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Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第六章 『記憶の回廊』
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第六章37 『ハリボテの見る夢』



 ――第三層『タイゲタ』の捜索は収穫なしの結果に終わった。


「ごめんね。一生懸命、手掛かりを探したんだけど……」


 その不甲斐ない結果に、深刻な顔でエミリアがスバルに頭を下げた。その謝罪を恐縮して受けたスバルだが、正味なところ、落胆はそれほど大きくない。

 もちろん、ここで記憶を取り戻せればそれが一番だったことは間違いない。だが、元々記憶をなくした自覚に乏しかった上に、彼女たちの捜索活動中、少なくとも何の収穫もなかったなんてことは心情的に思えなかったからだ。


「――? お師様、どーしたんスか?」


「んにゃ、何でもねぇよ」


 ちらと視線を向けられ、シャウラが能天気な表情で首を傾げる。長い、漆黒の三つ編みを揺らしたその姿に、スバルはこそばゆい思いを抱きながら肩をすくめた。


 他意なく、悪意なく、深い考えもない。

 つまるところ、それは何も考えていないということであったが、そんなシャウラの態度が今のスバルには救いに思えた。

 少なくとも、何かにつけて顔色を窺われたり、過剰な心配をされたり、一挙手一投足を不安げに見守られるよりは、よほど。


「見たところ、どうやら本の並びに規則性はないらしい。題名通りに並んでいることも、時系列が整っているとも考えにくい。それどころか、昨日は見つかったはずの本も、記憶を辿ったが同じ書架に収まっていないほどだ」


「そいつはまた、厄介で不親切な図書館があったもんだな」


 書庫を見回すユリウスの発言に、スバルは鼻面に皺を寄せた。

 圧倒的な蔵書量を誇るだけに留まらず、その本の並びから位置までごちゃ混ぜになるとあっては、図書館利用者として完全にお手上げだ。

 仮に目的の本があったとしても、これでは一向に見つかるまい。


「例えばだけど、片っ端から本を抜き出して床に積んでおくとかダメなのか? 端っこの本棚……ぐるっと部屋中囲まれてるから端っことかないけど、どっかをスタート地点って決めてしらみつぶしに当たってけば、どっかで成果があるんじゃないか?」


「ボクの想像だが、それはやめておいた方が賢明だろうね。おそらく、それは塔内でやってはいけない禁則事項に触れる。――書庫への不敬、そう見なされかねないよ」


 首を傾げ、そう提案したスバルの意見をエキドナが却下する。そのエキドナの意見に、ベアトリスが「そうかしら」と短い腕を組んで、


「床に本を放置するなんて、司書の経験者であるベティーも見過ごしてあげないのよ。そんな、本に対する敬意のない真似をしてはダメかしら」


「ベアトリス様は、わりと床に本を積んでいたことが多かった気がしますが」


「あれは、床に置いておくのが正しい保存法の本だったのよ」


 ベアトリスの苦しい言い訳に、薄紅の瞳を細めてラムは何も言わない。ただ、深々とため息をついた姿に、ベアトリスがショックを受けた顔をしていた。

 と、そんな司書トークの傍ら、スバルは「禁則?」と首を傾げる。


「ごめん、また聞いてない話っぽい。その禁則ってのは?」


「あ、ごめんね。ちゃんと説明してなかったみたい」


 そのスバルに、エミリアが指を立てる。


「実は、この塔の中で何個かしちゃいけない決まり事があるの。ええと、『試験』を終わらせないで塔を出ちゃダメとか、書庫で悪いことしちゃダメとか、塔を壊しちゃいけませんとか、そういう決まり事」


「なるほど。で、床に本を置くのは書庫で悪いことしちゃダメってことか。……ちなみにだけど、そのルール違反の判定って誰がするんだ?」


「はいはいはーい! 星番のあーしがするッス! っていうか、ルール違反があったら、なんか勝手にあーしがビビッときて、そんで血も涙もないキリングマッスィーンになるッス! なんで、なるたけやめてほしいと思うッス!」


