第三部 宰相の戦争
第九章 街道を塞ぐ軍隊
「今日も出せないのか」
問われた荷馬車の御者は、申し訳なさそうに帽子を取った。
「兵隊が通るそうです。昼には開くと言われたんですが、先ほど行った者は、明日にしろと」
プロスト国の商人は、倉庫の前に積んだ荷を見た。
梱包は終わっている。買い手も決まっている。受け渡しの場所と日も約束した。ところが、その日が過ぎても、商品は自分の倉庫の前にあった。
売れない品を抱えているのではない。売れた品を届けられないのだった。
国境へ向かう街道は、この都市を出てから、軍の行軍路と重なっていた。旅団規模の訓練が始まり、兵が通る間は民間の馬車を止めるという。
最初の一日は、商人も仕方がないと思った。道いっぱいに兵が歩き、軍の荷車が続くなら、脇へ避けて待つこともあるだろう。
しかし、次の日も止められた。開いたと聞いて出した馬車は、別の隊列を通すために半日待ち、宿駅へ着く前に暗くなった。
後ろから来た馬車もたまっていた。待機場所へ入る道が塞がると、軍は都市側へ戻るよう命じた。戻った馬車を迎えた商人は、もう一度出す日を御者と相談しなければならなかった。
「荷は、このままにしておいてくれ」
「馬は、いったん戻します。ここに置いておくと、飼葉が持ちません」
「明日には出るかもしれんぞ」
「その明日が、もう三日続いています」
御者の声には、責める響きはなかった。馬を預かる者として、これ以上は待てないと言っているだけだった。
商人はうなずき、フランコの取引相手へ新しい手紙を書かせた。
品はそろっている。約束を変えるつもりはない。ただ、まだ送り出せない。
同じことを書くのは、これで二度目だった。
*
街道の宿駅では、替え馬を出せないという声が上がっていた。
軍は行軍に使う馬を大量に連れてきた。それ自体は、訓練の計画に入っていたはずである。ところが、必要な飼葉は十分に運ばれていなかった。
予定より長い待機と、部隊の到着時刻の食い違いが、補給の見込みを崩した。不足分を求めた軍の係は、沿道の商人と宿駅へ買い付けを命じた。
買うと言っても、断れる取引ではなかった。
「ここにある分は、明日の駅馬車に使うんです」
宿駅の主人が説明すると、係は支払いの証文を出した。
「軍用だ。代金は払う」
金を受け取っても、馬が金を食べるわけではない。次の飼葉を運ぶ馬車も、街道のどこかで待たされていた。
主人は、その場で駅馬車の便を減らした。
今いる馬を走らせても、次の宿駅で替えられなければ戻せない。無理をさせれば、その後の便まで失うことになる。
客は、軍の隊列が通り終わった道を見て、なぜ出発しないのかと怒った。主人は説明を繰り返した。道が開くだけでは、馬車は動かせない。
軍はそれぞれの場所で、その日の不足を埋めていた。
そのたびに、民間の運行から余裕が削られていった。
*
公使を通じて届いた報告を読み、オリヴィアは地図の上へ小さな紙を並べた。
街道を塞がれた場所。荷馬車が戻った場所。替え馬を出せなくなった宿駅。
訴えは別々に届いていたが、同じ訓練の道筋に沿っていた。
「飼葉まで、足りなくなっているのね」
彼女が言うと、ソフィアはうなずいた。
「軍が必要な量を先に運んでいれば、ここまで困らなかったでしょう。足りない分を現地で集めて、その結果を民間へ押しつけています」
ローラン家の卓には、両国の商人から届いた知らせが広げられていた。
フランコの商人は、商品を受け取れずに困っている。プロストの商人は、商品を送り出せずに困っている。馬車を止めている間にも、御者へ払う金がかかる。届けられなかった取引の次には、まだ注文されていない取引があった。
その次の注文を受ける見込みも、日がたつほど薄くなっていた。
「向こうが出荷を絞っているなら、売り手は、その分だけ高く売れると考えているのかと思いました」
オリヴィアは言った。
「でも、この方たちは、前の値段でよいから送りたいと書いています」
「ええ。止まるほどに、持ち出しが増える方たちです」
ソフィアは商人の詫び状を指した。
「値を上げるために待つことと、送れずに待たされることは違うわ」
オリヴィアは、フランコ側で取り消された注文の記録を見た。
こちらで荷を待つ店が別の売り手を探せば、プロストの商人は、今回の代金だけでなく、その後の客も失う。遅れを自分で選べないまま、信用まで削られている。
彼女は紙の上に書いた。
双方の商人が、同じ軍事訓練によって損失を受けている。
計算の結果というより、並べた話がすべてそこを指していた。
「訓練は、いつ終わるのでしょう」
「終わるはずだった日が、もう過ぎています」
ソフィアが答えた。
オリヴィアは顔を上げた。
「延びたの?」
「別の訓練を加えたそうです。次は、国境に近い道を通ります」
地図に指を置くと、止まっていた荷が通る道と、また重なった。
失敗した兵站を立て直すより先に、新しい予定を増やしている。
「そんなことをしたら、また馬車が止まるでしょう」
「その通りです」
ソフィアは、今度は短く答えた。
オリヴィアは友人を見た。彼女が同じことに気づいていないはずはない。地図を見ている静かな顔からは、どこまで分かったのかを読み取れなかった。
「何のための訓練なのかも、調べているのね」
