霊というのは呪詛を言葉に宿して暗示を与える術だ。呪いと言ってもいい。暗示に掛かった者は既にその先に死を約束されるのと同じことなんだよ。そんな連中を救う方法は無いし、在ったとしても私は知らない。

 さて、そろそろ本題に入るとしようか。そもそもこの電話はお前が私に用があって掛けてきたものなんだから、私ばかり質問していては可笑しな話だ』

 そうと思っていながら、自分の疑問解決を優先させたこの人の神経はどうなっているのだろう。

「……楠涼音のことです。彼女が抱えている孤独がどんなものか、教えてください」

『それを知ってどうするつもりだ。まさか原因が解れば、今の彼女を止められるとでも思っているんじゃあるまいな? 先に言っておいてやるが、それは不可能だ。呪詛の類は最終的には術者に戻ってくるものだから、既に楠涼音は大量の怨念を己が内に溜め込んでいるということになる。

 ――完全に、手遅れだよ。どうして今でも存命出来ているのか不思議なくらいだ』

 朔夜さんの言葉に容赦は無い。

 それが論理的に考えて正しいのだということは俺にも解る。解って、しまう。

 だがそれでも、俺は質問の答えを聞かなければならなかった。

 電話の向こうで息を吹き出す音がする。

『まあ、それでも知りたいというのなら話してやろう。好奇心はどんな人間にも備わっているものだからな。仕方ない。

 理由はお前と異なるが、そのことについては私も興味があった。死に匹敵する孤独の正体。それは人によって異なることだが、楠涼音における孤独とは単純なものだったよ。彼女はね、幼い頃から独りだったんだ。もともと家庭が円満では無かったこともあるが、彼女が小学校に上がろうとしていた時期に彼女の両親が離婚している。原因はこれまた単純だが仕事関係だった。彼女の父親は外国へ行き、そして死んでいる。慣れない異国の地。あまつさえ精神状態が不安定な時だ、どんな仕事も手につかず結果として職を失った。それが止めとなって、彼は自殺している。母親も同じだ。生活環境の激変と、支えだった仕送りがなくなっての自殺。ありがちとは言わないが珍しい話でもない。ただ、幼い頃からそんな環境に置かれて生きてきた涼音の中には、深い孤独だけが残されただろうね』

 ……それが、今回のことに繋がると言うのだろうか。

 話し終えて、朔夜さんはまた息を吹き出す。口から紫煙を吐き出しヘビースモーカーの姿を脳裏に浮かべる。

 孤独死。常識では扱いきれないほどのその死の原因。

 俺は毎日、同じ場所で彼女に会っていたというのに、それをどうにかしてやることは愚か、そのことに気付くことさえも出来なかった。

『聞きたいことはそれだけか?』

 自分から話すことは全て話し終え、加えて俺の方にもこれ以上聞くべきことは無いだろう、とでも言っているようなイントネーション。

 その見えざる意思を感じ取りつつも、俺は言った。

「楠涼音の住所を教えてください」

 そう言うと、間髪入れずに聞こえてきたのは心の底から呆れた人間が吐く溜息の音だった。

『あのな、遙瀬。さっきも言ったが彼女は手遅れだ。これまで何人も人を殺してきたような孤独を彼女は今もまだ抱えていて、さらにそれは彼女が殺人を繰り返すたびに重みを増していく。いずれその重みに耐え切れなくなって自我が押し潰されるのは必然だ。それに、彼女に会って話をした上でそれをどうにかしようと思っているのなら止めておけ。お前も言霊の餌食になって植物状態に陥るだけだ。

 どちらにしても、放っておけばことは解決する。楠涼音はいずれ孤独死するだろうし、そうなればその時点でそれ以上世間を騒がせる連続自殺は続かない。お前が出て行って、無駄死にすることは無い』

 最後の方はなんとなく咎めたり莫迦にしているようではなく、遠回しに行くなと訴えているような気がした。空の兄ということも立場でもある。そんな俺を見殺しにしようとは思わないのだろう。

 いくら彼女が冷徹人間であっても、自分のお気に入りを哀しませることはしたくないということか。

 それでも俺は、何故か楠涼音に会うことを選んでしまった。

 なんとなく。昼休みに孤独を語った彼女の言葉の真意が――助けを求めていたのだと思ってしまったから。

 その淋しい心に気付けなかった俺には、やっぱり責任があると思うのだ。

 毎日、彼女の一番近くにいた人間として。

『……このお人好しが。もう好きにしろ。これ以上私は知らん。勝手にどうとでもなればいい』

 どちらも黙りこんだまま次の句を発しない会話に、朔夜さんが折れた。

 俺は無言でその行為に感謝の意を捧げつつ、聞かされた住所へと向かう。


 やはり――責任は取らなければならないものだと思うから。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