「血も涙もないキリングマシーン……お前が?」


 元気よく手を上げたシャウラを見て、スバルは胡散臭いと鼻で笑った。

 シャウラの軽口をどこまで信じるかは別として、この溌剌としてやかましい少女が、血も涙もない殺人機械に変化するとは到底考えにくい。そもそも、女の細腕でどこまでのことができるのか――というのは、魔法ありありのファンタジー世界では通用しないか。


 それに事実、シャウラの立場はスバルやエミリアたちの味方というわけではなく、このプレアデス監視塔とやらの星番――監督役であると聞いていた。

 メィリィとはまた違った形のイレギュラーポジションであり、塔内の『試験』を速やかに進行するためのまとめ役なんだとか。――全く、そんな印象はないが。


「本気でそんなに重要なポジションなら、俺とお前のよしみで色々見逃してくれよ」


「あ、悪い人ッス! お師様マジダーティーッス! でも、そんなちょい悪なところもたまんないッス! そんなお師様のお願いなら聞いてあげたいこと山の如しなんスけど、これってあーしの意思とかわりと無関係なんで、諦めてスポーツマンシップに則って正々堂々の和気藹々と頑張ってほしいッス」


「使えねぇ」


「あひん」


 監督役を不正に抱き込む作戦は、思いの外、監督役の権限が浅すぎて失敗に終わる。

 ついでに、会話中にぐいぐいと顔を寄せてきたシャウラの額にデコピンを入れて、その愛嬌のある顔を後ろへのけ反らせた。そのままスバルは力なく嘆息する。

 すると、


「……なんだか、スバルとシャウラ、すっかり仲良しさんね」


 そのスバルたちのやり取りに、エミリアが囁くようにそう言った。

 微笑ましい、とでも言いたげな発言内容に、スバルは気恥ずかしさもあって、「いやいや、そんなことないよ」と振り返る。


「――――」


 しかし、その軽口を叩こうとした勢いは、瞳を伏せたエミリアの表情に止められた。

 エミリアは微笑んだりしていない。ただ、長い睫毛に縁取られた目を伏せ、紫紺の瞳を寂しげに揺らしていた。

 その様子にスバルが息を呑むと、それに気付いたエミリアが慌てて手を振る。


「あ、違うの。仲良しなのはすごーくいいことよ。沈んだ顔なんて、スバルには似合わないし……うん、全然いいの」


 無理な笑顔を作り、エミリアはどこか自分に言い聞かせるように言った。


「あー、エミリアちゃん。あのさ、俺は……」


 頭に手をやりながら、スバルはそんなエミリアにかける言葉が見つからない。


 今は、何を言っても不正解になる気がするのだ。

 そもそも、この場における正解は彼方に消えた記憶の中にしかない。提示される選択肢の全てが誤答である、そんな悪夢的な状況が今なのだ。

 そんな状況で、目の前の悲嘆を堪える少女になんて言葉が――、


「ねえ、それでこのあとはどうするのお?」


 と、そうして沈黙が生まれかけた状況に、甘ったるい声が一石を投じた。

 見れば、そうしたのはタイゲタの床に座り込み、頬杖をついたメィリィだ。彼女は低い姿勢から、大人たちの顔をぐるりと見回して、


「お兄さんの記憶の手掛かりは見つからなかった。それは残念だし、別にいいんだけどお、それなら次はどうするのかしらあ。まだ、記憶の手掛かりを一生懸命探すのお? それとも……」


 そこで言葉を切り、メィリィは頬に当てたままの右手の指を立て、天井を指差した。

 そして、どことなく挑発的な微笑を作る。


「また、上を目指してみるう? お兄さんの記憶のことは、いったん後回しにして」


「……そう、だね。それも、一考の余地がある」


 メィリィの言葉を受け、そう応じたのは思案げな顔つきのエキドナだった。その肯定的なエキドナの反応に、エミリアが目を丸くする。


「待って。急ぐ気持ちは私も同じよ。でも、スバルをこのままになんてしておけないわ」


「君の考えはわかるよ。ボクやユリウス、それに他のみんなも、ナツキくんの記憶が戻ることが望ましいのは間違いない。……ただ、現状はこうも考えられないかな? ナツキくんの記憶がなくなったのは、この塔の『試験』の一環かもしれないと」


