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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第二章 激動の一週間

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第二章17 『鎖の音』


「それで、ラムもレムも今夜はスバルのところに顔を出せないっていうから……私が代わりに勉強の監督を引き受けたの」

「そうなんだ! へぇ、それは嬉しいな、マジサプライズ! あ、座って座って。お茶とかいるよな。そだ、とっておきの茶菓子をくすねておいたんだ」

 部屋にエミリアを招き入れると、スバルは慌てふためきながらお出迎えの準備を始める。
 廊下を駆け抜けて、使用人階専用の給湯室的な部屋に入り、お茶と茶菓子を用意してダッシュで戻る。この間、わずか二分の早業だ。

 屋敷での使用人生活で身に付けたスキルを遺憾なく発揮し、スバルは屋敷の主であるロズワールにすら見せない仕事ぶりをここに成し遂げた。

「お待た! 戻ったよ! とっておきの茶葉といざってときの茶菓子を持ってきたから、一緒にアーンってしながら食べようぜ!」

「本題が忘れられてるみたいな感じがするけど……ちょっと、いい?」

 部屋の中で所在なさげに立っていたエミリアの問いに、盆を抱えたままのスバルは首を傾げて疑問符を浮かべる。
 彼女はそんなスバルの前で、ゆったりとした動きでベッドを指差すと、

「なんか、ずいぶん念入りに整えられてない?」

「あ! 違うよ! 別になんか企んでたとかじゃなくて、ラムちーを寝かせようとしてただけだから! 怪しくないよ!」

「スバルのベッドにラムを寝かせてどうするつもりだったの?」

「すごい勢いで誤解が急旋回してね!?」

 お盆を机の上に置き、疑いの眼差しを浴びながらベッドにダイブ。時間をかけて入念にセットした寝台を荒らすに荒らし、

「ほーら、これでもう全部台無し。そうだよな! ラムちーみたいな悪女ってる子にゃぁ、寝乱れたベッドで十分だよな!」

「ここで寝かせる気なのは変わらないのね」

「俺のフォローじゃしのぎ切れない! パック、かんばーっく!」

「もうお休みの時間だから起こしたげないの。……別にいいけど」

 灰色の猫に縋るスバルにエミリアはそっと自分の腕を抱き、こちらからは視線を外しながら、

「スバルがラムやレムと仲良くするのはいいけど、ちゃんと節度は守らなきゃダメだからね。ましてや、あの二人はまだ若いんだし……」

「貞操観念が強いとこも俺的にはポイント高いな。ってか、その発言は俺よりもっとふさわしい奴が屋敷にいねぇ? ヒント、ロン毛で変態」

「ああ、アレはもういいのよ。……矯正は諦めてるもの」

「エミリアたんの目から光が消えるレベル! なんかゾクゾクするよ!」

 諦観を瞳に宿す彼女の態度は、まるで打ち捨てられた子犬かなにかのようで庇護欲を棍棒で殴打してくる。早い話が、エミリアならどんな顔をしててもスバルにとっては可愛いのだが。つまるところ、

「E・M・T(エミリアたん・マジ・天使)」

「まだすごーくくだらないこと言ってるときの顔してる。そろそろ、スバルのこともわかってきたかも」

「嬉しいこと言ってくれるじゃないの。でも、そんな簡単に俺の底を見透かせるだなんて勘違いしないでよねっ。あ、お茶どぞー」

「あ、どうもどうも」

 差し出したお茶を受け取って、そっと喉を潤すエミリア。彼女に机の前の椅子を譲り、スバルはベッドに腰掛けながらお茶をすする。
 秘蔵の茶菓子も分け合って食べ、ゆったりとした穏やかな時間が二人の間に流れていた。こんな時間を、幸せというのかもしれない。

