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Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第二章 『激動の一週間』
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第二章16 『二週目の困惑』


 何度でも宣言しておくが、ナツキ・スバルはエミリア一筋を標榜している。

 異世界にきて以来、機会があって元の世界では遭遇するはずもない美形に立て続けに出くわしているが、彼女の存在は群を抜いている。

 純粋に容姿が美しいというのもあるが、それ以上に単純な話、惚れた弱味である。その条件下にある以上、彼女の戦闘力はぐんぐん上がり続ける。

 よって、どんな美貌が相手でもスバルの心がエミリア以外になびくことはあり得ない。あり得ないったらあり得ない。


「だから、この完璧なベッドメイキングはただ自分がゆっくりと眠りたいって以上の意味はないんだからな」


 鋭い勢いで指をベッドに突きつけ、誰にともなく気合いの言い訳。

 風呂上り、部屋に戻ったスバルの目の前には、戻ってからの時間の全てを費やして整えられた寝台がある。


 洗濯物の入った籠すら放置しての仕事ぶりは、風呂に入ったばかりなのに額に汗しての大仕事だ。久々に、満足のいく仕事ができました。


「深い意味はない。深い意味はないぞ。心頭滅却心頭滅却。エミリアたんがひとり、エミリアたんが二人、エミリアたんが三人……天国か!」


「騒がしいわ、バルス。もう夜なんだから、静かにしなさい」


「ふぁぁぁらうぇい!」


 大きく跳ねて壁際に後ずさり。部屋の入口、音もなく扉を開けたラムが立っているのが見える。彼女は中に入ってから戸をノックし、


「静かにしなさいといった直後にこれか、もうダメね」


「なんなんだ、お前の自分ルール! 聞いてて常識感が揺らされるからハラハラするわ! お前は何をどうして俺にどうなってほしいんだよ!」


 怒鳴り散らすスバルに対し、ラムは「ハッ」と小さく鼻を鳴らす。言葉にすらしない侮蔑の意思をぶつけられて、もはやスバルもお手上げのだんまり。

 そんな彼の前をつかつかと横切り、ラムが向かうのは寝台――ではなく、その手前にある小さな木製の机だ。


 一応、書き物などをするためのスペースとして各部屋に用意されているのだが、こちらの世界の読み書きができないスバルにとっては無用の長物となっている。もちろん、日本語で書き記すことはできるだろうが。


「最悪、それでもやっとくべきか。持ち越せないにしても、文字に起こしておけば記憶するって意味じゃ明快になるかもしんねぇし……」


「なにをぶつぶつと言ってるの。バルス、こっちきなさい」


 犬でも躾けるようなぞんざいな言い方に、スバルの額に青筋が浮かぶ。が、ここで相手のペースに巻き込まれても損をするだけ。そもそも、相手を自分のペースに巻き込んでこそのスバルの本領発揮といえる。


 とにかく、どんなビックリ発言が飛び出したとしても、決して揺るがないぶれない鋼の心を鍛えておく。

 まるで戦場に向かうような心境、それを持って立ちはだかるラムの前へ。


「それで? 今度はどんな無茶を持ってきてくれたんだ」


「なにを言っているの? 文字の読み書きを教えてあげるから、早く座りなさいって言ってるでしょう」


「初耳だよ!?」


 鋼即融解。

 硬質化したはずの心が一瞬でふにゃふにゃに折られたのを確認、それから動揺を隠せないまま机の上を見やり、そこに真っ白のページが広がるノートと羽ペン、赤茶けた背表紙の本を見つけて息を呑んだ。

 冗談でも悪ふざけでも嫌がらせでもなく、本気で純粋に文字を教えてくれようとしているらしい。


「でもまた、急になんで……」


「バルス、あなたは読み書きができないでしょう。それは今日の働きを見ていてわかったわ。だから、それを教える。読み書きができなければ買い物のメモもできないし、用件の書き置きもできない」