「スバルの記憶が、『試験』の一環?」


 思いがけないエキドナの言葉に、エミリアだけでなく、他の全員が首をひねる。そんな中で、エキドナだけが「いいかい?」と片目を閉じた。


「この塔に常識が通じないことはすでに疑問の余地がないと思うが、ナツキくんの身に起きたことが塔と無関係とは考えにくい。それがあるから、こうしてボクたちはタイゲタまで足を運んだわけだしね。――記憶は、大きく言えば塔に奪われたと考えられる」


「記憶が塔に奪われた、って響きは中二的でカッコいいと思うぜ。これが自分のことでなければ、俺もワクワクして話に乗っかっただろうが……そもそも、タイゲタの『試験』は終わってたって話だ。ここで記憶を抜かれるのって変じゃないか?」


「うん。だから、ボクは記憶が奪われた理由は直接的に『試験』が理由ではなく、禁則に触れたことが原因じゃないかと考えている。タイゲタの『試験』は終わっても、塔全体の機能は全うされてない。本を持ち出したり、書庫への不敬ができないみたいにね」


 エキドナの推論が披露され、スバルは大いに頭と首をひねって考え込んだ。

 つまるところ、エキドナの推論はこう言いたいのだ。


「昨日の俺が、ここで禁則事項を破って頭ボカーンってなったんじゃないかってことか。正直、抜け道探そうとするのは楽したがりな俺らしすぎて反論できねぇけども」


「でも、それだと、シャウラが怒るはずなんじゃないの?」


 スバルの結論にエキドナが首肯したが、そこにエミリアが割り込んだ。挙手したエミリアはシャウラを手で指し示して、先ほどのやり取りを思い出させる。


「規則に違反したら、シャウラが怒るはずでしょう? 記憶とは全然違う話のはずよ」


「そうですね。バルスが愚かしくも規則を破った可能性はわかりますが、シャウラは今もラムたちに牙を剥いてはいない。これはどう考えるの?」


 エミリアの言葉を引き継いで、ラムが「それとも」と薄紅の瞳でシャウラを見つめる。

 その視線に、シャウラは「うひ」と居心地悪そうにスバルの後ろに回り込んだ。


「まさか、本気でバルスのために役割を放棄したとでも?」


「さすがにそれは楽観が過ぎるだろう。ただ、シャウラ女史は先ほど自分でも言っていたように、この塔で行われる罰則の実行役である自覚が希薄だ」


 肩をすくめ、ユリウスがエキドナの隣に立って、彼女の意見を支持する。


「我々に提示された禁則は四つ、その禁則を破った場合、与えられる罰は一律ではない可能性もある。シャウラ女史が敵に回り、我々に攻撃を仕掛けてくる場合もあるのかもしれないが、例えば書庫への不敬の罰は記憶の喪失……」


 そこで、ユリウスは言葉を切った。彼の黄色い瞳が、ふとスバルへ向けられる。


「――――」


 その瞳の奥を過った感情、それは複雑怪奇でスバルには内実が読み取れない。

 しかし、ユリウスはすぐに「もっとも」と言葉を継ぐと、


「この推測が正しいかどうか、試して実証する猶予は我々にはない」


「本当に記憶がなくなるだけなら、目覚めて四、五時間のバルスの記憶を生贄に捧げて確かめるって手段もあるわよ。被害は最小限で済むわ」


「人の記憶をモルモットにするのはやめろぉ! 記憶がその人を形作るんだぞ! ほんの四、五時間でも俺は俺だ! ボク、悪いナツキ・スバルじゃないよ!」


「冗談よ」


 ぷるぷる、と首と手足を激しく振ったスバルに、ラムがそっけなく言い捨てる。

 本当に冗談や嘘だったのか、正直ちょっと疑わしい。そう思うのは、彼女がおそらく高潔で、人に弱味を見せたがらない性質だと、接した時間は短いながらもわかるからか。

 つまるところ、意図せず弱々しいところをスバルに見せてしまった恥を、消したいと本気で思っていても不思議ではないのではと邪推。


 ともあれ、エキドナやユリウスの推論が事実かどうかは別として、一つの可能性としては十分に考慮に値する。

 それと同時に、この記憶の喪失に関してスバルも思ったことがあった。

 それは――、


「ぶっちゃけ、二人の意見が本当かどうかとは置いといても、ここで手当たり次第に足掻きまくるってのは俺も反対かな。なんか、往生際悪くジタバタしてても、落っことした記憶が見つかる気があんまりしないんだよ」


