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Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第六章 『記憶の回廊』
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第六章11 『涙声が聞こえる』



 ――見えたのは光、ただそれだけだった。


 見上げ、首をもたげたことは覚えている。

 直後に正面の塔の一部が白く光り、その眩さに目を細めたことも。

 ただ、記憶はそこまでだ。以降は何も覚えていない。


 痛みも、衝撃も、恐怖も、何一つ感じなかった。

 ナツキ・スバルにとって、それらはいずれも『死』の訪れに欠かせない供だ。

 泣き叫ぶような痛みも、肉体が千切れる衝撃も、全て失われる恐怖もない。


 あるいはその『死』は、スバルの知るいずれの『死』よりも優しかったのかもしれない。

 もっとも、死して脳まで蒸発させられたスバルに、そんなことを考える暇などどこにもなく、思い返して浸るだけの余裕もやはりなかった。


 まるで瞬きのように、一瞬だけ視界が暗く閉ざされたかと思った直後、ナツキ・スバルの失われた『命』は再生し、逆流し、再び現実に投げ出される。

 ――投げ出された。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



「――ちっちっち」


「――っ」


 一瞬、息の詰まるような重苦しさが五感に圧し掛かり、スバルは目を見開いた。

 全身の血流の音がうるさく感じられ、収縮する筋肉が痛みを訴えかける。爪が掌に食い込むほど強く握られた手綱と、熱い体温で存在を主張するベアトリス。


「……ぁ?」


 薄暗い視界の中、ベアトリスの後頭部を間近で見下ろしている。

 鼻腔から滑り込む暴力的な甘い香りは、少女を抱き上げたときに香るそれとはまた別物だ。ベアトリスの香りは甘い焼き菓子のようなそれだが、あたり一面に漂うこれは粘質な毒のような、押しつけがましい甘さだ。


 この甘さには覚えがある。当然だ。それはつい先頃、延々と嗅ぎ続けていた。

 むしろほんの数秒間だけでも、途切れていたことの方が特別なのだ。


「ちっちっちっち」


 混濁するスバルの意識に、舌を弾くような微かな音がリズムに乗って届く。

 正面、ベアトリスが身を固くし、パトラッシュすらも息を殺して見守るのは、エミリアやレムを乗せた竜車であり、その竜車の鼻先にはおぞましい魔獣が立っている。


 全身に細かい根を張り巡らせ、血に飢えた獰猛な魔獣――花魁熊だ。


 瞬間、デジャブなどでは言い表せない、生々しい現実感がスバルに舞い戻る。

 この感覚は疑うまでもない。『死に戻り』だ。


 ナツキ・スバルは今、『死』を体感して、この時間に戻ってきたのだ。


「――っ」


 ――だけど、よりによって、この時間に戻されるのかよ!?


 『死』の瞬間の出来事よりも、『死に戻り』したタイミングの悪さに悪態をつく。

 舌打ちのような音で魔獣の興味を誘い、竜車の前から穏便にどかそうとしているのはメィリィだ。その目論見はギリギリまで成功し、しかし最後にしくじる。

 竜車を引く地竜――ジャイアンが、魔獣の圧力に耐えかねるからだ。


「――――」


 そのことがわかっていながら、スバルはとっさに判断を躊躇う。

 肝心のジャイアンの様子は後方からは見えない。だが、手綱を握っているユリウスは地竜の異変に気付けない。彼であっても、そこに目を配る余裕はないのだ。

 竜車の面々の誰もが、メィリィの花魁熊へのコンタクトの成功を祈っている。

 だが、それは残念ながら――、


「ちっちっち……ちぃー」


 メィリィの声が微かに緊迫感を帯び、彼女の指が竜車の右側を示す。花魁熊はその動きにつられて、のそのそとそちらへ足を動かした。

 竜車にも、そしてベアトリスにも安堵の雰囲気が芽生える。しかし、ジャイアンはその緊張の糸の切断に耐えられない。


「ゆり……」


「――――ッ!!」


 正しい判断を下せないまま、呼びかけはジャイアンの咆哮に遮られた。

 先ほどの展開の焼き直しをするように、ジャイアンは唸り声を上げながら地面を踏み鳴らし、その鳴き声と地鳴りに花魁熊の意識が一斉に覚醒する。


 血走った目をさらに剥き出し、涎を垂らしながら飛びかかる花魁熊。その頭部を青白い輝きが貫通し、爆砕するところまで完全に流れが同じだ。


「エル・ヒューマ!!」


 竜車の屋根に立つエミリアが両手を翻らせ、踊るような動きで空に氷刃の渦を作り上げる。回転する氷の刃が次々と地上目掛けて射出され、丸鋸のような氷の凶器に花魁熊の群れが呑み込まれ、手足を切り飛ばされて断末魔が上がる。