 戸惑うスバルの問いかけに、ラムは至極真っ当な答えを返す。

 思わずぱくぱくと、魚のように口をだらしなくさせるスバル。その彼の反応を気にもとめず、ラムは赤い背表紙の本を示し、


「まずは簡単な童話集、子ども向けから始めるわ。これからは毎晩、ラムかレムが付き合うから勉強をすること」


 ありがたい申し出でこそあるが、素直に困惑する気持ちが強い。

 この展開も先の風呂場と同じで、前回にはあり得なかった状況だ。そしてスバル自身の目測としては、前回の四日目などに比べれば、まだまだ双子たちとの間の距離は開いたままだとも考えていた。


 にも関わらず、こうして善意の勉強会が行われたのは何故なのか。


「決まっているわ。――楽をするためよ」


「マジぶれねぇな、お前」


「当たり前でしょう。バルスのやれることが増えれば、それだけラムの仕事が減る。ラムの仕事が減れば、必然的にレムの仕事も減る。良い事尽くめよ」


「俺がその代わりに超仕事に追われてるけど!?」


「……?」


 突っ込みに対して怪訝そうに首を傾けられました。

 発言の意図がわからないみたいな反応に、もはや口答えする気力もない。

 そんな風に呆れ果てる一方で、嬉しかったのも事実だ。


「オッケー、オーライ、了解だ。お勉強、しましょうじゃあーりませんか」


「バルスの場合は会話の文法は大丈夫だから、そこまで難しいことはないわ。生まれ持ったセンスに罪はないから」


「フォローのふりした罵倒入ってるよな?」


 言いながら机の前に腰を下ろし、羽ペンを持って準備完了。これまでは触れる機会すら持たなかったが、羽ペンは軽く、ノートの上を滑らせるとなかなかどうして達筆に文字が描かれた。

 異世界での記念すべき最初の一筆だ。スバルはノートの表紙に向かい、筆を大きく滑らせて、


「ナツキ・スバル参上……と」


「いきなりだけど、そんな絵なんて書いて遊んでる暇はないわ。明日も早いし、時間は限られているんだから」


「いやこれ俺の母国語なんだけど……やっぱ伝わらねぇよなぁ」


 会話の成立から、ひょっとしたら文字も書いてみれば翻訳されるパターンを期待したのだが、そう都合よい展開には恵まれない。

 こちらからすればこの世界の文字が象形文字なように、日本語は少しこじゃれた書き殴りにしか見えないのだろう。

 スバルの大好きな四字熟語系の知識も、これでは猛威をふるえない。


「でも逆にどんな卑猥な妄想を文字に起こしても、誰にも気付かれないってことだよな。そのシチュエーションは……使い道あるかリビドー的に!」


「まずは基本のイ文字から。ロ文字とハ文字はイ文字が完璧になってから」


「三種類もあんのか、聞くだに折れるな」


 新たな言語習得を前にすでに挫かれそうな心が辛い。日本語を習得しようとする外国人の気持ちが少しわかる。平仮名・カタカナ・漢字と三種類もあっては、登る山の高さに途方に暮れるというものだ。


「イ文字を把握してから、童話に入るわ。勉強時間は……冥日一時までが限度でしょう。明日もあるし。ラムも眠いし」


「最後に本音がチラリズムするそういうとこ、嫌いじゃねぇな、先輩」


「ラムもラムのそういうところが好きだわ」


 切り返しに躊躇いがないから、本音か冗談か判断し難い。かなり高確率で前者な雰囲気を感じながら、スバルの文字習得レッスンが始まった。


 新しい言語を習得するとき、まず最初に行うのは使用される文字の種類を把握することだ。平仮名ならば五十音と呼ばれるように、言語にはまず使用される基本文字があり、あとのことはそれらの組み合わせで語られる。

 よって、言語の習得は文字の書き取りから始まるわけだが、


「想像以上に苦痛……筆記体の勉強してたときみてぇだ」


 ラムが書き出してくれた基本の文字を、ページ一枚に四百文字ほどのペースで書き連ねていく。ゲシュタルト崩壊を起こしそうな積み重ねだが、この地道さこそが必要な手段と割り切って没頭している。


 疲労と眠気で正直瞼が重いが、付き合ってくれているラムのことを思えば船をこぐなどもってのほかだ。そもそも、こうして二回目の初日から友好的に振舞ってくれていることが貴重。チャンスを逃すわけにはいかない。


