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第二部 宰相の陰謀

第五章 エマの背後

 ヘンリーが臣籍に下ったという知らせは、王都の人々には一つの区切りになった。

 第一王子が財務大臣の娘との婚約を破棄し、それを取り繕おうとした叔父のウィリアムズ侯爵が、軍を使って元老院へ圧力をかけた。総司令官の解任と爵位の降格、王子の臣籍降下。続けざまに下された処分が、事件の大きさを物語っていた。

 ローラン家にも見舞いと挨拶が届いた。オリヴィアの腕を案じるものもあれば、婚約が解消されたことへの慰めもあった。どちらに重きを置くかは、手紙を送ってきた家によって違っていた。

 父は必要な返事を選び、娘には無理をしないように言った。腕は少しずつ動かせるようになっていたが、長く机に向かうと、まだ肩が痛んだ。

 オリヴィアは短い返事をいくつか書き終えると、別の紙を出した。

 そこには、エマの名が記されていた。

 婚約破棄の場にいた少女である。それまでにも、ヘンリーのそばで何度か見かけたことはあった。学園で親しくなったのだろうと思い、特に尋ねたことはなかった。

 今、思い返すと、分からないことが多すぎた。

 誰が最初に紹介したのか。どうして王子の側近たちと一緒にいるようになったのか。婚約者である自分が出席しない集まりにも、彼女はいたのだろうか。

 恋をしたのだと言われれば、それまでかもしれない。オリヴィアはヘンリーの気持ちに詳しくなかった。自分に話さないことをエマには話し、彼女といる時間を楽しんでいたとしても、不思議ではない。

 けれど、王子のそばに立つまでには、人と場所が必要だったはずである。

「マテオさん。少し聞いてもよいですか」

 少年は、返事を出すための封筒をそろえていた。総司令官の息子になっても、ローラン家での仕事は変わらない。父の就任を祝う者から声をかけられることは増えたらしいが、オリヴィアの前では、その話をしなかった。

