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  EYES 作者:佐野光音
 ようやくの更新。ちょっと短めです。(^^;

 活動報告にもご案内していますが、SF恋愛小説の書き下ろし新作『 夏空パラレル 』が、エタニティ・ロゼより刊行予定です。
 発売予定日は、おそらく6月20日~24日ぐらいになるかと思います。

 どうぞ宜しくお願いいたします!



夢色の夜明け ― 3


 ミカエルたちは予定よりも遅れて上海を離れ、機内食で夕食をとるというので、あたしはシャラと二人で夕食を済ませて、ミカエルの帰宅を待っていた。

 一時間や一日がとても長い日で、昼間もちらちらと時計ばかりを見ていたあたしにシャラが呆れながら、「お勉強に身を入れないと、私より怖い鬼教官にビシバシ怒られるわよ?」と脅すので、ようやくカリキュラムがこなせる有り様だった。


「シャラだって、勉強については負けず劣らず怖いよお。前から言ってるけどさ、数学だって、こんなの覚えても意味なくない? 買い物で計算する時に、足し算引き算ができれば充分じゃんって思うんだけど」

 苦手な数学のテストを終えた後で、ぐったりして愚痴を零してみたら、さくらんぼ色のふっくらとした唇を突き出して言う。

「怖いだなんて。私とあの人を、同列にしないでちょうだい」


 打撲をした背中と腰の痛みは、カレンに貼ってもらっていた大きな湿布が効いたのか、気にならなくなっていた。

 それでも長時間椅子に座っていたり、身動きをした拍子に鈍痛があって、思わず顔をしかめるあたしをシャラが案じてくる。

「ドクターに診てもらいましょうか」

 背中をゆっくり摩るように触れながら「どの辺が辛い?」と訊かれて、「時々ちょっと痛いだけだから」と苦笑を返す。

 そこへ、触れていた手であたしの手を取ったシャラが、美しい瞳を見開いて真顔で言った。


「私のこと、お姉ちゃんって呼んでいいのよ?」


「…………は?」


 なにを言い出すのだろうと目を瞬かせてまじまじと彼女を見れば、南国の海の浅瀬を思わせる澄んだ眼差しも、更にこっちを覗きこんでいる。

「日本では姉妹の契りをかわすと、妹は姉のことを“お姉ちゃん”とか、“お姉さま”って呼ぶのでしょう? さまは違うから、ぜひお姉ちゃんって呼んでくれたら私も嬉しいわ」

「……姉妹の、ちぎり……?」

 ポカンとしていると、あたしの手を両手で握りしめたシャラが切々と訴えかけてきた。

「だって、義理の妹になるんですもの! 私、阿見香と出会ってから、その日が来るのをずっと待っていたのよ! 阿見香にお姉ちゃんって呼ばれて、朝は阿見香の髪をとかしたり、その後で今日着るお洋服を一緒に選んだり、お化粧をしてあげたり、それから一緒にお買いものに行ったり、乗馬をしたり、二人でお稽古事をしたり、旅行に出かけたり、夜は遅くまでお喋りを楽しんだり」

 ずらずらと並べられるそれに、あたしは首を傾げるやら青ざめるやら、だんだんと上半身をのけ反らせながら冷や汗までかく始末。

 髪をとかしたり服を選ぶのは、侍女のカレンの仕事では? 化粧が必要な時もカレンがしてくれている。シャラにだって侍女はいるのに、なんでシャラがあたしの身支度のお世話係までするのよ。