「なんつーか、楽するためとか言ってっけど、それでも嬉しかったよ」


 照れ臭い気持ちを堪えながら、素直な気持ちを後ろのラムに伝える。

 羽ペンをノートに走らせるかすかな音、繰り返し繰り返し同じ文字を羅列させる作業の合間を縫って、スバルは前回の四日間を回想する。


 思えば、時間さえあればエミリアの尻を追いかけていた日々だったが、その間をもっとも長く一緒に過ごしたのはラムだったろう。

 あらゆる屋敷周りの仕事――炊事も洗濯も掃除も、全てが素人同然のスバルを教育するには骨が折れたはずだ。彼女にしてみれば仕事はそれだけでなく、通常業務も兼務しながらだったのだからなおさらだ。


 負担は当然レムにもいっていただろう。故に、前回の四日間でレムと接した時間はそれほど多くない。優秀なレムがその分の仕事をしていたとラムなどは語るが、直接的ではない負担をかけたことはスバルの負い目にもなっていた。


「正直、あんまし好かれてっとは思ってなかったし」


 ただでさえ忙しいのに、使えない奴が後輩として入ってきたのだ。自分の仕事をして、時間を削りながらもそいつに色々と教えなくてはならない。

 対人経験値の少ないスバルなどにとっては考えるだけで苦痛の一言。そしてそう思われることは、スバルにとって慣れ親しんだ感覚だ。


 故に、否定されていないような現在が、スバルには嬉しかった。


「だから、これからも迷惑かけるとは思うんだけど、よろしく頼むよ」


 椅子を軋ませて軽く首だけ後ろに向け、無言で見守るラムに告げる。

 心の内からふとわき出た本音、それに対してラムは静かに、


「ぐう」


 綺麗にベッドメイキングされた寝台の中で、可愛らしく寝息を立てていた。

 靴を脱ぎ、エプロンを外し、ヘッドドレスをベッドの脇に置いて、布団を肩までかけた折り目正しい就寝スタイルだ。


 ばき、と音を立てて羽ペンが折れた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 ふと込み上げる衝動に従い、スバルは大口を開けて欠伸をかます。

 噛み殺すに至らなかった眠気が目尻に涙となって浮かび、それを乱暴にこすりながら背筋を伸ばす。


 夕刻の空は沈む太陽の餞別で橙色に染まり、流れる雲はゆったりとした動きで一日の終わりを労ってくれている。

 それらを見送りながら節々の関節を回し、スバルは己の体の調子を確認。やはり重労働影響は残っているが、以前に比べればマシといったところか。


「とはいえ、体の強度は戻っても変わんねぇからな。……ちったぁ疲れない動かし方を学んだってことか」


 肉体の慣れでなく、純粋な作業への慣れによる効率改善。それが疲労のわずかな軽減につながっているのだろうと予想。

 もし今後もループする可能性があるなら、繰り返しによる肉体の強化は期待できない。できることはあくまで出来事の予習と、家事技能の習熟ぐらいか。

 そう割り切らねばやってられまい。なにせ、


「スバルくん、お待たせしました。――大丈夫ですか?」


「ん、ああ、だいじょぶじょぶ。レムりんも、買い物終わり?」


「はい、滞りなく。スバルくんは、色々と大変そうでしたね」


 荷物の入った手提げを前に、小首を傾けてそう労うのは青髪の少女――レムだ。変わらぬメイドの装いの彼女は風に揺れる髪を押さえ、その表情をほんのわずかだけゆるめてスバルを見ている。


 泥と埃、そして鼻水や涙で執事服を汚しに汚したスバルの方を。


「ずいぶんと人気でしたね」


「昔っからどうしてかガキんちょにやたらと好かれる性質でさぁ。やっぱアレかなぁ、俺の中の抑え切れない母性的ななにかが童心を惹きつけてやまない的な感じ」


「子どもは動物と同じで、人間性に順位付けをしていますから。本能的に侮っていい相手かどうかわかるんですよ」


「それ、褒められてないよね!?」


 顎に手を当てて不満をアピールするスバルに、レムは何も答えない。

 わりと辛辣なコメントをされて、そういうところがやっぱ姉妹だとスバルは内心で納得の頷き。

 直接的なラムと遠回しなレム。彼女らとの付き合いは精神的にタフでなくてはやっていけない。もちろん、体力的にもタフでなければそもそも仕事が立ち行かなくなってしまうのだが。


