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EYES  作者: 佐野光音
10/10

ミカエルの憂鬱 10 【番外編・完結】

 本格的に熱を出して寝込んだその夜、またあの夢をみた。


 広々として出口すら分からない、絢爛なパレスの中を、誰かを探して歩いている。


 誰かが見つからなくても、せめて辿り着く場所があればいいのに、冷たい大理石の床に自分の足音だけを響かせて必死で歩いても、同じ所をぐるぐる巡っている幻覚で吐きそうになる。



 焦りと不安が、次第に恐怖だけで支配されていく。


 床から、亡霊のように、沢山の手が伸びてくる。助けてくれと求める手。

 逃げようとする足元を掴んで、離さなくなる。



 ――――またこの夢だ。夢の中でも、夢だと分かっているのに、気が狂いそうになる自分を慰められない。




 そのとき、何かが俺の手に触れた。


 そっと、優しく触れてくる、誰かの手。




 “だいじょうぶ。一人じゃないよ。”




 言葉のない温もりで、伝えられる。



 夢の中で、悲鳴すら出せない恐怖心が、瞬く間に優しさに包まれていく。


 息もできずにいた胸から溜息がもれて、恐怖が消えると同時に、無数の魑魅(すだま)の様な助けを求める手も消えていた。



 俺を怖がらせない力で握り締めてくれるその手は、俺に何も求めていなかった。


 行くあてのないパレスの中を、その手と共に、歩いている。


「どこに行こうか?」とも訊ねず、「どこかに行こう」とも誘わない手。



 ただ、そこにいてくれる。


 そこに、大切な存在があることを、教えてくれる。


 俺が、ここにいることを、教えてくれる。



 それだけでいいと――――伝えてくれる。







 目を覚ましたら、そこは東京の家だった。



 静寂に浸される室内を、小さな寝息が安らかな風のように漂い、暗い夜の孤独を温めていた。



 阿見香がそこにいて、いつもより近くで眠っている。


 俺の左手に、手を重ねながら。




 熱に浮かされた全身に、安息の震えが解き放たれ、しばらくの時間、何の言葉も見つからなかった。


 胸がつまって、閉じたまぶたが小刻みに痙攣する。



 無欲で、透明なぬくもり。透明な優しさ。




 …………分かっている。


 何も求めずに、そうしてくれる手に。自分も、求めすぎてはいけないことを。


 無心で優しさをくれる君に、これ以上を望みすぎてはいけないことを。



 戸惑いながら、優しく髪を乾かしてくれた。


 戸惑いながら、優しく俺を抱きしめてくれた。



 文句を言いながら、心配してくれて。


 何も求めずに、手を握っていてくれる。



 ――――何もいらない。君がいるなら。



 何もいらない。君がいて、俺がいて。ただ、存在していて。


 それだけでいい。



 君のすべてが欲しい本心もあるけれど。


 ただ、存在しあっている。


 決して翻ることのないその事実があり、そこに、泣きたくなるような安らぎがあることを知る。



 彼女の手を、そっと握り返す。



 いつか死ぬそのときまで、この温もりを忘れることは、ないだろう。そう噛み締めながら。














 風邪で寝込んでいる間は、彼女の優しさにたっぷり付入っていた。


 お人よしで情の深い阿見香は、頼まれると絶対に嫌とは言えない。


 ふざけんな!って顔を見せながらも、甲斐甲斐しく世話をしてくれた。


 無理矢理押し倒さないでいるんだから、これぐらいの我儘はさせてもらってもバチは当たらないはずだ。


 あとどれくらい、一緒にいられるかも分からないのだから。



 でもそう考えると、それを納得したくない俺の葛藤部分が、素直に彼女と向き合うことに駄々をこねてしまう。


 彼女のいちいちに文句を並べ立て、切れそうに歯を食いしばっている顔を見て溜飲を下げるという、面倒くさい人格も俺の中にはいる。



 ポールが作るオートミールにうんざりして、「うちでは風邪のときは、梅がゆか卵がゆ」と話した阿見香に、梅干を食べるくらいならオートミールのほうがまだ許せると思いながら、卵がゆを食べさせろとリクエストした。


 彼女が作ってくれた手料理は、食べたことのない味で感想に困ったものの、トリニティ・カレッジのランチよりは遥かにまともだった。あそこの食事は、ディナーも含めて完食したことはなかったが、阿見香の料理は全部食べられただけ数倍ましだろう。




