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いつもと変わらぬ月光を暗い夜の影の中から見上げる。
楠涼音は、今宵もまたこの月を見て思うのだった。
――この闇はきっと誰かの幸せが落とした影なのだ、と。
月の光は明るい。だからこそ影もより大きくなる。
だとするのなら、今私が居る孤独の影は、いつかの私が居た幸せな日々の落としたものだというのだろうか。そうなのだとしたら。その頃の私はとても幸せだったのだろう。孤独なんてどこにも見当たらない。自分の周りには、いつも誰かがいて笑っていた――そんな日々が。
「でも、それももう終わったこと」
今の私にあるのは、誰にも理解されない淋しいだけの心。
明けることの無い夜。
払拭される事の無い孤独。
それは捨てられない私の記憶で、それは歌われない私の孤独。
捨てられないのなら、歌われないのならせめて、私が謳おう。いつか重なり合う事を信じて――。
永遠の孤独を、刹那の共鳴の為に。
それは初めから叶わぬ夢だと知っている。
けれど……それでも、私は――。
そこまで考えて、月を見上げる視線を地面と平行に戻す。
……不意に聞こえてきたのは、誰かの足音。それもただの道行く通行人ではない。
足音は短距離走のランナーのように慌しく、けれど一定しないリズムを刻む。
その音が大きくなっていくのに呼応して、私の耳に届く音は追加された。
やがて私の前に正体を現した二つの音は、疾走が地面を打つ音と、そして荒々しい息遣い。
前者は私の前で停止し、後者は今もまだ続いている。
「……どうして」
そう呟くしかなかった。
学校の昼休みにしか顔を合わせることが無い筈の相手。
走ってきた少年は少しばかり俯いて息を整えた。
やがて深呼吸のように大きな息を吐いたその少年は汗を滴らせる顔を上げる。
少年――遙瀬橙弥は全てを見透かした月光のような眼光を私に向けた。
◇
「どうして……」
目の前に現れた少年の存在を信じられず、楠涼音は再度呟いた。
それはどうして自分の前に現れたのかと言う意図を尋ねたものではない。
この相手は既に自分のことを知っている。
彼女が殺人を犯したということ。そしてその方法も。
不可避の死。
常識では扱いきれず、一般では死とさえも扱われないような虚無。
それを強制的に与えることの出来る力が彼女にはあって、それは自分にだって向けられるかもしれない。そのことだって彼は理解している。
理解していながら彼はここにきた。
今日もまた誰かを殺そうとしている自分の前に。
今宵もまた誰からも理解されない孤独を抱える自分の前に。
相手が全てを知っていると、その表情から読み取れてしまった故に口をついた疑問。
どうして、という呟きは言い換えれば、信じられないという嘲りでもあった。同時に何故そんな行動が取れるのかと言う、心からの疑問でもある。
命を賭けるということはただの愚考でしかない。
たとえそれで何らかの目的を達しえたとしても。
少年の目的は彼女にも明らかだった。自分を知った人間が持つ感情は、恐れか、或いは同情でしかないということを彼女は理解している。少年の行動が語るのは彼が感じた感情は後者であったということ。
そこまで思考して、涼音は悟った。
つまりこの相手は自分を止めにきたのだ、と。
どういう方法からか自分の過去を知り、毎日顔を合わせ、言葉を交わしている。
……そんな彼だからこそ、自分ならば私をどうにか出来ると思ったのだろう。
けれどそれは妄信。
根拠の無い過信。
少年は自分は私にとって特別な存在だとでも、思っているのだろうか。そう考えて、彼女は嘲笑することさえ忘れて呆れてしまう。
会話を交わす、と言っても実際それは彼が一方的に思い込んでいるだけのこと。
――私にとって、橙弥は他の誰とも変わらない。
「……なんて、莫迦らしい」呆れるように言って、「こんなところに、何をしにきたの?」
呆れつつ、しかし彼女はそれを問うてしまった。
荒かった呼吸を整え、橙弥が答える。
「もう止めろ」
言葉は予想していた通り。
「これ以上はもう止めろ。そんなことをしても何にもならない」
彼の言っていることは正しい。
いくら自分の孤独を誰かに聴かせても、そんなことは無駄。
