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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第六章 『記憶の回廊』

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第六章34 『コンビニを出ると、そこは不思議の世界でした』



 菜月・昴は平成日本生まれのゆとり教育世代出身である。

 彼の人生は十七年、その全てを語り尽くすにはそれこそ十七年の時間を必要とする。
 それらを割愛し、彼の現在の立場を簡単に説明するのならば『高校三年生にしてひきこもり』となる。
 詳細を説明するなら、『受験を間近に控えた時期なのに、親の期待も何もかもうっちゃって自分の殻に閉じこもったどうしようもないクズ』といったところだ。

 ひきこもった理由は特にない。
 普通の平日、たまたま「今日は起きるのが面倒だ」となんとなく思い、サボりを実行に移したことが切っ掛けではあった。
 そのままずるずると自主休校が増え、気付けば立派に親を泣かせるひきこもり。
 日がな一日怠惰を貪り、コミュニケーション皆無のネットに沈み続け――、

「その結果が異世界召喚……てふべ」

「スバル?」

 うんうんと唸りながら、現状整理に勤しむスバルの頬が白い両手にガッと掴まれる。見れば、それをしたのはすぐ目の前にいる銀髪の美少女だ。

 ――正直なところ、どえらい美少女だった。

 月光のように煌めく長い銀髪、宝石を嵌め込んだ紫紺の瞳。
 長い睫毛を震わし、心配げにこちらを覗き込む美貌は常軌を逸しており、世界中の芸術家が揃って筆を折るほど突出した神なる芸術品かと錯覚するほどだ。
 そして、そんな美貌の少女はあろうことか、息がかかるほどの至近距離でスバルの顔を掴み、「んー?」と覗き込んできているわけで。超いい匂いがする。

「スバル?」

「は、はひ、ナツキ・スバルです」

 再度、銀鈴の声音に名前を呼ばれて、スバルは引きつった笑顔で答えた。
 顔だけでなく、声も震えていたかもしれない。あと、笑顔もキモかったかもしれない。どういった理由かは不明だが、この美少女はスバルにやけに親しげだ。でなければ、こんな風に超至近距離で見つめ合ったり、話しかけたりしてくれないだろう。

「ん、スバル……よね。ごめんね。なんだか、ちょっと変な風に見えたから」

「へ、変ってのは……あれかな? 目つきとか、そういう意味だったり?」

「ううん、違うの。目つきはいつも通りすごーく悪いけど、頭打ってないかなって」

「目つきはいつも通りすごーく悪い!?」

 軽いジョークで和ませようとして、思わぬ角度からのコメントに殴られる。声を裏返らせるスバル、その反応に美少女は「ごめんね」と小さく舌を出して詫びた。
 可愛い。なんだろうか、この美少女。親しいどころかものすごい好意的だ。
 やや、発言にあった『いつも通り』といった表現が気にかかったものの――、

「――エミリア、それだけでなんでもないなんて結論付けるのは早計なのよ。やっぱり、どこか違和感があるかしら」

「――? でも、スバルの目つきはいつも通りだと思うけど」

「スバルの悪い目つきの話は今してないのよ! 目つきの悪さはこの際、どうでもいいかしら!」

「目つき悪い悪い言うな! 人のウィークポイントあげつらうのは趣味がよくねぇぞ! なんなんだ、お前ら……あ、いや、君たち、ちょっと可愛いからって……」

 勢いよく立ち上がり、スバルは眼前の美少女と、彼女に声をかけた相手――豪奢なドレス姿で、その服装の華美さに負けない縦ロールが特徴的な、妖精のように可愛らしい幼女に声を荒げかける。が、その語調は尻すぼみになった。
 持ち前の図太さでドカンとぶちかまそうと思ったのだが、さすがに相手は初対面の美少女と美幼女。噛みつくにしても、ゲージ不足が深刻だ。

 ――それにこの状況、妙だった。
 これがスバルの想像通りの状況だとしたら、彼女ら二人はスバルにとってかなり重要なキーパーソン。第一村人どころか、それ以上のポジションだと考えられる。
 なので、スバルはゆるりと居住まいを正し、第一印象を優先することとした。

「おほん」

 一つ、咳払いを入れて仕切り直し、スバルは二人に向き直る。
 訝しげな顔をする二人の少女と、背後に丸くなる黒い巨大トカゲ、その両方が視界に入るように一歩下がり、

「――改めまして自己紹介をば。俺の名前はナツキ・スバル!」

 びしっと指を天井に突き付け、反対の手を腰に当てながらポージング。
 スポットライトもディスコミュージックもないのが残念だが、それにめげず、スバルは歯を光らせて、己にできる全力を尽くして言った。

「無知蒙昧にして、天魔不滅の風来坊! 不束者ですが、どうぞよしなに!」

「――――」

 名乗りの口上を高らかに述べると、それを聞く二人と一匹が呆気に取られる。
 その様子を正面に、スバルはリアクションがあるまでポーズを続行。ここは先に動いた方が負ける、と勝手に自分の中で勝負の場とした。
 やがて、十数秒の沈黙を経て、美少女と美幼女は顔を見合わせると、

「ええっと……別に知ってる、わよね?」

「今さらすぎる自己紹介だったのよ」

「あれー!?」

 そう、気合いを入れた自己紹介も肩透かしに、そんな感想をこぼしたのだった。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ――事の重大さが本格的に明らかになったのは、その少しあとのことだ。