 姉妹の立場が違うけど、アティアナのノリに似ているようなと焦りつつ、シャラはどんな思いであたしとミカエルを見ているのだろうかと、少し気になっていた。


 あたしに、シャラの胸裏のすべてはわからない。心から喜んでくれているのは伝わってくるし、姉妹の契りの話も、彼女なりの誠心誠意の表れなのだと思う。

 粉々に打ち砕かれた二人の過去を、ここまできて勘ぐる気持ちにはなれない。シャラには今、素敵なパートナーもいる。

 けれど、誰にも語れない複雑な感情も彼女の中にまだ息づいているのではないかと、澄んだ瞳の奥にその陰りを探そうとする。

 ミカエルから切り離せない片割れの存在。ミカエルと同じくらい大切なシャラを、あたしが追いつめていたらどうすればいいのかなんて、一抹の不安を覚えながら。


 そんなあたしの戸惑いをよそに、痛いくらいに手を握り締めてきたシャラが、切々と懇願する形相で口を開いた。


「ミカエルのこと、よろしくね」


「……シャラ」

「ほんっと人でなしで意地悪で口は辛辣だし、人を人と思わない傲岸不遜の上に捻くれてるし。“スマクラグドスの次期総帥は、俺が世界の法律と言わんばかりに黒いものも強引に白にする手腕に長けている。従わない人間は人間扱いせず、刃向う奴は再起不能にしないと気が済まない。助けてくれと哀願されても、ダニの言語は習得していないと公衆の面前で暴言を被せ、社交界からも孤立させ野垂れ死にさせる”なんて下馬評もある人だけど、優しいところもあるの。
 素直じゃないのが、ほんっとにどうしようもない兄だけど、阿見香ならわかってくれるわよね? ミカエルを相手にできる女性は、世界広しと言えどもあなただけなのよ。死ぬまで見捨てないであげてね?」


「…………………」


 ダニの言語、って。

 ちょっと待ってよ。あいつが、人でなしで意地悪で辛辣で傲岸不遜で捻くれ者なのは熟知してるけど、そんな下馬評まである男って、なんなの?

 前に当の本人の口から、「社交界は陰湿ないじめがある世界だ」って聞いた記憶もあるけど、「公衆の面前で暴言」が真実なら、先頭切ってやってんのはアンタじゃないの!?って疑問になるわけで。

 客観的にみれば、一族の中でヴィクトリアを孤立させていたやり方と被るあたり、あながち噂だけではないと思える。

 しかも「ああ、あの男ならやりそうなことだわ」って納得できるあたり……ミカエルの性格って、一生あのまんまなんじゃなかろうか。


「阿見香に任せることができて、私も肩の荷が下りた気分だわ。彼が歩いた後を、あちこちフォローして歩いて、人間関係を丸く収め直すのも楽じゃないのよ。私には荷が勝ちすぎる兄だから、阿見香がお嫁さんになってくれて、本当によかった」


 心の底からホッとしていると言いたげに、晴れやかな笑みを浮かべているシャラを見て、あたしはさっきとは異なる複雑な心境に追いやられていた。

 彼女を追いつめていたらどうしようかと一抹の不安を覚えていたはずが、追いつめられていたのはあたしじゃん!!って感じ? 

 持て余していたものをドッサリ放り投げて処分完了、身軽になって解放感でいっぱいという具合で鼻歌を歌っているシャラに、私はもう申し訳ないとか、二人を見てると胸が痛むとか、二度と思わないようにしようと心に誓った。


 あちこちフォローして歩くのも楽じゃないとは、間違いなくシャラの本音だろう。ミカエルのそばにいれば、それは納得できる。

 晴れ晴れとした顔も嘘偽りのないもので、例え何か口外できない感情がわだかまっていたとしても、「あんな厄介な人、もうコリゴリよ」と一笑に付して流しそうだ。ミカエルと比べたら、ダンジズのほうが遥かにまともだし。



 ミカエルが話していた、ようやく姿を現したという女性のこと、ヴィクトリアが見つかったのかと訊いてみようとしていたのに、そんな気分にもなれなくなっていた。

 溜息を呑み込んでだんまりしているあたしを、親鳥がひな鳥を見るような温かい眼差しで見つめていたシャラが、何かを思い立った様子でサイドテーブルへと手を伸ばす。

 そこに置かれていた果物皿からリンゴを一つ取り、室内ベルを鳴らして使用人を呼び寄せた。この家では、大抵の部屋に新鮮な果物が随時用意され、いつでもすぐに食べられるようになっているのだ。



「これ、むいてくれる?」

 まだ講義の途中なのに、シャラってばおなかでもすいたのかな? 食べたいならあたしがむくのにと思っていたら、「皮が切れないように、一周だけ綺麗にむいてね」と注文をつける。そして果物皿に添えてあった果物ナイフでリンゴをちょこっとむかせただけで、使用人を下がらせた。

 何をしているのかと眺めていると、テストで使った用紙の裏に皮を置いて、あたしに差し出してくる。


「ちょうどセロテープがあるから、元の形の円になるように貼ってみて?」

 指示されてから、シャラが時々してくれる遊びを取り入れた勉強の一環なのだと察して、曲線の残るリンゴの皮を円になるよう繋げて紙に貼ろうと試みる。

 けれど元が立体的な形だったので、平面に無理に貼ろうとすると皮が千切れそうになった。


「元の形の円にしようとすると、できないわよね? じゃあ、皮の形に力を加えず、自然な曲線のまま紙に貼ってみましょうか」


 言われるまま皮の数か所をテープで止めて貼り終えると、シャラが「それでいいわ」と応える。


「リンゴの形としてあったときは、皮はOのように繋がっていたのに、こうして平面に貼り付けると必ずCの形になるの。皮と皮の間がどれくらい離れているかを、これで測ってみて?」