「エマさんと殿下が、いつから親しくなったか覚えていますか」

 マテオの手が止まった。

「詳しくは……」

 彼は言いかけて、考え直した。

「初めて一緒にいらっしゃるのを見た場所なら、覚えています」

 オリヴィアは日時と場所を聞き、紙へ書いた。そのころ自分がヘンリーに会った日の記録と比べる。

 彼女の記憶より早かった。

「その集まりに、エマさんを招いたのはどなたですか」

「僕には分かりません。殿下のお知り合いだと聞きました」

「誰から?」

 マテオは、しばらく黙っていた。

 王子の周囲にいる者は、誰かの紹介で集まってくる。初めて見た人でも、ほかの側近が親しく話しかけていれば、それ以上確かめることはなかった。

「思い出せません。紹介を聞いたのか、そうだと思っただけなのかも」

 オリヴィアはそのまま書き留めた。

「ほかに覚えていることがあれば、後で教えてください。今、無理に決めなくてもよいです」

 マテオはうなずいた。責められる方が、かえって返事をしやすかったかもしれない。自分が見ていたはずのことを、確かめながら話す方が難しかった。

 オリヴィアは父に、過去の招待状を見せてもらった。

 ローラン家へ届いたものだけでは、ヘンリーとエマの行動は分からない。それでも、マテオが挙げた集まりがいつ開かれ、どの家が主催したかは確かめられた。

 名前を並べていくと、ミラー家と親しい家がいくつかあった。

 それだけでは、何の証拠にもならない。宰相の周囲には多くの貴族が集まる。その中に第一王子の知人がいても、おかしなことではなかった。

 ただ、第二王子レオを推す宰相の周辺で、第一王子が将来の妃を遠ざけるような親交が育っていた。

 オリヴィアはペンを置いた。

 婚約破棄だけなら、ヘンリーがエマを選んだという話で済んだかもしれない。その後、ウィリアムズ侯爵が焦り、軍を動かし、甥とともに政治の場から去った。

 エマが望んだのは、王子の妻になることだったのだろうか。そうなら、この結末は彼女にとっても失敗だったはずである。

 しかし、ほかの誰かにとっては、ずいぶん都合のよい結末になっていた。

     *

「エマさんの背後を調べたいの」

 オリヴィアがそう言うと、ソフィアは、差し出された紙を読み始めた。

 ローラン家の小さな客間だった。腕が痛むとき、オリヴィアは執務机よりこちらの卓を使うようになっていた。侍女が二人のために茶を置き、下がっていく。

 ソフィアは最後まで読んでから、紙を卓へ置いた。

「誰に聞けば分かるかを、調べましょう」

「私が、気にしすぎているのかもしれないけれど」

「調べなければ、それも分からないわ」

 友人の返事はあっさりしていた。

 オリヴィアは、少しだけ安心した。恋敵の身辺を探ろうとしているように見えるのではないか。それが気になっていた。

 自分がヘンリーを失って悲しんでいるのかどうかも、まだはっきりしない。腹立たしさはある。痛い思いをさせられたことも忘れられない。ただ、その気持ちと、紙に並んだ疑問は別に扱いたかった。

「エマさんに、直接会えばよいのかしら」

「今は、ほかに確かめられることからにしましょう。相手が身構えてしまうと、会う前に分からなくなることもあるから」

 ソフィアは、最初の集まりの日付に目を戻した。

「このころに、紹介があったのね」

「マテオさんは、見た日なら覚えていたわ。誰が紹介したかは、知らないそうです」

「では、招いた家に知っている方がいるでしょう」

 数日後、ソフィアから届いた返事は、オリヴィアの予想より短かった。

 エマを招くよう取り次いだ者がいる。その者はミラー家の用務にも関わっていた。別の機会にも、同じつながりを通じて席が用意されている。

 相手を紹介した人物を、さらに一人たどる。その仕事だけで日数がかかったという。

 添えられた紙には、話を聞いた相手と、確認した記録が分けて記されていた。すべての人が同じ話をするわけではない。覚えている時期がずれている者もいた。

 オリヴィアは、それらを一つの確定した話に書き換えず、分けたまま残した。

 エマとミラー家には、つながりがある。

 今、言えるのはそこまでだった。

 宰相がエマへ何を話したか。そもそも、二人が直接話したことがあるのか。婚約破棄を望んだのか。そこはまだ分からない。

 それでも、偶然の恋の話だけではなくなっていた。

「エマさんは、知っていたのでしょうか」

 資料を届けたマテオが尋ねた。

「何を?」

「殿下が婚約を破棄したら、こうなることを」

 オリヴィアは首を横に振った。

「私にも分かりません。ウィリアムズ侯爵が軍を動かすところまで、誰かが考えていたかどうかも」

 結末を知ってから振り返ると、何もかもがそこへ向かっていたように見える。だが、婚約破棄のとき、侯爵にはほかの対応もできたはずだった。軍を集めることを選んだのは侯爵自身である。

 エマを王子に近づけた者がいても、その者が一連の出来事のすべてを決めたとは限らない。

 オリヴィアは、ミラー家という名の下へ、もう一つ問いを書いた。

 何を望んでいたのか。

 その問いに答えるには、エマだけを調べていても足りないようだった。


第六章 宰相の見込み

 ミラー伯爵は、リシャール家の外交報告を読むたびに、宰相という職の不自由さを感じていた。

 国政の責任を負うのは自分である。それなのに、主要国へ送られた公使たちは、何より先にリシャール伯爵へ報告する。相手国に何を伝え、どこで譲り、どの条件を受け入れるか、その下準備まで同家の手で進められていた。

 元老院へ議案が出てくるころには、相手側との話がかなり整っていることも多い。反対すれば、すでに得られた合意を壊す者として説明を求められる。

 前のリシャール伯爵とは、何度も衝突した。

 あの男は、譲ることを恥だと思わない。

 相手が面目を保てる条件を探し、相手国の事情を語り、すぐに受け入れられない要求は時間をかけて話すべきだと言う。その間に、こちらの強さを疑われたらどうするのか。要求を引っ込めるたびに、王国が弱いと見られるのではないか。

 ミラーには、国の威信と権益を削って、外国からよい顔をされようとしているように見えた。

 友好を保つという名目で、商人の便宜を優先する。相手にも利益があると、まるでそのことが王国の手柄であるかのように説明する。

 宰相が守らなければならないのは、フランコ王国の利益だった。

 外国の商人が儲かることを喜ぶのは、その国の大臣に任せておけばよい。

 昨年、そのリシャール伯爵が、家督を十五歳の娘へ譲った。

 ミラーは好機が来たと思った。

 家の文書と役人は引き継げても、長年の経験までは引き継げない。元老院の議席も、座る者によって重みが変わる。若いソフィアには国政を続ける助言が要り、助言するなら宰相が最もふさわしい。

