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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第六章 『記憶の回廊』

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第六章10 『閃光の如き』



 ――砂丘の大地に入り乱れる、色とりどりの花畑。

 時刻は夜で、砂丘の空には不思議なことに星の光が見えない。
 雲がかかっている様子はないのに空模様が窺えないのは、地上に立ち込める瘴気がこの広大な砂海を覆い尽くしているからだ、と事前に説明されていた。
 その説明をしてくれたのはベアトリスだったか、それともエミリアやユリウスだったのか、スバルの中で判然としない。

 ただ、今、明らかなのは、その窺えない空模様よりも大地に注意を向けるべきであるという本能の警鐘と、夜闇に負けない花弁の華やかさの不可思議な不気味さだ。
 いっそ毒々しいほどに鮮やかな花々は、砂海にはあまりに不釣合いであった。

「砂丘の、花畑……」

 口にしてみても違和感のある単語の繋がり、そこにスバルは既知感がある。
 脳裏に浮かび上がるのは、砂丘に入る前に情報収集をしたミルーラの酒場。片足を無くしたそこの店主が語った、砂丘に現れる花畑の話だ。

 砂丘に花畑が見えたら一目散に逃げろ、と店主は言っていた。
 ――それは獰猛で醜悪な魔獣、花魁熊の縄張りであるのだと。

「けど、一目散って言っても……」

 言葉尻を弱々しくしながら、呟くスバルは正面を眺めて後ずさる。
 花畑が魔獣の縄張り、その情報は有益だ。獰猛で凶悪な魔獣故に、即座に逃げろという話も頷ける。だが、問題があるとすれば、その規模だ。

「――――」

 押し黙り、息を呑んだスバルたち一行。
 『砂時間』の猛威を乗り越え、空間の歪みを突破した一行の前に現れた監視塔へ続く砂原――その正面の視界いっぱいに、件の花畑は広がっているのだ。
 それは文字通り、足の踏み場もないほどに密集している。

 砂原に突如として発生した花々の楽園だ。胡散臭いにも程がある。
 酒場の主人の忠告がなくても避けて通ったことだろう。
 それこそ、空を飛ぶことが可能であれば、何ら躊躇いなく躱して通ったはずだ。

「避けて通るの、無理だぞ」

 掠れた吐息と区別がつかないほどの囁きで、スバルはメィリィに声をかける。
 現状、魔獣対策に関して、一行はメィリィに頼りきりだ。その彼女がどんな判断を下すかが道を左右するわけだが、花畑を睨む少女の顔色はかなり悪い。
 冷や汗が浮かび、色白の肌からは血の気が失せている。言葉にされなくとも、非常にマズい状況にあるのが手に取るようにわかった。

「――――」

 ゆっくりと、パトラッシュが巨体で信じられないほど静かに身を寄せてくる。背中の上のベアトリスが「乗るのよ」と目で指示するのを見て、スバルは鞍へ足をかけると、できる限り音を殺して再び竜上に跨った。

 進むにせよ、戻るにせよ、スバルの足では砂に呑まれてお話にならない。
 判断は手綱で下すにしても、駆け足はパトラッシュの健脚が頼りだ。

「……ひとまず、みんな寝ているみたいだわあ」

「――――」

 息を呑み、メィリィの判断を待ってどれだけ過ぎただろうか。数十秒か、あるいは小一時間であったようにも感じる時間を経て、メィリィが囁くようにそうこぼす。
 それを受け、スバルは肩から脱力すると、竜車へとパトラッシュを近付けた。

「あの花畑は花魁熊の縄張り……でいいんだよな?」

「事前情報を照らし合わせて、まず間違いないだろう。ただ……少しばかり、私の想像していたものよりも規模が大きいな」

「その規模の違い、二倍や三倍なんて可愛げのある違いじゃなさそうかしら」

 一息をつき、顔を突き合わせるスバルたちが感想を交換する。
 ユリウスとベアトリスも、想像以上の大歓迎ぶりに声を無くしていた様子だ。竜車の中のエミリアたちも、『砂時間』の突破を喜ぶ声が途絶え、何事があったのかと恐る恐る小窓から顔を見せていた。