「それは、何か根拠がある発言なのかしら?」


「感覚的な話だよ。それに、これが本当に『試験』の一環なんだってんなら、ひょっとすると塔の『試験』をまるっとクリアすると、俺の記憶もひょっこり戻るかもだろ?」


「――――」


 立てた指を左右に振ったスバルの発言に、エミリアたちが顔を見合わせる。

 だが、それは不信感からくる否定的な反応ではなく、それとは真逆の、驚きから希望の種子を拾い上げるような反応だった。

 ぐっと、胸の前に拳を固めて、エミリアが何度も頷く。


「そう、よね。スバルの記憶がこの塔に吸われちゃったんなら、きっと、塔の『試験』が終わったら返してもらえるかもしれないわよね」


「吸われちゃったって表現はちょっと可愛すぎる感あるけど、その意気その意気」


「ん、この意気ね!」


 可愛くガッツポーズを作るエミリアに、スバルは安堵しながら微笑む。

 すると、その様子を見ていたベアトリスがやれやれと首を振って、


「まったく……どっちが励まされてるのかわかったもんじゃないのよ」


 と、そんな風にこぼした。

 確かに、これでは立場はあべこべ――しかし、スバルはこれでいいと思っていた。


 手繰るべき希望の糸を見つけ出して、エミリアの瞳に力が戻っている。そのことにスバルは大きな安堵感を覚える。

 暗い顔は似合わない少女だ。それに、スバルを心から気遣ってくれてもいる。そんな彼女に暗い顔をさせる原因が自分にあるなどと、何とも心苦しいではないか。


「と、高嶺の花を相手にそんなムーブを見せる俺であった……」


「何を言ってるのかわからないけど、ひとまずスバルの記憶は棚上げにしておくかしら。それで、塔の『試験』を終わらせるなら、メィリィの言うように上にいくしかないのよ」


「上か。えーと、ここが三層って話だから、次にいくのは二層だよな」


 言いながら、スバルはきょろきょろと書庫の中を見回す。歩き回ったわけではないが、すでに十分すぎるほどに観察した部屋だ。

 書架以外に何もない部屋。それはつまり、上にいく階段も見当たらないわけで。


「二層にいく階段って、どこにあるんだ?」


「それは四層にあるの。四層から、二層までいっぺんに繋がってる階段があって……あるんだけど」


 そこで、エミリアが難しい顔になり、そっと視線をユリウスへと向ける。その視線を受けたユリウスは、「ご心配を」と眉を顰めて、


「昨日のような独断専行はしません。それは朝食の席でも誓わせていただいた通りです。ただ、それがなかったとしても……」


「初代『剣聖』レイドは強敵って話ね。さて、どうしたものかしら」


 ユリウスとラムが、それぞれ表情で苦いものを交換し合う。そしてそれは二人だけでなく、この場にいるほぼ全員が共通して抱いた感覚だ。

 例外なのは、苦いどころか劇物を口にしたように顔をしかめるシャウラと、


「あー、ごめん。それで、そのレイドってのはなんなの?」


 相変わらず、状況に置いてけぼりのナツキ・スバルであった。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 ――初代『剣聖』レイド・アストレア。