理解されない虚しさだけが残留し、蓄積し――やがて孤独は増大する。
より深く。より冷たく。
「そんなこと――知ってる」
反駁は一瞬躊躇っているようでもあった。その理由は涼音にも解らない。
「それでも私は謳うだけ。この孤独を。私の、孤独を」
「そうやって人を殺して、自分も孤独死させるためか?」
涼音は頷く。
孤独死、という言葉の意味はよく解らない。けれどそれがこれまで自分が殺してきた人間の死の名前なのだということは話の流れや状況から理解できた。
だから頷いた。
それを仮初の殺人定義にする為に。
「――違う」
涼音自身さえも気付いていない、そんな無意識の言い訳を彼は見抜いていた。
……涼音の表情が僅かに変化する。
この時、彼女は何故か彼がこれから口にすることを聞いてはいけない気がした。
「お前はただ、一言伝えたかっただけなんだよ」
「なんの……こと?」
涼音は心から少年に問う。
とおい昔。彼女が無理やりに閉ざした心。その中に押し込められた一つの感情。一つの言葉。
「お前の家に入ってきたよ。本当は話をするためだったけど留守だったから……気は進まなかったが、鍵が開いてたから勝手に上がらせてもらった」
今日で二度目の不法侵入は、確かに彼の良心に負担をかけただろう。
それでも、常識に囚われながら日常を生きる一般人である筈の彼がそれをしたのは相応の理由があった。
どうしても意識的な拒否権で衝動に抗えなかった理由。
それを橙弥は口にした。
「手紙、今日も帰ってきてたぞ」
手紙。
涼音が毎日書き綴った手紙。
それは決して返事の無いことを解った上でそれでも毎日繰り返していたこと。
両親が死んだと知った後も――いや、両親が死んだと知ったからこそ彼女はその行為を止めることが出来なかった。そうすることで突きつけられた現実を或いはただの悪夢だったのだと思いたかったのかもしれない。
今は覚えていない、幸せだった日々に戻れるのかもしれない。
それは気休めでしかない。
それは今の彼女の支え。
残留する想い。幸せだった日々の残滓。
少年の言葉は少女の心を確かに深く抉った。
「お前だって知ってるはずだろ、自分の両親が死んでることぐらい」
知っている。当然、彼女はそんなことなど知っている。
知っているからこそ手紙を書き続けている。
けれど、それはどうして? 不意に浮かんだ疑問。
既に居ないはずの相手に手紙を書くのは、それを現実と認めたくないがため。しかし彼女は既に知っているのだ。それが現実であり、どう足掻いても揺るがないということを。その現実に抗うために手紙を書く。毎日毎日。
行動と理由。二つの因果関係は輪を描いて螺旋を繰り返す。
では、その意味とは何だろう。
この因果が導く一つの答えとは、一体何なのだろう。
――――それこそが、この殺人の本当の定義ではないのだろうか。
「…………違う」
一瞬の思考を彼女は口に出す言葉でしか否定できなかった。
記憶というパンドラの箱。心の奥に深く幽閉したそれに少年は鍵を差し込んでいた。
「お前は自分で全部理解しているんだ。――この殺人に、お前の思うような意味は無い。お前は別の理由を定義して、本当の理由を隠してるだけなんだ。ただずっと背を向け続けた記憶にだけある殺人定義。そこから逃亡するために」
これまでに涼音が殺してきた人間。
中には彼女の手に掛かる前から崩壊していた者も存在した。
或る時はその手に刃物を持って現れたこともある。或る時は薬に溺れて自我を失った獣のような者もいた。その、およそ日常とは掛け離れた存在と初めて相対した際でさえ動揺を見せなかった少女が、今この瞬間に確かに精神を揺さぶられている。
現実という鎖に縛られて、日常という檻の中から出ることの出来ない何てことの無い普遍過ぎる一人の少年に。
涼音は一人呟く。
違う。違う、と。
その声は本当に小さくて橙弥の耳には届かない。
夜の闇の中に溶け込んでいくような小音量の否定を涼音は繰り返し呟く。
「お前が認めたくないのは、両親の死なんかじゃない。もっと身勝手で、我が侭な事実の否定。そうだろ? お前の手紙にはいつだって一つの感情しか籠められていなかった。言葉で伝えられないことを文字で記していたんだ。
――――楠涼音。お前の本当の殺人定義は事実からの逃避。お前が首を振り続けた過去の事実は――」