「スバル、何かあったの? 砂風の音は聞こえなくなったけど……」

「見事に『砂時間』はクリアしたよ。で、第一関門を突破したと思ったら、すぐに次の第二関門が待ち受けてたってわけ。ご覧の通り」

「ご覧の通りって……ぁ」

 小窓から花畑を一望して、エミリアの喉が驚愕に凍り付いた。酒場の主人の話を聞いたのは彼女も同じだ。当然、想起する情報も同じものだろう。
 エミリアが目を見開かせると、その脇からアナスタシアやラムも顔を見せる。二人もやはり花畑を眺め、監視塔までの試練の意地悪さに顔をしかめていた。

「砂風と『砂時間』は越えたってのに、今度の障害は花畑か。この花魁熊のテリトリーに関しては、アナスタシアは何も知らないのか?」

「道案内がうちの役目で、それ以上の役割はよぅ期待されても困るわぁ。せやけど、真面目にこれはちょっと困り物やね。どないしよか」

 言外に襟ドナの意見に期待してみるが、肩をすくめる彼女にも打開策はないらしい。スバルは長く鼻息を吐き出し、メィリィを見やる。

「メィリィ、お前の体質なら魔獣を引っ込められるんだろ? 花魁熊たちも、あの花畑から引き上げさせることはできないのか?」

「……難しいわあ。十や二十、百ぐらいならなんとでもしてあげるけどお、それ以上の数だと私の指示が届かない子が出るものお」

「数の制限があるのかよ」

「質の制限もあるわあ。さすがに私も、白鯨や大兎にまでは無茶は言えないしい。花魁熊はその点、私と相性が悪いわあ。影獅子とは大違いねえ」

「影獅子……ああ、屋敷に出たでかい奴な」

 思い出話はそこそこに、スバルはメィリィの意見を踏まえて花畑の方を睨みつける。
 無数で、広大な花弁の楽園――はたして、どれだけの数の魔獣が潜んでいるのか見当もつかない。ただ、メィリィの限度である百を軽く上回ることは確実だ。

「現状、選択肢は『進む』か『戻る』かの二つと言えるだろう」

 黙り込んだスバルに向かって、御者台のユリウスが指を二つ立てて言った。
 そのユリウスの指を見て、スバルは吐息をつく。

「戻るって選択肢は最初からなしだろ。『砂時間』をクリアしたのにもったいないってのもあるけど、それじゃ問題が何も解決しない。先送りにしても意味がない」

「別の『砂時間』に潜れば、あるいは別の道から監視塔へ挑戦できるかもしれない。思考停止して道を塞ぐのは短絡的ではないかな?」

 日に三度の『砂時間』、そのどれかに正解の可能性があるのではというのがユリウスの主張だ。スバルたちが抜けたのは深夜の『砂時間』。他に午前と午後の『砂時間』があるが、別の『砂時間』を通って辿り着く場所が変わることはありえるだろうか。
 いや、とスバルは首を横に振った。

「仮に違う道に出たとしても、それが安全に監視塔までの道を確保してくれてるとは到底思えないな。ここは花畑だが、別の場所は違う障害の可能性もある。たぶん、楽して通れる道なんか用意されてねぇよ」

「……確かに。少々、希望的観測が過ぎる、か」

「それにひょっとすると、メィリィがいる状態で花魁熊の縄張り。今回が一番、可能性がある道なのかもしれねぇんだぜ?」

「今度は悲観的すぎる、と。相変わらず、君はこき下ろして持ち上げるのが得意なのだね」

「狙ってやった覚えはねぇよ。それで、メィリィ。お前はどうだ?」

 分の悪さに目が行くユリウスを言い包め、スバルはメィリィに水を向ける。
 黙り、ジッと花畑を眺めているメィリィは、スバルの言葉に「うん……」と弱々しい声で俯いた。

「数は辛いけど、やれって言うならやってみるわあ。なにも見える全部の動物さんに言うことを聞かせなきゃいけないわけじゃないものお」

「全部じゃなくていいって……?」

「花畑を通り過ぎるために、静かに最低限の花魁熊だけどかせばいいのよお。道を開けてもらって、あとは大人しく寝ててもらう。刺激しなければそのぐらい、なんとかやれるはずだわあ」

 質問に答える間に自分の考えに確信が持てたのか、メィリィの声に力が戻る。
 少なくとも、彼女は『進む』というスバルの選択を尊重してくれる構えだ。それは素直にありがたい。スバルはメィリィに頷き、それから全員の顔を見渡す。

