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ガールズカルテット 作者:双色
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 陽は既に沈んでいた。
 黒い平面は月と疎らに散りばめられた星の明かりだけで照らされている、夜。
 学校で騒いでいる間に、気づけばこんな時間になってしまっていたらしい。暑くなってきたといってもまだ五月。直六月がやってくるが、それでもまだ夏本番には程遠い。日の入りの時刻は例年通りらしかった。
 結局、暦のごった返しは空騒ぎの枠を出なかったが……確かにあの場に存在した刺々しい空気はなんだったんだろうか。暦が憎悪に近い敵意を抱いていたことも気になる。他人を跳ね除けるなんて機能を持たないような人間だというのに。
 暦の発狂は最終的に自己抑制されたことにより誤解は解け、いや、そもそもあの場に誤解と呼べる何らかの認識が存在したのかは不明だが、とりあえず暦の不審な態度は収束した。
 厄介だったのはその後だ。
 発狂に次ぐ暴走。
 暦の謝罪は異常と言って過言ではない。脳がブレーキの掛け方を忘れてしまったように、暦の頭は上下運動をやめようとしないものだから、謝られている側が何かしてしまったのではないかと罪の意識に駆られてしまうほどなのだ。
 一度そうなってしまった暦を止められるのは、彼女の同級生にして親友、ついでに俺の妹である空だけで、あの場に偶然空がやって来たのは不幸中の幸い。……この場合は逆か。幸い中の不幸、空の登場で暦を正常化することはできたが、今度は空の様子が何やらおかしくなってしまったのだ。
「……なあ、空」
 こうして学校から帰途を辿っている間、会話は愚か、空は俺と視線を交えようとさえしてこない。
 暦の発狂も、空のこの態度も、大元の原因を問いただすと一人の人物に辿り着く。それが誰であるかは明確で、個人的な名前を出すとそれは御桜流深に他ならない。どうしてあいつは、こう後輩から敵視されてしまうのだろうか。
「はい?」
 暗い帰り道、空の白い顔がこちらを向く。行儀のいい立ち姿勢はどこをどう見ても非の打ち所が見当たらない、優等生然としていると同時に随分なお嬢様オーラを振り撒いていた。
 これが俺と同じ遺伝子を継いでいるというのは、にわかに信じ難い。
「どうかしましたか、兄さん? 今晩の夕食のメニューなら、こんな時間ですし、簡単なもので済ませようと思っていますけど、何かリクエストでもあるのですか?」
 夕食のメニュー。和洋中でいえば今日は和食の気分だ。簡単なもので済ませるのならせめて、味噌汁だけは用意してくれれば――じゃない。
「いや、そうじゃなくて」
 雑念を祓うように、頭の中に浮かんだ味噌汁像を掻き消した。
 遙瀬家では基本、家事全般は空がこなす。父親は単身赴任で家にいないし、母もこれまた身体が弱かったりする。そのことは当然空も既知で、今年の春に実家に戻ってきてからは自ら家事の負担を背負っているのだ。名門私立は全寮制だが、その中で家事術の極意を掴んだのか、空は既にどこへ嫁に出しても問題は微塵も無いというほど完璧なスキルを体得しているという認識は、妹贔屓の考えではないと言い切れる。
「なんですか?」
 脱線しすぎた思考を正規の路線へ修復。
「あのな、今日のことだが、流深は中学からのただの友人だ。お前が妙な勘違いをしてるとは思ってないが、一応言っておく」
 話題の修復、完了。
 兄妹だというのに他人行儀な態度を取り続ける空。凛とした立ち姿は正面を向き直さず、じっとこちらを観察していた。それがどれくらい続いただろうか。空が見ているのは俺の眼なのだと解ったのと、空が歩を止めたのは同時だった。
「兄さん」
 場所は意図的に選んだのか、街灯の光に照らされた空はさながら舞台の上でスポットライトを浴びる物語のヒロインを連想させた。
 やや斜め前の位置になってしまったが、俺も足を止める。
「あの人とは関わらないでください」
 聞いた言葉は、予想外を極めた一言だった。


 ◇


 陽は既に沈んでいた。
 黒い平面は月と疎らに散りばめられた星の明かりだけで照らされている、夜。
 太陽の空。月の空。世界は二つの空で構成されている。太陽の光が月の空を創り出すのか、或いは月光が太陽の空を作り出すのか。隣り合っていて交わらない二つの空。ただ一つだけいえることは、どちらかの空が存在する限り、必ずその対極となる空が存在する。