少年はそれを口にしようとした。
果たして。それは成されなかった。
「違う――――!!」
槍のような真実の告白は――少女の、楠涼音の叫びにより掻き消された。
小柄な少女からは想像も出来ない大音量の叫び。昼間に友人の絶叫を聞いていてもなお、橙弥はそれに一歩引き口を閉ざしてしまう。
涼音は僅かに脳裏に蘇った自らの過去を断ち切った。
断ち切ったつもりで声を荒げて言う。
「違う。違う違う違う違う違う――――!! 私は、ただ自分の孤独を謳うだけ。謳って、歌って、詠って、自分を殺すだけ――!」
ヒステリックを起こしたような少女の金切り声。
怒髪天を衝く。という言葉が声に当て嵌まるのなら、今の少女の叫びは正にそれだろう。少女の声は目の前の少年にではなく自らに向けられたもの。威嚇となったのは結果論でしかない。
「認めろ」
言霊ではない。本当の意味での少女の言葉に怯んでいた少年はしかし、再び訴えを続けた。
続ける、つもりだった。
「……のなら」
声が聞こえたから。
否。それは声とは違った。
脳に訴えるそれは――言霊。死の孤独を与える、強制暗示。
直接心を鷲掴みにされた少年はそこで口を閉ざすしかなかった。
「届かないのなら、せめて……」
口を閉ざす。ではなく、言葉を区切ると言うが正しいか。
遙瀬橙弥は、口を閉ざすことさえ許されず、その思考を停止させられていたのだから。
「届かないのならせめて、私の孤独をあなたも感じて」
後はクリアになった思考のホワイトボードに、ただ一言、彼女の感情を投影するだけ。
少年は……暗示を待つだけの空人形。
蜘蛛の糸に捕獲された蝶の様に、ただ死を待つことしか出来ない。
「ッ――――!?」
だから、この声にならない驚愕はきっと少女のもの。
心の内に抱えてきた孤独を少年に共鳴させるだけ。
――ただそれだけのことを彼女は出来なかった。
言霊。文字通り言の魂。
それは古来より言葉に宿る魂を指して言われてきた。それがいつか、呪いを与える強制暗示の術として語られるようになってしまった。楠涼音のそれもまた同じ。ただ、暗示の設定だけは個人により異なる。
――涼音は知らなかった。
自分が無意識に設定していた暗示が何であるのかを。
“…………涼音”
不意に、声が聞こえた。
橙弥の思考を支配したその瞬間。涼音の中でそれまで押さえ込んでいた記憶が逆流した。
……
曖昧な、過去の記憶。
暗い廊下と、両親の怒声。
ずっと忘れていた、私の記憶を私は視ていた。
凭れていた部屋の扉が開く。
“…………涼音”
声は良く知っている、低い男性のもの。
それは紛れも無い私の父親の声だった。
瞳いっぱいに涙を溜めた私は、潤んだ視界に精悍な父の顔を納める。
そうすることで、私は安心できるはずなのにこれまで以上に涙を溢していた。
――父の腕が、私を抱きしめている。
頬と頬の触れ合う感触。私は父の表情が窺えない。
“涼音……”
父は、私の名前を呼ぶことしかしない。
ただ一つだけわかるのは、私の名前を呼ぶ父の声が震えていること。そこからわかる、父の心境。
“……いや、だ”
掠れた声で、私は呟いた。意味は明白。
“わたしは……はなれたくない”
毎晩聞いていた二人の話の内容は、父が仕事の関係で海外に移らなければならないということ。母はそれに反対していた。
その理由はきっと、私にあったのだと思う。
まだ幼かった私。生活環境の激変を気遣って、母はそれに反対していたのだ。
しかし父にだって事情がある。自らの職に執着するのもわかる。子供の私にだって解るのだ。母が解らないはずが無い。
だからこそ母は涙ながらに懇願していたのだ。
結果的に、それが自分も父も苦しめることだとわかっていたというのに。声を出せばそれだけで感情が擦り切れてしまいそうなほどの辛酸に耐えながら、毎日、毎晩。
そうまでして母は私のことを優先してくれたのだ。
“ごめんな……ごめんな涼音……本当に…………ごめん”
父は、本当に辛そうに言って、その場で泣き崩れてしまった。その姿は絶対に許されない罪の十字架を背負って、その重みに耐え切れず倒れこむ罪人のよう。
私はその時初めて、父が泣く姿を見た。
幼い子供にとって一番強い大人である父親。