「俺は進むべきだと思う。どっちにしろ、リスクに飛び込まないで得られるリターンはない。問題から逃げてるばかりじゃ解決は見えてこないってもんだ」

「他力本願が主のくせに、ずいぶんと大きな口を叩くものだわ」

 前進を提案するスバルに、ラムが辛辣な言葉を投げかける。
 その『らしい』指摘に苦笑し、スバルは「おうよ」と親指を立てた。

「結局、メィリィ頼みには違いない。万一、魔獣を刺激するようなことになったら、今度はエミリアたんやユリウス、ベア子頼みだ。悪ぃな」

「――――」

「おお、あと、パトラッシュもな。悪い悪い」

 頼れるメンバーに名前がないのが不満なのか、首をもたげる愛竜の頭を撫でる。
 そんなスバルの情けない宣言に、ラムは露骨に呆れた顔で肩をすくめた。

「自覚があるのが救えないわ。せいぜい、万一のときは囮の役目を果たしなさい」

「その言われようも懐かしいよ。お前は覚えてないかもしれねぇけど」

「――――」

 ちょっとした過去を懐かしむ言葉に、ラムは訝しげな顔をするばかりだ。
 魔獣の森で、あるいは王選のために王都へ向かう出発の朝に、ラムから投げかけられた似たような言葉があった。レムの存在が記憶から失われて、それに伴う記憶にも改変が生じた今、あの日のやり取りはどこへ消えたのだろうか。

「それを、取り戻しにいこう。もう一秒だって、後戻りしたくねぇよ」

「――うん、そうよね。私もスバルの言う通りだと思うわ」

 拳を固めるスバルの決意に、エミリアが凛々しい顔で同意した。
 彼女は自分の首に下がるペンダントに触れて、大魔石の中に眠る精霊への想いを指に掠める。それから紫紺の瞳は真っ直ぐ、花畑を見据えた。

「この花畑の向こうに、大切な思い出の鍵がある。止まらないでいきましょう。大丈夫。きっと、私がみんなを守ってみせるから」

「それ、女の子に言われるんは格好悪すぎるのと違う?」

 エミリアの堂々たる宣言に、アナスタシアがスバルの方を見て言った。
 うるさい、とは言い返したかったが、実際、エミリアの言葉の通りになるのが関の山だと思うと、なんとも難しいお話なのである。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 プレアデス監視塔までの距離は、目測でおよそ数キロの距離まで縮んでいた。
 『砂時間』を越える前、アウグリア砂丘を闇雲に進んでいたときは、見えているはずの監視塔への距離は十数キロほどの目測から一度として変わらなかった。
 それに比べれば圧倒的な距離の短縮、到着は目前とすら言える。

「ただ何もかも、この花魁熊の巣を抜けてからだ」

 視界を埋め尽くす花畑は、砂海の上に堂々と鎮座していて異物感が強い。
 草木が大地に根を張る、そんな当然の生態がこの花々にはないのだ。わずかに茎や根元が浮いて見えるそれは、花々が生えるのが大地ではなく、そのおぞましき獣の肉体そのものであるからに他ならない。

「――――」

 花魁熊のテリトリーを抜けるにあたり、メィリィがスバルたちに下した指示は単純明快――出来得る限りの沈黙、それのみである。
 彼女の言によれば、現在の花魁熊たちは休眠状態の中にある。滅多なことで目覚めはしないが、代わりに寝起きの魔獣の凶暴性は計り知れないらしい。

「悪い動物さんは活動したてが一番凶暴なのよお。退治された白鯨なんかも、霧と一緒に出てきた直後が一番怒りっぽくて厄介らしいわあ」

 とは、メィリィの語ってくれた白鯨の余談だ。
 そんな彼女の講釈に則って考えると、スバルたちが白鯨を迎え撃ったのはリーファウス平原に姿を現したまさにその瞬間。つまり、寝起き直後の最悪のタイミングだ。
 苦しめられた思い出が蘇り、よく勝てたものだと遅まきながら自画自賛する。
 それはともかく――、

「寝てる子を起こして怒らせるのは、人でも動物でも悪い動物さんでもおんなじ。だからあ、ちゃあんと静かにしててねえ。それだけできたらあ、私の方でなんとかしてあげるからあ」