「ええ。兵が歩く練習なら、ほかにも道はありますから」
*
プロスト軍の旅団司令部へは、都市からの苦情が届いていた。
商人が困っている。駅馬車が動かない。隣の都市から来るはずだった品が来ない。訓練の期間と通行できる時刻を示してほしいという。
旅団の幹部たちは、すべて同じ束に入れた。
「毎日、こればかりだ」
一人が書類を卓へ戻すと、上座の男が鼻を鳴らした。
「商人が少し困るくらいで、軍の訓練を止められるものか」
国境が静かになってから、商人の声ばかり大きくなった。
軍の経費には細かい説明を求める一方で、街道と関所には金を使う。相手国と取り決めを結べば、それを壊すような訓練は慎めと言われる。
自国の軍が、自国の道を歩くのに、外国へ気を遣わなければならない。
幹部たちには、それが我慢ならなかった。
「フランコの商人が困っているという話も来ております」
「少しは、国境に軍がいる意味が分かるだろう」
上座の男は答えた。
攻め込むつもりはなかった。そんな命令を出せば、自分たちの責任になる。
だが、軍が動けば国境が不安になる。その程度の騒ぎは必要だった。友好と交易だけで国の安全を保てると思っている者には、軍の重さを思い出させなければならない。
フランコ側でも、弱腰外交を改めるべきだという声が強まっているらしい。
向こうの友好派が退けば、こちらの友好派も今ほど勝手なことは言えなくなる。
「次の行軍も、予定どおりだ」
男が告げると、部下がうなずいた。
卓の端には、フランコ側から届いた連絡が置かれていた。旅団の正式な受信簿には、載せていない書状だった。
第十章 同じ混乱、二つの嘘
街道の混乱について説明が出たのは、都市の商人たちが訴えをまとめた後だった。
軍の訓練を支える者たちは、苦情を取り次ぐ先へ人を送り、同じ話を繰り返した。
フランコ側の受け入れが滞っている。向こうが商取引に新しい条件を持ち出している。行き先のない荷馬車が街道にたまるため、軍も通行を整理しなければならないのだという。
軍が道を塞いでいると訴えた商人は、順序が逆だと言った。
しかし、街道を自分で通っていない者には、どちらが先か確かめにくかった。外国の受け入れが悪いと聞けば、荷が来ないことにも説明がつく。
駅馬車の客まで、その話をするようになった。
国境の向こうには、別の説明があった。
「プロストは、我が国への出荷を絞っている」
ミラー伯爵は元老院で告げた。
宰相の前には、フランコ側の入荷が減ったことを示す記録があった。荷の遅れと注文の取り消しについては、ローラン家でも調べている。その事実に誤りはなかった。
「相手へ便宜を与え、友好を説いても、必要になればこうして圧迫してくる。これまでの外交方針を、そのまま続けてよいのか」
議員たちは資料を見た。
数字の並びは簡潔だった。減った品目と、その影響が記されている。商人の損失をそのまま国の税収と混同するような誤りもなく、財務大臣も資料自体を否定しなかった。
ソフィアが発言を求めた。
「先方の商人にも損失が出ています。現在、訓練による通行規制と補給の不足を確認しています」
「それも、あちらの軍の問題だろう」
ミラーは答えた。
「商人に悪意がないからといって、国の行為まで許せるものではない」
「国として命じた規制か、一部の軍人によるものかを確かめなければ、相手へ求める対応も違ってきます」
「確認している間に、我が国の損失は増えている」
その言葉に、何人かがうなずいた。
ミラーはソフィアへ顔を向けた。
「これほど相手国の事情を説明できるのなら、街道を開かせることもできるのではないか」
ソフィアは、まだ調査中です、と答えた。
宰相はその答えに満足した。友好外交を引き継いだ娘は、相手側を弁護しながら、肝心の損失を止められずにいる。
ウィリアムズを問い詰めたときのように、次々と証拠を出してはこなかった。
外交には、帳簿だけでは片づかないことがある。ようやく、それを思い知ったのかもしれなかった。
*
「プロストでは、フランコのせいだと言っているのね」
オリヴィアは、公使から届いた報告を読んで言った。
王都で聞いている話とは、逆だった。
こちらではプロストが売らないと言い、向こうではフランコが受け入れないと言う。その間で商人たちは、約束どおりに商売をさせてほしいと訴えていた。
ソフィアは、会議での話も伝えた。
相手側の損失を説明したところで、フランコの被害が消えるわけではない。それはミラーの言うとおりだった。だからこそ、なぜそんな損失を双方に与える訓練が続くのか、確かめる必要がある。
「先方に、調べていただける方はいるの?」
「います。商務を担当する方です。以前、通行の取り決めをまとめるときに、ご一緒しました」
ソフィアは答えた。
「こちらが困っているから軍を止めてほしいと言うだけなら、難しいでしょう。でも、ご自分の国でも困っているなら、調べる理由があります」
オリヴィアは、用意していた資料を差し出した。
フランコ側の被害だけでなく、プロスト側の商人と交通の訴えを並べたものだった。金額の分からない部分は、無理に合計へ加えていない。運休した便、取り消された注文、届け先を失った荷。それぞれが何を意味するかを書いていた。
「これも、届けていただけますか」
ソフィアは受け取り、目を通した。