「そんなふうに、ぼくは、おもうんだなぁ。すばる」

「全然普通のこと言ってるのに、なんでか心に響いたみたいに感じる」

「言葉のトリックだな。平仮名っぽく発音するのがコツだ。当たり前のことを当たり前のように言うだけなんだけど」

 スバルの戯言にも慣れてきたのか、エミリアの態度は自然なものだ。
 彼女もまた、この穏やかな時間を享受してくれているとわかってどことなく嬉しい。そのまま静かに時間は過ぎ――、

「って、遊びにきたんじゃないんだから、落ち着いてちゃダメじゃない」

「男の部屋に夜にひとりでやってくるのに、それが夜遊び以外のなんだって言うんですか! 火傷しますよ!」

「知ってると思うけど、パックなしでも魔法は使えるからね?」

 ぱきぱきと空気が乾いた音を立ててひび割れ、室内の気温が一気に低下していくのがわかる。
 お茶から立つ湯気の勢いと濃さが増すのを見て、スバルはこれ以上の引き延ばしは無理だと判断。苦笑いして机に向かい、

「オッケオッケ、わかりました。勉強、勉強しましょう。エミリアたんと夜の個室でドキドキレッスン……言っててなんか興奮してきたよ!」

「はいはい、わかったから。とりあえず、いつもはどうしてるの?」

 場所を交代して椅子に座るスバルに、背もたれに手をかけたエミリアがすぐ傍でそう問いかける。間近で彼女の吐息を感じながら、スバルはややどぎまぎとノートと参考書を開き、

「今は基本のイ文字ってやつを書いて覚えてるとこ。この童話集がほぼイ文字でできてる話の寄せ集めって話だし、これ読めるようになんのが今のとこの目標ってとこ」

「ふーん、童話集か……」

 赤茶けた背表紙の本を手に取り、ぱらぱらと中身を確認するエミリア。ふと、ページをめくるその指が止まり、スバルは「ん?」と彼女を見上げ、

「なんか、気になるお話でもあった?」

「んー、そこまでじゃないけど、ちょっとね。まあ、スバルもこれが読めるようになったらきっとわかるわよ」

 音を立てて本を閉じると、エミリアはベッドの方に向かって腰を落ち着かせる。自分が荒らしたベッドにエミリアが腰掛けているのを見ると、なぜかほのかな興奮が沸き上がってきてスバルを落ち着かなくさせる。
 が、彼女はそんなスバルの獣の本能になど気付かぬ様子で体を伸ばし、

「ホントは冥日にしか会えない子たちとお話する気だったんだけど、ラムとレムに頼まれちゃったからね。今日はスバルを優先してあげる。感謝してね」

「もう超感謝してる! マジ御仏の御導きだよ!」

「そ、そんなに感謝されるとちょっと照れるかも」

「ありがとう! ラムちー! レムりん! お前らの心遣いを、俺は絶対に無駄にしない! ナツキ・スバル、男になります!」

「あれ、そっち!? 私には!?」

 この状況を作ってくれた双子に対して感謝を叫び、不満げなエミリアに対して向き直るとスバルは両手を突き出し、

「もち、エミリアたんには最大級の感謝感激の雨嵐。勉強とか終わったらマッサージとかいかがッスか。日頃の感謝を込めて、マジ手取り足取り腰取りしながら日々の疲労を癒して溶かしてさしあげちゃう。うへへ」

「なんか手つきがいやらしいから嫌」

「クソ、俺の正直者め! でもそんなところも嫌いじゃない!」

 泣き真似しながら机にもたれかかるスバルにエミリアは吐息。その見慣れたアクションひとつで会話を区切ると、彼女は手を叩いて、

「ほーら、いつまでも遊んでないの。明日もちゃんとお仕事あるんだから、響かない内に終わらせましょう。さ、続き続き」

「あい、りょうかーい。あ、エミリアたん残りのお菓子食べていいからね」

「はいはい、ありがと。……でも間食か」

 異世界でも乙女的な理由で間食を控えるのは共通らしい。
 そんな無駄知識を得ながら、スバルはエミリアを背後に今日の分の文字書き取りを始める。
 一度こうして打ち込み始めてしまえば、スバルも勉学に集中しようというものだ。確かにエミリアの存在は気になるが、『約束を交わす』という大前提をクリアできそうな現状、さして焦る理由はない。