 それが、このプレアデス監視塔の二層を持ち場とする試験官、その名前だそうだ。

 そもそも、『剣聖』の肩書きが初耳なわけだが、おまけにそこに初代までつくとなると、スバルのサブカル知識において強キャラの予感しかしない。

 その予想と期待を裏切らず、事実として『剣聖』とやらは圧倒的な実力者なのだとか。


 現に昨日、レイドに挑んだ一行はまさに大人と子どものような力の差を味わったらしい。

 そんな中でも、実力と偶然で勝ちを拾ったらしいエミリアは大したものだが――、


「問題は、記憶をなくした俺が満を持して何の役にも立たねぇ」


 朝食の席ではみんなの不安を紛らわすため、この塔をクリアするための斬新な発想がバンバカ飛び出すなどと吹聴したものだが、聞いた限り、二層の『試験』は純粋な腕比べだそうだ。つまり、悪知恵や現代知識無双が介在する余地がない。


「小麦粉をばら撒いて、粉塵爆発でやっつけるとかうまくいかねぇかな……」


 お手軽最強必殺技である『粉塵爆発』だが、あれも実際に発動しようとすると、かなり粉塵の量に微調整が必要だとか聞いたことがある。そもそも、食料が貴重だと言明された状況下で、小麦粉をふんだんにばら撒くだけの度胸がスバルにはない。

 大体、小麦粉があるかどうかも未知数であった。


「そうなると、異世界召喚された俺のチート能力に期待したいとこなんだが」


 石造りの壁に手を当てて、スバルは「はぁ!」と念を発動してみる。が、特に掌から衝撃波が放たれることも、石壁が粉々に砕け散るようなこともなかった。ただ、掌にざらついた感触と、どことなく空しい気持ちが胸に込み上げただけである。


 残念ながら、スバルに与えられたチート能力はわかりやすい肉体強化ではないらしい。

 壁に手を当てたまま、軽く身をよじって蹴りを放つ。思いの外、軽く上がった足が高い位置に靴跡をつける。爪先が痛い。これも外れだ。


「そうなると、魔法ってわけか。ベアトリス、俺が使える魔法を教えてくれ」


「魔法なら、スバルは永久に使えなくなったのよ」


「永久に!? なんで!? 禁呪にでも手を出したのか!?」


「使っちゃダメって言われてた初級魔法を使いすぎて、ゲートを壊したかしら。だから、スバルは二度と魔法が使えないのよ」


「初級魔法で壊したんだ!? だせぇ!」


 魔法使い生命と引き換えに大魔法を使ったとかではなく、初級魔法で元栓を壊したと聞かされて、想像を絶するダメさ加減にスバルは天に嘆きたくなる。

 記憶の有無とは無関係に、ナツキ・スバルの異世界生活は底辺スタートだった。


「人に恵まれた、ってのがせめてもの救いか」


 軽く掌を開閉して、スバルは深いため息と共にそんな感慨を抱く。

 一方的であっても、スバルを知ってくれている人間がいることは救いだった。これがなければ、スバルは全く未知の世界に、何の特殊能力も持たない状態で投げ出されるところだった。正直、何の寄る辺もない状態で生き残れるほど器用な人間ではない。

 だから、今の状況は救いだったのだ。――誰かの顔を、沈ませていたとしても。


「――――」


 息を詰め、スバルはその場に屈伸する。

 体の調子、魔法の調子、特殊能力の有無は確認した。


 二層へ上がる前の、降って湧いたような空き時間だ。

 エミリアたちが二層の壁に挑む準備をする間、スバルは自分の体に何らかの特殊な能力が備わっていないか、その確認に余念がなかった。


 壁を叩き、壁に念じ、魔法の才能が枯渇した事実に憤然としたり、ちょっと塔内を駆け回ったりして、様々な方面から考えた結果、スバルの中で一つの結論が出る。

 それは――、


「これ、もしかすると何ももらってないな……」


 通路を全力疾走して、微かに息を弾ませながらスバルはその事実を受け止める。

 ほんの少し、記憶の自分より体力がついている気がする。壁を蹴りつけたときも、股関節の柔軟性は見違えるようだった。しかし、それは体中の傷や、グロテスクな腕の状態と同じで、この記憶にない一年間でスバルが培った成果なのだろう。