 熱でだるい間ずっと付き添ってくれた彼女に、お礼したいと伝えたら、「ピアノを弾いて欲しい」と頼まれた。


 そんなことでいいのかと拍子抜けしつつ、十年近く人にピアノを聴かせていないことを思う。


 これからも人前では一切弾くつもりはないが、阿見香にはイギリスでたまたま聴かれたことがあった。忘れていなかった彼女が「ピアノがいい」と子供みたいに目を輝かせて、それがあまりにも可愛かったので、阿見香にならいいかと了承していた。



 彼女にだけは、なんでもしてやりたくなる。


 自分ができる最高の特別だけで、彼女を包みたくなる。


 そんな自分にふと我に返り、唸り声を漏らしかけた。



 …………父親の血か、これは。



 ローデリオンのような、妻にベッタベタに甘く、年がら年中抱きしめてキスをしている男にだけは絶対になりたくない、頭がイカレてると蔑視すらしてたのに。


 あの恐ろしい性格が自分にも遺伝しているらしいと気づかされ、絶句する。



 阿見香が、花嫁にならないほうが、俺の人生はきっと平和で安泰だ。


 彼女がずっとそばにいたら、俺は父親以上のイカレ男になる可能性、百パーセントかもしれない。



 阿見香と結婚しないほうがいい、素晴らしい口実が自分の中に出来たことに、安心する。


 結婚なんかしたら、本当に…………大変なことになる。目も当てられない。


 仕事そっちのけで妻と寝室にこもり続けるような総帥は、総帥どころか、もはやまともな人間とも呼べない。


 そうだ。まともな人間、まともな男でいたいなら、阿見香は危険だ。そばにいないほうがいい。









 ドローイングルームで、ピアノを前に阿見香に問いかける。


「何がいい?」


「リクエストできるほど知らない。なんでもいいよ」


 なんでもいいと答えながら、瞳は期待に満ちて、ピアノと、適当に鍵盤に走らせる俺の指を見つめている。


 彼女にとっては、俺が、というより、ピアノと演奏があればそれで満足なのだろうと思いながら。阿見香でも聴きやすく、強く溢れてくる自分の感情を軽やかな旋律に乗せられる、アップテンポなエチュードを最初に選んだ。


 二曲目は、一曲目よりも落ち着いた優しいリズム、明るく甘いアマービレの、初々しいロマンチックさが印象的な曲を奏でてみる。



「なんて曲?」



 ポピュラーなものから、意味深なタイトルのその曲で気持ちを表現してみても、彼女はやはり曲名を知らなかった。


 陽射しを受けて、黒から緑へ、神秘的に光彩が変化する眼差をじっと見つめて、それを教える。



「エルガーの、愛の挨拶」


「へえ。可愛い曲名だね! メロディそのものって感じかも」


「……イギリスの音楽家としてだけでなく、愛妻家としても名高いエルガーが婚約していた頃……最愛の、婚約者のために作曲して、婚約記念に、彼女にプレゼントしたものだ」


「最愛の婚約者にって、素敵だね。メロディだけじゃなくて、背景までロマンチックで。あたしね、花畑に蝶が飛んでる光景が真っ先に浮かんできて、のどかで優しい気持ちになれたの。プレゼントされた奥さんも嬉しかっただろうなぁ。こんなに素敵に弾けるミカエルも凄い! エルガーや奥さんがここにいたら絶対に感激するよ」



「………………」



 …………誰かこの女を、殺してくれないか。


 いっそのこと、そのほうが楽になれる気がする。



 俺だって、気持ちを伝えたくないわけじゃない。今だって、好きだと言って抱きしめたい。


 曲の由来を説明した俺に、「こんなに素敵に弾けるミカエルも凄い。エルガーやこの曲をプレゼントされた奥さんがここにいたら、絶対に感激するよ!」なんて、無邪気な素直さで褒めてくれる君の唇へ、ありのままの想いを伝えたい。