「一つ、添えてよいかしら」
「何を?」
「この訓練が、誰のために続けられているか、確かめてほしいと」
オリヴィアはうなずいた。
ソフィアは書状を用意した。国境の安全を軽んじるつもりはないこと。訓練に必要な規制なら、民間が予定を立てられる形で知らせてほしいこと。現在の状態では、両国の商人だけでなく、プロスト国内の交通も損なわれていること。
相手へ罪を押しつける文章ではなかった。しかし、返事を曖昧にしたままにできる文章でもなかった。
*
プロストの商務を担当する高官は、公使が持参した資料を読み、部下を呼んだ。
都市から来た訴えは、すでに見ていた。軍へ照会もしている。必要な訓練を行っているという返答だけで、いつ終わるのかははっきりしなかった。
国内の宿駅の報告と、フランコ側の入荷記録を並べると、どの道のどの規制が取引を止めたかが見えてきた。
フランコが荷を受け入れないという説明とは、合わない。
「向こうの関所で、受け取りを拒まれた荷はあるのか」
高官が問うと、部下は、今届いている訴えでは確認できないと答えた。
「では、誰がその話を広めている」
調査が一つ増えた。
リシャール家とは長い付き合いがあった。先代は相手国の都合ばかり言う男ではなかった。こちらの要求を聞いたうえで、できないことはできないと返してきた。その代わり、受け入れた約束は維持するために動いた。
娘になってからも、窓口は変わらなかった。
この取引を壊せば、困るのはフランコだけではない。今の資料を読めば、そのことは明らかだった。
高官は、軍の正規の指揮系統にも照会を出した。旅団がどの命令に基づいて訓練を延ばし、民間の補給まで使っているか、回答を求めた。
同時に、街道で何が起きたかを、軍とは別に確かめさせた。
軍へ聞くだけでは、軍の説明しか返ってこないことを、彼は知っていた。
*
返事が届くまでの間、ミラーの批判は強まっていった。
国境の騒ぎを収められないなら、外交を担う者を変えるべきだという声が、宰相の周囲から出る。若い当主へ重い役目を任せるのは、やはり早かったのではないかとも言われた。
オリヴィアは、その言葉を聞いて腹を立てた。
ソフィアは、年齢を言い訳に何も放り出していない。自分よりずっと多くのことを調べ、人を動かしている。それを見てきた。
ただ、友人が働いていることと、荷が届くことは別だった。
まだ街道は開いていない。
苛立ちながら返事を書いていると、腕が痛んだ。無意識に力を入れていたらしい。オリヴィアはペンを置き、肩を休ませた。
そこへマテオが来た。
「リシャール伯爵が、直接お話ししたいそうです。明日の午後、ご都合は」
「大丈夫です。何か分かったのでしょうか」
「書状には、そこまでは」
彼は答えた。
以前なら、何となく聞いたことを足していたかもしれない。今は、書かれていないことを推測して伝えなくなっていた。
オリヴィアは手紙を受け取った。
明日、見せたいものがある。そう記されていた。
そのころソフィアの机には、二つの知らせが届いていた。
一つは、プロスト側で始まった調査の中間報告。もう一つは、次の行軍予定だった。
調査では、旅団の幹部たちが外国から連絡を受けていた形跡が見つかったという。ただ、連絡役と送り手については、まだ裏づけが済んでいない。
行軍予定は、それより急を要した。国境ぎりぎりの道を、数日に分けて部隊が通る。
商務からの照会が来ても、訓練をやめるつもりはないらしかった。
ソフィアは予定を読み終えると、脇に控える家の者を呼んだ。
「この行軍について、こちらで扱える部分を調べてください。指示は、明日出します」
相手は一礼し、二枚目の書状だけを持って下がった。
部屋の外で、いつものように書記が働いていた。公使への返事を書き、届いた記録を仕分けている。
今出ていった者は、その輪の中へは戻らなかった。
第十一章 番犬に命じる
ソフィアが見せたのは、プロストの地図だった。
国境へ近づく道に、行軍の予定が書き込まれている。オリヴィアはそれを見て、また商人の通る道だと思った。
昨日まで読んでいた記録の先に、新しい待機と遅れが積み重なろうとしていた。
「その前に、一つお話をします」
ソフィアは、向かいの椅子へ腰を下ろした。
今日は書記を部屋に入れていなかった。茶を用意した侍女も、すでに下がっている。
「全部が確かめられた話ではありません。分かっていることをつないだ、一つの物語だと思って聞いてください」
オリヴィアはうなずいた。
「ある方が、エマさんをヘンリー殿下へ近づけます。会える場所を用意し、親しくなる機会を増やす。お二人が本当に好意を持ったなら、それはむしろ都合がよいでしょうね」
ソフィアは、前に二人で調べた集まりの日付を示した。
「殿下には、ローラン家との婚約があります。それが王太子指名に有利に働くことは、ご存じだったでしょう。でも、好きな方を優先しても、自分は第一王子だから大丈夫だと考えた」
オリヴィアは、謝恩会の広間を思い出した。
父が承知しているかと尋ねた言葉は、最後まで聞いてもらえなかった。
「婚約が壊れれば、殿下の支持は減ります。後ろ盾のウィリアムズ侯爵も追い込まれる。王へ権力を集めたい方たちが弱くなることは、元老院でも歓迎する方が多いでしょう」
「第二王子殿下を、選びやすくなるわね」