 そんな心強いメィリィの発言に従い、一行の息を殺した行軍が始まった。
 布陣は砂丘攻略の際と入れ替わり、竜車の方が先に進むスタイルだ。御者台に座ったメィリィが花魁熊に意思を伝え、その意図を通じてユリウスが竜車を進める。スバルの操るパトラッシュはその竜車の後ろを付かず離れずで並走していた。

「――――」

 気持ち前屈みになり、息を詰めるスバルはベアトリスの小さい体を抱いている。ベアトリスの体温が伝わってくるが、彼女も身を固くして緊張している様子だ。
 ちらと竜車の方を見上げれば、竜車の屋根の上に人影がある。怪しい人物ではなく、見慣れた細身のシルエットはエミリアだ。

「――――」

 スバルの視線に気付き、エミリアが紫紺の瞳をこちらへ向け、手を挙げた。
 エミリアがああして屋根の上に潜んでいるのは、何事か問題が発生したときに即座に動けるようにするためだ。スバルとしては竜車の中で大人しくしていてもらいたいのだが、ユリウスの精霊術が当てにならない現状、高火力で範囲攻撃が可能な味方はエミリアしかいない。ベアトリスも無理をすればできなくはないが、一発大きいのを撃ち込んだ時点でスバルがガス欠になってしまう。
 戦力的な意味で他者に、それも本来なら守らなければならない相手に依存してしまうのはスバルの劣等感の一つだ。

 それがなければ、そうする必要がなければ、あるいはレムも。
 そんな風に思ってしまう弱さは、スバルの中に常にある。

「――っ」

「――――」

 などと折り合いのつかない感情を持て余していると、ふいにベアトリスの後頭部に顎をカチ上げられた。スバルが驚くと、ベアトリスは鼻を鳴らす。
 今は目の前に集中しろ、ということだろう。改めて頭上を見ると、エミリアもスバルの方に指を突き付け、同じような注意を促しているのがわかった。

「――――」

 納得も承服も、口には出せず、長い吐息へ変わる。
 本当は頬を叩いて気持ちを切り替えたいところだが、そんな仕草さえも命取りになりかねない以上、自重は必須だ。
 そして、スバルがいつもの思考の回り道を経て覚悟を決めるのと、一行の最先端が花畑に到達するのはほとんど同時だった。

「どいて」

 一度、ジャイアンの引っ張る竜車が停車し、車輪の軋む音に紛れてメィリィの静かな声音が花畑に投げかけられた。
 最初、メィリィの呼びかけには何の反応もなく、スバルは奥歯を噛む。

「どいて」

 重ねて、メィリィが命令を呼びかけた。
 それでもやはり、花畑には何の変化も生まれない。もどかしい時間にスバルの胃壁は痒さのようなものを訴えかける。
 そして――、

「――――」

 のそりと、まさに地面がめくれ上がるように、花畑が『起き上がった』。

「――――」

 思わず、その起き上がった魔獣の姿を直視し、スバルの喉が微かに引きつる。
 花魁熊と呼ばれる魔獣は、その名前が示す通り、熊に似た姿をしていた。だが、決定的にスバルの知る熊とは違う。違いすぎる。

 起き上がった花魁熊の体長は、おそらく二メートルから三メートルの間だ。足は短く、代わりに腕は地面に擦るほど異様に長い。黒い毛で覆われて見える腕は太く、その先端には鉤爪のような爪がびっしりと生えているのがわかった。
 その体の背面から脇までにかけて、鮮やかな花弁が揺れているのが印象的だが、間近でその魔獣を見れば、むしろ目がいくのは背面よりも体の前面側。
 黒い毛に覆われて見える体躯だが、その体中を這い回るのは体毛ではない。びっしりと肉体を覆っているのは、細く入り乱れる花々の根だ。肌に血管が浮き上がるような見た目で、細かい根が魔獣の体を覆い尽くしているのだ。

「――っ」

 びっしりと根に覆われる体だが、根の届かない部分は異常なまでに渇き、肉も皮も萎み切っている。顔貌は頭蓋骨の形がわかるほど極限まで水を失い、丸く飛び出す眼球はこの世の全てを憎悪するように血走っていた。
 それはさながら、自らの体に根を張る花々に命を啜られているかのようだ。