 苦笑しながら腰を回し、スバルは首をめぐらせながらあたりを振り返る。

 背後、広場の方からはいまだ子どもたちの嬌声が遠く響いていた。つい先ほどまではスバルもあの輪に加わり、打撃やよだれを相手に悪戦苦闘していたものだ。誰もかれも容赦なく、味方のいない孤高の戦いだった。


 現在、スバルとレムがいるのは屋敷のもっとも近くにある村落だ。

 あれで辺境伯、という立場にあるロズワールは当然、いくつかの土地を領地として保有する一端の貴族である。

 屋敷の直近であるこの村落も例外ではなく、暮らす人々は当たり前のようにこちらの顔を見知っている。特にメイド二人は買い出しの機会も多いのか、通りがかるたびに声をかけられる率はかなりのものだ。


 その一方でスバルもまた、いつの間にか存在だけは周知されていたらしい。実際に足を運ぶのは初めてだったにも関わらず、友好的に迎え入れられたのはむず痒いながらも嬉しかった。

 とはいえ、


「あのガキ共の馴れ馴れしさはいったい……俺の触れると火傷しかねない、ハードボイルディックな雰囲気が理解できねぇのか」


 ハードボイルドでアダルティック、略してハードボイルディック。

 煙草をくゆらせながら低い声で呟きたい称号を口にしてぼやくと、先を歩くレムは視線だけでこちらを横目にして、


「母性って言ったり大人を気取ったり、スバルくんは忙しいですね」


「忙しかったらむしろこんな目には遭わずに。クソ、やっぱレムりんの買い物に付き合ってりゃよかったよなぁ」


 実際の買い物の場に付き合っても、食材の区別も名称もわからないスバルでは役に立たない。よって、気を遣わせるぐらいならと引っ込んでいたのだが、そこを村の子どもたちに見つかって拉致されたのは予想の外だ。


「大まかなとこじゃ文句はねぇんだが……解せん」


「なにがですか?」


「いや、こっちの話。レムりんは警戒しながら話しなくて済むから助かるぜ、実際。ラムちーの場合、どんな角度から蔑まれるかわかりゃしねぇ」


「姉様は素敵でしょう」


 微妙に会話が噛み合ってない。

 姉を自慢するように少し鼻高々なレム、そこに含む様子は見られないので本心なのだろうと推察。だが、


「ぶっちゃけ、ラムちーの性格だと問題多くね? けっこうな頻度で軋轢生みそうな感じだけど」


「使用人としても人としても未熟なスバルくんほどじゃないですよ」


「で・す・よ・ねー」


 人のふり見て我がふり直せ。

 現状でラムの半分以下しか貢献できないスバルの口から、ラムの能力と性格批評など鼻で笑われて当然だ。ましてや相手はさらにそのラムの改良版。

 直接的でない分、皮肉の切れ味もまたラムより数段上だった。


 先を歩くレムの後ろに付き添いながら、スバルは頭を掻いて思い悩む。

 ――前回の村での買い物は、ラムに同行したはずだったのだが。


「そういえばスバルくん、勉強の進み具合はどうですか?」


「着々と……って答えたいけど、そうそう簡単にはいかないわな。やっぱ何事も時間をかけてゆっくり育てねぇと。愛情と一緒だね!」


「途中で枯れないといいですね」


「今のレムりんのコメントには愛が枯れてるよ!」


 叫び、レムの表情をわずかに微笑に変えて、スバルも笑う。

 ――ラムが夜の個人レッスンを申し出て、すでに四日が経過している。交代でスバルの文字教育に当たるとの話だったが、その間に講師役がレムであったことは一度もない。

 状況的に見て、レムが仕事に穴を開けられる状態ではなかったということなのだろうが、それが彼女にとっては負い目になっていたようだ。

 珍しく口ごもるような反応を見せる彼女に対し、スバルは笑いを継続して、


「しーんーぱーいーすんなって。別に放置されてるわけじゃねぇし、講師役ラムちーに不満もねぇし? いや、教えてる最中に普通にベッドで寝られるとかやる気削がれることは間違いねぇけど」


