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六月一日。天気曇り。
順調に上がっていく気温に季節の変化を感じている内に気が付けばカレンダーは五月から六月へと移り変わっていた。外は誰かさんの気分を代弁したような灰色。俗に梅雨と呼ばれる季節の到来を空は明確に示している。
「雨は降らないそうですよ」
しきりに窓の外を気にする俺に空が言った。
「今日は一日中曇りだそうです。まあ、天気予報なんて当てにならないから、一応傘は持っていて損はしないと思います」
「そうかい。それはありがたい助言だな」
今は朝食の席。どうでもいいことを描写しておくと、和と洋のどちらにも一貫しない我が家の朝食は今朝はトーストに野菜を挟んだサンドイッチという洋食。
「あれ、もう学校行くのか、空?」
皿の上に残った自分の朝食を見てから問う。机の対面が既に片付けられていることから、空は俺が起床する以前に食事を済ませていたらしいことが推測できた。
驚いた風に問うと、溜息交じりの返事。
「ええ。……昨日言ったと思いますけど、朔夜さんにアポを取っておかなければいけませんから」
言われて納得する。が、それは納得こそすれど素直に飲み込めない返事だった。
「お前あれ、本気だったのか?」
「そうですけど、何か?」
「いや、普通学校の先生と生徒が話すのにアポとかって無いだろ」
「……確かにそうかもしれませんけど、あの人は相当変わった人ですから。まあ、兄さんなら問題無いと思いますよ、きっと」
あまり納得のいく説明ではなかったが、これが空の言葉なのだからこんな言い方以外に説明のしようが無いということなのだろう。それにしても、いちいち話をするだけでアポが必要な教師って……相当な変人に違いない。
「なあ、空。俺やっぱその人と会うの止めてもいいかな?」
少々弱気な発言に椅子から立ち上がった空は歩みを止めて振り向いた。
「大丈夫ですよ、兄さんなら」
「その大丈夫ってのが、俺には何かの呪文に聞こえるんだが……」
「それじゃあ、行ってきます。兄さんも遅刻はしないようにしてくださいね」
毎度のことながら俺の発言は無視して、空は部屋を去ってしまった。
結局残されたのはまだ見ぬ変人への不安だけ。それはおそらく本人と会うまでは確実に消えず、会ったとしても勢力を増大させるだけだろう。この際すっぽかしてやろうか。しかしそれではそのことが露見した後が恐ろしい。どちらにしろ、俺に喜怒哀楽の喜と楽は選べないということだ。
「はあ……。どうしたもんかな」
声に出してみると少しだけ気分が楽になる。
人一人減っただけで静まり返った部屋に音が欲しくなってテレビを付けてみるが、それは瞬時に後悔へと変わった。
「……うわ、やっちまった」
画面に映し出されたのは子供の落書きのように歪な形をした、けれどまだそれが人の形であると解る白い線が引かれた地面。本来なら風化し灰色のアスファルトはしかし、白い落書きから所々はみ出して赤黒い。
それは間違いなく、血痕だった。
番組はニュース。この時間ならどこの局もそれくらいしかやっていないだろう。
報道内容は……状況から見て人死に沙汰であることは間違いない。テロップで確認したところ、どうやら映し出されているのは自殺の現場らしい。
テレビを点けたことが明らかに裏目に出た。
俺一人しかいない部屋はそれ故に俺一人の気分でその空気を変動させてしまうのだ。と思うも俺はすぐにチャンネルを変えたり、テレビの電源を落としたりはしなかった。自殺の報道を明記するテロップには補足説明がある。
連続自殺、七件目。と。連続……って。
連続という言葉に俺が疑問を持つのと、アナウンサーがそれについての説明を始めるのは同時だった。自殺が始まったのは先月の頭から。その方法は様々で、今回は見ての通り飛び降りだったらしいことを若い男性アナウンサーが語る。
……どうにも引っかかる。
が、自分が何に引っかかっているのか解らない。結局それが解決する前に報道は終わってしまった。
暗い雰囲気の報道画面が切り替わる。調子外れな音楽とともに血液型占いが始まり、俺は皿の上のトマトサンドを残したまま席を立った。
◇
午前中の授業が終了して、昼休みが始まると俺は早々に教室を出ていた。
昼休み開始直後に教室を後にするのはいつものことだが、今日の俺は手に弁当を持っていない。これは弁当を持ってくるのを忘れたから、とか間抜けな理由があるのではなく、食事以外の目的があって教室を出たことを意味する。
朝。曇り空から雨が降ってくることを心配しつつ登校し、その心配が杞憂で済んだことを実感しながら席についていた俺の携帯が震えた。メール受信を意味するそのバイブレーションに応えて制服のポケットから携帯を取り出し、それが空のメッセージであることを確認。内容は至極簡潔な短文だった。わざわざ引用してやるほどでもないその内容は、一言で言うなら認可通知。つまり例の変人教師が俺に会ってもいい、と承諾したことを意味するメールだ。