 そんな心のゆとりから、落ち着いて文字を書き写すスバル。しばし無言の時間が続く中、ふとエミリアが後ろから声を飛ばしてきた。

「ふーん、思ったより脱線とかしないのね」

「集中してっからね。俺って一度のめり込むと周りが見えなくなるタイプ。だから好きな人にも一直線だよ!」

「そうだといいけどね。私に色目を使ってるうちはどうかなー」

 からかうようなエミリアの態度にスバルはたじたじ。どうも、スバルのこれまでのアプローチは彼女に真剣に受け止めてもらえていない公算が高い。
 これだけ直接的に言っているのだから、少しは信じてもらいたいが。

「でも、茶化した雰囲気入れずに口説くとか俺のスキルじゃ無理。マジ途中で恥辱で憤死する。恋に恋して命縮める、平安貴族だよ!」

「はいはい、ふざけない遊ばない。……まったく、普段からそれぐらい真面目にやればいいのに。ラムとレムに見放されちゃうわよ?」

 頭を抱えるスバルに向かって、エミリアはベッドの上で片膝を抱えてそう呟く。スカートが短いから際どい感じになっているのだが、やたらと無防備な彼女はそのあたりの機微に疎い。
 やや体を傾けながら、スバルは全力で視力を目の端に集中。普通に視線を誘導したらばれるので、見てないふりしながら見るというやつだ。

「これぞ『陰』の系譜に連なるものとしての隠形! ゲート全開!」

 変な使命感を燃え上がらせるスバル。そんな彼の思惑を知らず、扇情的なポーズで目を伏せるエミリアの表情は晴れない。そのままぽつりと、

「ねえ、スバル。こんなこと聞きたくないんだけど……どうして、そうやって真面目にしてないの?」

「マジメにフマジメするというのが俺のポリシーでして……とかって答えを求めてる雰囲気じゃないな。えっと?」

「そう、真剣なお話。――ラムも少しぼやいてたわよ。スバルは仕事の、なんだろ、途中途中で手を抜いてる感じがするって」

 さすがに告げ口のような形になるからか、問い詰めるエミリアの口調はたどたどしい。が、それを聞かされるスバルは内心で図星を突かれた痛みに顔をしかめるしかなかった。

 合間合間で手を抜いている、と仕事ぶりを評価されているのだとしたら、それはまったくもって正確な評価と言わざるを得ない。
 事実、スバルは仕事に対して本気で打ち込んでいない。というより、意図して前回と同じような結果を得られるように調節しているといっていい。

 ほとんど仕事を理解できていなかった前回に比べ、今のスバルは多少なりにも仕事を覚えた状態だ。ALL『C』判定だった使用人スキルが、現在はALL『C+』判定といえばいいだろうか。
 実際にはまだまだ長い長い使用人坂を上り始めたばかりのレベルだが、その些細な違いも先輩方の目を誤魔化すには至らなかったらしい。

 自然、後ろめたさがスバルの唇を重くした。
 反論どころか二の句も継げないスバルを見て、エミリアは「やっぱり」と口の中だけで呟いてから、

「罪悪感なし、ってわけじゃないもんね。スバル、なんだか変なところで律儀な感じがするし。勉強もサボったりしてないし」

「まぁ、ちょっとした事情があるというか、勉強は自分のためでもあるし……言ってて気付いたけど、俺って全部俺の事情で動いてんな」

 振り返ると最悪の一言だった。
 自分の事情で双子に迷惑をかけ、自分のためになる部分だけしっかりと肥やしにし、それ以外の面では手すら抜いているという。最悪の三冠王だ。