 わりと会心の自己紹介のウケが悪く、首をひねったスバル。が、その後、二人から改めて事情を聞いたところ、驚くべきことが明らかになったのである。
 スバルと、美少女たちとの記憶のすれ違い――スバルにとって初対面であるはずの彼女たちは、スバルのことを知っているというのだ。
 当然、スバルの側にそんな記憶はない。それ故に――、

「つまり、スバルは……何にも覚えてないの? この塔のことも、プリステラであったことも……ううん、それどころか、ラムたちも、ベアトリスも。……私の、ことも?」

「えーと……はい、あの、そのようです、はい」

「――――」

 膝を畳み、恐縮して答えるスバルに美少女が瞠目する。瞳に浮かぶ激しい動揺、それを目の当たりにして、スバルも強烈な罪悪感を味わった。
 そして、スバルの返答にショックを受けたのは美少女だけではない。

「記憶が……ない? まさか、そんなことあるはず……」

 呟くのは、顔を蒼白にした美幼女だ。
 あるいは美少女以上に混乱した顔で、幼女はその衝撃を受け止められていない。
 蔦で編まれたベッドに腰掛けるスバル、その隣に座った幼女はそっとその袖を摘んでいる。細い指先が微かに震えていて、やはりスバルの心は痛んだ。

「――――」

 驚き、狼狽える二人に何とか言葉をかけてやりたいが、生憎とスバルの方もそこまでの余裕はない。正直、寝耳に水の水量が多すぎて溺死しそうだ。

 ――当初、スバルは自分の身に起きたのは『ただの異世界召喚』だと考えていた。

 異世界召喚に『ただの』と冠が付く時点ですでに常識を外れた事態だが、その想定は中らずとも遠からず――否、ほとんど正解だったと言っていい。

 ここはスバルの知る、スバルがこれまで十七年間生きてきた世界ではない。
 それは奇抜な衣装と、人外めいた美貌を持つ二人の少女の存在からも明らかだ。それでも足りなければ、馬ほども大きい黒いトカゲを弁護側は提出する。
 かなり大きいと聞くコモドドラゴンでも、この黒いトカゲの体躯には及ぶまい。そこに自立してベッドや椅子を作り出す蔦生命体が加われば、勝訴は明らかだ。

 ――故に、ここは常識の異なる世界、すなわち異世界。
 いわゆるファンタジー系に属する、スバルの知らない世界であることは相違ない。

 あとの問題は、スバルがこの世界に呼ばれた理由と、召喚した術者のことだ。
 てっきりスバルはそれが目の前の二人、この手の物語のお約束である、ヒロイン的な立場につく美少女だと思ったのだが――ここで、話の風向きが怪しくなった。
 前述の、スバルと面識があるという二人と、その記憶がないスバルの、お互いの認識のすれ違いである。

「二人とはすでに出会ってたってのに、俺だけがそれを忘れてる……ってか」

 直前のやり取りで追加された情報に、スバルは難しい顔をする。
 少なくとも、異世界召喚が現実のものとなった時点でスバルのキャパシティはいっぱいいっぱいなのだ。そこに、実は異世界召喚後に活動していた事実があると知らされ、いよいよもってスバルの受け皿は窮屈極まりない状態に陥った。

 正直、スバルにしてみれば「そんなはずがあるか」と一笑に付していい言い分だ。

 しかし、美少女と美幼女の態度は真剣そのもので、嘘をついているようにはとても見えなかった。もちろん、スバル自身に二人の語る記憶は片鱗も見当たらないので、頑固にそれを拒むこともできたが、それは二人の様子を前に気が咎める。
 それに、自分と美少女の意見の二者択一なら、美少女の方が本当のことを言っているのではないか、と考える程度にはスバルは自分を信じていない。
 無論、そればかりが根拠ではない。――より強い根拠は、体の異変にあった。

「……確かにこれ、コンビニ出た直後の体じゃねぇんだよなぁ」

 そうぼやきながら、スバルは自分の右腕を持ち上げ、拳を開閉する。
 心なしか、ややたくましさを増した腕がそこにあった。掌にも、覚えのないマメがいくつも増えている。竹刀の素振りでできたマメではないし、そもそも竹刀の素振りだって一年以上ご無沙汰だったはずだ。
 それに、腕の変化はそれだけにはとどまらない。

「グロいな……」

 持ち上げた腕をひっくり返し、手の甲側に目を向け、顔をしかめる。
 少したくましくなった腕だが、それ以上に見た目がかなりグロテスクになっていた。右腕の肘から先、手首にかけた黒い斑の紋様――血管のようなものが浮き出て、趣味の悪いタトゥーのように腕を覆っているのだ。
 これがもっと、生物的なイメージが薄ければタトゥーで誤魔化せたかもしれないが、どう足掻いても腕の一部であり、グロテスクさは否めない。

「――――」

 その、黒い斑の紋様に強めに爪を立ててみる。
 指でなぞっても、質感は普通の肌と変わらない。痛みがあったり、妙な痺れがあったりなども皆無。爪を立てれば、相応に鋭い痛みが返ってくるばかりだ。
 このまま思い切り、爪で黒い肌を破れば血は流れるのか。
 ――それで流れる血は、はたして本当に赤いだろうか。