 花魁熊は花々と共存できていない。明らかに、花に命を殺されている。

「――――」

 見るだけで嫌悪感を堪え切れない魔獣が、メィリィの言葉に緩慢な動きで従う。
 ゆっくりと地面から体を引き剥がし、何も吸い上げられない砂原から根が引き抜かれ、千切れる音が無数に連鎖する。
 竜車が通れるだけのスペースを空けるために、動き出す花魁熊は十数頭に及ぶ。そして進めば進むほど、その数は加速度的に増えていくのだ。

「ふ」

 微かに、ユリウスの吐息が聞こえて竜車の前進が再開する。
 あのユリウスをして、眼前の光景には身の毛がよだつのを堪えられなかったのだろう。竜車の後尾につき、スバルたちも花魁熊の開いた道へ入り込む。

「……ぅ」

 途端、花魁熊の縄張りに入ったスバルの嗅覚に、暴力的な花の香りが飛び込む。
 それは砂蚯蚓と相対したときのような悪臭とはまるで違うが、それぞれ質の違う甘い香りが入り乱れる状況が暴力的であることには変わりがない。
 鼻腔が侵され、脳内の歯車が甘い香りに焦げ付くような錯覚さえ覚える。

「――――」

 冗談抜きに眩暈を起こし、頭痛すら呼び起こすおぞましい臭気。
 あれほど煩わしいと思っていた砂風でも構わない。この全身にまとわりつく毒のような香りを吹き飛ばしてくれるなら、と本気でそう思う。

 そんなスバルの願いもむなしく、風のないまま、一行は花畑の奥へ奥へ進む。

「――っ」

 ふいに、何かに気付いた様子でベアトリスがスバルの袖を引いた。何事かと彼女の方を見れば、ベアトリスは頻りに背後を気にしている。
 その仕草に嫌な予感を覚えながら振り向くと、ベアトリスの反応の意味がわかる。
 メィリィの指示で開かれた花畑の空白が、竜車とパトラッシュの通行を見届けると、その端からどんどん元の景観へ元通りになっていくのだ。

 メィリィの命令を叶え、竜車が通行した時点で命じられたことは達成。また元の定位置に戻り、そこで休眠状態に入る――というのが奴らの思考だろうか。
 戻るつもりはないにしても、これでは途中で停車することもままならない。無論、この魔獣の巣の中で休息を入れるなど、冗談でも遠慮したい話だが。

「――?」

 そう思った直後、竜車の前進が停止した。
 何があったかと前を見れば、竜車の止まった原因は明白。一頭の花魁熊が竜車の前に起き上がったまま静止し、その虚ろな目を御者台の二人へ向けている。

「――――」

 その一頭が不審な動きをすると、付近にいた花魁熊の動きにも変化が生まれた。それまでのそのそと素直に移動する花魁熊の足が止まり、竜車をジッと見つめる一頭の行動をトレースするように、視線が竜車へ集まり始める。

 ――マズい、とスバルは直感的にそれを悟った。

 振り返れば、花畑の突入地点からはすでに数百メートル進んでいる。後方の道は塞がれており、全方位を花魁熊に囲まれていることは明らかだ。その数は数百頭、あるいは千頭に及ぶ可能性もある。暴力的な数の差だ。

「――――」

 そうまで考えたところで、屋根の上にいるエミリアと視線が絡んだ。
 エミリアは竜車の前に立つ花魁熊を見下ろし、どういった対応を取るべきか判断に迷っている。もしもこのまま開戦が避けられないのであれば、竜車の前方をエミリアの魔法で切り開き、そのまま駆け抜けるのが最善の方法だ。
 ただ、タイミングを誤って早まりたくはない。

「し――」

 そうして判断に迷うスバルたちの前で、最も冷静だったのはメィリィだった。
 彼女は唇に指を当て、魔獣を前にして躊躇するスバルたちを先に落ち着かせる。それから彼女はその唇に当てた指を前に突き出し、自分を見る花魁熊を睨みつけた。

「ちっちっち」

 突き出した指、そして舌を弾くような音がメィリィの唇から漏れ出す。
 それはまるで、人が子猫をあやすときに出すような吐息だ。本当に相手が子猫であれば微笑ましい絵面も、凶悪な魔獣が相手では何の緩和作用もない。
 しかし、メィリィの指先は舌の音に合わせて揺れ、次第に花魁熊の視線は御者台の二人ではなく、メィリィ個人に、そしてメィリィの指へとずれていく。