「あ、明日からは気持ちを入れ替えて望みます故、お許しを女王様」

「んむ、苦しゅうない。……ちょっと違うかな?」

 自分で言ってて違和感があったのか、首を傾げるエミリア。
 スバルは彼女の態度の軟化に安堵しつつ、今の言葉を明日からは本物にしようと固く心に決める。
 少なくとも、今夜で切りがいいことは事実なのだ。それ以降は前回をなぞる必要はなく、意図的に手を抜いて仕事をする必要などなくなる。

 この四日間で受けた恩義、ラムとレムにそれを返せるようになるだろう。
 もっとも、手抜きをやめたからといって、即座に能力値が上がるかというとそんなことはもちろんないのだが。

「こういうのって気持ちが大事。俺のその一生懸命さ、お金には代えられない価値がある。そうプライスレス」

「またいいところで茶化すんだから。……勉強、終わったの?」

「今日の分はね! そだ、エミリアたんにお願いがあんだけど、聞いてくれる?」

 手をもじもじとさせながら、上目づかいにおねだり攻撃。母性本能にダイレクトアタックを狙った仕草だが、エミリアは少し引いた顔で、

「やだ、すごーく嫌な予感する」

「怖気立つほどマイナス印象!? 全然、そんなんじゃないよ! ただ、明日から頑張るために、ご褒美とか欲しいなってそんだけ!」

「ご褒美って? 言っておくけど、私が自由にできるお金なんてないからね」

「俺も給金貰うまでは天涯孤独の無一文! ま、ま、ま、聞くだけ聞いてよ。そう、明日からマジメに働くから……デートしようぜ!」

 親指を立てて歯を光らせ、自分的には最高に決まった決めポーズ。
 お決まりのスバルのポージングにエミリアは目を白黒させて、

「でーと、ってなにをするの?」

「ふっ、男と女が二人きりで出かければそれはもはやデート。その間に何が起こるかは、恋の女神だけが知っているのさ」

「それじゃ、今日はスバルはレムとでーとしてきたのね」

「俺のデート処女が奪われてる!? 俺、汚されちゃったよ!」

 両肩を腕で抱いてしくしくと泣き濡れるスバルに、エミリアは苦笑しながら「はいはい」と手を振り、

「一緒に出かけたいっていうのはわかったけど、どこに行くの?」

「えへぇ、実は屋敷のすぐ近くの村に超ラブリーな犬畜生がいてさ。あと、花畑とかもあんの、マジ綺麗。エミリアたんと咲き乱れる花の共演、それを俺の魔法器でぜひ永遠に残したい」

 部屋の片隅にそっと置かれているのは、盗品蔵の攻防を生き抜いてスバルと共に回収されてきた初期装備の数々だ。
 ビニール袋の中身にはこれといって手をつけておらず、携帯電話はもちろん菓子やカップラーメンも健在である。

「充電器とコンセントがあれば、メモリ容量いっぱいまでエミリアたんの画像で埋め尽くすんだけどな……で、日替わりで待ち受け変えんの。うわ、マジやりてぇ超やりてぇ。どうして異世界召喚されてねぇんだよ、トーマス!」

 かの発明王の名を高らかに呼び、こちらの世界の文明レベルとの格差を嘆くしかない。携帯電話の電池はすでに表示が一個減り、時間の問題だ。
 いずれ、雷の魔法などで充電できる可能性に賭けてみるしかあるまい。

「子ども向けの漫画みたいな解決法だな……」

「うーん、村かぁ」

 そんな風にひとりごちるスバルの前で、エミリアは頬に手を当てながら思案顔だ。そういえば、前回もそんな感じで悩んでいたなとスバルは思い出す。
 スバルと出かけるのが嫌、というネガティブシンキングではなかった記憶を頼りに、確かどんな風に押したのかと思い出を再現。そう、