「ええ。それから、外交を変えます。若いリシャール伯爵に助言して、父のやり方をやめさせる。従わなければ、役目から外す」
ソフィアは淡々と話していた。
オリヴィアには、その穏やかな声の方が恐ろしかった。自分の婚約が、誰かにとっては次の仕事へ進むための一段だったと聞かされている。
「その方は、ウィリアムズ侯爵が軍を動かすことまで考えていたの?」
「そこは分かりません。侯爵には、ほかの道もあったはずです。全部が予定どおりだったとは、私も思いません」
ソフィアは首を横に振った。
「ただ、侯爵が失脚した後、私もその方へ従わなかった。あなたは軍の帳簿を読み、アロンソ伯爵がそれを確かめた。思ったより扱いにくい相手が残ったのでしょうね」
「それで、プロストの軍を使うのね」
オリヴィアは、地図を見た。
軍の行軍路が、国境に沿って伸びていた。
「向こうにも、友好を嫌う軍人がいます。商人の意見ばかり通り、軍の力が軽んじられていると考える方たちです。その不満を使って国境を騒がせる」
「外交が失敗したと、あなたを責めるために」
「ええ。向こうでも友好を説く方の立場が弱くなります。取引を増やした方が得になる人たちと、緊張が続いた方が発言できる人たちがいるの」
荷が止まり、商人が損をしている。
それでも、続ける理由を持つ者がいた。
オリヴィアは、ようやくその理由を一つの形で見た。
「ミラー伯爵なのね」
「今の物語が正しいなら」
ソフィアは答えた。
「エマさんとのつながりは確かめました。プロストの軍人と、こちらから連絡を取った形跡も見つかっています。ただ、最後の送り手まで、正式に示せる記録はまだそろっていません」
オリヴィアは黙って考えた。
自分も何度か、都合のよい結末だからといって、その人が起こしたことにはならないと思っていた。それは今も変わらない。
しかし、疑問は減らず、同じ人物の周囲へ集まってきていた。
「証拠がそろうまで、待つの?」
「その間も、訓練は続きます」
ソフィアは地図の上へ手を置いた。
「この行軍に、手を加えることはできます」
オリヴィアは、顔を上げた。
*
リシャール家には、公使の仕事とは別に動く者たちがいた。
人に会い、知らせを運び、ときには相手が知らないうちに、その場の成り行きを変える。全員の名をソフィアも口にしなかったが、今まで届いた情報の一部は、その者たちが集めていた。
「このまま続けさせるのではなく、訓練では済まない事件にします」
ソフィアは言った。
「隊列の一部を、こちら側へ入れます」
オリヴィアは、国境線を見た。
「越境させるの?」
「ええ」
迷いのない返事だった。
「先方の一部の方たちは、国境を騒がせても、戦争にはならないと思っています。訓練だと言えば、こちらが抗議して終わると。でも、実際に兵が国境を越えれば、正規の指揮を執る方たちも放っておけません」
「相手の国が、越えてきたことになる」
「その一隊が入った事実は残ります。私たちが、そうなるように手を加えることも、あなたには知っていただきたい」
オリヴィアは、膝の上で手を重ねた。
これまで、自分たちは起きていることを調べてきた。帳簿を読み、話を聞き、確かめたものを議場へ届けた。
今、ソフィアがしようとしていることは違う。
事件を、自分たちから起こすと言っている。
「戦争になったら」
「その危険はあります」
友人は答えた。
「だから、こちらでは先に軍の準備を整え、先方では正規の窓口に収拾をお願いできるようにします。戦わずに処理するための用意です。でも、絶対に誰も剣を抜かないと、約束することはできません」
オリヴィアは長く黙った。
ソフィアなら上手にやるでしょう、と簡単に言ってよい話ではなかった。国境へ出る兵は、自分の返事を知らない。命令を受けて歩き、そこで相手国の兵を見ることになる。
「あなたは、私に何を聞きたいの」
やっと、そう尋ねた。
ソフィアは地図から手を離した。
「私たちの力を、使うかどうかです」
「私には、そんな命令をする権利はないわ」
「国へ命令する権利はありません。私にも、元老院の代わりに国の方針を決める権利はありません」
ソフィアは静かに答えた。
「リシャール家の力も、国の意思決定に従うものです。軍や諜報を持つ者が、それだけで国を動かしてよいわけではない。私の家も、文民統制の下にあります」
「それなら、元老院へ……」
「通常の防衛と外交の対応は、正式に進めています。アロンソ伯爵が兵を動かすときも、ご自身の権限と責任でお決めになります。でも、この策を行うかどうかは、まだ決めていません」
ソフィアはオリヴィアを見た。
「私は、あなたの返事を待っています」
伯爵として議席を持つ友人が、自分の言葉を待っている。
オリヴィアは、その理由を理解しかねた。
「どうして私なの」
「自分の国の損失を数えながら、相手の国で困っている人も数えようとなさったから」
ソフィアは答えた。
「あなたは王妃になるための勉強をしてきたでしょう。その席を失ったからといって、国の先を考えることまで、やめる必要はないわ」
オリヴィアの胸が、小さく痛んだ。
婚約がなくなってから、そのために学んだことをどう扱えばよいのか、考えたことがあった。無駄にはならないと人は言う。けれど、どこで役立てればいいのかは、自分で探すしかなかった。