「スバル……」

「あ! いやいや、何でもねぇよ? ただちょっと、こんがりウェルダンに肌焼きすぎてんなーってのが気になって。そんだけそんだけ」

 ちょっとばかりショッキングな変化だが、美少女の憂える声に軽口で誤魔化した。
 幸いと言うべきか、スバルはそれほど自分の体の傷に頓着する方ではない。親からもらった体に傷を付けることの罪悪感はないではないが、親への罪悪感など稼ぐまでもなく積もりに積もっていて、今さらだ。
 とはいえ、これはさすがに範囲が広い。長袖と、可能なら手袋もあった方が、他者の気分を害さないだろうなとぼんやり思った。

「常に長袖、そして合法的に指空きグローブが装備できる。いざ、危険な状況になると手袋を外し、露わになる黒い腕……まさか、あの男は『黒腕』……! みたいな展開とか考えると熱くない?」

「――――」

 などとおどけた風に右腕を振りつつ、スバルは渇いた唇を舌で舐める。
 この腕の変化、異様さを含め、美少女たちの説明の信憑性は非常に高い。

 そもそもスバルにとって、一番最新の記憶は『コンビニの買い物直後』だ。
 ジャージ姿で買い物を終えたはずが、今のスバルの格好は着慣れたジャージとは程遠い、汚れの気になる旅装のような代物だ。足下もスニーカーではなくなり、過度に日焼けした腕にはコンビニ袋も持っていない。
 まさしく、世界だけでなく、時間を跳躍している。

 コンビニを出て、瞬きをしたら目覚めの瞬間――それがスバルの認識だ。
 だとすれば、意識をなくしたのはどの瞬間なのか。気付けば眠りの中にあって、ここで呼ばれて目を覚ました。ならば、それまでの空白は?

 ――コンビニで異世界召喚されて、その後の時間を過ごし、記憶をなくした。

 異世界召喚、言ってしまえば何度も夢想したまさしく夢の展開――それを、こんなにも純粋に喜べずに受け取ることになるとは、とんだギフトだ。
 スバルにはスバルの知らない異世界で過ごした時間があり、そんな時間の中で、スバルの知らない彼女たちと交流を深めた知らない事実がある。
 それを信じて、彼女たちの好意を信じて、寄る辺としていいのか。

「――――」

「あ、あー、えーと、その、あれだ! へっこむ気持ちもわかるんだけど、ここは一つ、気を取り直していこうぜ!」

 あれこれと難しく考えていたスバルは、ふと空元気にそんな声を出していた。
 隣と正面、二人の少女の沈んだ顔に心が激しく沸騰する。

 彼女たちがこの状況に心を痛め、困っていることは確かだ。
 その原因がスバルにあるといえば、それはそれで少し釈然としないものはあるが、これを何とかできるのはスバルだけだろう。
 だからスバルは驚く二人に両手を向け、殊更におどけてみせながら、

「俺の知る限り、こういう一時的な健忘症ってのはポンと何かの拍子に戻ったりするもんだし、大げさに心配しなくて平気だって。映画とかならあれだ、二時間以内にケリがついて、全部丸っと元通りって塩梅だよ。悲劇は大団円のためのスパイスってな!」

「ごめん、ちょっと何言ってるのかわかんない」

「あれれ、そう……?」

「でも……」

 早口に並べたスバルに、美少女からは虚勢の甲斐がないお返事。その言葉にスバルは脱力感を覚えたが、すぐ美少女は首を横に振った。
 そして、軽く眦を指でこすると、ふっと微笑み、

「スバルは、やっぱりスバルだから……ん、それは安心した」

「え。そ、そう? そう言ってくれると、俺も少しは気が楽に……」

「えいっ!」

「って、いきなり何を!?」

 気合いの入った声と同時、美少女がわりと看過できない勢いで自分の頬を叩いた。両手で挟むような一撃に乾いた音が響き、美少女の頬が真っ赤になる。
 それを見て大慌てするスバルだが、美少女は軽く頭を振ると、

「よしっ、元気を入れたわ。あんなんじゃダメよね。スバルの方がずっと困ってるはずなのに、いつまでも私たちまで困った顔してちゃ」

「顔に似合わず、めちゃくちゃ勇ましいなこの子……」

「ほら、ベアトリスも!」

 顔を赤くしたまま、なかなか威勢のいい発言をする美少女にスバルは驚く。美少女はそのままの勢いで、今度はスバルの隣で固まる美幼女へ声をかけた。
 その美少女の剣幕にドレスの少女は少し気後れしていたが、

「驚いちゃったのも、悲しい気持ちもわかるけど……今、一番辛いのが誰なのか考えなくちゃ。私たちが、何とかしてあげなきゃダメでしょ?」

「べ、ベティーは……」

「――――」

 口ごもり、何を言えばいいのかと逡巡する美幼女。
 その幼い戸惑いに、しかし美少女は何も言わず、じっと見つめて返事を待った。
 言葉を重ね、無理やりに心を動かすこともできる。でも、それはしなかった。それはたぶん、この美少女が、この美幼女のことを信じているからだ。