「は、走れ走れ走れ走れ走れ走れ――ッ!!」


 手綱を引いてパトラッシュを加速させ、スバルが声を上げると竜車も動き出す。

 横目に御者台を見れば、飛び出してくるラムがユリウスと御者を交換し、騎士剣を抜いたユリウスが接近する花魁熊へ剣撃を入れ、蹴散らすのがわかった。


 ――完全に、同じだ。

 その流れを踏襲したことで、スバルは強く強く奥歯を噛みしめる。


 突然の『死に戻り』に、意識が追いつかなかったことは言い訳にならない。

 自分が死亡したことの衝撃を後回しに、スバルの心が悔悟で埋め尽くされる。


 ここまで、『死に戻り』を無駄撃ちしたのは、『死に戻り』を自覚して以来、スバルにとって初めてのことと言っていい。

 『死に戻り』で得た情報を扱い損ねて、改めて死を迎える結果になったことはある。だが、『死に戻り』までしてきて、為す術なく同じ状況をなぞったのは初めてだ。スバル自身がなぞろうと、そう考えた意思と無関係に、運命のレールそのままに。


「――スバル! ボーっとしてる暇はないのよ!」


「――ッ!」


 悔しさに俯き、手綱を強く握るスバルの胸にベアトリスが背中をぶつける。軽い衝撃と声に前を見れば、獰猛な魔獣が猛然と迫るのが見える。

 同時に、伸ばされる小さな掌を握り、ベアトリスを竜上に立たせ、迎撃が始まる。


「ミーニャ! ミーニャ! もう一発、ミーニャかしら!」


 掌を通じて、スバルの体内から行き場のないマナが吸い上げられ、ベアトリスを通して力に還元される。生み出される紫の結晶は行く手を塞ぐ魔獣の体に突き刺さり、その体を結晶化させて砕き、パトラッシュが破片を踏みしめて前進する。


「とっておきのお、砂蚯蚓!!」


 自棄になったようなメィリィの叫びが聞こえ、視界の端で砂が噴き上がる。

 花魁熊の覆った砂原、そのさらに下から体を起こした砂蚯蚓が、その巨大な咢に数頭の魔獣を放り込み、見上げるほどの体躯がまとめて敵を押し潰した。


 怪獣大決戦再び、だが分が悪いこともスバルは知っている。


「――バルス! 死ぬ気で走らせなさい! 死にたくなければ!」


 形にならない焦燥感に焼かれるスバルへ、叱咤するような声が刺さる。

 御者台で手綱を操り、興奮するジャイアンを御すラムだ。レムに劣らない達者な手綱捌きで地竜を支配下に置いているが、このままではマズい。


「このまま真っ直ぐじゃダメだ! ラム、道を変えろ!」


「――っ! 何を言い出すというの? 監視塔は正面、周囲は魔獣の縄張りよ!」


「それはもっともなんだけど、それじゃダメなんだよ!」


 パトラッシュが頭を下げ、正面に立ち塞がる花魁熊の胴体を突き上げる。もがく魔獣を鼻先に乗せたまま、漆黒の地竜はその魔獣の体を盾に猛進。次々と打ち込まれる鉤爪は魔獣の肉体を引き裂き、舞い散る花弁と鮮血が砂海を濡らしていく。


「バルス、何に気付いたの! はっきり話しなさい!」


「はっきり説明できたら苦労はねぇよ! とにかく、進路変更だ!」


 苛立った風なラムの言葉に、スバルの方も乱暴に怒鳴り返すしかない。ひどく理不尽な対応だと自分でも思うが、それ以外に手段がないのだ。

 なにせ、今のスバルには自分が死んだ原因がわかっていない。


 『死に戻り』したことは間違いないのに、死の理由が思い出せないのだ。

 気付けば『死に戻り』していたという点に関して、今回のそれはロズワール邸で初めて『死』を迎えたときの感覚に近いものがある。

 まずは死因を確かめ、その問題を排除するところから。


「そんな余裕、どこにもねぇよ!!」


 魔獣に追いつかれ、その鉤爪の餌食になったのか。酒場の店主の忠告通り、腸を啜られて無残な餌になったのか。あるいはうっかりパトラッシュから転落して、運悪く首の骨でも折ったのかもしれない。本当の本当に考え難いが、ベアトリスにマナを使われすぎて衰弱死、なんて線もないではない。