……空がどんな風に提案したは知らんが、そんなもん却下してくれればよかったのに。
などと内心毒づきつつ今に至る。
俺は六月の湿気が漂う校舎の廊下を歩きながら溜息を連発。弾数制限のない嘆息が意識している内で五回に達したとき、目的地に到達した。すりガラスで中は確認できないが、人がいるのは明確だ。
一応ノックなんかをしてみる。
「――――はい、どうぞ」
想像していたのと違う、透き通った声がそう告げた。
俺は違和感を飲み込んでやや開き気味の戸をスライドさせて――
ぱふ。……確かな質量を伴って落下してきた何かが、俺の頭部に衝突。
もふ。……竜宮城で貰った玉手箱を反対向きで開けたように頭の上から白い煙が降りてくる。
かこん。……おそらく初めに俺の頭上に落ちてきた何かが床に落ちる。
以上の三つは全て擬音語であり、聞く人によっては別の表現になっているかもしれない。
何らかのリアクションを起こす前に自分の置かれた状況を悟った俺は二三度目を瞬かせ、顎が外れたように口をぽかんと開けて――つまりは失笑していた。
唖然、呆然、茫然、自失。
「ちっ――なんだ、つまらん」
その言葉で我に返る。と、初めに一言。
「は――――くしゅん!」
……意識に反して、盛大なくしゃみを一つ。
大量に吐き出した息のお蔭で視界を遮っていた霧――もといチョークの粉は霧散した。
種明かしをしよう。誰でも小学生の低学年か中学年くらいの時にやったことがあるかもしれない。スライド式の扉の間に黒板消しを挟んでおくという、単純だが悪質なブービートラップ。
確か日本語では『まぬけ騙し』の意味だったな。
うーん。つまりここでいう『まぬけ』というのは、もしかして俺か?
「……一応訊いときますけど、これを仕掛けたのって」
「無論。私だ」
即答。
…………。
「何だこれくらいのイタズラで怒っているのか? 随分と狭量じゃないか」
……言葉が出ない。
「ん? ……ああ、ちょっとちょっと! 何してるんだお前は」
背を向けて立ち去ろうとする俺を、焦った風に呼び止める。
「失礼しました。弁当食いに教室へ戻ります」
「待て待て。まだ何の話もしてないのに、もう帰るつもりなのか?」
「人の頭に黒板消しを落とすような人とは、話すことなんてありません」
憮然として言い放つと、何故か相手は溜息なんかを吐いたりする。
……それって逆だろ?
「ちょっとしたイタズラだよ。別に悪気があったわけじゃないし、引っ掛かったお前の姿を録画して笑ってやろうと思ったけど止めた。だから気にするな。気を悪くしたなら、ていうよりもしているから謝ろう。すまん。私が悪かった」
悪意はなかった、か。イタズラって漢字で書いてみろ。悪の戯れだぞ。
必死の説得にしては態度から億劫さがダイレクトに伝わってくる。
この時俺は生まれて初めて他人に対して殺意を覚えた。この手に使用しても罪にならない拳銃が握られていたら……間違いなくこの場で発砲していたことだろう。
「……謝罪の意思がまるで感じられませんが」
「いつまでそんな所に突っ立ってるつもりだ? さっさと入って来い」
……無視?
空が自ら俺を売り込んだりするほどの人物がどれほどの者かと思ったら、予想は悪い意味で的中していたらしい。この人、とんでもない変人だ。
いったん芽生えた腹の腸が煮えくり返るような感情と、それに伴うどろどろとした生暖かい衝動を押さえ込む。
このまま退いてしまっては後に空からどんな仕打ちがあるか解らない。
ここまできたら乗りかかった船かと諦めて俺は部屋の中へと歩を進めた。
一歩目。落とし穴でも仕掛けられてはいないかと、風呂の温度を確かめるようにつま先で床を突付いて確かめてみる。安全確認。罠はないらしい。
「奇怪な歩き方をするな」
誰の所為だよ。と思ったが言葉には出さなかった。この変人にいちいち言葉を返してやっていたら、それこそ時間がいくらあっても足りないだろうと思ったからだ。
先入観に囚われつつもどうにか部屋の奥に設けられたデスクの前まで到達する。と、そこに座った部屋の主は部屋の真中、縦に置かれたテーブルを指差し座るよう促した。言われるがままに俺は手前のパイプ椅子を引き、腰を下ろす。
てっきりブーブークッシュンでも仕掛けられているのかと思ったが、杞憂だったらしい。
「さて。空から聞いていると思うが、一応初見なんで自己紹介でもしておこうか。朱空朔夜、三年の国語科担当だ。この準備室は空き部屋を貰ったものだ。準備室と銘打っても、見ての通り私の私室となっているけどね。どうも、職員室とやらが好きになれないんだよ」
話しながら朱空朔夜なる女教師はシャツの胸ポケットからタバコの箱を取り出し、紫煙をくゆらし始めた。……ここって確か、学校だよな?