 二人との思い出がない、スバルにはわからない信頼が二人の間にあるからだ。

「スバルは……今、困ってるはず、かしら」

「……まぁ、そう言えなくもない、かな?」

 ちっぽけな意地と軽口がスバルにそう言わせた。しかし、美幼女はその言葉に納得していない。だからスバルは頭を掻いて、

「あー、正直、そうだな。うん、助けてほしいと思ってる」

「――――」

 素直に追い詰められた心境を伝えると、美幼女の瞳が驚きに見開かれる。薄く、青い瞳に浮かぶ奇妙な瞳孔――それが、スバルには何故か蝶の羽ばたきに見えて。

「……ああ、もう、まったく! スバルは本当に仕方のない契約者なのよ!」

 直後、蝶の羽ばたきが竜巻を起こしたように、美幼女の態度が大きく変化する。短い腕を組み、呆れたと言わんばかりに幼女がそう声を張り上げた。
 その勢いに美少女が微笑み、スバルは肩を跳ねさせる。と、そんなスバルの鼻面にびしっと、幼女が指を突き付けた。

「いつもいつも、面倒事ばっかり持ち込まれてベティーはいい迷惑かしら! こんなことはこれっきりにしてくれないと、いい加減、ベティーも愛想尽くすのよ!」

「お、おお……えと、それは、つまり?」

「素直に助けてって言えたのに免じて、今回だけ目をつぶってあげるかしら。――どうせ、スバルはベティーがいなきゃ、寂しくて生きていけない弱虫なのよ」

「そこまで言う!?」

 すごい勢いで調子が上向いた幼女の態度にスバルは度肝を抜かれる。この子がいなければ寂しくて生きていけないとは、なんと大げさな物言いなのか。

「ふん、忘れたなんて言われても、すぐ思い出させてやるかしら。――ベティーの契約者は何があっても、思い出の中でセピア色になんてならない、鬱陶しくてやかましい男なんだってことを」

「色々わかんねぇけど、それが俺のことならものすげぇ言われようだな!?」

 契約者だとか、聞き捨てならない単語が頻発した気がしたが、沈んだ顔をしていた子が顔を上げたのだ。そこに突っ込む無粋はひとまず堪えた。

 正直、スバルはまだ、この状況を穏当に受け入れたとは言い難い。
 混乱は収まらず、現実とは向き合い切れず、説明を事実と鵜呑みも難しい。
 だがそれでも、ひとまず、彼女たちの心意気は伝わってきたから。

「俺の名前はナツキ・スバル。右も左もわからねぇが、たぶん君たちのお友達。図々しいとは承知の上で、一つ君たちに頼みがある」

 改めて立ち上がり、スバルは天井に指を突き付けて名乗った。
 それから最後に二人に手を差し伸べ、首を傾げる。

「――君たちの名前を、教えてほしい」

「――――」

 その言葉に、何故か美少女は喉を詰まらせ、美幼女が目を瞬かせる。
 しかし、それも一瞬のことだ。
 二人は一度間を置くと、ゆっくりとそれぞれの笑みを浮かべて、

「私の名前はエミリア、ただのエミリアよ。またよろしくね、スバル」

「ベティーは大精霊ベアトリス、スバルはベティーの契約者なのよ」

 と、そんな風に名前を教えてくれたのだった。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 さて、そんなこんなでひとまず、エミリアとベアトリスとの二度目の初対面と言うべきイベントをこなしたスバルだったが――、

「――――」

 朝食の席、という名前の事情説明の場で、針の筵のような気分を味わっていた。
 場に同席してくれているのは、当然ながらエミリアとベアトリスの二人。そしてそれ以外にも、五人の男女――男女比がちょっと偏っているが、男女がいる形だ。
 エミリアたちの説明によれば、彼女らはスバルと同行し、この塔――内部からではさっぱりわからないが、共に塔の攻略に切磋琢磨する仲間たちらしい。

 そのいかしたメンバーを端から順番に説明すると、やたらとエロい格好のグラマラスな美人、年齢のわりに妖艶な雰囲気の美少女、可憐な顔にきつめの眼光がチャーミングな桃髪の美少女、はんなりと柔らかな雰囲気を纏った幼い顔立ちの美少女、それからやけに整った顔をした貴族っぽい雰囲気の青年――以上だ。
 全員美形で、この時点でスバルは異世界の凄まじさを思い知っている。

「まぁ、個人的な好みで言えば、銀髪美少女なエミリアちゃんの一馬身リードかな」

「――――」

 などと、益体のない呟きを聞こえるようにこぼしてみるが、反応は極寒だ。
 当然だろう。なにせ彼女らは今、スバルの記憶喪失――自分たちが忘れられた事実を知ったばかりなのだ。エミリアたちと同様の衝撃は避けられない。

「それで、みんなも驚いてると思うけど……スバルは今、すごく困ってるの。こんな状況だけど……ううん、こんな状況だからこそ、力を貸してあげて」

 と、そう言ったのは、スバルの事情説明に助力したエミリアだ。
 とはいえ、短時間でわかったことだが、彼女はあまり話が上手な方ではない。あっちへこっちへ転がりそうになる話をコントロールし、うまく説明してくれたのはベアトリスの方だった。
 おかげで過不足なく、全員にスバルの状況は伝わったはずだが――、

「――エミリア様、よろしいですか?」

 手を上げ、桃髪の少女がエミリアに確認を取る。様付けされたエミリアは、それを当然のように受け入れ、「ええ」と顎を引いた。

「あの子はラム。お屋敷のメイドで……メイドって、言葉はわかる?」

「それは問題なく……でも、お屋敷でメイドときたか。うん、了解した」

 桃髪の少女――エミリアの補足でラムとわかった美少女はメイドらしい。メイドがいる時点でエミリアが結構な身分と予想されるが、そんなスバルの内心を余所に、ラムはスバルへと薄紅の視線を突き刺し、