 アクリルの分度器を差し出され、「120°ぐらい」と答えたあたしに、シャラが頷き、皮と皮の間に+120°と書き込んだ。


「そう。これは、どの大きさのリンゴをむいても同じなの。リンゴは正の曲率を持っているから、むいた部分の曲率は+120°ね。曲率はπ=180°を使うから、これを数式で現わすと、+180分の120π=+3分の2πになるの。曲線や曲面の曲がり具合を表す量のことを、日本語では曲率と呼ぶのはわかるわよね? カーブがきついほど曲率は大きくなるわ。
 ――正の曲率とは反対の負の曲率、双曲幾何学についての話はまたの機会にするとして、つまりね、存在するものはこうして、すべて法則性に基づいて数式で表すことができるってこと。意識的に見なければ気付かないけれど、数学って、人間にとってすごく身近なものなのよ。それはわかる?」


「……うん……」


「阿見香が、数学なんて必要ない、お買い物するときに計算できればそれで充分っていうのは、一般論ではそうかもしれない。でもね、数学の本質を理解すると、世界がまるで違って見えてくるのよ。丸い物の代表のこのリンゴのこと、丸い地球のこと、宇宙全体の形のこと、とっても小さなものから大きな世界まで、数学で見ることができる。
 そうやって物事を習うことは、物事を自分の力で見ることなのだと、私も一族の先生に教わったわ。これは、数学に限ったことだけではないけれど」


 言って、デスクに両手で頬杖をついて、あたしへと目の高さを合わせてくる。


「阿見香は、これから、様々な物事を見る人になるのよ。見るとは、目に映る意味ではなく、考えて捉える力の意味ね。それは、あなたが今いる学校の同級生たちの中で、誰よりも大変なことかもしれないけど、素晴らしいことでもあるわ。
 そして、これだけはしっかり覚えておいて。どんな困難に突き当たっても、一人で頑張らなくてもいいこと……誰でも、そうなのよ。例えばミカエルの片腕にダンジズがいるように、私もあなたの片腕としている。カレンもそうだし、アティアナもブレイズも、陰日向なく阿見香を支えてくれるわ。だから、頼れる人間を頼ること、甘えていいことも学んで、あまりガチガチにならないで?」


「……ガチガチ?」


「少し前から、お勉強にも前向きに取り組んでくれているでしょう? でも、頑張らなきゃ、頑張らなきゃ!って、思わなくていいの。数学も、“やらなきゃいけない”じゃなくてね、世界を観察する面白さに目を向けることができずにいると、学ぶ苦しさでだんたんと自分の心を潰してしまうかもしれないわ。張り切りすぎ、頑張りすぎは厳禁よ、阿見香。ね?」