咎めるような俺の視線に朔夜さんは、んっ? とか言って反応を寄越した。
「それだよ。その視線だ。今時の職員室ってのはね、どうも禁煙が暗黙の了解として定まってしまってるらしいんだよ。いちいち校舎の外に出るのも面倒だろ? まったく。世間は禁煙ブームとかなんとか言うが、私のような生粋の愛煙家には迷惑な話だよ」
学校への不満か、世間への不満か。おそらくはその両方だと思えるようなことを語ると、さて次は私の名前についてだが、などとこの愛煙家さんは話題を変える。どうやらまだ続くらしい。
「姓は朱空。発音が明けの空を表しているというのに名前は夜ときている。姓が名を打ち消してしまってるんだよ。妙な話だろ? もしも名前に朔の文字がなかったら、こりゃあもう大変な矛盾だったところって訳だ。姓は血の名前、名は自らの魂の名だからね。ようするに、名字は自らの歴史を宿し、名前は自らの宿命を宿すといったところか? もっとも、こんな考えは今時の流行じゃないけどな。最近では名前に対してオシャレなんぞを追求しようとしているから、可笑しな話だ。一族の中で確立するために人間には名字の他に個別の名が与えられると言うのにね。
――さて、どこからか論点がずれてしまっていたな? ええと、確か自己紹介だったか。まあ、必要最低限の情報はこれで共有できただろうから私の方はこれで終わりにするとしよう」
彼女は一体なんの評論会議に出席しているつもりなのだろう、と考え始めた俺の思考を読み取ったか朔夜さんは話を区切った。
自分の話はこれで終わりだ、と告げる瞳が同時に次はお前の番だと俺に促す。
気乗りはしなかったが、先に名乗られた以上はこちらも最低限の情報を差し出す必要がある。……なんとなく、この人ならその必要最低限の情報を悪用しかねないような気もするが考えすぎだろう。
「二年二組、遙瀬橙弥です」
「ハルセ? もしかしてお前、空の兄妹か?」
「ええそうですけど、空から聞いてませんか?」
どうにも噛み合わない。
空曰く、変わり者なこの人物は自分の気に入った生徒としか交流を持とうとしないらしい。そのような変人に気に入られてしまう要素を俺は持っていないから、単に空の兄であるというネームバリューが買われたのだと思っていたのだが。本当の理由はそうでないらしい。
「――ふうん。そうか、兄妹か。ははは、こりゃあ空との話のネタが増えたよ」
悩む俺はそっち退けで、変人教師は勝手に納得してしまった。
「ん? 何か聞きたそうだが、質問があるなら遠慮はいらんぞ」
「はあ……。それじゃあ、朱空先生は何で俺と話してもいいと思ったんですか?」
素直に従って質問してみる。
「私のことなら名前で呼んでくれて構わないぞ。私も『先生』なんて呼ばれるのはこそばゆい。まあ、お前がそう呼びたいのなら好きにすれば良いがね。
えっと、何で私がお前と話す気になったか、だったな。別に、大した理由はない。空は私のお気に入りで、その空からの紹介だったから話をしてみる気になっただけだ。それと、強いて言うのなら名前かな。トウヤって名前は聞いていたからね。ほら、私の名前、ソラとは『空』って文字、お前とは『ヤ』っていう発音が同じだから」
そんなどうでもいい理由で俺はこの変人のお眼鏡に適ってしまったらしい。しかしそのどうでもいい理由は別の部分で俺の違和感を取り除いていた。俺は朱空朔夜という人物を直接この目で見るまで、勝手に男だと思っていた。それは名前の発音が自分と似ているから、というただそれだけの簡単な理由だったのだ。
はあ、と溜息のような素っ気無い返事をすると、彼女は気を悪くした風もなくさらに続けた。
「しかし兄妹揃って、妹は名字に、兄は名前に縁があるとはなかなか面白い偶然じゃないか。私が空のことを気に入ったのは偶然のようで実は必然だったということだな。うん、実に面白い神秘だ。ははは」
縁とか言うほどのことじゃないと思う。
面白い、と語るのは彼女の本性かららしい。これまで無表情、むしろ持ち前の目付きの悪さの所為で不機嫌にさえ見えた彼女の表情がここへきて綻んだ。思えば、俺が朔夜さんの全容を把握したのはこれが初めてのことになる。部屋に入るなりトラップを炸裂させられた為それどころではなく、むしろ足元や頭上にばかり気を配っていたからだ。
端的に言えばドラマにでも出てきそうな麗人秘書。ただ常に相手を威嚇しているような鋭い視線はそれに当て嵌まらない要素なのだが。身長は女性にしては高めで、俺と比較して推定すると百六十五センチくらいはあるだろう。ただそうでありながら、女性であることを明確に表す細く華奢なボディーラインはモデルだと言っても通用するかもしれない。もっとも、人を陥れるような性格の悪さを隠蔽し目付きをどうにかして矯正することが出来なければ人気も出ないと思うが。
余程俺と空の血縁関係背景を知って愉快になったか、朔夜さんは滑稽なほどに笑う。それはもう、腹を抱えての爆笑と言っても過言ではない。
「ははは――はは」
一頻り笑い、朔夜さんは煙草を口にくわえる。肺に溜め込んだ煙を吐き出して、
「それで、お前は私に訊きたいことがあって来たんだろ?」
スイッチを切り替えるように、かちりと話題と表情を切り替えて俺を見据えた。