ソフィアは、その先にまだ自分を置いているらしかった。
「あなたが私に剣を抜かせたら、どうなると思う?」
友人が尋ねた。
オリヴィアは、謝恩会で聞いた刃の音を思い出した。
剣が抜かれた瞬間、人々は動きを止めた。その後、近衛騎士が動き、自分の腕からマテオの手が離れた。
あのときも、今も、ソフィアは何をするか考えている。
答えられずにいると、彼女は自ら言った。
「番犬は優秀であることを証明する」
口元には、かすかな笑みがあった。
オリヴィアは、それを見て少し怖くなった。ソフィアが怖いというより、目の前に置かれた力が、自分の返事で動くことが怖かった。
しかし、ここで返事をしなければ、自分は被害を数える仕事へ戻る。その間に、取り消される注文も、止まる仕事も増える。
平穏な方を選べば危険がなくなる、という話でもなかった。
オリヴィアは息を整えた。
「戦争にはしないで」
ソフィアは黙って聞いた。
「双方の商人が、また荷を出せるようにして。そのために必要なら、あなたの力を使ってください」
言い終えても、気持ちは軽くならなかった。
ソフィアがうなずいた。
「承知しました」
その一言で、返事は引き受けられた。
*
オリヴィアは、訓練の予定と越境の可能性をアロンソへ知らせた。
書状はソフィアにも確認してもらった。明らかにする情報と、諜報の仕事として伏せる部分がある。オリヴィアは自分の名前を書いた後、しばらくその署名を見つめた。
自分がただの使いではないことを、その名が示していた。
マテオは書状を受け取り、父のもとへ運んだ。
アロンソはリシャール家の軍事情報と守備軍の報告を照らし、防衛の準備を決めた。国境で待機する理由は、相手国の訓練が近づき、越境の危険が高まっていることだった。宰相にも、近接する訓練に備えて防衛態勢を整えると報告した。
細かな配置まで、あらゆる相手に知らせることはしなかった。
総司令官自身が赴くと聞いたオリヴィアは、驚いた。
ソフィアは、曖昧な現場の揉め事にしないためでしょう、と言った。
そこに正式な指揮権を持つ者がいれば、誰かが勝手に始めた争いも、その場の勢いだけでは広がりにくい。一方、越境した事実を小さな口論で済ませることもできなくなる。
出発の日、マテオは父から受け取った短い返事を持ち帰った。
情報は受領した。以後、軍の対応は総司令官として引き受ける。
オリヴィアはその書状をしまった。
自分が決めたことと、アロンソが引き受けたこと。その境目を、忘れないようにしたかった。
*
行軍の日、プロストの兵たちは、朝から予定の道を歩いていた。
国境が近いことは知っていた。しかし、他国へ入るとは聞かされていない。道順を確認する者が前に立ち、後続は前の隊列を追った。
長い列の一部が、脇の道へ進んだ。
リシャール家の者たちが手を加えた箇所だった。そのために動いた者は、兵が通るころには、目立つ場所から姿を消していた。
先頭の将校は、前方の旗を見て足を止めた。
フランコの軍旗だった。
道を塞ぐように兵が並び、その後ろにも部隊がいた。こちらの列が止まると、後ろから歩いてきた兵が詰まった。将校は手を上げ、後続を止めさせた。
「止まれ。武器を構えるな」
向こうから使者が来た。
ここはフランコの領内である。部隊の指揮官は前へ出て説明せよという。
将校は、初めて自分たちがどこにいるかを知らされた。
「国境を越えたつもりはない」
そう答えたが、使者は同じ内容を繰り返した。
列の脇を戻っていった伝令が、後方の指揮官を呼んだ。訓練の一部に問題が起きたらしい。部隊をまとめて引き戻せばよいと考えて駆けつけた指揮官は、相手の旗を見て馬を止めた。
軍旗のそばに、総司令官を示す標章があった。
「アロンソ伯爵が、お待ちです」
使者は告げた。
指揮官の顔がこわばった。
相手は国境の見張りの兵ではなかった。フランコ王国軍の総司令官が、そこにいた。
案内された先で、アロンソは挨拶より先に尋ねた。
「どなたの命令で、我が国へ入った」
「行軍訓練中の行き違いです。ただちに戻します」
「それは確認する。まず、部隊名と指揮官、受けている命令を説明してもらおう」
「誤って道を外れただけです」
「その説明も記録に残す」
アロンソの脇では、書記がすでに筆を動かしていた。
指揮官は自分の後ろを見た。兵たちは武器を持ったまま、道の上で待っている。こちらから構えれば、向こうも構える。勝手に引き返そうとしても、それがどのように受け取られるか分からない。
「貴国の正規の窓口へ、こちらから連絡する。兵はその場で待機させなさい。無用な交戦を起こすつもりはない」
アロンソは告げた。
その言葉に、指揮官は従うしかなかった。
知らせを受けたプロスト側の上層部も動いた。もともと訓練について照会を受け、事情を調べていたところへ、今度は自国の部隊が国境を越えたという正式な連絡が来た。
訓練の必要性を説明すれば済んだ段階は、終わった。
兵たちが先方の確認を受けて戻るまで、両軍とも武器を収めたまま警戒を続けた。ひどく長い時間だったが、誰も攻撃の命令を出さなかった。
その日の夕方、旅団司令部へ、関係する指揮官の出頭と命令書の提出を求める指示が届いた。
「なぜ、総司令官がいた」
上座の男は、戻ってきた部下へ尋ねた。