「これは、何かの悪ふざけなの、バルス?」

「そう疑われるのは仕方ねぇと思うが、マジな話だ。あと、俺の名前が目潰しの呪文になってんぞ。……お前が、あのベッドに寝てた子のお姉ちゃんか」

「――――」

 唐変木な呼び方に顔をしかめて応じると、ラムの瞳がすっと細められる。
 話題に挙げたのは、スバルが目覚めた緑色の部屋――通称『緑部屋』とそのまんまなネーミングの部屋で、エミリアたち以外に存在した少女のことだ。
 明るい青の髪に、ラムとそっくりな顔立ち――眠ったまま、あれだけの騒ぎに我関せずと眠り続けた少女の存在は、『二度目』の初対面を乗り越えたスバルが、エミリアたちに最初に事情を尋ねた人物だった。

 何でも、この塔とやらの攻略に赴いた目的の一つが、眠ったまま目覚めない彼女の目を覚ます方法を探すこと、らしいのだ。

「妹を起こしてやりたいタイミングで、俺が面倒事になったみたいで悪い。けど、俺も正直いっぱいいっぱいなんでな。文句は、記憶が戻ったあとの俺に盛大に頼む」

「……その物言い、本当に忘れているの? その軽薄な態度も口調も、普段のバルスと何にも変わってないようにしか思えないけど」

「そう言われると、変わらない良さが俺にあるって言ってもらえたみたいでちょっと気分が上向くな。まぁ、人の性根はそう簡単には変わらないってとこで、新しい俺とも前とおんなじ感じで接してくれ」

 空元気なのもあるが、気負いのないスバルの態度にラムは訝しげな様子だ。
 変化がないと、彼女がそんな疑問を抱く程度にはこれまで通りのスバルができている。それは記憶の喪失とは別に、悪くない事実だとも思えた。
 少なくとも接し方の面で、変な気遣いをさせる心配はないのだろうし。

「ってなわけで……うぉぉう!?」

「お師様~?」

 ラムとの受け答えをいったん区切り、さてと一息つこうとした瞬間、スバルは耳に甘い吐息を吹きかけられて仰天する。慌てて横へ飛びのけば、左耳を舐めそうなぐらいの距離に立っていたのは、グラマラスな黒髪の美女だ。
 黒ビキニにホットパンツ、そしてマント――特殊なフェティズムを狙いすぎている感がある美女だが、驚くのはその服装ではなく、動きの方だ。
 直前まで、床に胡坐を掻いていた美女はいつ立ち上がり、歩み寄ったのか。

「あ、えーっと……」

「シャウラッス、お師様最愛の教え子にして、このプレアデス監視塔の星番ッス!」

「星番……? それに、お師様ってのは俺のこと……?」

「はいッス!」

 太陽に匹敵する明るい笑顔で、自分を指差すスバルに美女――シャウラが頷く。あまりに屈託のない笑顔に、スバルの中で彼女の印象がすっかりひっくり返った。
 外見だけで言えば、この中でも一番妙齢に思える美女、格好も相まって非常に大人びた色香があるかと思えば、その態度はまるで子どものようだ。あるいは、構ってもらえるのが嬉しくて仕方のない子犬、といったところか。

 実際、シャウラはそんなスバルの印象を裏切らず、頭の後ろで束ねた長い黒髪を尻尾のように揺すりながら、

「それにしてもお師様、ホントに懲りないし飽きないッスね~。そうやって、何回あーしのこと忘れたら気が済むッスか?」

「懲りる飽きるの次元の話じゃねぇし! 大体、俺ってそんな何回もぽんぽん記憶が吹っ飛んでんの!? 次元越えたせいで抜けやすくなってんのか!?」

 シャウラのあっけらかんとした意見に、スバルは目を剥いて周りに確認する。
 記憶喪失の事実を渋々と認めつつあるが、頻発しているとしたらそれはまた別の話になる。体質ではないので、もはや病気だ。異世界の風土病で記憶喪失になっているのだとしたら、生きにくいどころの話ではない。

「どうなの? 俺、そんな頻繁に記憶なくなってんの?」

「そんなはずがないのよ、落ち着くかしら。シャウラ、お前もあんまりスバルを混乱させるんじゃないのよ。やっと、気持ちが落ち着いたところなのに……」

 スバルの左手を握り、ずっと傍にいるベアトリスがそんな風に嘆息する。彼女がシャウラをじろりとじと目で睨むと、シャウラは「べー」と舌を出して、

「別にあーし、お師様を困らせようとしたわけじゃないッスしー。あ、でも、それでお師様があーしのことで頭がいっぱいになってくれるんなら、それもいいかもしんないッス。あーし、魔性の女になるッス。お師様、魔性好きッスか?」

「現時点で魔性は混乱に一役買うだけだから不要。今は天使か女神か妖精の手助けが欲しいとこなので、半裸のお姉ちゃんは間に合ってるよ」

「ちぇー、いけずッス! こんなにバインバインなのに、お師様いけずッス~」

 ぐいぐいと好感度の高いシャウラの振る舞いに、スバルは苦笑しつつ申し出を辞退する。正直、悪い気はしないといえばしないが、彼女の向ける好意はこの瞬間のスバルではなく、彼女が『お師様』と慕うスバルのものだ。
 それを言い出せば、エミリアやベアトリスの親しみもそうなのだが――、