 ウィンクをされて、あたしの不安をシャラはお見通しでいたのだとわかった。

 頑張らなきゃって思ったところで、自分一人では何もできない。教えてもらわなければ、進むこともできない。リンゴの曲率とやらに限らず、知らないことだらけなんだもの。

 あたしの目線で丁寧に教え諭して、言葉でも励ましてくれるシャラの心配りに接して、焦ったところで空回りするだけだと気づかされる。空回りはあたしの悪い癖だ。


 どちみち一族の人はみんな、成績を含めておバカちゃんな花嫁だと知っているに違いないし、こうなったら得意の開き直りで嫁修行していくしかない。


 なんて思うそばから、晩餐会での死にかけた――あたし的には大袈裟じゃなくそうだったあの緊張がよみがえり、紙に貼った赤い皮を指でのろのろと辿ってみる。

 ミカエルにはこのリンゴの話だって「幼稚園レベルだろ」って言われそうだけど……憎まれ口さえ、今は恋しい。

 昨日から会っていないと、パワーも出てこない。




 数学の講義を終えてピアノのレッスンに向かう途中、防音になっている練習室まであたしを送ってくれながらシャラが言った。


「ミカエルのところへ嫁いでも、あなたらしくいることを、忘れないで。ありのままのあなたのことを、みんな愛してるのよ。私やダンジズはもちろん、ミカエルも」


「ミカエルは……ありのままのあたしのことをバカにしてるよ。二言目にはバカバカバカバカ容赦ないもん」


「……阿見香。ミカエルの気持ち、もうわかってるわよね?」



 立ち止ったシャラを振り返り、口を曲げて言い返す。

「ミカエルの気持ち? なんの? 嫁の顔は一年に一度見れば後は用なしみたいな人でなしっぷりなら、昨日今日で理解できたよ。仕事優先な人だから仕方ないけどさ」

 初夜明けに眼中になく、そのまま出張でおいてけぼりをくらい、いきがけの駄賃みたいなキスはもらったけどメールすら深夜まで寄こさず、やっとくれたと思ったら愛想のない文面に留守電。その上、メールに返信をしても応答はないし。


 ……なんか、またムカムカしてきた。

 乙女心をことごとく踏みにじり、犯罪的前科もてんこ盛りのろくでなし男なのに、なんであたし、ウキウキ帰りを待ってんのよ。プライドはないのか、自分!

 昨日から数え切れないほどついている、腹立たしい溜息にうんざりして、時計を眺めてみる。――あ。また時計見ちゃってるし……



「あたし、やっぱり、病気かな?」

 音楽室のドアを開ける力も萎えかけて、独り言のように漏らしたそれに、しみじみとあたしを見ていたシャラも小さく頷いた。


「うん。そう思う。ついでに言うと、一生そのままだとも思う」


「ちょっと。そのままとか、不吉なことを言わないでよ! 一生ムカムカイライラしたくないし! ミカエルだって、つうか、ミカエルのほうが悪いんだからっ」

「ミカエルが悪いのは同意だけど、あなたの鈍感さも人間国宝並よ」


 どことなく会話が噛み合っていないようなと思いつつ、どうしてわからないのかしら、と首を傾げるシャラに、あたしも首を傾げる。

 鈍感な女性じゃなければ、ああいう夜の翌朝に、相手にしていた女をきれいさっぱり忘れられる男の心理も、すっきりと理解できるのだろうか。



 オトナの女への道が険しすぎると唸りながら、そんなこんなで日が暮れて、十時を過ぎても帰って来ないので、先にお風呂に入ることにした。

 とっくのむかしに成田空港に着いてるはずなのに、なぜまだ戻らないんだろう? 
 
 しかも面白くないことに、成田に着いた連絡もダンジズからシャラに入ったもので、あたしのところへは一向に連絡が来やしない。

 メールも電話も一言で充分、二十秒あれば間に合うのに、たったそれだけのことをなぜ惜しむのか。忙しいのはわかってるけど、二十四時間のうちの二十秒を惜しむほど余裕がないってわけ? 


 まさかと思うけど――電話代、通信費をケチってるとか言わないよね? ムダ遣いは嫌いだとほざいて、前に学校の掲示板ガラスの弁償代、あたしから徴収したあいつなら案外ありうるかもしれない。



 カレンの手伝いを断って自分で髪を乾かし、寝る格好で出迎えるわけにはいかないのでデニムとカットソーを身につける。

 それから、シャラが「少しずつこういうお洒落も覚えたほうがいいわ」と、先刻プレゼントしてくれた香水をそっとつけてみた。


 教えられたように、手首に少量を取って、擦り合わせて体温に馴染ませてから、耳たぶの裏と首の付け根にも香りを移してみる。


 ファーストパルファムにと選んでくれた鈴蘭の香りは、春の風のように清楚で、とびきり女の子らしい気分にさせてくれた。

 草原の中に咲く鈴蘭の香気を、両手を広げて深呼吸するイメージで目を閉じる。


 デニムじゃなくてひらひらのスカートをはいてみたくなるのもあたしっぽくないし、両足が浮き立つ感じになるのもなんだかおかしい。香水ってアルコールが入ってるから、初体験で酔っぱらいモードになっちゃったのかもしれない。


 教えてくれた花言葉も素敵だった。

 純潔。純愛。幸福が訪れるなどの意味があるとか。

 意識しない美しさの意味もあって、「阿見香らしいでしょ」なんてシャラは煽ててくれたけど。


 カレンが「ミカエル様が御戻りになりました!」と呼びに来てくれたときも、あたしはほんわかと香りに酔いしれたまま、「そうなの? いま行くから、カレンは先に行ってて」と伝えて、寝室のベッドでぼんやりと座っていた。


 そして、首を傾げたカレンが部屋を出て行って二、三分後に、ハッと反応して立ち上がる。――――ミカエルが帰ってきたんだ!