 男が女をじっと見つめて、「愛」の言葉を思わせぶりで口にすれば、言外に何かを感じ取るだろ。普通の女なら。


 日本ではこういう人間を「天然」と呼ぶらしいが、生易しい表現だ。


 そして、そうだったと、またしても痛感させられる。


 この女は、普通じゃない。



 思わず苦笑いを漏らした俺を、阿見香が怪訝そうに見てくる。



「ピアノを弾きながら、いきなり苦笑するのやめてくれない? 笑わないあんたが突然そうすると、何事かと驚くのよ」



「俺でも思い出し笑いくらいはする」



 シャラが、「彼女は曲解の天才よ」と笑うので、俺も呆れながら笑うしかなかったが、いっぺんこの女の頭の中身を見てみたい。


 身近にいたブレイズもアティアナもかなりおかしな人間だが、見てみたいと思うほどの関心はなかった。


 けれど、この女だけは、心の隅々まで見たい衝動に駆られる。


 すべてを知りたくなる。





 もし、運命があるなら。俺は、愛していると、誰かに告げることのない男なのかもしれない。


 シャラにも、そう伝えたことはなかった。未熟だった初めての恋で、それを言葉にするのは重すぎたから。



 どちらの恋が重いかなんて、関係ないけれど。


 心を慰めあうように、苦悩を癒しあうように愛しあった想いよりも、阿見香には激しい欲望を感じる。


 それから、守りたいと思う気持ち。自分の与えられるすべてのものを、彼女に与え、尽くしたい気持ち。



 それは、俺が昔より大人になっただけのことなのか。


 シャラにはねだられても弾かなかったピアノを、阿見香には弾いて聴かせているのも、以前よりは精神的に大人になっただけのことなのか。



 鏡を見るように、好きなものも心の情景も似ていた相手と、すがり合う思いで結んだ恋も、自分にとって真剣なものだったけれど。


 阿見香に対しては、彼女を閉じ込めて、自分以外のものを何も見るなと突きつけたくなるのは、なぜだろう。


 そしてまた逆に、地球のどこにいても君を見守っていると、どこまでも深く優しく、慈しみたくなるのは。なぜだろう。











「“我々はどこから来たのか。”君はどう思う?」



 風呂上りに、ラマイエの書を本を読みながら――本当に読んでいるのか、頭に入っているのかは疑問だが、ベッドに寝そべって寛いでいる阿見香の隣に俺も横になり、問いかけた。