「本当、お兄さんってばあ、すっごく困ったさんよねえ」

 そうしたスバルの内心を余所に、甘ったるい声で幼い少女がそうコメントした。
 外見はベアトリスと同年代だが、妖精と見紛うベアトリスと違い、まだ人間の範疇にある可愛らしい顔立ちの少女だった。濃い青の髪を三つ編みにして、その外見に見合わない艶っぽい流し目をこちらへ送ってきている。

「育てた親に一言物申してやりたい佇まいだな、ベイビー」

「――。それはやめた方がいいわあ。お兄さん、絶対ママと相性悪いものお。それより、今はお兄さんの記憶のことでしょお?」

「つっても、すぐ戻る目途が立つもんでもなし……今はそれより、君の名前の方が大事かな。教えてくれると、また仲良くなる第一歩になるぞ」

「ぷっ……仲良くだってえ」

 何が面白かったのか、少女は口に手を当てると軽やかな声でスバルを笑った。それは嘲りにも、呆れにも似た、しかしそのいずれでもない笑みで。
 そんな風に笑われる理由がスバルにはちっともわからなかったが、

「メィリィよ、お兄さん。記憶と一緒に、得意なお裁縫のやり方まで忘れちゃってなければ、またぬいぐるみを作ってほしいわあ」

「おお、俺の隠された特技の一つが割れてんのか。そうなると、俺は相当にメィリィのことを可愛がってたらしい。ベアトリスと同じで、妹分かな?」

「あの娘は、スバルやベティーを殺しにきた殺し屋かしら」

「どういう冗談!?」

 なかなかヘビーなベアトリスの冗談だが、何故か誰もそれを否定してくれない。よもや、とスバルはメィリィを見たが、彼女も薄く微笑んでひらひら手を振るだけだ。
 実際のところがどうなのかはともかく、子どもの暗殺者――というのはいかにもファンタジーなので、気に留めておくだけ留めておきたい。

「で、ラムにシャウラ、メィリィと自己紹介が続いたわけだが……」

 メィリィの諸問題を棚上げして、スバルは視線を残りの二人――薄紫の髪をした襟巻きの美少女と、秀麗な面立ちをした青年へと向ける。
 この場において、スバルの事情説明にまだ一言も発していないのはその二人だけだ。スバルとしては、この女性比率の多い場所で唯一の同性である青年に、結構な期待を寄せたいところなのだが。

「――――」

 黄色い瞳を震わせ、押し黙った青年の様子には鬼気迫るものがあった。それは容易に言葉をかけるのを躊躇わせる雰囲気があり、スバルもなかなか切り出せない。
 読んだ空気をあえて壊すことに定評のあるスバルだが、それにしても、彼の様子は踏み込むのを躊躇わせるには十分なものがあった。
 あるいはこの室内で、最も衝撃を受けているのは彼なのではと思わせるほどに。

「少し……」

「ん」

「少し、彼に落ち着く時間を与えたい。構わないかな?」

 その青年に代わって、軽く手を上げて言ったのは襟巻きの美少女だ。他のものと比べて厚着した少女は、その可愛らしい外見に見合わぬ男っぽい口調――いわゆる、ボクっ子っぽい雰囲気で切り出した。
 ともあれ、彼女の言葉には救われる。どうしたものか、とスバルやエミリアたちも頭を悩ませていたところだったのだから。

「ああ、そう、だな。いきなりで、ビックリさせたのは間違いないし……」

「ボクの見立てだと、そればかりでもないんだが……」

「あ、やっぱりボクっ子なのか」

 いかにもボクっ子っぽい少女はやはりボクっ子だった。
 思慮深げな素振りを見せつつ、襟巻きを弄る少女はスバルの言葉に苦笑し、

「今はアナスタシア、と名乗っておこうか。本当は君の衝撃的な告白がなければ、代わりにボクが驚きの告白をするつもりだったんだが、前後したよ」

「驚きの告白、ね」

 どんな告白をするつもりだったのか、スバルは純粋に疑問に思ったが、薄く微笑むだけでアナスタシアは答えない。そしてそのやり取りに、エミリアやベアトリスが困惑したような顔をしていたのも気になった。
 アナスタシアの告白、その内容が彼女たちにもわかっていない――のとは、少しだけ違った風な印象を受けたが、

「どうあれ、騎士ユリウスが落ち着くまで時間がいるなら……その間に、朝食の準備をしましょう。エミリア様、バルスを水汲みに借りても?」

「え?」

 立ち上がり、膝を払いながらそう言ったのはラムだ。
 状況の停滞を嫌い、時間を有用にしようとする彼女の姿勢は頼もしい。が、一方で合理的すぎやしないかと思う部分もあり、予想外の申し出にエミリアも驚き顔だ。
 何より、水汲みに記憶喪失のスバルを同行させる判断も――、

「スバルはまだ記憶もあやふやだし、休ませてあげた方が……」

「休ませたところで、記憶が戻る目途は立たない。バルス自身が言ったことです。それに、記憶の有無に関わらず、バルスにはロズワール様の使用人としての役割がある。ちょっと物忘れがひどくなったぐらいで、サボれると思われてはたまりません」

「なかなか辛辣だなぁ、ラムちゃん……ラムさん?」

「――――」

 じろりと睨まれ、スバルは肩を縮めて萎縮した。
 とはいえ、ラムの言い分にも一理あるのかもしれない。スバルも現状、難しい立場に置かれている自覚はあるが、過度に気を遣われるのも居心地が悪い。
 それに――、