その父を泣かせたのは私なのだ。私が父よりも強いからじゃない。私が弱いから、父を泣かせてしまった。私と言う存在が、両親の心に負担をかけ続けていた。
その事実に、私は気付いてしまったから、涙を流していたんだ。
両親は共に私のことを最優先にしてくれていた。だからこそ、その行動が結局私を泣かせてしまったと言う結果に父は耐え切れなかったのだろう。……今になって、やっとそれが解る。
父は結局家を出て行ってしまった。最後に見た父の顔は、とても辛そうで悲しそうな笑顔。
彼が死んでしまったと知ったのは、その笑顔を見てから一年後のこと。実の父親が死んだと知っても、そのときの私はどうとも思わなかった。まるで、そのことに干渉せずに逃避するかのように。
それからの私は……というよりも父が家を出てからの私は、母と口を利かなくなっていた。
別に、母親が嫌いだとか、なぜ父と一緒に行かなかったのか、とかそんなことを考えていたわけではない。ただ私はこれ以上母と深く関わってはいけないと思っていたから。それだけの理由で、実の母親を私は遠ざけていた。
母の死は、父の死から半年後のこと。
それは本当に何気ない日常。
普段通り帰宅した私を待っていたのは、既に命をたった後の母の姿だった。
二人は共に自殺により命を絶った。
自分で自分を殺す殺人。それが自殺。
けれど、二人の死は本当に自殺なのだろうか。
両親の本当の死因。
――――それは孤独死。
……
「…………私が、殺した」
上の空で涼音は口にする。
ずっと、自分が遠ざけていたその事実を。
――もしも。
もし一度だけでも、父がいなくなった後に私が母と話していれば。
父がいなくても二人で幸せに生きていけると示していれば。彼女は自ら命を絶ったりしなかったかもしれない。だというのに、私は。
失うことが怖くて遠ざけた。大切にして、失って、孤独になるのが嫌だったから。
結局、本当に孤独だったのは私ではない。
本当の孤独の中に居たのは、他の誰でもない父と母。
私が初めて孤独死させてしまったのは――――大切な、大好きだった両親。
それは言霊なんかじゃない。避けようと思えば、避けられた死。
「それなのに、私は――」
二人を殺してしまった。
彼女が犯してきた殺人の意味。それは両親の死因からの逃避。
それは少女が受け止めるには重過ぎる残酷な現実。
閉ざした記憶と開いた能力。
言霊、強制暗示は彼女自身が本当の孤独を手に入れるために手に入れた能力。
自分を孤独で埋め尽くして、最終的には孤独死させることが目的。
――そうすることだけが、唯一両親を殺してしまった自分に出来る償いであると少女は思っていた。
少女の抱えていた孤独の正体。誰にも謳われない。誰にも知られることの無い。少女の殺人の答え――――償いの為に背負い込んだ、死への願望。
「私は……私は…………」
ようやく手に入れた答え。ずっと彼女が遠ざけていた答えが解って、
初めて彼女は――本当の孤独を知った。
「……どうして……」
呟いて、少女は地面に膝をつく。
これまで抑えていた感情が一気にその瞳から零れ落ちる。
偽物の孤独と、本物の孤独。
「誰も殺さない通り魔。……その本当の意味は孤独によって相手を自殺させることで、自分は誰も殺さないのだという意味じゃなく――両親を殺してしまったことを、否定していたんだな」
哀しそうな瞳で橙弥が呟く。
その眼は僅かに濡れていた。
少女は頷く。頬を地面に擦り付けるようにして力無く。
そんな少女を橙弥は哀しそうな眼で見つめていた。少女の過去を知った上で同情するのではなく、少女の過去を知った上で彼女を我が侭だと罵るのでもなく。純粋に、彼はただ純粋に一人の友人として彼女の孤独に共鳴していた。
「あの噂はお前が自分で流していたんだろ」
疑問ではなく、肯定。
その言葉に少女は頷くことしか出来ない。
考えてみれば単純な矛盾だったのだ。誰も殺さない、傷つけることの無い通り魔。そもそも、そんなものが噂になるはずが無い。被害者がいないのなら、それは誰にも知られることが無いのだから。
「私は……逃げていただけ。ただ誰かに、振り向かせて欲しかった――自分の過去と向き合わせて欲しかった……」
少女の希望は身勝手な願望かもしれない。言った少女ですら、それは解っていた。