 父が天敵だったからといって、娘まで敵にする必要はない。適切な便宜を与え、王国全体を見る目を教えれば、有用な議員にできるはずだった。

 第一王子の失脚は、その機会をさらに広げた。

 王太子指名について、リシャール家は態度を保留していた。ヘンリーが外れた今、第二王子レオを支持するよう声をかければよい。若い伯爵は、第一王子の処分に関わった後の難しい立場から救われたと感じるかもしれない。

 ウィリアムズの軍の工作を暴いたことは、確かに予想外だった。

 しかし、あの件にはローラン伯爵とアロンソ伯爵がいた。財務と軍の二人に資料をそろえてもらい、娘が議場で尋ねた。裏で事情を整える大人がいれば、若い者でも役目を果たせるということだろう。

 ミラーはそう評価していた。

 次に事情を整えるのは、自分でよい。

     *

 ソフィアが宰相の執務室に招かれたのは、元老院の会議を終えた午後だった。

 伯爵は茶を勧め、今回の処理をねぎらった。軍が会議へ圧力をかけるような事態を防げたことは、王国にとって幸いだったと言う。

 その評価について、ソフィアに異論はなかった。礼を述べ、相手の話を待った。

「先代から役目を受け継いで、苦労も多いだろう」

「家の者たちに助けてもらっています」

「それはよいことだ。ただ、家の中の考えだけに頼っていては、中央で物事を進めにくい。私からも力になれることはある」

 伯爵は、外務の人事や公使の経費の処理に触れた。新当主の正式な任命についても、準備を整える必要があると言った。

 どれも実際に手間のかかる仕事だった。ソフィアは言葉を遮らず、最後まで聞いた。

「王太子の指名も、長く空けておくわけにはいかない」

 話はそこへ移った。

「レオ殿下なら、今回のような不始末は起こされないだろう。君にも、次の王を支える立場に加わってほしい」

「殿下のご意向を伺う機会をいただければと思います」

「ご意向?」

「外交や軍、国政について、どのようにお考えかを」

 ミラーは茶の器を置いた。

「そのような細かなことは、我々が補佐すればよい。まだお若いのだから」

「補佐を受けることを、殿下ご自身がどう考えておられるかも、伺いたいのです」

 ソフィアは淡々と答えた。

 ミラーは彼女を見た。父親から言い含められているのかもしれない。表情は若い娘のものだったが、聞かれたくない問いを、遠慮なく置いてくるところは先代に似ていた。

「まず、外交の方針を改める必要がある」

 伯爵は話の向きを変えた。

「相手の都合を聞くばかりでは、こちらの要求は通らない。国王の代が変わる前に、強い姿勢を示しておくべきだろう」

「どの交渉についてでしょうか」

 ソフィアが尋ねると、伯爵はいくつかの案件を挙げた。通行条件、商人の扱い、国境での取り決め。それぞれに、相手側の譲歩が十分ではないと考えていた。

「今進めているものは、先方にも確認中です。こちらが急に条件を変えれば、相手も一度取り下げることになると思います」

「取り下げられると思うから、こちらからは要求しない。それでは弱腰のままだ」

「要求は伝えています。受け入れられる条件を確かめています」

 伯爵は口元を引き結んだ。

 その答えも、先代から何度も聞いたものだった。

「守備軍があるのは、何のためだ」

「国境を守るためです」

「その力があることを、相手に分からせる必要があるだろう」

「承知しているはずです。公使は、相手の軍の動きも確認しています」

 ミラーは、そこで話を止めた。

 軍の動きについて、宰相が公使の見立てを聞かされる。その公使は、少女の配下にいる。

 それまで外交をほぼ一手に担ってきたリシャール家は、表に出る交渉だけをしているわけではなかった。各国で人を使い、知らせを集め、その国の内側を探っている。その蓄積を、家督とともに娘へ渡していた。