部下に答えられるはずはなかった。
少し騒がせるだけのつもりだった。民間の馬車を止めても、訓練だと説明してきた。向こうから抗議があっても、国境付近で軍が歩いて何が悪いと答えればよかった。
ところが、自分たちの部隊が、相手国へ入っていた。
自国の上層部は、その責任を問うている。
男は卓の端に手を伸ばしかけ、止めた。そこには、訓練の進み具合を知らせるために書きかけた、フランコ側への返事があった。
その返事を送ればよいのかどうかも、もう分からなかった。
第十二章 宰相の知りすぎた話
元老院へ示された最初の報告は、短いものだった。
プロスト軍の一部が国境を越えた。フランコ軍が対応し、相手の指揮官から説明を受けた。交戦はなく、先方の正規の指揮系統と連絡のうえで、部隊は退去した。
兵の規模も、被害も小さかった。
大きな戦いを経験した者から見れば、国境で起きた一つの行き違いにも見えただろう。
ただ、その日そこにいた総司令官アロンソは、簡単な報告で済ませていなかった。越境した部隊の名、指揮官、先方との連絡、退去までの経緯を記録し、軍務に関わる部分は別に提出していた。
さらにプロストでは、行軍訓練を指揮した者への調査が進んでいる。
その結果が元老院へ届くまで、二度の定例の会議が過ぎた。
ミラー伯爵は、その間にリシャール家への批判を整えていた。
荷の遅れだけなら、まだ補給や通行の不手際として説明される。しかし、今度は軍が国境を越えた。友好を重んじる外交の下で、現に他国の兵を領内へ入れたのである。
外交方針を問い直す材料としては、これ以上のものはなかった。
「繰り返し申し上げてきたとおりだ」
伯爵は、議員たちへ向けて言った。
「相手へ便宜を与え続けた結果、こちらの利益も安全も軽く扱われている。出荷を止められ、通行を妨げられ、ついには軍まで国境を越えた。それでもなお、同じやり方でよいのか」
ソフィアは、資料を開いたまま聞いていた。
ミラーはその顔を見た。
先の会議でも、娘は調査中としか答えなかった。プロストへ働きかけていたらしいが、越境を防ぐことはできなかった。
力のない友好が通じないと、もう分かっているはずだった。
「新当主へ、いきなり重い役目を任せた責任も、我々にはあるだろう」
伯爵は声を少し和らげた。
「リシャール家の仕事をすべて否定するつもりはない。ただ、今の外交は一つの家に集まりすぎている。主要国の公使を含め、方針の決定と指揮を宰相の下へまとめるべきだ」
ソフィアが顔を上げた。
「私の家から、外交を担う権限を外すというご提案ですね」
「国全体に責任を負う形へ改めるということだ」
「その理由は、今回の訓練と越境に対応できなかったため、と理解してよいでしょうか」
「それだけではない。長く続いた弱腰の姿勢も含めてだ」
ミラーは答えた。
ソフィアはうなずき、記録する者がいる方へ目を向けた。
伯爵は、娘が自分の退く条件を確かめていると思った。正式な外務大臣への任命前なら、役目の整理もしやすい。父の代からの慣行を終わらせるのに、ちょうどよい時期だった。
別の議員が口を開いた。
「相手が国として悪意を示しているというなら、外交を変えるだけで足りるのか。軍の警戒も、さらに強める必要があるのではないか」
議場の空気が、少し動いた。
ミラーは、そちらへ話が進みすぎることを望んでいなかった。
軍を本格的に集めれば、経費が増える。国境の緊張がさらに高まれば、プロスト側でも騒ぎが広がる。弱腰の担当者を外し、強い要求を示す。それで十分だった。
「相手にも、戦争を始めるつもりはない」
伯爵は言った。
「今回も、訓練中の小さな行き違いだ。必要以上に大きく扱うことはない」
ソフィアが、静かに尋ねた。
「それは、どちらからの報告でしょうか」
「部隊はすでに引き返している。事実を見れば分かるだろう」
「撤退したことと、最初に戦争を意図していなかったことは、別だと思います」
ミラーは顔をしかめた。
「本隊は都市へ戻し、国境に近い道へは一隊だけを残す予定だった。戦争を始めるための配置ではない」
ソフィアの手が止まった。
議場では、誰かが報告書をめくった。
「ただいまのお話は、この報告にはありません」
彼女が言った。
「どこから、お聞きになったのでしょう」
ミラーは、初めて自分の言葉を振り返った。
手元の報告には、越境した一隊について書かれている。行軍訓練の本隊がどこへ戻る予定だったかは、記されていない。
「宰相にも、情報を集める手段はある」
伯爵は答えた。
「リシャール家だけが、外国の事情を知るわけではない」
「もちろんです」
ソフィアは、すぐにうなずいた。
予想した反論が来ず、ミラーは言葉を継ぎそびれた。
「ただ、プロスト国が出荷を絞る悪意については厳しく追及され、その軍の行動については、戦うつもりのない小さな事故だと断言される。その違いを伺いたいのです」
「相手国への圧力を、戦争と混同してはならない」
「圧力をかけていたと、ご存じなのですね」
ミラーは口を閉じた。
ソフィアは返事を急がせなかった。
議員たちは今、同じ報告書と、宰相の顔を見比べていた。
知らされていない予定を知っている。相手の意図を説明できる。それだけで罪が決まるわけではない。しかし、情報の出所を確かめる理由には十分だった。