「ちっちっち……ちぃー」

 そのまま、指に花魁熊の焦点が合ったと確信を得たメィリィが、揺らしていた指ごと腕をゆっくりと竜車の右へ向ける。その腕の動きにつられて、竜車を通せんぼしていた花魁熊は顔をそちらへ動かし、のそりと一歩を踏み出した。

「――ぉ」

 花魁熊の、竜車を離れる素振りに思わず安堵の息がスバルの喉から漏れた。
 身を固くしていたエミリアやベアトリスも、露骨な安堵に肩の力が抜ける。通せんぼしていた一頭が動くと、他の花魁熊もそれぞれの離れる動きに戻ろうとした。
 そのまま、花畑の行軍が再開する――はずだった。

「――――ッ!!」

 その瞬間、緊張の糸が切れて、声を上げてしまったのは誰も責められまい。
 突然、極限の膠着状態を強いられて耐えられるほど、心というものは強くない。それは人間もそうだし、地竜であっても同じだ。

 花魁熊の負のプレッシャーを間近で浴びたジャイアンが、低い唸り声を上げ、癇癪を起こしたように地面を踏み鳴らしてしまった。

「しま――っ」

 唐突に静寂を切り裂くジャイアンの咆哮に、休眠状態にあった花魁熊が一斉に反応する。竜車から離れようとした一頭が振り返り、その反応が周囲にも伝染――魔獣がその咢を開き、牙を剥き出しにして竜車に飛びかかる。
 直前――、

「――エル・ヒューマ!!」

 急速にマナが実体化し、作り上げられた氷槍の先端が魔獣の頭部を貫いた。
 開いた大口の中に鋭い氷の穂先が突き刺さり、口内を蹂躙してうなじから先端が突き抜ける。脳髄が掻き回され、花魁熊は声も上げられずに絶命して後ろに倒れた。その勢いに巻き込まれ、数頭の花魁熊が一気に横倒しになる。

「走れ――!!」

 それが、竜車の上にいるエミリアの先制攻撃と見取った瞬間、スバルは叫んだ。
 その叫びに呼応し、ユリウスが手綱を操ると竜車が勢いよく走り出す。当然、パトラッシュもそれに続き、立ち尽くす魔獣を横合いから撥ね、猛然と駆け出した。

「――ッ!」

「きたきたきたきたきたきたきた――ァ!!」

 一拍遅れて、凄まじい猛り声がアウグリア砂丘の夜を引き裂く。
 広大な花畑が一斉にめくれ上がり、牙と醜い面貌を剥き出しにして花魁熊の群れが猛然と突き進む竜車へ向かって押し寄せてきた。

「スバル! しっかり掴まってないと振り落とされるのよ!」

 豪風を浴びる錯覚は、無数の花魁熊が向けてくる殺意と食欲のプレッシャーだ。
 鉤爪を備えた太い腕が振り上げられ、容赦のない一撃が竜上のスバルへも打ち込まれる。直撃すれば人体など軽々と剥がされ、内臓がはみ出すこと請け合いの威力。
 しかし、それが命中する寸前に青白い煌めきが割り込み、魔獣に突き刺さる。

「えい! やあ! よしょっ! この……いっぱい、ヒューマぁ!」

 相変わらず、気の抜ける掛け声とともにマナが渦巻き、黒い空に青白い光が乱舞したかと思えば、それは鋭い先端を地上へ向ける無数の氷刃へ姿を変える。
 それは一瞬の停滞の直後、まるで推進力を得たかのように射出され、竜車へ群がろうとする花魁熊の頭部を、腕を、胴体を、足を、八つ裂きにして血煙を上げる。

「うおおお! さすがエミリアたん! 惚れ直した!!」

「そういうこと言ってる場合じゃないでしょ! 走って!」

「はい!」

 エミリアのフォローに命を救われ、スバルはパトラッシュを加速させる。
 こうした突然の戦闘に際し、エミリアは驚くほど冷静に戦いに対処する。思い返せばエミリアは戦いを忌避していても、戦い自体に気後れしたことはない。彼女の中で戦いに関する忌避感は、戦闘が始まってしまえば消し去れる逡巡なのだ。