「姉様はスバルくんのやる気を発奮させようと、あえてそう振舞っているんですよ」


「なにその俺を上回るポジティブシンキング。姉を崇拝する気持ちが並大抵じゃねぇぞ、マジ鬼がかってんな」


「鬼、がかる……?」


 最近のマイブームな言葉に首を傾げるレム。


「神がかるの鬼バージョンだよ。鬼がかる、なんかよくね?」


「鬼、好きなんですか?」


「神より好きかも。だって神様って基本なんにもしてくんねぇけど、鬼って未来の展望話すと一緒に笑ってくれるらしいぜ」


 来年の話をすると特に盛り上がるらしい。

 肩を組んで赤鬼や青鬼と爆笑し合う光景を思い浮かべるスバルは、ふとレムがその表情に確かな笑みを刻んでいるのを見た。


「お……」


 これまでにも何度か微笑する姿は見てきたが、こうしてきちんと笑顔と表現できる顔を見せてくれたのは初めてのことだ。

 何が彼女の琴線に触れたのかわからないが、スバルは指を鳴らし、


「その笑顔、百万ボルトの夜景に匹敵するね」


「エミリア様に言いつけますよ」


「口説いたのと違うよ!?」


 姿勢を正して両手を突き出し、神妙に許しを乞うポーズ。

 ふと、レムはその姿勢を取るスバルを見て軽く眉を上げ、


「その手、どうしたんですか?」


「ん? ああ、ガキ共が戯れてた犬畜生に超ガブられた」


 くっきり歯型の浮かんだ左手の傷、微妙な出血があったが現状はすでに止まっている。前回も同じ目にあった覚えがあるので、変なところだけ律儀にトレースしていることになる。

 ちなみに、執事服の背中あたりで盛大に鼻水をかまれているのだが、それに気付くのも前回と同じで屋敷に帰ってからのことだ。


「傷、治しましょうか?」


「え? なに、レムりんも回復魔法とか使える系?」


「簡単なものですが、手当てくらいなら。エミリア様の方がいいですか?」


「む、否定できない魅力的な提案だ。だ、け、ど……遠慮しとく」


 左の手の甲に浮かぶ犬歯の跡を眺めながら、スバルはその申し出を辞した。

 傷跡はある意味、目印としてちょうどいいと判断したからだ。今回のループが始まった瞬間、もっともその事実をスバルに知らしめたのは傷の消失に他ならなかったからである。

 傷のあるなしは判断材料として有効だ。偶然にも犬に噛まれなければ、適当な刃物なり羽ペンなりで自傷しなければならないところだった。


「ふ、ほっぺたに刀傷とかの憧れは中学で卒業したぜ。今になって思い返すと、超傷跡だらけになってた俺って……」


 顔の傷跡に憧れて、引っかき傷をせっせと作った時代が懐かしい。一個じゃ物足りないと作りまくり、おまけに運悪く傷が化膿して包帯男と化す大惨事にまで発展。中学の卒業アルバムはひとりだけミイラ男である。


「やだ、俺、可愛い……!」


「傷跡は男の人の勲章と言いますから。そういえば、ロズワール様も消さない傷跡を自慢していらっしゃいます。――胸のあたりの」


「なんか生々しい話題になりそうだからパスしていい?」


 知らず話題がメイドと主の怪しい関係に発展しそうになって慌てて制止。

 意味がわかっていないのか、不思議そうに首を傾けるレムの背中を押し、「いいからいいから」と帰路を急ぐ。


 生々しい話題の継続にはついていく自信がないし、それにスバルだってそれなりに緊張もしているのだ。

 ――なにせ、二回目の世界も今日でぴったり四日目を迎えているのだから。


「明日の朝、無事に迎えられるかが勝負だな。その前に」


 エミリアとそもそも約束ができるかどうかも、大事な勝負なのだが。


「……それにしても、ラムちーとレムりんの性知識は大丈夫か。なんかいいようにあの旦那様に騙されてやしないか心配なんだけど」


 前の週のループより詳しく知るにつれ、そんな疑問が鎌首をもたげ始める。自分の事情が片付いたら、それとなく探りを入れておこう。


 そんな決意もひそかに固めるスバルだった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 ナツキ・スバルの二度目のロズワール邸一週間、その局面は今、最大の危機を迎えていた。