 ミラーは報告として出された部分を読むだけである。

 ソフィアが何を知っていて、何を言っていないのかも、今この場では分からなかった。

「家のやり方を変える気はないのかね」

「変える必要のあるところは、変えます」

 少女はそう答えた。

「ただ、そのためには何が困っているかを知る必要があります。今日のお話も、持ち帰って確かめます」

 それ以上の約束は得られなかった。

 王太子指名も、外交方針も、宰相の助言を聞いてすぐ賛成するつもりはないらしかった。

 ソフィアが去った後、ミラーは席に残ったまま外交報告を開いた。

 娘になれば変わると思っていた。だが、変わったのは当主の名だけなのかもしれない。

 国の権益を損なうやり方を、また何十年も続けさせるわけにはいかなかった。

     *

 その日の夕方、オリヴィアはソフィアから宰相との会話を聞いた。

 ミラー家とエマのつながりを調べていることは、宰相には伝えていないという。そちらはそちらで確認を続ける。

「ミラー伯爵は、以前からリシャール家の外交に反対していらしたの?」

「ええ。父が説明に行くと、ずいぶん長く帰ってこないことがあったわ」

 ソフィアは、当時のことを思い出すように言った。

「私にも同じお話をなさったから、お考えはあまり変わっていないようです」

 オリヴィアは、宰相の挙げた案件を見せてもらった。

 譲歩したという部分は分かる。受け取った条件も書かれている。だが、どちらが大きいか、何を基準に比べればいいのか、すぐには判断できなかった。

「あなたは、どう考えているの」

「相手にも、この約束を続ける理由があった方がよいと思っています」

 ソフィアは答えた。

「約束を破った方が得なら、守っていただくために別の力が要るでしょう。その力にも、お金がかかるわ」

 オリヴィアは紙へ目を戻した。

 相手にも利益があることを、宰相は好ましく思っていない。一方、ソフィアは、それを続ける理由にしようとしている。

 同じ約束を、違うものとして見ていた。

「私、あなたのお家の外交を、もっと知りたいです」

 オリヴィアは言った。

「今まで、戦争を避けるために仲よくしているのだと思っていたけれど、それだけではないのね」

 ソフィアはうなずいた。

「読んでいただけるものを、そろえます。今度は、うちへいらして」

 オリヴィアは礼を言った。

 エマの背後を調べ始めた問いは、宰相の考えにまで広がっていた。そして、それを判断するには、友人が続けている仕事も知らなければならなかった。


第七章 相手の利益

 リシャール家の王都屋敷では、届いた書状が、宛先の国ごとに分けられていた。

 領地から来たものもあれば、公使から届いたものもある。同じ国から来た報告でも、外交の話と商人の訴えでは、読んだ後に回す相手が違うらしかった。

 オリヴィアはソフィアに案内され、卓の上へ広げられた写しを見た。

 学園の課題を持ち寄ったときと、座る位置はあまり変わらない。だが、今はソフィアの背後を使用人や書記が出入りしている。友人は説明の途中でも短い問いを受け、文書を確かめ、返事を渡していた。

 自分も父の仕事を手伝うが、家全体を動かしているわけではない。その違いが、ここに来るとよく分かった。

「全部、毎日読むの?」

「届く日は、まとまって届くわ。急ぐものを先に見ます」

 ソフィアは報告の束から一枚を抜き、書記へ渡した。

「この返事は、先方の希望する日までに届くようにしてください」

 相手が下がると、彼女はオリヴィアの前の紙へ目を戻した。

「まず、こちらから」

 古い交易交渉の記録だった。

 相手国の商人に認めた通行の便宜と、フランコ側が得た条件が書かれている。その後の荷の量と関税収入も添えられていた。

 オリヴィアは数字を追った。先方へ譲った項目だけを見れば、確かにこちらが引いたように読める。だが、取引が増えた後の収入は、交渉前より大きかった。

「これだけ見れば、うまくいったと分かるわ」

 彼女は言った。

「でも、最初に決めるときは、こうなるかどうか分からないでしょう」

「ええ。商人にも聞きます。何が変われば荷を増やせるのか、その荷を買う相手はいるのか」

「相手国の商人にも?」

「もちろん。こちらが売りたくても、買って運ぶ方が続けられなければ困るもの」

 オリヴィアは、通行の便宜という項目へ目を戻した。

 自国の商人を助けるための仕事だと考えていた。だが、同じ取引を続けるなら、その向こう側の商人にも仕事が残らなければならない。

 ソフィアは、もう一つ紙を取り出した。

 先代が交渉の担当者へ送った、短い覚え書きだった。

 交易において最も下策なのは、相手と武力で争うこと。最も上策なのは、相手に利益を与えること。

 その一節を読んで、オリヴィアは顔を上げた。

「相手に利益を与える、というのが一番なのね」

「父は、そう書いています」

「こちらも利益を得る、ではなくて?」

「こちらが求めるものは、こちらで分かっています。だから、交渉するときは、相手が受け取るものも考えなさいということね」

 オリヴィアは先を読んだ。

 続けて利益を得たいなら、互いに相手を尊重しなければならない。相手に約束を守らせるだけでなく、こちらも守ること。受け入れられない要求は、何が難しいのかを確かめること。