「知らない」


「よく考えてから言えよ」


「同じだよ。考えても知らない」



「じゃあ、我々は、何者だと思う?」


「……人間?」



「”我々はどこへ行くのか”」


「さっきから何の尋問?」


「答えろよ」



「お墓」



「………………」



「だって答えようがないじゃん。そりゃ不思議には思うけど、あたしが出せる答えじゃないし。最終的にはみんな死ぬんだし」



「……君と話していると、考えるのがバカバカしくなる」



 苦笑して、首をふる。阿見香らしいというべきか。


 そして、笑いたくなる。思いつめていく自分のことを。



 墓。死。誰にでも訪れる、今生の終点であるには違いない。平等に辿り着くところ。


 阿見香本人はあまり考えてないのだろうが、あっさりと的を衝いてくるのも感心させられる。


 考えて気取った事を並べたり、物見高い意見をするよりはずっといい。うがった見方をしない率直な真剣さも好感が持てる。



 彼女に対して、バカだと思うことは多々あっても、本質は愚かな女じゃない。それが彼女の面白いところで、手ごたえを感じる資質でもある。


 地に足の着いた自分なりの意見を持ちながら、答えが出ないことを割り切って、悩みすぎないでいくのも人間の賢い選択だ。


 自分を持つこと、割り切ること、悩みすぎないこと。それらも強い精神力を必要とする。




「言うだけ言わせて苦笑いするなんて、失礼じゃないの」


「ゴーギャンの絵の有名なタイトルを知らないのか」


「ゴーギャン? って、自画像が上手くかけなくて、自分で耳をちぎったとかいう人?」


「それはゴッホ。ゴーギャンとは一時期友人だったらしいが」


「ゴだけ当たってた」


 Vサインを振りながら、一人笑いで肌掛けの中に潜り込んでいる。



「得意げに言うなよ。一般教養も念入りに学習させたほういいな。週二程度でカリキュラムに……阿見香?」



 ………………。


 身動きが止まったかと思えば、即効で寝てやがる。



 こいつは、俺を男だと、微塵も認識していないんだ。キスも、それ以上まで俺としておきながら、男として関わることを完全に除外している。


 だから同じベッドでも、無防備にぐっすり眠れるのだ。……腹立たしいことに。


 信用とかそういう次元の話じゃない。それを言えば、「前科だらけのあんたなんか信用出来ない!」と言い切るに決まってる。


 異性として、まったく興味を抱かれていない。悔しいが、そういうことなのだ。










「檀くーーんっ」



 学校に行けば、家では絶対に見せない笑顔を見る。


 その眩しさが、憎らしくて、愛しい。


 俺の前では絶対に見せない、あの男だけに向けられる笑顔が。憎らしくて、愛しくて。



 ……守りたい。ずっと、君が、そんなふうに笑えるように。



 二度と会えなくなっても。二度と言葉をかわせなくても。


 その笑顔をそばで見られる時間が、俺には限られていても。一生、見届けることはできなくても、守り続けたい。




 俺が君の夢を見ても。


 君が俺の夢を見る夜は、ないのだろう。



 隣りにいても、届かない。


 抱きしめても、届かない。


 君が欲しくても、手に入れることができない。



 君をこの腕に閉じ込めてしまえば、その笑顔も、輝きも、消えてしまうのを知っているから。


 君が欲しいと願う気持ちよりも、その笑顔を壊したくないと思う気持ちが勝ってしまうから。



 好きになったと、言えない。


 愛してしまったと、言えない。


 苦しませると分かっている、この身勝手な想いは、告げられない。





 幼いときの、火司長に語られた言葉の真の意味を、君を通して分かり始めている。



 どんな形であれ、人は支えあわなければ生きていけない。


 支えあい、存在する。それだけのことだと。


 肉体が滅びても、大気となり土となり、他の生を助ける力となりながら。




 今の俺には大きな力があるかもしれない。それは特別なことかは、どうでもいい。


 その力で、君のいる世界を、支えていけたらと思う。


 一族と世界を守り導くのだと諭され、背負わされ、漠然と抱えてきた不安や重圧が、君を見つめながら少しづつ溶かされていく。




 見渡せば、沢山の人間がいて。知ることのなかった日常が溢れている。


 制服を着て、若々しさを弾けさせながら笑いあう生徒たちがいて。いろんな笑顔があって、社会を支えている様々な人間がいる。


 君が生きていくこの世界が、幸せなものであるように。君が心からずっと笑顔でいられるように。俺ができることは、限りなくあるのだろうと思う。



 

 いつか訪れる、さよならの時がきて。


 十年後、二十年後に、もしも再会できたら。


 俺は、激しい後悔に打ちのめされ、業火に魂を投じるような苦しみを味わうのだろう。


 どうして、そばにいたときに、手に入れてしまわなかったのかと。


 悶えて、君のそばにいる男を粉々にしたくなる嫉妬に身を焦がすのだろうと、分かっているのに。



 君は、そんな女になると、確信しながら。自分のものにしてしまえばよかったと思える女になると、確信しながら。


 愛していると告げずに、生きていく。




 けれど、俺は後悔していない。


 君に出会えたことも、どうしようもなく惹かれていくことも。



 眩しいものは、もう見たくないと思っていた俺だった。


 希望や理想や笑顔を照らし出す光など、見たくないと思っていた。自分には必要がないと。



 けれど、君の笑顔を見るためには、光が必要で。俺はそれを求めている。


 君の笑顔を守るためには、希望や理想が必要で。俺はそのために、どんな努力でもしたいと思っている。



 犠牲じゃない。


 君を守るために、できることをしたいだけ。


 遠く離れていても、この世の中に自分ができることを、していこうと思う。



 持て余す重責と義務でしかなかった役割に、君に出会えて、初めて希望を見出せたんだ。


 個人的な動機だけれど、これからもずっと、それが俺の支えになっていく。






 Où allons-nous ? ――――我々は、どこへ行くのか。



 訊かれたら、俺の答えはもう見つかっている。


 生涯、揺らぐことのない大切な想いを、抱きしめていく。

 




「俺は旅をする。君のいる光の中へ。

 辿り着く場所はいらない。君がいる世界が、自分のすべてだから」




 俺はどこまでも行こうと思う。愛する人のいる光の世界を。



 いつか君の時が終わり、俺の時が終わり。違う時へと姿を変えても。


 君が輝いてあり続けだろう、光の中に、俺もあり続ける。




 それを永遠と呼ぶのなら。俺はきっと永遠に、君を愛していくだろう。









    Dream about you  ~ミカエルの憂鬱~   END






番外編・ミカエルの憂鬱にお付き合い下さり、ありがとうございました。

本編のほうも、また宜しくお願いいたします!


近日中に、読み切り番外編をアップする予定……なんですけど、

遅れたらすみません。



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