 予習していた前回をあまりちゃんとなぞれていない時点で、そもそも順風満帆とは言い難い展開ではあったのだが、ここへきて最大の危機発生である。

 つまり、


「勉強の拘束時間があるせいで、エミリアたんとこに顔出せねぇ」


 月明かりの照らす庭園で、二人愛を囁き合いながら約束を小指で交わす。

 二回目の夜にそんな希望を抱いていたスバルにとって、ここへきてイベント進行に支障をきたす事態は最悪の展開だった。


 勉強自体はまだ四日目でしかなく、夕食前にさりげなく「今日とか、ちょっと休憩入れて休んでもよくね?」と直球で双子に申し出たのだが、


「姉様、姉様。スバルくんという名の根性無しが早くも音を上げていますわ」

「レム、レム。バルスって名前の人畜に劣る負け犬が犬語で何か言ってるわ」


 と、これまでにない白眼視で却下されてしまった。

 かくなる上はサボってでもエミリアの下へ駆けつけたいのだが。


「ラムレム経由でエミリアたんにサボりが伝わったら、性格的に間違いなく約束キャンセルされる……!」


 約束が交わせても、その後に反故にされれば意味がない。

 約束の逢引。そして花畑で燃え上がる二人、夜の街に消えていく。そこまでできて初めてスバル的なHAPPYENDと言える。


「かといって、しっかり勉強してたらエミリアたんと顔合わせる前にオネムされちまう」


 よって、スバルにできる最善の答えはたったひとつ。

 即ち――出される課題をでき得る限りの速度で終わらせて、月が雲隠れしてしまう前に庭へ舞い降りる。これだ。


「あるいは究極のベッドメイキングでラムを眠りに誘い、寝ている間に約束を交わして戻ってきて課題も終わらせる……つまり、挟み撃ちの形になるな!」


 正しくは板挟みともいう。課題と約束の間に揺れる、悲しい男心だ。


 次善の策も用意し、すでに寝台の調整は終わっている。日差しをたっぷりと吸い込んだ寝具の調子は絶好調であり、触れているだけで感じる温かみは人を眠りの世界に堕落させるには十分な威力を持っている。

 そこへきて、スバルの中に秘められしホテルマンとしての全ての力をここに集中し、稀代のベッドメイキングは完了した。


「これ以上のベッドメイクを、俺は成し遂げることはできないだろう……」


 文字通りのありったけ、それをブチ込んだ傑作だ。

 我ながら惚れ惚れする出来栄えに、いつもならそこに勝手に横たわるラムが憎たらしくてしょうがないのに、今は早く入ってほしくてたまらない。


「まるで、新しく買ってきたゴキブリホイホイに早くゴキブリが入るのを待ってるみたいな気分――最悪だな!」


 言い繕っても事実は事実なので訂正はしないが。

 とはいえ、それで律儀に相手を待つあたりが、スバルの非情に徹し切れない日本人気質の表れともいえた。

 机の前にスタンバイし、膝を指で叩きながら相手の来訪を待つ。が、


「今日に限ってなぜ遅い。始まるのが遅いと、当たり前のように終わりも遅くなるだろうが。学校の授業と違って、終わりのチャイムがねぇんだぞ」


 学校なら、教師が遅れてくるのはむしろ「待ってました!」だが、現状では純粋に拘束時間が延びるだけの無為な時間でしかない。

 無駄な時間なら復習に裂け、と思わないでもないが、今日の心境で心を落ち着けて文字に挑むことはかなり厳しいと言わざるを得ない。


 そんな心情で課題を早く終わらせようなど、ちゃんちゃらおかしい決意であることにスバル本人は気付けない。

 そして刻々と過ぎる時間に気持ちは焦りまくり、いざ部屋の戸がノックされた音に気付くと、つかつかと早足で乱暴に扉を開けて、


「遅いじゃねぇか! この一秒一秒はお前にしてみたらなんでもなかったかもしれないが、俺にとっては魂を削るのと一緒なんだよ!」


 と食ってかかり、


「……そんなに待ってたなんて、ごめんね? 私、あまりこっちの階ってきたことなかったから」


 扉の外で待っていたエミリアにそう言われて、血の気が一気に引いた。



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