 廊下へとダッシュして吹き抜けから階下を覗き込むと、帰宅した一行と出迎えた使用人たちでエントランスが賑わっていた。


 濃灰色のスーツに長い金髪を散らして、上品な白いブラウスを合わせたミカエルの姿に、釘付けになる。


 昨日の夕方に出て行って一日離れていただけなのに、一年ぶりに見るような懐かしさ、焦がれる想いが溢れてきて、体が動かなくなっていた。



 …………あの場面を、思い出す。この家に来たばかりの頃、数日出張に出かけていたミカエルが戻ってきた日。こうして見おろしていたあたしを見上げた彼から、冷たく目をそらされたこと。



 今また、ミカエルがあたしを見上げている。

 目が合った瞬間、小さく微笑してくれたように見えたのに、あたしは笑い返すこともできない。


 手摺りを固く握り締め、こうしてないで駆け下りていくべきか、でも待ち構えていたと思われるのもみっともない気がするしと迷っているうちに、ミカエルがダンジズやシャラと微苦笑した後にこちらへと上がって来た。

 そのミカエルの背を、一緒に帰宅したトニたち側近やSPが、クスクスと笑いながら見送っている。


 一歩一歩、螺旋階段を上がって来るごとに、心臓の音が大きくなる。しまいには、不気味なイヤリングになってぶら下がっているみたいに、耳元でドクンドクンと鳴っている気がした。



「ただいま。出迎えに降りて来ないで、悠然と待ち構えている女王様」


 そばに立ったミカエルが、僅かに首を傾けてあたしを見下ろしてくる。

 金の髪が肩からさらりと滑り落ちるのも、エメラルドの眼差しにシャンデリアの光が射して、見る者をうっとりさせる煌めきを放つのも、出かけたときのままの彼だった。

 離れていた三十時間足らずの間、どれだけ会いたいと思ったことだろう。


 なのに、こっちの気も知らずに変わらない皮肉を向けられて、強張っていた唇が条件反射で尖っていく。


「悠然としてないし。エントランスまで行くタイミングを逃しちゃっただけだよ」


「どんなふうに出迎えてくれるかと、密かに楽しみにしたんだが。どういう関係になろうと相変わらずだな、君は」


 どういう関係って、と口を挟む前に、手にしていた紙袋を差し出された。


「婚約者殿におみやげ」


 ミカエルが、あたしに、おみやげ? 


 なんだろう、と、途端に意識がそっちに促され、「どうも」も「ありがとう」も忘れて、無言で受け取った大きな紙袋をガサゴソと開いてみる。

 中には、首元に真っ赤なリボンを結んだ茶色いかたまりが入っていた。



「――リラックマのぬいぐるみ! かわいい!!」


 アパートに住んでいたときに持っていた三、四個のぬいぐるみは、荷物にしてこなかった。ここではぬいぐるみなんて見かけたこともないので、懐かしさと可愛らしさで笑顔になる。
 アティの部屋にあった化け猫キティほどじゃないけど、丈が1メートルはありそうでかなりでかい。



「こっちの空港で見かけたんだ。ショーウィンドウの中で寝そべっていた、ふてぶてしい姿が気になってね。ベッドでダラダラ寝っ転がって、ニヤニヤ携帯をいじってる君にそっくりだろ?」


 何やら楽しそうに再び皮肉を被せられて、こっちは嬉々としていた気持ちがしゅるしゅるとしぼんでいく。



「ふてぶてしい? ニヤニヤって……ひどすぎる」


「いらない?」



「これ、ミカエルがレジに持ってったの?」


 むくれて訊ねたあたしに、今度はミカエルが憮然とした顔を見せてくる。



「ダンジズに行かせるつもりが、断られたから」


 他の人間も揃いもそろって、不自然に携帯に集中しやがってとぼやくミカエルに、我慢できない笑いが込み上げてきて、声に出して笑ってしまう。



「一人でこれを買ったミカエルを想像すると、超面白すぎるから、もらってあげる」


 両腕で抱きかかえて、素直じゃない言葉を返していたら、目を細めてあたしを見ていたミカエルが、「着替えてくる」と言い残して部屋に入っていった。あたしとミカエルだけが過ごせる、二人だけの空間に。



 今日は、ちゃんと、ミカエルがいる。一緒に過ごせるんだと思うと、それだけで嬉しくて飛び跳ねたくなって、子犬のようにミカエルの後ろをついて回りたくなっていた。





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