「先ほどの行軍の予定は、こちらでも確認できています」
ソフィアは言った。
「プロスト国から届いた、調査結果の中にあります」
*
係の者が、新しい文書を配り始めた。
プロストの正規の窓口から届いた書状と、その添付資料だった。宛先と封印を確認したうえで、王宮に受領されている。
ソフィアは国王へ礼をし、報告を続けた。
「プロストは、自国軍が我が国へ入ったことを認めています。訓練の名目で国境を騒がせたこと、そのために双方の通商を損なったことについて、関係者を調べました」
資料には、街道封鎖の経緯があった。
飼葉の不足を沿道の宿駅から埋めたこと。通行の混乱を承知しながら、訓練を延ばしたこと。国内へはフランコ側に原因があると広めさせたこと。
いずれも、先に商人から届いていた話と一致していた。
「調査の中で、訓練を指揮した者たちが、我が国の者と内々に連絡していたことが確認されました」
ソフィアは、次の頁を示した。
そこには、連絡に用いられた書状の写しがあった。
国境の緊張を保つことが、両国の友好一辺倒の方針を改める契機になる。フランコ側では外交を担う者の責任が問われ、政策転換が進む見込みである。
露骨に戦争を求めた文ではなかった。
商人がどれほど損をしているかについても、書かれていない。
ただ、今の訓練を続けることが、こちら側の政治に役立つと伝えていた。
「宰相」
ソフィアが呼んだ。
「この連絡について、ご説明いただけますか」
「その写しだけで、誰が書いたか決められるものか」
ミラーは答えた。
「外国から来た文書だぞ。こちらの政治へ干渉する意図がないと、どうして分かる」
「ですから、連絡役についても確認しました」
ソフィアは、もう一つの資料へ進んだ。
プロスト側の受取人が供述した連絡の経路と、フランコ側で確かめた使いの行動が並べられていた。
軍の正式な文書を運ぶ者ではない。宰相の私的な用務を扱う者を介し、旅団の幹部へ書状を届けていた。返事も同じ経路で戻っていた。
その連絡役は、帰国後の調べで、誰から渡され、誰へ返したかを認めている。
「私の家の者を、勝手に調べたのか」
「外国軍との連絡が疑われると報告し、王宮の担当者に確認を求めました。私が一人で尋問したわけではありません」
ソフィアが答えると、国王が口を開いた。
「受理している」
短い言葉だった。
ミラーは王を見た。国王の前にも同じ資料があり、すでに頁が開かれていた。
自分が議題を整えている間に、別の手続きが進んでいた。
「外国の者から情報を得ること自体を、問題にしているのではありません」
ソフィアは続けた。
「訓練を続けるよう働きかけ、国境の緊張を我が国の政治に利用したかどうかを、伺っています」
ミラーの顔に、怒りが戻った。
「今の外交を変える必要があることは、多くの者が認めている」
「その是非は、ここで話し合えます」
「君の家が公使を握り、相手の事情ばかり説明するからだ。いくら話しても、相手を尊重しなければならないという返事しかない」
「それが間違っているとお考えなら、議案にしてください」
ソフィアは答えた。
「双方の商人を困らせて、その被害を自分の説明の材料にする必要はありません」
ミラーは言い返そうとした。
その前に、別の議員が文書の一節を読み上げた。
訓練の継続が、フランコ側の政策転換に有効であるという箇所だった。
「これは、受け取った情報ではないな。向こうへ送った話だ」
その声に、ほかの議員も顔を上げた。
宰相が外国の内情を知っていたことから、話が変わっていた。
外国の軍人に、自国へ圧力をかけ続ける意味を教えていた。
ミラーは、しばらく何も言わなかった。
ソフィアはその沈黙を破り、先方の正式な返答を読み上げた。
プロスト政府は越境を遺憾とし、問題を起こした指揮官を任務から外した。訓練を中止し、国境の通行を回復する。国内の流通を損ない、外交関係を危うくした者への調査は継続する。
そこには、自国の軍が国境を越えた失態を、隠さず引き受ける文章があった。
「先方は、我が国を困らせたことだけでなく、ご自分の国の商いを傷つけたことも調べています」
ソフィアは言った。
「それは、こちらでも同じように確かめるべきことだと思います」
*
議事を進める者が替わった。
自分への追及を受ける宰相が、そのまま会議を取り仕切ることはできなかった。
ローラン伯爵が提出した損失の資料も配られた。こちらの商人だけではなく、相手側の発送と交通の記録も添えてある。
オリヴィアが調べたものだった。
それらを読み、議員たちはミラーへ質問した。いつから連絡していたのか。誰の承認を受けたのか。商人の損失を知った後も、訓練を続けるよう伝えたのか。
ミラーの説明は、次第に短くなった。
国のために外交を変えようとしたという言葉は繰り返した。しかし、外国軍へ働きかけることを、元老院が決めた記録はなかった。
採決では、国王も一票を投じた。
ミラー伯爵を宰相から解任し、関与について正式な調査を続ける。連絡に関わった者と文書を保全し、勝手に処分させない。
決定が読み上げられる間、ソフィアは席に着いていた。
第一王子を失った後、第二王子を支持すればよいと勧めた男が、宰相の席を失った。その決定に、レオの名は含まれていない。
王子自身の関与を示すものは、今のところなかった。