「そのどれだったとしても、ここまでぷっつり綺麗に記憶が途切れたことねぇぞ」


 腹を裂かれても、氷漬けにされても、鉄球に頭を潰されても、兎に全身を貪られても、訳のわからない権能の巻き添えを喰らっても、スバルは『死に戻り』してきた。

 そしてどんな死因であっても、『死』の直前の出来事から自分の手詰まりの状況を洗い出し、打破するための手立てとしてきたのだ。


 そのか細い運命の糸が、今回はどこにも見当たらない。

 そして見当たらない細い糸を探す時間が、スバルたちには与えられていない。


 ――これは地味に、最悪の、『死に戻り』封じをされている。


 もしもまた同じ方法で死亡した場合、完全に手探りからの再開だ。

 そうなる前に――、


「こっちから動く! とにかく、塔には近付くな!」


「だからそれがどうしてって……」


「塔が光るんだよ! たぶん、その光がヤバいんだ!」


「はぁ――!?」


 切羽詰った状況だけに、応じるラムも言葉の刃に毒を塗る時間がない。端的に否定的な声音をぶつけられながら、スバルは手綱を引いてパトラッシュに伝える。

 直進ではなく、とにかく曲がる意思を。


「正面に、塔は見えてるが……!」


 花魁熊が大挙して押し寄せる砂海のど真ん中で、正面に見えている監視塔は明らかに近付いている。しかし、あれに近付けば本当に先ほどの焼き直しだ。

 そうならないために、スバルの選ぶべきは――、


「逆走する! 『砂時間』をもういっぺん潜った方がマシだ! 前の砂丘に戻るぞ!」


「さっきから何を馬鹿なことを……」


「ラム! スバルの言う通りにして!」


 血迷ったと思われて仕方ない決断に、否定の声を上げようとするラムをエミリアが引き止めた。彼女は無数の氷礫で魔獣を一掃しながら、スバルに頷きかける。


「スバルが何の考えもなく変なこと言い出すなんてありえないから!」


「バルスは日常的に妄言と戯言を垂れ流して生きています」


「スバルが危ないときに何の考えもなく変なこと言い出すなんてありえないから!」


「わざわざ言い直してくれてありがとう!!」


 狼少年扱いを嘆くべきか、ピンチのときは頼れる男扱いなのを喜ぶべきか。

 反省と自惚れのどちらも後回しにして、スバルの意思に従うパトラッシュが砂地に足を突き刺し急旋回。風を切る尾が魔獣の胴を薙ぎ払い、蹴り足で乱暴に花魁熊の一頭を蹴りつけ、逆走する。


「――っ! 上と横にいる二人! 振り落とされないようになさい!!」


 急旋回するスバルたちを見て、ラムも巧みな手綱捌きでジャイアンを反転させる。当然、遠心力をふんだんに喰らう竜車は大きく傾き、横転しかかるが――、


「エミリア様! 足場を!」


「え? あ、そっか! はい!」


 車体に剣を突き立てて体を支えるユリウスが、傾く竜車の補助をエミリアに訴える。その言葉にエミリアは目を丸くし、即座に魔力が竜車の真下へ。斜めに傾いだ車輪を補助するように氷の坂が生まれ、竜車は半円を描くように走って横転を免れた。

 さらにそのまま勢いを殺さず、パトラッシュに追走する形で逆走が始まる。


 ――直後だ。


「なん……っ!?」


 逆走を始めた次の瞬間、キンと鼓膜を鋭く引っ掻くような音が響いた。

 思わず肩をすくめるスバル。その背後で、ふいに風が生まれる。


「今のは……って、おいおいおいおい!?」


「何かしら……ぴぃっ!?」


 背後に生じた謎の感覚に、振り返るスバルとベアトリスが同時に驚愕する。

 すぐ真後ろを走る竜車の上で、エミリアとユリウスも目を剥いていた。


「砂蚯蚓、ちゃんが……っ」


 御者台から身を乗り出し、驚きに喉を震わせたのはメィリィだ。

 その彼女の目の前、竜車の背後を覆うような形で砂蚯蚓の巨体が起き上がっていた。全長十メートル以上の巨躯に、胴体の太さは男二人が腕を回しても足りないほど。地上へ頭を突き出し、獲物を睥睨する姿はさながら砂海の王のような様相だ。