「犬畜生超可愛い、行こうぜ!」

「でも、スバルに迷惑かけるかもしれないし、村の人も……」

「子どもたちとかも無邪気でマジ天使の軍勢、行こうぜ!」

「……はぁ、わかった。わかりました。一緒に行ってあげる」

「花畑もマジカラフルでワンダフル、行こうぜ……って、え、マジ?」

 なんだか前回より抵抗が少なかった気がして肩透かし。
 思わず素になって問い質してしまうスバルに、エミリアは唇を尖らせ、

「それでスバルが明日からやる気になるなら、付き合ってあげる。もう、あんまりふらふらしてちゃダメなんだからね」

「しないしない! 超っぱやだよ。むしろ犬もガキも花畑も置き去りにして二人きりになる勢いだよ!」

「でーとの目的が全部飛んでるじゃないっ」

 突っ込み大歓迎なスバルの発言にエミリアが見事に乗っかる。
 それからしばらく二人できゃいきゃいと言い合い、いよいよ夜が更けてきたのに気付くと、「さて」とエミリアがベッドから腰を上げてしまう。

「なんなら、そのベッドで寝てくれてもいいよ?」

「なんでか鼻息荒いし、シーツも乱れてるから遠慮しておくわね」

「クソ! なんでこんな乱れて……ラムちーか、いなくても俺の妨害を」

 さっきまで感謝の頂点にいたはずのラムの顔が夜空に浮かび、高所から蔑むような目で見ているような気がした。
 満天の星空で故人になったみたいな演出を思い描くスバルの隣、ふと窓に歩み寄るエミリアが同じく空を見上げ、

「うん、今夜も星がきれい。……きっと、明日はいい天気になるわね」

「――ああ、そして忘れられない日になるさ」

「またそうやって……」

 窓枠に背を預けて振り返り、エミリアはまた軽口を叩くスバルを注意しようとしていた。が、彼女の唇の動きはスバルを見て止まる。
 そのスバルの表情が、いつになく真剣なのを見てしまったからだろう。

 ふっと、黙り込んだエミリアに気付いてスバルはまばたきし、

「あれ、どったの? あんまりゆっくりしてると、眠たい俺は見境なくエミリアたんを抱き枕にしちゃうよん?」

「やっぱり、スバルって変な子」

「急に心外な評価!? なんかしましたかね!?」

 予想の外からの一撃に泡を食うスバル。エミリアは窓から離れて部屋を横切り、スバルの隣を「なんでもなーい」と可愛らしく言いながら通過。
 そのままドアノブに手をかけてこちらを振り返り、

「それじゃ、執事スバルくん。明日からちゃんと働くこと。ご褒美は頑張ったものにだけ与えられるからご褒美なのです」

 軽く掲げた手で敬礼に似た仕草をして、微笑みを残しながら銀髪がひるがえる。こちらの返答を待たず、扉の外へ消える少女の影。
 手を伸ばしても、もうそれには届かない。扉が音を立てて閉まり、スバルはひとり部屋の中に残された。
 しかし――、

「おいおいおいおい、マジかよ。ったく、俺、やる気になっちゃうぜ。マジで」

 交わしたかった約束は再び交わされた。
 そしてスバルは、再びこの夜に挑むことができる。

 四日目の夜を越えて、五日目の約束の朝を迎えにいけるかどうか。
 勝負の時間は、おおよそ六時間。

「さあ、勝負といこうぜ、運命様よ――」


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ベッドに座るのではなく、床に座ってベッドを背もたれに、スバルは刻々と夜が朝を連れてくるのを待ち望んでいた。

 ひんやりとした床の感触も、すでに二時間近く座り続けた今ではとっくに体温で温められており、スバルの意識の維持には役立たない。
 が、スバルの体は眠気の魔手など欠片も届かず、覚醒の極みにあった。
 理由は簡単だ。