「――――」

 アナスタシアに支えられ、俯く青年の様子を見ると、彼が落ち着くまでの間はスバルはここにいない方がいいような気がした。
 あるいはそれを察して、スバルを部屋の外へ連れ出す狙いだったのか。

「だとしたら、侮れないな、ラム……」

「……とにかく、いくわよ、バルス。他の能力には期待しないから、せめて水汲みぐらいはこなせるようになさい」

「あ、私たちも……」

「甘やかしすぎても、バルスのためになりませんよ」

 呼び捨てで呼び方は正解だったのか、スバルの言葉にラムは抗弁しない。代わりに彼女は、連れ出されるスバルに付き合おうとしたエミリアを制止した。
 その言葉にエミリアは言い返そうとしたが、「まあまあ」とスバルが割り込み、

「ラムの言葉にも一理ある。頭の中身はともかく、体に問題はないんだし、聞いたところじゃ俺は使用人? 小間使い? そんな感じだったみたいだし、ここは一つ、水汲みぐらいは職務復帰させてくれよ」

「……スバルは使用人じゃなくて、私の」

「私の、なに? ――! もしかして、あの、その、こ、恋人的な……」

「ううん、全然そんなじゃないけど」

「全然そんなじゃないんだ! まぁ、そうだよね……」

 鼻息荒く、期待を込めて言ってみたが、エミリアにすげなく撃墜された。
 好み一直線なのは間違いないが、高嶺の花すぎて手が届くはずもない。記憶の有無に関わらず、スバルがこれだけ可憐な花びらに触れられるものか。

「ともかく、俺はいいから、あっちをお願い。戻ってくるまでに、ちょっとは立ち直っててくれるといいんだが……」

「……うん、そうよね。わかった。何とか、話してみる」

 冗談はさておき、スバルは声を潜めてエミリアに青年の方を指差して告げる。青年は何やら、アナスタシアと言葉を交わしている様子だが、立ち直り切れてはいない。
 エミリアやベアトリスが親身になって、少しは立て直してくれると助かる。
 なお、何となくシャウラとメィリィには期待しない方がいい気はした。

「なんで、ベティー、お前が頼りだ。任せたぜ、契約っ子」

「――。その呼び方は、やめてほしいのよ」

「――? そうか? じゃあ、ベアトリス?」

「……ひとまず、それでいいかしら。スバルの頼みは任されたのよ」

 手を握っていたベアトリスが、スバルの呼びかけに小さく反論した。その反応に、どうやら何かを選び間違えたらしいとスバルは思ったが、それ以上は掴めない。
 水汲みにいくスバルの手を放し、ベアトリスはちらとラムへ目を向けると、

「姉妹の姉、スバルを任せたかしら」

「ええ。といっても、それほどの距離ではありませんし、危険があるかどうか」

「その危険がないはずの場所で、記憶を落としたのがスバルなのよ」

「確かに」

「うぐぐ、反論できねぇ……」

 ベアトリスとラムのやり取りに、スバルは悔しい思いを味わった。と、そんなスバルの下へ、部屋の端からエミリアがバケツを持って戻ってくる。
 そして彼女はスバルにバケツを差し出し、

「ラムと、ゆっくりでいいから。戻ってくるまでに、話せるように頑張るわね」

「ああ、頑張る。そっちも頼む、エミリアちゃん」

「――。うん」

 一瞬、返事に間があった気がしたが、その追及はできない。
「バルス」と呼んでくるラムに急かされ、スバルはバケツ片手に部屋を出る。直前、青年たちの方をちらと見たが、言葉を交わせる状態にはまだなかった。

「……あれって、どういうことなのか聞いても大丈夫か?」

「騎士ユリウスのこと? それは、ずいぶん残酷なことね、バルス」

「残酷なのか……」

 二人、ラムと廊下を歩きながら、スバルは部屋に残してきた面子、とりわけ言葉も発せなくなるほど衝撃を受けていた青年のことを話題にした。
 それに対するラムの返答は残酷、わかったことは青年の名前がユリウスと、名前までスマートな印象を受けるということぐらいか。

「あの人のことはエミリアやベアトリスに任せるとして、わざわざこんな風に連れ出したんだ。まさか、ホントに水汲みだけが目的ってわけじゃないだろ?」

 部屋から少し離れたあたりで、スバルは直球でラムに切り込んでみた。

「――――」

「無言、か。いや、俺も別に確信があったわけじゃないし、ひょっとしたら的外れな発言でものすごい赤っ恥掻くだけかもなんだけどさ」

「――――」

「……もしかして、本当に水汲みだけ? あの、だったら、今の発言は忘れてほしいっていうか、その、ドヤ顔で『何かあるんだろ?』とかちょっとあれなんで」

「――――」

「うん?」

 反応がなかったので、よもや的外れかとスバルは頬を硬くする。が、取り繕いの言葉を続ける最中、ふいにラムが足を止めた。
 二歩ほど、前に出てしまったスバルは足を止め、そのラムへ振り返る。
 すると彼女は自分の桃色の髪を軽くかき上げ、