 光があるから、影がある。転じて、影があるということはどこかに光がある。
 そんな詩的なことを考えながら脚を動かして、ふと思ってしまった。
 私の世界はどうなのだろう。
 私の心象世界は、いつまで経っても夜のまま。明けない夜は無いというけれど、きっと私の夜が明ける時は――私が死ぬときだろう。
 白と黒。光と影はそれぞれがより多くのものを内包するために分かれた。光が内包するものがこの世の希望なら、影が内包するのはこの世の絶望なのだろうか。
 ……いや。それは違う。
 だって、私の希望は。
 この影の世界。夜。月の空の下にしかないのだから。
 物思いしている間に、いつしか私はいつもの場所にやってきていた。
 どうしてだろう。初めて夜の世界を出歩いたのは、いつになるだろう。発端は思い出せないけれど、確かにどこかに存在しているはずだ。私がこの行動を止められないのは、本来の目的とは別に、自分の行動の原因を知りたいからなのだ。
 建物と建物の狭間。足音が残響し、心音さえ喧騒に思える静謐な闇。私はここで待ち続けている。いつか自分を理解してくれる人物が現れるのを。
 どうしてこの場所を選んだのか、それも思い出せない。
 そう――記憶を辿れば行き着く先はいつも闇の中。
 深淵の中の静寂と静謐。出口の無いトンネルが存在しないのと同じ、明けない夜は無い。
 けれど闇は違う。それはどんな陽の光にも拭えない、深すぎる闇。
 いつまでも明けない夜は、暗すぎる世界と(くら)い記憶を一層冷たくする。
 それは捨てられない――私の記憶。
 それは歌われない―――私の孤独。
 どこまでも深い暗闇の中で、私は泣いていた。
 見方によっては鳴いている。……むしろ、そっちの方が的を射ていると私は思う。
「――――」
 吹き行く風に声を乗せて、私は歌っていた。
 まるで小鳥が囀るように。
 声にならない声で歌う。
 誰にも聞こえないその声は、私にだって聞こえない。けれどどうしてだろう。それは酷く哀しい、胸を焼いてしまいそうなほど熱い、絶望の旋律で象られた孤独の唄だと私はいつも思う。思ってしまう。
 星の光を見上げながら、たまに私の前を横切り去っていく人影を眼で追いながら、時には月に向かって、この唄は続く。
 今夜もまた、誰かが私の唄に共鳴してくるまでは。


 ◇


「兄さん。兄さんがあの人と特別な関係でないことは解っています。兄さんは嘘が下手ですから、本当のことを言っているということは容易に理解できます」
 街灯に照らされながら、スポットライトを独り占めにするヒロインの眼は俺だけに向いていた。もっともこの舞台を客観しているのは俺だけなのだから、何の優越感もなく、相手は実の妹であるから欣喜なんてものもない。
 あるのはただ、空は全てのことを理解しているのだという直感と。
 長く離れていたという事実に基づく、それの否定だけだった。
「もう一度言います。これ以上、あの人とは深く関わらないで、兄さん」
 これまでの他人行儀を捨てたそれは、空の本心から出る、皮肉でも非難でもない言葉だった。
「あの人は兄さんには危険すぎます」
「……それは何を根拠にして言ってるんだ」
 空の言葉の一つ一つを、俺は否定できずにいる。
 同じ日に、同じ人物を、別の人間二人から同じように否定されては、即断でそれを否定することは出来ない。ましてや他人に対してどこまでも肯定的な後輩と、読心術とも称せるほど異常な洞察力を持った妹に言われたのでは尚更だ。
 しかしそれは讒謗でしかないという確信もまた、俺は持っていた。
 ややあって、空は濁り無い瞳で言った。
「それについては兄さん自身が最も理解していると思いますが」
 挑むような言葉は確かに真実としか言いようが無い。
 御桜流深が無害であると確信している俺はその実、彼女が自分にとって危険であるという確信も同時に持っている。両者に優劣はなく、天秤は左右どちらにも下がらないまま静止していて、俺はどちらが正しいのか、判断できないでいた。
「空……」
「なんですか? 兄さん」
「何でお前や暦が流深に対してそんななのかは知らないけど、俺にはお前たちが正しいか間違っているか判断できない。だからお前の言うことには頷けないし、俺はこれまで通りに過ごして行こうと思う。……ていうか、お前が言ってることが正しいとしても、俺は今の生活を変えることはできないよ」
 空の眉がぴくりと跳ねる。