「バルス、死ぬ気で走らせなさい。死にたくなければ!」

「ああ、もちろん――あれ、ラム!?」

 エミリアの奮戦、青白い光が竜車の前方をまとめて薙ぎ払い、正面へ回り込もうとした花魁熊の集団がまとめて凍り付く。
 ジャイアンが突進でその氷像を砕いて進む中、御者台に座って手綱を握るのはいつの間にか、客車から移動してきたラムだ。器用に手綱を操り、興奮状態にある地竜を御するラムに、スバルは目を剥いて視線をさまよわせる。

「ユリウスは!?」

「遠距離攻撃の手段がないと、御者台にいても役立たないそうよ。だから」

 ちらと、スバルの叫びにラムが背後を見る。その視線につられて後ろを見て、スバルは思わず度肝を抜かれた。
 砂を噛み、車輪が唸る竜車の側面、その装飾の一つに取りつき、握った騎士剣を振り回して接近する魔獣を切り払うユリウスの姿がある。

「エミリア様にばかり、ご負担をおかけするわけにはいかないからね」

「俺へのあてつけかお前!」

「そんなつもりは――」

 そこで言葉を切り、ユリウスは接近する魔獣の爪に騎士剣を合わせる。斬撃が鉤爪の隙間を縫い、花魁熊の腕を深々と切り裂いた。そのまま踊る剣先は絶叫を上げる魔獣の喉を閃光のように貫き、脳幹を破壊して絶命させる。
 その手際、最小の破壊で実に優美。

「ないとも」

 立て続けに魔獣を撃破し、スバルへの応答の続きを口にしてユリウスは剣を払う。その仕草に心強さと、同時に敗北感を味わってスバルは渋い顔だ。
 ただ、中・遠距離をエミリアが担当し、近距離をユリウスが切り払う。あの体制が続けば、竜車の方の心配はひとまず後回し。
 問題はむしろ、他人事ではない方向にある。

「ベア子、いけるか!?」

「スバルの方こそ、ガス欠にならないように十分に注意するかし、ら――!」

 パトラッシュの上で体を起こし、スバルは片手で手綱を、もう片方の手でベアトリスを抱え上げ、竜上に彼女の小さな体を立たせる。
 そしてしっかりと互いの手を握ると、スバルの腹の奥で何かが疼いた。淀みのようなそれは熱を持ち、ゆっくりとスバルの体からベアトリスの方へ流れ込む。

「ミーニャ!」

 詠唱とともに生み出された紫の結晶が、漆黒の地竜の鼻先を塞ぐ魔獣に狙いを定める。照準が合い、加速は一瞬、結果は直後だ。
 ガラスの砕けるような音を立てて、魔法の直撃を受けた魔獣がのけ反り、結晶が砕け散る。だが次の瞬間、直撃を受けた魔獣の肉体もまた、結晶と同じように砕けた。

「よし、いいぞ、ベア子!」

「でも、乱発はできないのよ! 注意深く節約して……ミーニャ!」

「注意深く節約は!?」

 ベアトリスの戦力は、スバルのマナ残量に依存する。
 押し寄せる圧倒的な物量に対抗するために、節約を是とするベアトリスであっても出し惜しみはできない。魔法の一発ごとに魂が削られるような喪失感を味わいながら、スバルは軽口を叩いて余裕ぶり、ベアトリスの気後れを減らしてやる。
 当然、そんな気遣いはベアトリスにはお見通しだろうが。

「ああ、もうもう! なんでこうなるのよお! これ、とっておきなんだからあ!」

 そして、ここまで沈黙を守っていた最終兵器が立ち上がり、地団太を踏んだ。
 御者台、ラムの隣に座っていたメィリィは涙目になり、赤い顔をして周りを取り囲む花魁熊の群れを見渡す。そして、自分に従わない魔獣に指を突き付けた。

「悪い悪い動物さんたちにお仕置きしてあげるわあ! きなさい、砂蚯蚓!」

「――嘘だろ!?」

 メィリィが拗ねた子どものように言い放った直後、花魁熊が起き上がったことでめくれた砂原が、さらにその砂の下から豪快に持ち上がり、巨躯が飛び出す。
 巨獣が地下から全身を突き上げる勢いに呑まれ、巻き込まれた花魁熊が何頭も空に打ち上げられた。高所から砂に転落する魔獣は骨が砕け、そして運悪く真上に上がった花魁熊はその、強大な口に呑まれ、咀嚼される。