 親の期待にも応えられない凡人が、相応の努力の末に勝ち取った程度の実力。

 そこに、いわゆる『神』に賜わった特別な力の恩恵は感じられなかった。


「一応、変身ポーズまで試してみたんだけどなぁ」


 ウルトラの戦士的だったり、仮面のライダー的だったり、はたまたプリティでキュアキュアしてみたり、セーラー服美少女ウォーリア風なものも試したが、効果はなかった。

 やはり、スバルは身一つで投げ出されたタイプの異世界渡航者ということだ。


「あとは、ピンチで覚醒する可能性に賭けるしかねぇな。……クソ」


 がりがりと頭を掻いて、スバルは胸中に湧き上がる不安の種を噛み殺した。

 エミリアたちの前では多少なり、気を張ることで誤魔化せていたかもしれないが、こうして改めて状況を俯瞰してみれば、スバルの立場には不安しかない。


 記憶がなくなったこと。それはもはや疑いの余地はないだろう。

 信じるべき証拠が多すぎるし、正直、今は『信じたい』気持ちの方が強かった。それを信じられなくて、どうしてこの場に今も留まっていられるものか。

 ここにいたい。ここしか、今はない。だから、そのための力が欲しかった。


「結局、覚えてない絆に縋り付くしかないってわけだ。泣けてくるぜ」


 もらうばかり、消費してばかりのナツキ・スバルは異世界でも変わらない。

 エミリアたちが真剣に、スバルの身を案じてくれていることが伝わってくるほど、スバルは借り物の立場にあやかる自分が呪わしかった。


「二層にいって、何ができるってわけじゃないだろうけど……」


 置き去りにされることを、留守居に残ることを心が拒んだのはそれが理由だろう。


 二層の番人、レイド・アストレアの説明をしてくれたあと、エミリアたちの間で『試験』にスバルを同行させるか意見が割れたのだ。

 連れていくことに不安がある、と一番強く主張したのはエミリアであり、他の面々もエミリアほどではないが、スバルの同行には反対の様子だった。同行したところで、スバルが二層の攻略に役立つ可能性が低く考えられたことと、話に伝え聞くレイド・アストレアの気性が、今のスバルには毒だと考えられたらしい。

 故に、そのままであればスバルは置き去りにされていたかもしれないが――、


「――それでも、一緒にいくって言い張ったのは俺だからな」


 エミリアたちがスバルを残していこうとしたのは、スバルの身を案じたからだ。

 そうして優しく扱われることが、今のスバルには嬉しくも猛毒だった。記憶を失う前のナツキ・スバルなら、きっと彼女らに同行しただろうし、彼女らも同行させるか否か、話し合うことなんてなかったに違いない。