 その砂蚯蚓の胴体が、何かの直撃を受けて木端微塵に吹き飛んでいた。

 ぬらぬらとした体皮が千切れ、太く長大な胴体はものの見事に真っ二つにされる。頭部を無くした胴体は横倒しに、そして支えを無くした頭部側はこちらに向かってゆっくりゆっくりと落ちてくる――。


「横に、避けろぉぉぉ――!!」


 落下してくる砂蚯蚓の頭部は、竜車を押し潰して余りある質量だ。

 先に胴体に押し潰される魔獣の断末魔を背後に、スバルとラムはそれぞれの地竜に指示を伝達し、強引に進路を逸らして砂蚯蚓の直撃のコースを逃れる。


「――――ッ」


 甲高い鳴き声を上げ、砂蚯蚓の頭部が勢いよく砂海へ落ちる。

 砂が舞い上がり、逃げ損ねた花魁熊の骨が砕け散り、衝撃に巻き込まれて手足が吹っ飛ぶ。そのまま砂蚯蚓の頭部はバウンドし、さらに先々の魔獣を巻き添えにしながら転がり、最後には無数の鉤爪を浴びて肉片へと早変わりだ。


「あぶ、あぶ、危ね、危ねぇ!」


「スバル、マズったのよ!」


 とっさの危機回避に胸を撫で下ろすが、即座にベアトリスはその安堵を却下。

 何事かと懐の少女を見れば、彼女は舞い散る花弁を煩わしげに払い、背後を見回しながら、


「今ので、向こうの竜車と逸れたかしら! ベティーたちしかいないのよ!」


「んだと!?」


 慌てて視線を追いかけ、スバルは周囲に竜車の姿がないことを確認する。

 ただ、遠くに青白いマナの輝きと魔獣の咆哮、さらに小規模の砂の噴き上げが発見でき、エミリアの奮戦とメィリィの新たな僕の使役が遠目にわかった。


 だが、向こうと合流しようとしても、合間には無数の花魁熊で埋まっている。そして手数の減ったスバルたちに対しても、魔獣の猛攻は弱まる気配がない。


「単純に戦力半分! 敵の数は倍!」


「さっきより四倍、きつくなったかしら!」


 爪を振りかぶり、襲いかかってくる花魁熊の顔面に鞭の先端が唸りを上げる。

 叩きつけられる衝撃が運よく魔獣の目を潰し、激痛に震える一頭を突破口に再びパトラッシュが走り出す。しかし、その方向はエミリアたちの竜車とは別方向だ。


「パトラッシュ! こっちじゃね……」


「この地竜なりに生き残るための判断なのよ。スバルやベティーより、こいつの本能に任せる方がよっぽどマシかしら!」


 スバルの叫びを遮り、ベアトリスは立ち塞がる花魁熊を魔法で蹴散らす。パトラッシュは包囲網の薄い部分を一点突破し、背中の二人を守るために懸命だ。


「クソ! またこれ……またこの形か! 俺は何をしてんだよ!」


 鞭を振るい、接近しようとする魔獣の顔面を弾く。だが、理性をなくした形相で飛びかかってくる魔獣の勢いをそれでは止められない。

 剣で致命傷を与え、魔法で行動力を削ぐ。――スバルの選んだ力は、そのどちらにも遠く及ばない。小賢しさは、圧倒的な力の前に押し潰される。


 できることをして、やれることを増やして、少しはマシになったと思ったのに。

 運命はナツキ・スバルの小手先の努力など、鼻で笑って踏み潰すのか。


「レグルスのクソ野郎の方がよっぽどどうにかできたぜ……!」


「考え事してる暇なんてないのよ! 何か手段を……」


「ベア子、パトラッシュにムラクだ! 重さを軽くして、群れの頭を越える!」


「――! ムラク!」


 スバルの指示を受け、ベアトリスがパトラッシュに『ムラク』――重力の影響を軽減する魔法をかけ、疾走する速度が加速する。踏み込みで進む距離が倍になり、跳躍するパトラッシュが魔獣を踏み場に蠢く花畑からの離脱を試みる。

 だが――、


「光っ――!?」


 目の端に白い光が浮かび、声を裏返らせた瞬間に『それ』が空を走ってきた。

 地上を白い光が駆け抜け、砂海が凄まじい勢いで吹き飛ぶ。光が突っ走るのに合わせ、魔獣の体が引き裂かれ、血柱が上がり、飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ。