 砂原を破って飛び出し、おぞましい花畑を荒らすのはあの砂蚯蚓だ。
 悪臭を漂わせ、宵闇を切り裂く奇声を上げながら、砂蚯蚓は竜車に取りつこうとする花魁熊を獲物と定め、その巨躯を躍らせて一気に叩き潰す。

「いっけえ、砂蚯蚓! みんなみいんな、ぶっ潰しちゃええ!」

「マジか、オイ! マジかマジかマジか、おいおいおい!」

 地鳴りが生まれるほどの重量が砂海をのたうち、巨躯に押し潰される花魁熊の絶叫が響き渡る。花魁熊も決して小さな体格ではないが、全長が十メートル以上もある砂蚯蚓の巨体には到底及ばない。
 圧倒的な質量差がぶつかり合いの結果となり、次々と花魁熊は死骸へ変わる。

 もはや怪獣大決戦のような有様に、スバルはまともな言葉もない。
 エミリアとベアトリスの魔法が、ユリウスの剣技が、メィリィの異能がかろうじて道を切り開き、竜車とパトラッシュは花畑をどんどん前進する。

「ああ! 砂蚯蚓があ!」

 メィリィの悲鳴が聞こえた。
 見れば、多数の花魁熊に取りつかれた砂蚯蚓が、その巨躯に爪を立てられて全身からおびただしい体液をこぼし、地面に倒れ伏す。
 ぬらぬらと濡れそぼる砂蚯蚓の外皮は、蛇や昆虫のように強固なものではない。軟体を支える皮膚は容易く鉤爪の餌食になり、断末魔の悲鳴が砂海に木霊した。

「次! 次々い! どんどんきてえ!」

 巨大な一匹が倒れて、顔を蒼白にしたメィリィが手を叩く。と、それにつられてまたしても砂が持ち上がり、別の砂蚯蚓が顔を出した。
 今度は同時に六匹、しかしいずれも最初の一匹に比べると二回りは小さく、花魁熊の群れに囲まれればあっという間に狩られてしまう。

「このままじゃ……っ」

 数の暴力に押し負ける。ひどく絶望的な感覚に、スバルは何か打開策はないかと必死に周囲に目を向けた。そして、気付く。

 あれほど遠かった監視塔が、ほとんど眼前と言っていいほどの距離まで迫っていることに。

「もうちょっとだ! このまま監視塔に辿り着けば――」

 それで魔獣が引き下がるわけではないが、それはやけに力のある希望に思えた。
 この瞬間、何か特別な考えがあったわけではない。

 ただ、監視塔に辿り着けばおそらく、この状況を打開する力があると感じた。
 藁にも縋るような希望の精神だ。そしてそれは事実、間違っていなかった。

「このまま――」

 ただし、その力はそうそう都合のいいものではない。
 プレアデス監視塔へ近付く、不埒な輩に対して公平に降り注ぐ鉄槌だ。

「――?」

 必死に目を押し開き、パトラッシュにしがみついてベアトリスを支えながら、スバルは正面に見える監視塔を睨みつける。
 汗が伝い、微かに目を細めた瞬間、スバルはわずかな違和感を得た。

 塔の中心、そこで何かが光ったように見えたのだ。

「なん……」

 だ、と最後の一文字は続かなかった。

「――――」

 ――光が空を走り、それは狙い違わずスバルの頭部を直撃する。
 瞬間、ナツキ・スバルの首から上は衝撃に吹き飛び、意識もないまま蒸発した。

「――――」

 その一瞬の惨劇を目にし、声を上げる者はこの場にいない。
 何故なら、それを目にする者も、悲鳴を上げるべき者も、根こそぎにされたからだ。

 音を立てて、頭を無くした地竜が倒れる。
 猛然と横倒しになる竜車の勢いに巻き込まれて、やはり頭部を無くした人体が押し潰され、へし折れ、肉片へと変わる。

 血溜まりだけが砂の上に転がり、乾いた砂は流れる血潮を呑み込んでいく。
 やがてゆっくりゆっくりと、砂の細かい粒子は砂海に朽ちる何もかもをその腹の中へと引きずり込み、押し隠してしまう。

 血の華だけが、彼らの旅路の痕跡であったかのように鮮やかに色を残し。
 しかしその紅の華さえも、全てを呑み込む砂の中に消える。




 ――一行はここに、全滅した。

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