 文書は、そのような実務の言葉で続いていた。

「元老院でも、こう説明するの?」

「相手を儲けさせることが上策だと言うと、そこでお話が止まってしまう方もいます」

 ソフィアは、少し困ったように笑った。

「父は、その理屈を全員に分かっていただくことは、もう諦めています。けれど、続けて利益を求めるなら互いを尊重する必要がある、ということは話し続けてきました」

 同じ結果へ至る道でも、受け取ってもらえる言葉を探しているらしかった。

 オリヴィアは覚え書きを卓へ置いた。

「実際に商売をする方にも、聞いてみたいです」

「今日、来ていただいています」

 ソフィアが答えた。

 オリヴィアは友人を見た。資料をそろえると言っていたのは、紙を用意することだけではなかった。

     *

 呼ばれた商人は、長く国境を越えて織物を扱っていた。

 王都の店へ商品を卸す一方、フランコで作られた品を相手側へ送っている。どちらの取引でも、自分一人で荷を運ぶわけではない。国境の向こうにも、倉庫を持ち、買い手を探す商売相手がいた。

 オリヴィアは、相手を儲けさせるという話について尋ねた。

 商人は少し考えてから、以前扱った織物のことを話した。

 こちらの注文が多い年に、相手側の売り手から、買い値を上げてほしいと頼まれた。工房の費用が増え、そのままの値では続けにくいという。

「言われたとおりに、上げたのですか」

「最初は、断りました」

 商人は正直に答えた。

「こちらにも約束した売値がありますし、向こうの言い分が正しいか分かりません。よそから買えばよいとも思いました」

 その後、別の売り手を探すために時間を使った。見つかった品は、少し質が違っていた。王都で売るときには同じものとして扱えず、買い手へ説明し、値も変えなければならなかった。