 そしてその余波はパトラッシュの方にも襲いかかり、地竜の巨体が迫る『それ』の風圧に煽られ、軽々と弾かれてしまう。


「ベアトリス! しっかり掴まれ!!」


「スバルの方こそちゃんと抱きしめるかしら!!」


「――――っ!」


 パトラッシュが嘶き、スバルがベアトリスの体ごと抱きしめてしがみつく。

 空中で錐揉み回転し、猛然と花魁熊の頭上をパトラッシュの巨躯が跳ねていく。そのパトラッシュを追いかけるように、白光が連続して降り注いでくる。

 砂が爆ぜ、巻き添えを喰らう魔獣が爆ぜ、掠めたパトラッシュが苦鳴を上げた。


「うあああああ――!?」


 攻撃の最中に『風除けの加護』が外れ、スバルはその衝撃をもろに味わう。

 手綱とベアトリスを掴み、両足でパトラッシュの鞍をしっかりと挟むが、勢いに揉まれ、あちこちに体を打ち付けて意識が持っていかれそうだ。

 しかし、そんな状態にも関わらず、眼下の花魁熊の爪が追撃を撃ち込んでくる。


 凄まじい衝撃に呑まれ、振り落とされまいと必死に足掻く。今、転落すれば絶対に助からない。かろうじて命が繋がっているのは、諦めていないからこそだ。


「けど、このままじゃ――」


「マズいのよ……っ!」


「――パトラッシュ!?」


 一際強い衝撃と、パトラッシュの苦鳴が高く尾を引く。

 見ればムラクの効果で軽々と弾かれるパトラッシュの横腹が、花魁熊の鉤爪を浴びてついに切り裂かれていた。漆黒の鱗に痛々しい爪痕が刻み込まれ、浅からぬ傷口から鮮血がこぼれ落ちる。