 記憶のあるなしが、スバルの能力に影響を与えたとは考えにくい。つまり、知識の有無を除けば、今のスバルでも記憶をなくす前と同じ働きができるはずなのだ。

 そのためにあれこれと模索してみてはいるのだが、成果は上がっていなかった。


「無理言ってベアトリスに一人にしてもらったのに、これじゃ先が思いやられる」


 スバルを一人にすることに、最後まで渋い顔をしていた幼女の顔が思い出される。

 肉体・魔法・スキルの方面でチート能力の有無を確かめようとしたあと、スバルは変身ポーズを試すくだりで、ベアトリスにご退場を願った。

 さすがに、人前でいくつものポーズを試すのは小っ恥ずかしい。もちろん、ベアトリスはかなり強硬に食い下がり、スバルと一進一退の攻防が繰り広げられたのだが。


「スバルを一人にすると、記憶を落っことしてきたり碌なことがないのよ! ベティーは梃子でも動かないかしら!」


「その気持ちは嬉しいし、ありがたいんだけど、これから人に見せられないことするから!」


「スバルとベティーの間に、そんな水臭い気遣いはいらないのよ!」


「いや、裸になったりするから。ムーンライトメイクアップするから」


 と、力押しで訴えかけ、とにかく熱意でへし折った形だ。

 最終的にベアトリスには、余計なことはしないで必ず合流することと、強い強い厳命を受けることでどうにか話はまとまった。


「契約者って言われてもピンとこないけど、あの分だとベアトリスとはうまくやってたみたいだな。俺らしくもねぇ。……本当に俺だったのかよ」


 唇を曲げて、スバルは腰の裏――そこに備え付けられていた鞭を抜き取ると、何となしに振るって壁に先端をぶつけてみる。引き戻す。自分の足を打った。


「ぐお……! こ、こういうのは体が覚えてるもんじゃねぇのかよ……! もしくは、カッコだけで、記憶なくなる前から使いこなせてなかったのか……?」


 脛のあたりを強打されて、スバルは涙目になりながら足をさする。

 そもそも、愛用の武器に鞭を選んでいるところからどうなのか。剣や銃ではなく、鞭を選ぶところに人と違うことカッコいいと勘違いしている性質が感じられる。


「使いこなせてたんなら、なくなったのは頭の中身だけじゃない?」


 足をさすりながら、跪くスバルはそんなことを考える。そして、考えたあとでそのあまりの救えない可能性に頬を歪めた。


 仮に、今の推論が正しかったとすれば、何と無様なモノだけがここに残ったのか。

 記憶を失い、一緒にいたはずの人たちに心配をかけ、積み上げてきたものもなくして役立たずになった挙句、体に刻まれた歴史だけは残して、ガワだけ整えてある。

 ハリボテではないか。


「は」


 軽く息を吐いて、スバルは立ち上がった。

 内心、自分の脳内に浮かんだ四文字の言葉が、馬鹿笑いしたくなるぐらいくだらない。


 ハリボテなどと、今さら何を。

 ――ナツキ・スバルがハリボテでなかったことなど、いつあったのだ。


「あー、やめだやめ。アホらしい。自分で自分のモチベ下げてる場合かよ……」


 自分の額に拳骨を入れて、スバルはため息をつきながら鞭をまとめる。まとめ方もよくわからず、四苦八苦しながら何とか腰に戻した。

 その際、掌にあるマメ――竹刀の素振りでできるそれとは違った、一年間の積み立てを感じさせるそれを見る。何となしにそれを舌でなぞった。硬い。苦い。


「こんなときのために、やってきたことの日記でも残しておけよ。使えねぇ」


 理不尽な苛立ちを記憶がなくなる前の自分にぶつけ、スバルはゆっくりと歩き出す。

 チート能力は確認できなかったが、ある意味、確認できなかったことが収穫といえる。これで、存在しないものを頼りに行動することをしなくて済む。

 それも、いささかネガティブすぎるポジティブさだったが。


「ととと、こっちじゃねぇや」


 一本、道を折れ間違えて、スバルは別のフロアに出ていた。

 正面、大きく広がるのは螺旋階段――塔の下の階層へと向かうための、異常なほど巨大な螺旋階段のフロアだ。

 六層からなるとされる塔において、六層から四層まで上がってくるのには、おそらくは百数十メートルもの高さを階段で上がってくる必要がある。

 山登りのそれと比べれば楽かもしれないが、塔内にはどこか陰鬱と重たい空気が満ちていることもあり、見た目以上の労力が求められるに違いなかった。


「そう考えると、この塔も妙な造り……ファンタジー世界で今さらの話か」


 中にいるだけで治療してくれる草花があるような世界だ。それに、元の世界にも、人知を超えたとしか思えない建造物は多くあった。ピラミッドなどもその一部だろう。

 そうして考えると、この塔とピラミッドの間にそれほど差はないように思えて。


「元の世界との共通点を探す、みたいなことは前の俺もやったのかね」


 前の俺、という表現に自分でおかしくなる。