それでも少年は、そんな彼女を非難したりはしなかったのだ。
橙弥は暗い夜に浮かぶ金色を見上げて、呟くように言う。
「自分のことを通り魔なんて存在に定義していた時点で、お前は知らない間に振り返っていたんだよ。答えは見えていたけど、それに辿り着こうとしなかった。それがお前の逃避だったんだ」
少女は答えない。
少年もまたそれ以上を口にはしなかった。
楠涼音の中で、答えは既に出ている。背中を押してやる責務も果たした。これ以上、自分がこの場に居る理由すら無いとさえ思っていたからだ。
「ごめん……なさい」
小さな声。
初めて歌われた、彼女の孤独。
それは確かに、誰かに届いていた。
「ごめんなさい……お父さん、お母さん。わたしは、ずっと逃げていました。……ごめんなさい。二人を……独りにしてしまって……ごめんなさい」
そのココロを、言葉を少女はずっと伝えたかった。
言霊ではなく自身の言葉で。誰かに届く声にして。
重ねてしまった罪はどんな懺悔でも赦されることはないけれど。それでも謝ることしか少女には出来なかったから。重ね続けた孤独は全て、それをするために溜め込んだものだったから。
――――本当の殺人定義。それが殺戮でない証明。
謝罪の声はなんだか濡れているようだ。と、橙弥は思う。
六月の初め。曇っていた空は夜になってひとまず月を覗かせている。
金色の光の下。何度も謝り続けた少女はやがて、深い意識の底に落ちていった。
◇
六月二日。天気、雨。
昨日の晩に回復の兆しを見せた天気は、俺がベッドの中で眼を覚ます頃にはすっかり雨を降らせるまでに悪化していた。
今は昼休み。雨が降っているということもあり俺は屋上には行かず、代わりに朔夜さんの私室と化した国語科研究室にいる。
二度と来たくないと思っていたこの完全校則無視、下手をすれば法律さえ無視しているかもしれないこの部屋に俺がいるのは、部屋の主である朔夜さんに尋ねなければならないことがあったからだ。
「朔夜さんは、初めから全部解っていたんですね」
昨日あったことの顛末を話し終えて俺は言った。
相変わらず校舎内喫煙を生徒の前で堂々と行うこの変人教師は、紫煙を吹き出して答える。余談だが、彼女のデスクにおいてある灰皿には既に三本の吸殻がある。俺がここにきたのは昼休みが始まってすぐのことだから、この煙草は授業が一つ終わるごとに吸われてきたもの考えて間違いないだろう。それが何だと言われると確かにその通りなのだが。
閑話休題。
ヘビースモーカーな国語教師は表情一つ変えずに自白した。
「知ってたよ。楠涼音が犯人だってことも、彼女の過去も全部」
「歌姫事件ってのは、被害者が言霊の暗示を歌って言ってたからですか?」
これも確信があって訊いたことだったのだが、意外にも朔夜さんは首を横に振った。
「歌姫事件というのはね、遙瀬。孤独を謳うことを指していたんだよ。まあ、発音が同じだってことで、歌姫事件の方がそれっぽかったから言い換えて採用したまでだ。言っただろ、有力な情報は得られなかったと」
俺としては、それっぽいとは何っぽいのか、その点を深く追求したいところだが。
「こんな話を知っているか? ステージに立つ大女優というのは、実はみんな孤独なんだ。何故か。女優というのは舞台の上では偽物の自分を演じなければならないからだ。何億という人間に認知される自分は、全て偽りでしかない。それで歌姫。孤独という歌を謳う、一人の少女さ」
既にわざわざ言う必要など無いと思うが、朔夜さんの言葉からは感情が感じられない。
冷徹なまでの淡々とした言葉。それと仮面のような無表情は自分は既に終わったことに興味がない、と言っているように思える。
短くなった四本目の煙草が灰皿に投じられる。
朔夜さんは新しい煙草の箱を胸ポケットから取り出して、そこで手を止めた。
「まあ、お前は上手くやったんだろうね。昨日の電話で、結局は死ぬんだろうなー、とか思っていたから、お前がここに来たときは驚いたよ。と、そんなことはどうでもいいな。
朗報だ、遙瀬。これまで言霊の孤独に支配されていた植物人間は全員無事だ」
人のことを勝手に殺して、さらにそれだけに飽き足らずそれを語る口調が心から無関心だったことに俺は腹を立てていた。そんな俺だったのだが、その言葉を聞いて驚愕する。
ゼンイン、ブジ?