「こんだけ心臓が高鳴ってて、寝られる奴がいるもんかよ」

 心臓の拍動は高く早く、音はまるで耳元で鳴り続けているかのように大きく鋭い。全身を血が巡る感覚が鋭敏に感じ取れて、手先がわずかに痺れるような痛みを訴えているのがわかった。

「エミリアたんとの約束が待ち遠しくてこの様か。おいおい、俺ってば遠足前に寝られなくなる小学生かよ。修学旅行で寝坊したの思い出すな」

 まさしく一家総出で寝坊。どれだけ家族揃って楽しみにしていたのかという話だ。ひとりだけコンビニ弁当を持たされたあの日の悲しみは、今もこの胸の奥でしくしくと眠り続けている。

 そんな胸中の痛い思いを振り返り、気分を紛らわしながらスバルは夜空を見上げ続ける。
 星の輝きは変わらず、月の位置だけが少しずつだが西へ向かう。
 やがて東の空から太陽が昇ってくるまで、残りは四時間ほどだろうか。

 長い時間だと、つくづく思う。
 眠気など欠片もないのに、何が起きるのかわからないから警戒だけはし続けなくてはならない。襲撃の可能性を思えば時間つぶしなどもってのほかで、こうして体の爆音に鼓膜を委ねながら、思考を続けることだけが今のスバルにできるゆいいつの行動だった。

 この四日間、即ち二度目の四日間を改めて振り返る。
 出だしの失調、そしていくつかの一週目との差異。それらが今夜までの道のりに与えた影響はかなり大きいだろう。
 だが、一方でスバルの記憶に残るいくつかのイベントはおおよそ通過できたと判断している。二週目はそこに細かなサブイベントが加わった形だ。
 戻った経緯をフラグの立て損ないと予想するならば、今回の勉強会などのイベントがそれに該当する可能性はないだろうか。

「可能性としては否定できねぇが……」

 仮にスバルをループに導く存在がいたとして、それがあの勉強会を重要なものと判断するかは難しいところだろう。
 かといって、それ以外に大きな変化は感じ取れない。エミリアとの関係は変わらず、ラムやレムとの関係は以前よりマシな気がするが。

「あと心残りがあるとすれば……」

 今夜、ベアトリスに遭遇することができなかった、という点だ。

 前回の世界ではエミリアとの約束の直後、スバルはベアトリスの部屋へ『扉破り』によって侵入している。
 大した話をした記憶はないし、故にフラグとしての可能性は非常に低いと言わざるを得ないが、今回は前回にも増して彼女との関係は悪い。
 シビアな時間の管理に追われた結果、スバルはこの四日間で彼女とほとんど顔を合わせる機会を得られなかった。

「といっても、前回も顔見ては憎まれ口叩き合ってただけだけど」

 そうこぼしながらも、スバルは胸に引っかかるものがあるのを見逃せない。
 確かにベアトリスと大した話をした覚えはないが、この二回目の繰り返しにおいて、最初にスバルの心を救ったのはまぎれもなく彼女の態度だ。
 スバルを警戒することを隠そうともしない彼女の態度にこそ、スバルは安堵を得て立ち直ることができたのだから。

「礼のひとつでも、言っておくべきだったか」

 この世界の彼女にはまったくの心当たりがないだろうし、言ったら言ったでなんて返されるのかおおよそ予想もつくのだが。

 あれほど会えば悪口を言い合う関係だというのに、ベアトリスのことを思い浮かべるスバルの唇はゆるんでいた。
 その変わらぬやり取りすら、こうして思い出すと笑ってしまう記憶だ。
 明日を、朝を迎えることができれば、もっともっとやりたいことができる。

 ベアトリスだけでなく、ラムにもレムにも、ロズワールにだって言ってやりたいことはたくさんあるのだ。
 もちろん、エミリアに万の言葉を尽くしたあとになるのは許してほしいが。