 記憶をなくす前後で、何かの歯車が狂ってしまった気分だ。本来であれば、自分の以前も以後もない。過去も現在も、自分は地続きだ。

 だから、ここでもナツキ・スバルは――、


「――お?」


 ふと、感慨を振り切るように首を振ったスバルは、息を抜くような声を漏らした。

 それは本当に、何気ない吐息だった。


 思いがけないことを受け、思わずこぼれたものだ。

 それ以上でも以下でもない。


 ただ、それぐらいささやかな衝撃に、背を押されて。


「――――」


 その、それ以上でも以下でもない吐息をこぼして――天地がひっくり返る。


「ぁ?」


 足が、地面を離れていた。――否、離れたのは足だけではない。体だ。

 体ごと地面を離され、宙に投げ出され、完全に天地を見失い、浮遊感に呑まれる。


 浮遊感に呑まれ、ナツキ・スバルの存在が、落ちてゆく――。


「ま、ぇ?」


 ごう、と猛烈な風が吹くような音が鼓膜を突き抜ける。

 わからない。何もわからない。今、ナツキ・スバルは落ちていた。落ちている。くるくると宙を錐揉み回転しながら、真っ逆さまに落ちていく。


 落ちて、落ちて、落ちて、落ちていく中で、意識が現実に追いつく。

 落ちて、いる。


「ま、て、待て待て、待て――」


 視界が回り、手足が宙を掻いて、投げ出されて何秒が経過したかわからなくなって、ようやくスバルは自分の身に起きたことを理解する。


 落ちている。転落している。墜落している。はるか高みから、はるか地上へと。

 螺旋階段を大きく外れ、大口を開ける巨大な黒い闇に呑み込まれている。四方、必死に目を凝らせば、飾り気のない石の壁が高速で下から上へと流れていく。――否、壁が流れているのではない。スバルが、落ちながら、落ちているから、視界が逆さに流れていく。流れ落ちていく。

 振り回される感覚、そのまま、込み上げる嘔吐感、酸っぱい胃液が宙に溢れた。


「――ごぇっ」


 呼吸が間に合わず、胃液に喉が塞がれる。

 鼻の奥につんとした痛みが走り、内臓が全て定位置を外れ、体の中でしっちゃかめっちゃかになって大暴れしている。吐瀉物に顔が、服が、きっとフロア中汚れてしまって。

 エミリアに呆れられる。ベアトリスに怒られる。ラムに冷たい目で見られる。ユリウスにため息をつかれる。エキドナに肩をすくめられる。メィリィに笑われる。シャウラに指を差される。


 そんな場違いな焦燥感に、スバルは自分の本質を見失い、喪失した。

 指で掻いても、見つからない。空にない。自分の内にない。どこにいった。どこにある。

 記憶の次は、自分を見失って、なくしものばっかりで。


「おかあさん」


 酸味まじりの呟きが漏れたのと同時に、ナツキ・スバルは失神した。

 意識が途切れ、記憶の接続が曖昧になり、そして――。



 そして――。


 そして――――。


 そして――――――――――――。



 








 硬いしょうげ



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



「――スバル! ねえ、スバルってば、大丈夫なの?」


 目覚めて、最初に聞こえたのは銀鈴の声音だった。

 腕に触れる細い指の感触と、間近に感じる息遣い。その感覚を頼りに、スバルの意識はゆっくりと浮上し、重たい瞼を開く。


 ――すぐ目の前に、恐ろしく整った月の妖精がいた。


「じゃなくて、エミリアちゃん……?」


「ああ、スバル、よかった。目が覚めたのね。すごーく心配したんだから」


 スバルの呼びかけに、目の前の少女――エミリアが心底安堵した様子で胸を撫で下ろす。その様子に目を丸くしながら、スバルはぐるりと周りを見た。

 緑色の蔦に覆われた部屋、その蔦で編まれたベッドの上に横たわる自分。安堵に胸を撫で下ろしたエミリアと、その隣に佇む縦ロールの美幼女。


「エミリア、そんな優しい態度だとスバルは反省しないかしら。もっときつく言ってやらないと、ベティーたちの心配が伝わらないのよ」


「そうよね。ほら、ベアトリスもこう言ってるでしょ? スバルが見当たらないって大慌てで、倒れてるところを見つけて泣きそうだったんだから……」


「言わなくていいことまで言わなくてもいいかしら!」


 ベアトリスが顔を赤くして、悪気のないエミリアの発言にぷんすかと怒る。

 そのやり取りを見ながら、スバルはただ、大いに首をひねった。



「え? なに、夢?」


「――?」


 そのスバルの発言に、エミリアとベアトリスも揃って首を傾けたのだった。


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― 新着の感想 ―
[一言] 最初の死に戻りがそれかよ…
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