 古い相手との取引を戻すときには、なぜ費用が増えたかを確かめ、次の荷から買い値を変えた。

「高く買うようになって、こちらの利益は減りましたか」

「一反だけ比べれば、減りました。ただ、決まった質の品を決まった数だけ受け取れるようになりましたので、その後の商いでは助かりました」

 相手の工房にも、続けて仕事を出せたという。納期が安定し、王都の買い手へ余裕を持って届けられるようになった。

「安く買えた一度の取引で、相手が次を作れなくなれば、また探し直しです。見本を取り寄せ、値を決め、荷が来るのを待つ。その間に、こちらの客もよそへ行きます」

 オリヴィアは、紙の端へ小さく書き足した。

 一度の差額と、続けられる取引。

「相手が儲けたら、その分、こちらが損をしたように思う方もいるそうです」

 そう言うと、商人はうなずいた。

「買い値を決めるときには、私もそう考えることがあります。値を高く言われて、嬉しいわけではありませんから」

 彼は笑ってから、続けた。

「ですが、その品を向こうで買って、こちらで売る値は同じではありません。互いに別の客を持っております。双方が儲けられる値があれば、荷は動きます」

「双方が儲けられる値がなければ?」

「別の品を探すか、買い手を探すかです。無理に約束しても、後で揉めるだけでしょう」

 どんな取引でも、双方に利益が生まれるわけではない。相手の話を尊重することは、言われた値で必ず買うことではなかった。

 オリヴィアはその違いを確かめた。

 数字を合わせる前に、それぞれが続けられる条件を聞く。相手が何を得たいかを知らなければ、約束が守られる見込みも考えられない。

 商人が帰った後、彼女はソフィアに礼を言った。

「家の外交でも、同じように聞くのね」

「商売だけでは決まらないこともあります。けれど、約束を続ける理由が相手にも要るのは、同じだと思っています」

「武力で争えば、その理由がなくなる」

「荷を買う相手が敵になったら、売りたくても売れないでしょうね」

 ソフィアは守備軍の報告へ目を向けた。

「だから、争いを避ける仕事と、国境を守る仕事は、両方要るわ。こちらの商人が襲われても何もしないという話ではありません」

 オリヴィアはうなずいた。

 仲よくするために軍を使わない、というほど単純な方針ではなかった。取引を続けられる場所を守り、そこで双方が守れる約束を作る。そのために、公使も守備軍も必要になる。

 ソフィアの前には、相手国の軍の動きを記した報告もあった。どの部隊が移動し、その国の中で誰が強く発言しているかまで書かれている。

 友好を説く家が、相手の力を見ていないわけではなかった。

     *

 数日後、オリヴィアは父の来客の席で、リシャール家の外交がどう受け取られているかを聞いた。

 来客は元老院の議員ではなかったが、王都で国政に関わる貴族だった。娘がいることを気にせず、ローラン伯爵へ近頃の外交について話した。

「あちらへは、ずいぶん便宜を与えていると聞きます」

 その人は言った。

「リシャール家は国境の商いが増えるのでしょうが、王国全体で見れば、どうなのでしょうな。威信が下がれば、よその交渉でも足元を見られる」

 オリヴィアは父の返事を待った。

「どの便宜についてですか」

 ローラン伯爵は静かに尋ねた。

 相手が挙げたのは、彼女がソフィアと読んだ取り決めの一つだった。返ってくる便宜には触れず、相手側へ認めた部分だけを話していた。

 それを聞いて、オリヴィアは説明したくなった。荷が増えたことも、税収が変わったことも知っている。

 だが、口を開く前に相手は別の話へ移った。

 外国へ強い要求を出すべきだという意見は、その人一人のものではなかった。帰った後、オリヴィアが父に尋ねると、ローラン伯爵は、同じ考えの貴族は多いと答えた。

「数字を見れば、分かっていただけるでしょうか」

「何を心配しているかによるだろう」

 父は言った。

「税収が減ったと思っているなら、確かめてもらえる。王国が侮られたと思っているなら、それだけでは話が済まない」

 オリヴィアは黙った。

 先代リシャール伯爵が、商売相手を儲けさせる理を説明することを諦めた理由が、少し分かった気がした。

 同じ帳簿を読んでいないだけではない。帳簿に書かれているものを、何のために見るかが違っていた。

「中には、実際に負担の増えた者もいる」

 父は続けた。

「荷の通る道が変われば、客を失う宿もある。国全体で儲かったと説明しても、その宿には仕事が戻らない」

 オリヴィアは顔を上げた。

「リシャール家は、それも調べているのですか」

「聞いてみなさい。友人なのだから」

 父は簡単に答えた。

 その夜、オリヴィアはソフィアへ手紙を書いた。

 賛成するためにも、知っておかなければならないことが増えていた。相手に利益を与えることの理を理解し始めたからといって、友好政策の結果を何もかもよいものだと決めてはいけない。

 どういう人が儲かり、どういう人に負担が出るのか。

 ソフィアの家が弱腰だと言われるたび、友人だから腹を立てるだけでは、国政の話に加われないと思った。

 相手の利益を考える。

 その相手には、国境の向こうにいる人だけでなく、同じ王国で違う考えを持つ人も含まれるのだろう。


第八章 届かなかった荷物

 荷が着かなかったという知らせは、商人がリシャール家へ出した訴えの中にあった。

 ソフィアから借りた記録を読んでいたオリヴィアは、その一件に印を付けた。同じ道を使う交易については、前にも資料を見ている。ここしばらくは、予定した日から大きく外れることがなかったはずだった。