「おっと、万じゃ俺の思いを表現し切れないかもしれないな。そして、表現し切れなかった残りの思いは行動で示すよ……」

 空想の中の恥じらうエミリアを腕に抱きしめ、頬を染めて上を向く唇に唇を合わせるアクション。エアCG回収に躍起になる。

 振り返れば笑いが出る、前回と今回、合わせての八日間。
 内心のゆるみが表に出てきたのか、朝までまだ三時間以上もあるというのに、やや瞼が重くなってきたのを感じる。

「ここまでやって、寝落ちとかマジ洒落になんねぇよ。オンゲやってるときとは違ぇんだから……」

 言いながら瞼をこすり、降って湧いた眠気を逃がす。が、眠気は微妙な寒気まで連れてきていて、思わず身震いが起こって苦笑。
 両肩を抱き、体温を高めようと体をこする。しかし、やってもやっても寒気が引くことを知らず、それどころか眠気が消える気配すらない。

 ――おかしい。

 楽観的に捉えていた状況、その変化にスバルも気付いた。

 ――寒いどころじゃない、苦しいほどに。

 見ればジャージ姿の袖の下、肌には粟立つように鳥肌が浮かび、芯から冷たさに震えているのが目視で確認できるほどだ。
 異常なことだった。異世界の気候は温暖で、普段はジャージの袖をまくってちょうどいい程度の気温が保たれているのだ。

 それが今、どうして歯の根が噛み合わないほどに寒いというのか。

「ヤバい、まさか、これ……っ!」

 震えに寒気でなく恐怖を感じ、スバルは慌てて床に手を着く。
 だが、震えはすでに全身に伝播し、立ち上がる補助をしようとした手が体を支えられない始末だ。
 三十秒近い時間をかけて、どうにかやっと立ち上がる。しかし、体を支える両足も膝が揺れ、気を抜けば今にも崩れ落ちてしまうだろう。

 血の気が引く感覚。手足から力が抜けていく倦怠感。あれほどうるさかった拍動が弱まり、思考すら鈍くなっていくのをじっとりと感じる。

 全身に力が入らず、意識しなければ呼吸することすら忘れてしまいそうだ。
 喘ぐように唇を震わせながら、スバルは震える足を引きずるように部屋の外へ――助けを求めに、廊下へと這いずり出した。

「……だ、誰か」

 声高に誰かを呼ぼうとして、しかし喉が塞がったように声が掠れる。
 からからに乾いた喉は空気が通るだけで痛み、倦怠感は肺の収縮すら掌握したかのように呼吸を遅らせた。
 マズイ、とそれだけがスバルの脳裏を支配する。

 具体的な対処法は何ひとつ思い浮かばないし、自分が何をされているのかもスバルにはわからない。
 ただひとつわかるのは、今の状況が命を脅かされているという事実だけ。

 呻き、たどたどしい足取りで階段を目指す。歩き慣れた道、そして大した距離でもない。にも関わらず、目的の場所はあまりにも遠い。
 階段に辿り着いただけでも息が荒く途切れ、そこから上階に向かって歩を進めるのは、一歩ごとに魂を削るような苦行だった。

「はぁ……はぁ……っ」

 一段一段を手足全部使って上り、どうにか上階へ辿り着く。目指す先は薄暗い廊下のさらに奥――そこに、スバルの求める相手がいる。
 体の中身が溶かされ、全部一緒くたに掻き混ぜられたような不快感があり、込み上げる吐き気と涙を我慢できずにこぼしながら、這いずる足は前へ、前へ。

 エミリアに、エミリアのところに、行かなくてはならない。

 使命感が、義務感が、たとえようのない感情がスバルを突き動かしていた。
 そこにはもはや助かりたい、といった自分の命に拘泥する惨めさはなく、ただただひたすらに無様でありながらも、そこへ自分が行かなくてはならないという脅迫的な絶対感があった。