「――っづぁ!?」


 その勢いのままに転がり、ついにパトラッシュが砂原の上に崩れ落ちる。同時にスバルたちも砂地に投げ出され、周囲を取り囲む花魁熊の餌場に取り残された。

 頭を振り、体を起こす。ベアトリスと手は繋いだままだ。彼女もドレスの裾を払って立ち上がり、周囲に油断なく目を走らせている。しかし、不利は否めない。


「てめぇら! パトラッシュに指一本触るんじゃねぇよ!」


「ミーニャ!」


 負傷し、苦しげに呻くパトラッシュへ殺到する魔獣に魔法が突き刺さる。スバルはベアトリスの手を引いてパトラッシュに駆け寄り、跪いて傷に触れた。

 爪は内臓までは達していないが、無理をさせれば腹圧で腸が溢れかねない。無理はさせられない。治療する時間も必要だ。


「ベアトリス! シャマクだ! 周りにいる魔獣の認識を誤魔化す!」


「今!? それをしても時間稼ぎにしかならないのよ! それに……」


「今はその時間が必要だ! 急げ!」


 血走った目で前傾姿勢になり、魔獣は飛びかかる隙を窺っている。

 四方から襲われれば対処できない。いずれの魔獣が先走り、最初の切っ掛けになるかは奴らの辛抱強さ次第だ。そしてそれはたぶん、期待できない。


「――っ! エル・シャマク!」


 ベアトリスが両手を合わせ、スバルの内側からごっそりと何かが抜け落ちる。

 それは傍らの少女の手の中で渦を巻き、静かな力となって砂海を席巻、スバルたちを中心に半径十数メートルが黒い霧に包み込まれる。


 陰魔法の基礎にして、大正義シャマクの発動だ。


 認識の齟齬を生むシャマクの効果が広がり、花魁熊の挙動が完全に停止する。思考は理解の彼方へ消え、獲物を追い詰める本能すらも忘却させたのだ。

 当然、実行犯であるスバルたちには効果はない。ただ、長持ちもしない。


「効果範囲の外の奴らが入ってきたら、いずれ荒らされるかしら。その前にその地竜を連れて脱出するのよ!」


「わかってる! ムラクの効果はまだ残ってるな? それならパトラッシュを俺が担いで、とにかくシャマク連発して向こうの竜車に合流を――」


 鉄火場からの離脱、それを優先しようと判断し、パトラッシュに手を伸ばす。

 通常は数百キロの巨躯だが、ベアトリスのムラクが効いている間、その体は羽毛のように――は言い過ぎだが、軽くなっている。担いで逃げるぐらいはわけない。

 黄色い瞳がスバルをジッと見ている。その瞳を過る感情は複雑で、とても地竜の浮かべるものとは思えないほど雄弁だった。


 その瞳が、物語っていた。――離れなさい、と。


「――スバル!」


 パトラッシュの眼光に目を奪われた直後、ベアトリスが鋭い声を上げる。

 駆け寄る彼女がスバルへ掌を向け、迸る魔力が盾を形成し、スバルのすぐ真横に紫色の魔法壁が出現――それが、撃ち込まれる白い光を逸らした。


「っごぁ!?」


 鋼の打ち合うような鋭い音が鳴り響き、衝撃を受けたスバルの体が横に飛ぶ。転がって砂の上に大の字になり、咳き込むスバルは体を起こそうとして気付く。

 衝撃を浴びた右の脇腹から血が滴り、それが右足をべったりと濡らしていることに。


「何を、喰らった……?」


 血の溢れる脇腹を押さえて、片膝を突いたスバルは呆然と息を吐く。

 途端、内臓を掻き回された衝撃が嘔吐感となって持ち上がり、胃液と血が口の端から一気に流れ出した。

 破れた腹部から空気が抜け、血泡とともに屁に似た間抜けな音が漏れる。


「ぁ、ふ……」


「――バル! スバル!」


 掠れた息が出るのと、視界が真横に傾ぐのは同時だ。

 横倒しになり、身動きできなくなったのだと理解した。理解したが、それ以上が続かない。脇腹の傷が熱を持ち、そこから体が溶けてなくなるような痛みがある。

 必死に、自分を呼ぶ声が聞こえた。


「スバル! スバル、ダメかしら! 死んじゃ……死な、死なないで……一人に、しないでぇ……っ! やめてぇ……っ」


 肩を揺すぶられる。涙声がして、どうにか手を伸ばしてやりたいけど、動けない。

 脳味噌が焼け付いたのか、目の前の少女のことが思い出せなくなる。

 愛らしい顔の、でも泣いてて、泣き顔はさせちゃダメだろうと、思って。


「――――」


 その向こう側に、大きな大きなトカゲが倒れている。

 黒い、綺麗な見た目をしたトカゲだ。その体には、白く細長い何かが何本も何本も突き立っていて、ピクリとも動かないそれは明らかに死んでいる。


 たぶん、自分もアレを喰らったのだ、と思った。


「ベティーを、置いていかないでぇ……っ!」


 泣きじゃくり、少女が必死でスバルの体を抱き寄せる。

 小さい体で、力の抜けたスバルは重過ぎる。それでも一生懸命に。


 頬を涙が伝う。その涙ぐらい、拭ってやりたくて。

 体の中で動く場所を探すけれど、見つからない。だから、体の中ではない、どこか別のところから動くものを引っ張り出して。


「――ぅ」


「スバル?」


 目には見えない、自分にだけ見える『手』が、少女の頬の涙を拭った。

 涙の滴を黒い指先がなぞり、少女が何かに気付いた顔でこちらを見る。安心させるように微笑んでやる力も、ない。


「すば――」


 一瞬、少女が何事か言いかけた。

 しかしそれは、少女のはるか背後から飛来する白い光に遮られる。


「――――」


 再びの衝撃が、スバルの胸に突き刺さる。

 ゆっくりと視線を落とせば、それはスバルを抱きしめる少女の背中を貫通し、さらにスバルの胸を貫いて、背後へ抜けていた。


「ぁ」


 掠れた吐息を残して、スバルを抱きしめる少女の姿が掻き消える。

 まるでこの世のものではなかったかのように、少女の姿は見えなくなった。


 支えを無くして、スバルはその場に倒れ込んだ。動けない。動く理由が、ない。


「こ、ぉ」


 微かに動く指先が砂を掻き、それだけだ。


 術者を失い、周囲と空間を隔てていた黒い霧が風に吹き散らされる。

 認識を誤魔化す魔の力が暴かれれば、取り残されるのは地竜の死骸と瀕死の少年。魔獣の群れは舌なめずりし、その獲物に近付いてくる。


「――――」


 息が止まり、目の焦点がぼやけていく。

 失血死、とは違う感覚。何か、致命的なものが流し込まれている。


 何も、わからなくなる。

 すぐ傍らで、鉤爪を振り上げる花魁熊の唸り声が聞こえる。


 その爪が振り下ろされて、頭蓋が砕かれるのか。

 それとも、今、消える寸前の視界の隅で、微かに光った『それ』が原因か。


 どちらが理由かはわからなかったけれど、ナツキ・スバルの命は途絶えた。



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