「――いい加減、つまらない芝居はやめなさい、バルス」

 と、薄紅の瞳にわずかな怒りを宿して言ってきた。

「へ? 芝居ってのは……」

「こうして、わざわざ場所を変えたんだからわかるでしょう。あまり、女に恥を掻かせるものじゃないわよ、いやらしい」

「いやらしいて」

 何を言われているのかと、スバルは困惑に揉まれながら眉を顰める。が、その間もラムは自分の肘を抱いて、やれやれと呆れた風に首を横に振っていた。

「どうせ、バルスのことだから、またろくでもないことを思いついたんでしょう。腹芸のできないエミリア様や、別陣営のアナスタシア様、それに信用できないシャウラはともかく……ラムにぐらい、何を企んでいるのか明かしておきなさい」

 ――そうすれば、いざというときに対応しやすい。

 そんなニュアンスを込めて、ラムはスバルに淡々と言い放った。
 それを受け、スバルは目を泳がせると、自分の黒髪を黒い右腕で力なく掻く。

「ええと、だな。ラム、お前の言い分はあれだ。わからなくはないんだが……」

「だが?」

「悪ぃけど、これって演技とか芝居とか、悪巧みとかじゃねぇんだよ。俺は本当にすっぽりと記憶が抜けてんだ。だから、お前の期待には応えられない」

「強情ね。バルスが一人で抱え込むのはいつものことだけど、今回ばかりはそれじゃ困るのよ。ラムも、レムのことが懸かってる。ちゃんと一枚噛ませなさい」

「いや、だから……」

 強情はどっちなのか、と頑なにスバルの言葉を否定するラムに困り果てる。
 記憶喪失事態を受け入れ難いのは間違いない話だが、こうまで頑迷になられてはスバルの方もお手上げだ。大体、記憶喪失になった芝居をすることが、いったい塔を攻略するなんて状況の中でどんな役に立つのか。

「それはラムにもわからないけど……バルスには、バルスなりの腹案があるんでしょう。だから、それを洗いざらい話しておきなさい。ちゃんと内緒にしてあげるから」

「二人だけの秘密の共有ってのはそそられるけどさ……」

 内情はわからないが、スバルには何か考えがあるに違いない。
 ラムの言い分に、驚きを通り越して少しだけ呆れてしまう。そんなあやふやな理屈で問い詰められても、スバルには何も答えようがない。
 そもそも『スバルならば』なんて、どれだけスバルを買いかぶるのだ。
 しかし、そんなスバルの考えにラムは――、

「バルス」

「うん? ……って、おい!?」

 一歩、彼我の距離を縮めたラムが腕を振るい、スバルが左手に持っていたバケツを突然に払い落とした。金属が石の床に打ち付けられ、高い音が廊下に響く。
 そのことに驚き、何をすると声を荒げかけるスバル。だが――、

「うおっ」

 胸倉を掴まれ、気付いたときには体勢を崩されて壁に押し付けられていた。
 背中を打った痛みに苦鳴が漏れ、スバルはそれが、すぐ真正面にいる小柄な少女にやられたのだと遅れて気付く。
 遅れて気付いたが、その狙いはわからない。

「お前、何のつもりで……」

「言いなさい。いい加減にしないと、ラムにも考えがあるわよ」

「――ッ! わかんねぇ奴だな! だから、何にもねぇって言ってんだろ! 嘘じゃねぇんだよ! 俺は」

 低い声音で恫喝され、暴力を振るわれたこともあってスバルの我慢も限界がくる。これだけ言ってもなお、信じようとしないのならば。
 そう、胸倉を掴むラムの細い手首を掴もうとして――、

「――いいから、全部話しなさい!!」

「――――」

 吠えるような声を間近でぶつけられて、スバルの怒りが耳から抜けた。
 それは驚きによるもの――だけではない。驚きはあった。突然の大声に驚いて、とっさの力を抜いたのはある。
 だがそれ以上に、スバルの行動を押し止めたのは別のものだ。

「全部、話して……」

 声は、ひどく震えていた。
 そのことに、スバルは記憶がないにも関わらず、衝撃を受けていた。
 受けた衝撃は単に、スバルが抱いていた印象を裏切られたからなのか、それとももっと異なる理由があったのか、定かではなかったけれど。

「……お願いだから、全部、話して」

「ら、む?」

「……お願い」

 弱々しく、スバルの胸に額を当てて、少女が震える声でそう漏らす。
 それは直前までの勢いを完全に失い、ただただ悲痛なものへ成り果てていた。

 涙声ではない。それほど脆くはない。
 嘆いてはいない。それほど自分に優しくない。

 ――ただ、声に宿った悲憤は行き場がない。
 ――誰へ、どこへ、向けられたものなのか。

「バルスが、忘れたらラムは……レムは……」

「――――」

「レムは、あの子は……」

 レム、それは彼女の妹の名前だ。
 緑部屋のベッドに寝かされる、彼女と瓜二つの『眠り姫』。

 あの少女と、それからこの目の前の姉である彼女と、スバルとの間にどんないきさつがあったのか、それは今のスバルには想像することもできなかったけれど。

 ラムが本気で、スバルが忘れた何かへ縋っていたのだと、それだけはわかって。

「……ごめん」

 腕をだらりと下げて、スバルは胸に額を押し付けたまま、表情を見せないラムにか細い声で謝った。

 忘れたことを謝ったのか、何も答えられないことを謝ったのか。
 きっとどちらでもあり、そのどちらかだけではない他の感情もあっただろう。

「――――」

 ラムはそれ以上、何も言わなかった。
 スバルも何も言えないまま、ラムにきつく上着を握られる感触に目をつむった。

 ――そんな二人のどうにもならない様子を、転がるバケツだけが見つめていた。

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