 ロズワール邸、西側上階の最奥にエミリアの居室がある。
 同じ階層に辿り着いたとき、すでにスバルは虫の息に近かった。客観的に彼を見るものがいたのならば、その無残さに目を背けたかもしれない。

 壁に体重を預け、糞尿を垂らしながら、顔を涙や吐瀉物で汚しに汚したその姿は、もはや人としての最低限の有り様すら損なっている。
 全身がだるく、体中の至るところの筋肉が言うことを聞かない。あとほんのわずかで辿り着ける場所が、今のスバルには雲の上ほども遠くに思えた。

「――――」

 呼吸は荒く、耳鳴りはキンと甲高い音が鳴り響いている。
 故に、スバルがその奇妙な音に気付けたのは、なんの含みもなくただの偶然だ。

 まるで、鎖の鳴るような音だった気がした。

 違和感、それがスバルの足を止めた。途端、体を支え切れずに、壁にもたれていた身が大きくずり下がる。踏ん張る。が、堪え切れない。床に崩れ落ち、

「――う?」

 次の瞬間、衝撃がスバルを打ち据えていた。

 大きく全身がぶれ、床に倒れるはずだった体が吹き飛ばされる。
 なにか、とてつもない衝撃を受けたのだと、何度も地面をバウンドし、顔面で床清掃を行って初めてスバルは気付いた。

 痛みは、ない。
 ただ、手足の末端から腹の中身まで、ぐずぐずと痺れる不快感がある。血流が止まって痺れる感覚、あれと似た倦怠感が体を支配していた。

「なに、が……」

 あったのか、と口にしながら体を起こし、うつ伏せの体を持ち上げようとする。だが、震える両腕は地面を掴んでも力が入らない。否、おかしい。力が入らないにしても、バランスが取れない。そもそも、これだけ右腕が頑張っているのに、左腕はどうして姿も見せないのか。

 ただでさえ薄暗い廊下が、まるでそのわずかな明かりさえも手助けを拒むように遠くなる。ぼやけ、歪んだ視界の中、スバルは奮闘むなしい右腕を見て、それから役目を放棄した左腕に目を向け、

 ――自分の左半身が、肩から千切れていることに気付いた。

「――あ?」

 寝転がる体を横に倒し、左半身を上に向けてスバルは呆然となる。
 立ち上がるのに必要な両腕、その左半身が存在しない。左腕は肩から吹き飛び、抉れた傷口からはささくれ立った肉と骨が見え隠れしている。
 夜気の中にあってなお桃色の内側は鮮やかで、そこからとめどなく鮮烈な赤を常時吹きこぼしていた。

 傷口は左肩だけでなく、左脇腹にも生じており、こちらもごっそりと抉られた傷口から一部内臓がはみ出している。自分の腸を目にするのは、これでもう何度目になるだろうか。

 半ば陶然とした状態でそう思い、直後に傷口を見た痛みが全身を貫く。
 もはや痛いとも熱いとも表現できないそれらは、丘に上がった魚のように跳ねるスバルの喉を塞ぎ、絶叫する余裕すら奪ってのた打ち回らせた。

「あぁぁぁああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――」

 視界が明滅し、目の前に赤と黄色の光が交互に駆け抜ける。
 それはつい先ほどまでの見慣れた屋敷の景色を塗り潰し、スバルの意識をこの世のものではない別の場所へと連れていく。

 死にたい。
 死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい。

 生きている意味がわからない。
 生きているなんてこれは言えない。
 まだ死んでいないだけだ。もうすぐ死ぬだけだ。もう死ぬところだ。

 なにもかもわからない、なにもかも遠い。
 自分が何をしようとしていたのかも思い出せない。自分がなんなのかも思い出せない。全てがどうでもいい。どうでもいいから死にたい。

 そんなスバルだったものの全霊の願いは――、

「鎖の、音が……」



 またもかすかに聞こえたそれを最後に、頭蓋を砕かれることで叶った。

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