「どうも私が考え違いしていたことは『彼女の暗示がどう設定されているか』だったんだ。無論孤独死の原因である暗示なんだから、それは孤独に設定されているものだと思っていたんだけどね。どうやら、楠涼音が設定していたのは『共鳴』だったんだよ。
ようするにね、彼女は単に理解者が欲しかっただけなんだよ。自分の孤独に共鳴し、いつか自らの目的を遂行するための後押しをして欲しかっただけ。孤独死は彼女が持っていた孤独に共鳴した連中の末路だったんだよ。報われないね。彼女は自分が欲しかった理解者を、自分で殺してしまう結果になっていたんだ」
暗示の設定が共鳴だったからお前は死ななかったんだよ、と朔夜さんは付け加える。
……俺が昨日見た楠涼音の記憶。あれはつまり、言霊による共鳴が見せたものだったということか。
「楠涼音も無事なんですね?」
「無論だ。彼女は私の知り合いに預けたから問題ない。何でも屋を自称してる変な奴だが、あいつなら大丈夫だろう。アレはアレで、私は信頼している」
この人に変人とか言われたら、その人も終わりだろう。
朔夜さんは俺の心中を読み取ったか、何か失礼なことを考えたな? と咎めてくる。目つき同様に勘もまた鋭い女性なのだ。いえ、何でもありませんよ。センセイ。
「この学校で暗示に掛かっていた生徒はどうしているんですか? 橘は今日も欠席していましたけど」
「そいつらも全員その知り合いに預けているよ」
聞いて、愕然とする。
「全員――って、その知り合い、相当大きな病院でも経営してるんですか!?」
なんか変なことを口走ってしまう。
朔夜さんは、ああ、とかまた興味無さ気に言って種明かしをする。
「実はね、欠席者全員が暗示に掛かっていたわけじゃないんだよ。いや、むしろそんな連中は少数だったよ、二桁にも達していない。学内の欠席者数なんてのはね、数えてみればそれなりの数字なんだよ。知らない者が見れば、多いと思うだろうな。私もその例外ではなかったわけだ」
「なんか……随分とぞんざいな話ですね、それ」
非難する俺を、事実だからしょうがない、と朔夜さんは拗ねたように言って拗ねたような眼で見据えた。彼女と会話していて初めてそこに感情が伴った気がする。
ちなみに暗示を掛けられた生徒は少しすればそれからも開放されるらしい。詳しいことを説明してくれたが、その理由は朔夜さん特有の難しい言い回しによって理解不能だったために割愛する。俺の言葉にしてそれを説明するならば、目的を達成し終えたから、ということだ。
はあ、と溜息を一つ。
結局この事件――歌姫事件は終わったわけだ。
俺の中で解決されていない疑問は、後一つだ。俺はそれを口にした。
「朔夜さん、あなたって何者なんですか? 楠涼音の過去を調べたり、その国語教師にあるまじき洞察力といい。……本当は妙な組織の工作員だとか、そんなんじゃないですよね」
我ながら頭の悪いことを訊いている。
罵声を浴びせられることを覚悟していた俺が聞いたのは――そんな危惧に反する笑い声だったりするから驚きだ。
「ははは、はははは――なんだそれは、工作員!? 面白いことを言うな、お前は!」
……どうやら、ツボに入ってしまったらしい。
俺、なんか面白いこと言ったかな?
朔夜さんはデスクにばしばしと平手打ちを喰らわせてから、呼吸を整えて言った。
「そんな裏設定は無いよ。たまたま、前の仕事で情報収集とかを任される役だったから、そういうのが得意なだけだ。私は普通の国語教師だよ。安心しろ、秘密を知ったからには死んでもらう、とかそんなことは言わないから」
だといいのだが。
まださっきの爆笑の余韻が消えない室内で、俺は腰を上げる。
昼休みは半分ほど消費してしまったが、まだ教室に戻って弁当を喰うぐらいの時間は残されている。同じ失敗を繰り返してはいけないのだということを、俺は中学のときに習った第一次世界大戦と第二次世界大戦から学んでいるのだ。
さっさと立ち去ろうとする俺を、朔夜さんが呼び止める。
振り向くと、やっぱり無表情で煙草を銜えている朔夜さんが俺を見据えていた。
本当に、さっきのように笑っていれば美人だとわかるんだが。どうしてこんな、不機嫌に傾いた無表情を常に貼り付けているのだろう。そういうのが好きな生徒が、今年の三年には多いと言うのだろうかね。
火が点いた四本目の煙草から紫煙をくゆらせつつ、朔夜さんはまっすぐに俺を見て言った。
「また来いよ」
……まったく。兄妹揃って、変な人に目を付けられてしまったものだ。
俺は呆れながらそれに頷くことなく、しかし否定することもなく、弁当の待つ教室へと向かった。
(孤独共鳴の歌姫/了)