 一瞬で張り詰めた空気は肌を刺すようで、息苦しいというよりも痛々しい。
「悪い、空」
「……そこまで言う理由はなんですか、兄さん」
 まるで理解できない。空の言葉にはそんなニュアンスが籠められていた。
「約束だから」
 表情一つ変えないで言ってやると、反比例して空の表情はどんどん悪くなる。おそらく今、空の心の中を除けるのだとしたら、意味不明だ、とか何を言ってるんだこいつは、と鬼の形相で咆哮する妹の姿を窺えるだろう。
「誰との約束ですか、それは」
 空の質問に、俺は答えない。
 俺が黙秘権の行使を決め込んでしまうと、空はそれを一秒に満たない速度で感知し、一歩前に出た。行儀の良い立ち姿が俺の身体の前に沈んで、浮かび上がる。生きてきた年数と男女間の成長の差をその威圧感さえ感じられる様でカバーしていた空でも、これだけの近距離では兄妹の身長差を隠しきれていない。
「答えたくない、ってことね……」
 呟いた言葉は、多分誰にも向けられていない。
 空は視界の焦点を俺の瞳に合わせて、俺は瞬間、
 ――――抗うことの出来ない拘束感と、首筋にナイフを突きつけられたような悪寒を感じた。
「おい……空」
 短い声と同時に、悪寒は消え去った。
 強風の前に消灯する蝋燭のように呆気無く。海浜を引いて行く潮のように潔く。
 一瞬尋常でない気配を感じさせた空の瞳の色は、普段の色に戻っていた。
「――解りました。言いたくないことは無理には訊きません。兄さんがそれを正しいと思うのなら、わたしは否定しないし、非難もしない。ただし肯定も、援助もしません」
「……お前、その前に何か言ってただろ」
「さて、お腹も減ったし、早く帰って夕飯にしましょう」
「いや誤魔化すなよ。つうかそれ、どっか主婦くさいぞ」
「何か言いました?」
「……いや何も」
 完璧すぎる笑顔が怖い。
 ともあれ場は和やかな雰囲気を取り戻し、星空の下の夜は平穏を肯定した。
「ああ、そういえば空」
 さっきの街灯から四つほどそれを跨いで、何の前触れも無く俺は切り出した。今朝から訊こう訊こうと思っていた質問を思い出したのだ。
 それはこの穏やかな夜のムードには不釣合いな質問で、空を呼び止めてからそのことに気づいた俺は、出来ればこの声が空の耳に届いていなければいいと後悔してしまう。
「はい? なんですか?」
 思いつきだけで口を開くのはやはり駄目だ。
 願いは虚しくも叶わず。恨むなら自らの不運を。省みるなら自らの口軽を。
 ここで適当な嘘をついてしまえば、それこそさっきの繰り返しになりかねず、そうしたところで空を欺くなど俺には出来ないだろう。質問を決行するのが最善の策だ。
「お前、通り魔事件の噂って聞いたことあるか?」
 そういえば同じ質問をするのは今日これで二度目だな、などと思い出す。
「ええまあ」
 迷う風も無く、空はあっさり肯定した。
「歌姫殺人のことですよね?」
 かと思えば、新種のワードが飛び出してくる。
 聞けば聞くほど謎が深まる。これはもしかすると誰かの仕込じゃないだろうか。
「歌姫? ……なんだその不適当過ぎる呼称は。この噂って、学年ごとに内容とか名前とかが違ってたりするのか?」
「いえ。この名前は朔夜(さくや)さんが――て言っても解りませんね。歌姫殺人はわたしがお世話になっている先生がつけた呼び名です」
 ……そんな昼ドラのタイトルみたいな名前を付けるとは、どこかの誰かと同格かそれ以上のネーミングセンスだ。
「その先生って、お前の担任か?」
「いえ、朔夜さんは三年の担当です。たまたま気があったので、休み時間などに話をさせていただいています。……担当教科の準備室があるのは二年の校舎ですので、たまになんですけど……」
 空の話し方は心底残念がっているようだった。
 昔から空が他人に対して強い興味を示したことは無い。中学時代がどうだったのかは知らないが、俺は自分の妹が何かに執着している様子を見たことは無かった。その空が自ら話をしたいと望む人物というのは、一体どんな人物なのだろうか。
 少しだけ沸いた興味はけれど、明日の行動をこの場で予定付けるほどではなく、俺はその教師から関心をなくそうとしていた。
「よかったらわたしが兄さんのことを紹介しておきましょうか? 面白い方ですから、きっと兄さんも気に入ると思いますよ」
 空が、こんなことを口にするまでは。
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