誰を次の王にするかは、また別の議論として残された。
*
宰相の処遇を決めた後、ソフィアは外交の決着について説明した。
プロスト側との交渉は、すでに公使を通じて進めていた。
問題の訓練は中止され、街道封鎖は解かれる。宿駅の飼葉を強引に押さえた処理も改めさせる。国境近くで大きな軍事活動を行う場合には、民間の通行をどう確保するか、あらかじめ調整する。
越境した部隊は国境付近の任務から外す。確認できた商人の損害については、両国の担当者が補償の手続きを進める。
「これらの条件は、先方が受け入れる見込みなのか」
議員の一人が尋ねた。
「先方から、基本的に了承するとの返答を受けています。越境を起こした責任を認めているため、以前より明確な通行の約束を求められました」
ソフィアは答えた。
軍を退かせ、非を認めさせ、こちらの商人への補償を求める。
それは、宰相が責めていた弱腰の結果とは違っていた。
相手の都合を聞いていたからこそ、国内の理解者へ訴えが届いた。情報を集めていたから、軍全体と問題の一派を分けて扱えた。こちらの軍が待ち構えていたから、越境を曖昧に処理されずに済んだ。
友好を保つ仕事と、力を使う仕事が、同じ決着へ向いていた。
「領土など、ほかに要求することはないのか」
別の声があった。
「今回損なわれたものを、まず取り戻します」
ソフィアは答えた。
「相手国の中で収拾に動いた方たちが、また商いを続けられるようにしたいと思います。それが続けば、我が国も利益を得られます」
異論はあった。しかし、すでに受け入れられる条件があり、待っている商人たちがいる。
元老院は外交処理を承認した。
*
その後、国境から戻ったアロンソはローラン家を訪れた。
報告のための正式な訪問を終えてから、オリヴィアに会う時間を取ったのだった。
彼女は挨拶をし、戦闘が起きなかったことへの礼を言った。
「部下たちが、命令を守りました」
伯爵は答えた。
「相手側にも、兵を落ち着かせようとした者がいます。その双方の働きです」
オリヴィアはうなずいた。
ソフィアの策が優秀だっただけではない。現地で立っていた人々が、剣を抜かない時間をつないでいた。
「知らせをくださったことで、先に準備できました」
アロンソは言った。
「ただ、国境に兵を置けば、常に何かが起きるおそれはあります。そのことは、覚えておいてください」
「はい」
オリヴィアは答えた。
伯爵がどこまで推し量っているかは、分からなかった。知らない部分を尋ねず、自分が見たことと負った責任だけを話しているようにも見えた。
マテオは父のそばで、その話を聞いていた。
前に王子から命じられたとき、彼は何をするかを考えず手を出した。今、父は命令を守った兵を評価しながら、何が起こるかを考える責任も語っている。
少年は、父がいるから大丈夫だと思っていた自分を、少し恥ずかしく思った。
*
街道が解かれても、馬車の運行はすぐには元へ戻らなかった。
飼葉を届け直し、替え馬を戻し、止めていた荷を順に出す必要があった。取り消された注文には戻らないものもあり、補償の確認も続いている。
それでも、動き始めたという知らせが、一通ずつ届いた。
オリヴィアは、届かなかった荷の紙に、届いた日を書き足した。
ある午後、ソフィアがローラン家へ来た。茶を頼み、二人でいつもの卓を囲む。
「次の荷を送り出したそうです」
オリヴィアは、届いた手紙を見せた。
荷が止まり始めたころから、何度も詫び状を送ってきた、あの商人だった。
今度は詫びる文章から始まっていない。何日に出発し、順調ならいつ着くかが書いてある。次に送る品についても、希望を聞きたいという。
「次の約束ができるようになったのね」
ソフィアが言うと、オリヴィアはうなずいた。
商人は、国境で何が行われたかを詳しく知らないだろう。宰相が失脚したことは聞いても、そのために誰が何を決めたかまでは知らない。
自分の暮らしへ戻れるなら、それでよいのだと思う。
しかし、オリヴィアには、知らないふりをして戻れないことがあった。
「あなたに、お願いしてよかったと思っています」
彼女は言った。
ソフィアが顔を上げた。
「でも、何も起きなかったから、簡単なことだったとは思えません」
「ええ」
「国境へ行った方が、怪我をしていたかもしれない。越えてきた兵も、自分がこうなると知っていたわけではないでしょう」
ソフィアは否定しなかった。
「だから、私が承知したことも、忘れないでおきます。あなたが全部、勝手にしたのだとは言いません」
オリヴィアは言葉を切り、手紙へ目を落とした。
商いが戻ることを喜ぶ気持ちと、自分が返事をした日の重さは、どちらも本当だった。
ソフィアはしばらく黙り、それから、分かりましたと答えた。
いつもの穏やかな声だったが、今は、その声の後ろにどれだけの力があるかを、オリヴィアも知っていた。
「お返事を書かないと」
オリヴィアは新しい紙を出した。
無事の出発を喜んでいること。こちらでも受け取りを待っていること。次の品については、買い手へ確かめてから連絡すること。
短い手紙になった。
書き終えて顔を上げると、ソフィアが茶を飲んでいた。
剣は抜かれていない。
オリヴィアは封筒へ宛名を書き、次の荷が届く予定の日を、机の暦へ記した。