 雨で道が悪くなったのかもしれない。荷馬車が壊れたのかもしれない。届くまでに日数がかかる商いでは、遅れること自体は珍しくなかった。

 だが、次に届いた写しにも、同じ国境で止められた荷の話があった。

 今度は追加の確認を求められ、通行できないまま待っているという。すでに必要な手続きを終えているはずだが、現地では別の指示が出ているらしい。

 オリヴィアは、届くはずだった日と、止められた場所を書き並べた。

「こちらと、こちら。同じところでしょうか」

 マテオへ地図を見せると、彼は道筋を指で追った。

「近いと思います。別の道でも、途中でこの辺りを通ります」

「届け先の違う荷なのに、同じ時期に止まっているわ」

 彼女はソフィアへ、二つの記録を照らしてほしいと書いた。

 返事と一緒に届いた公使の報告には、商人の訴えとは違う事情が記されていた。

 プロスト軍閥が、国境付近で活動を強めている。

 オリヴィアはその名を読み返した。相手側の軍事勢力の一つだということは、ソフィアから聞いていた。だが、何を望み、どこまで力を持っているのか、まだ詳しく知らない。

 報告の最後には、通行の停滞との関わりを確認中とあった。

 遅れた荷の代金は、帳簿で確かめられる。しかし、その代金だけでは困っていることを数えきれない。

 荷を待つ店は、売る品が足りなくなる。加工して使う材料なら、その先の仕事も止まる。代わりを買えば費用が増え、何も買わなければ売上がなくなる。

 オリヴィアは、以前リシャール家で会った商人に問い合わせた。

 今回の遅れで、どのような支障が出ているか。いくらの荷が止まったかだけでなく、その荷を待っている仕事について聞かせてほしいと頼んだ。

 返事を待つ間にも、別の知らせが来た。

 次の荷を送るかどうか迷っている商人がいる。今、国境で止まっている荷がいつ動くか分からないため、後の注文を受けられないという。

 まだ止められていない荷まで、出発を見合わせ始めていた。

 オリヴィアは椅子へ座り直した。

 先日の商人は、決まった質の品が決まった時期に届くことを喜んでいた。その確かさが失われると、金額の小さな遅れでも、次の商いへ影響する。

 相手も儲かるから約束を守る。それでも、その約束を嫌う者が力を持てば、取引を続けたい人々だけでは通れなくなる。

     *

 ソフィアは守備軍へ警戒を命じた。

 公使には相手側への確認を求め、商人が止められた地点と軍閥の動きを照合させた。私設の情報網からも、別の経路で知らせが届く。

 ただ、その報告をオリヴィアへ渡すときには、出所のすべてを示さないものもあった。

「こちらは、集計するときに別にしておいてください」

 ソフィアは薄い封筒を指した。

「どなたの報告か、書かれていないわ」

「名を出すと、その方が仕事を続けられなくなるかもしれないの」

 オリヴィアは手を止めた。

 帳簿には、誰が書いたか、どの記録と照らせるかが必要だった。外交の知らせには、それを広く見せることができないものもあるらしい。

「そのまま数字に使うことはできません」

「ええ。確かめるための手がかりにしてください。公使から来る報告や、実際に止められた商人の話で、同じことが分かるかを調べます」

 ソフィアはそう答えた。

 オリヴィアは封筒をほかの資料から離した。知らないことを、知っているものと同じ欄へ入れるわけにはいかなかった。

 マテオはアロンソのところへ行き、中央軍の見立てを聞いてきた。

 総司令官は、守備軍の報告を受けて準備を始めているという。ただし、相手側の動きを確かめずに、こちらから緊張を広げるような配置はしない。どの命令が出ているかも記録を残している。

 息子へ話すときも、アロンソは、伝えてよい用件を選んで書状にした。

 マテオはそれを持ち帰り、オリヴィアへ渡した。

「父は、前の総司令官の命令を確認し直しているところでした。今回の準備と、以前の準備が混ざらないようにするそうです」

 オリヴィアはうなずいた。

 軍の指揮を立て直す仕事が終わらないうちに、新しい緊張が生まれている。その時期の悪さも気になった。

「父は、リシャール家が何を知っているか、できるだけ早く聞きたいと言っていました」

「ソフィアへ、そのまま伝えてください」

 マテオは答え、席を立った。

 しばらくすると、ソフィア本人が来た。オリヴィアから資料を受け取ると、アロンソへの返事を準備し、家の者へ持たせた。

「あなたが直接行かなくてもよかったのに」

 オリヴィアがマテオへ言うと、少年は、ソフィアが自分で確かめたいことがあると言ったのだと答えた。

 そのソフィアは、遅れた荷を並べた紙を見ていた。

「これを読ませてほしかったの」

「まだ分からないところが多いわ。止まった荷の数も、届いた話だけです」

「相手側の商人にも、同じ訴えが出ています」

 ソフィアは言った。

「先方の取り決めを扱う方は、通行を続けたいと返答しています。けれど、現地で指示が変わっているらしいの」

 オリヴィアは公使の報告を開いた。

「国の約束と、軍閥の動きが違っているのね」

「そう考えられる知らせが増えています。ただ、どこまで意図がそろっているかは、まだ確かめなければなりません」

 相手国から届いた約束が、国境の現場でそのまま守られるとは限らない。それはフランコ王国でも、つい先日見たばかりだった。

 国王の名を使い、元老院へ知らせず軍を集めようとした総司令官がいた。

 相手側に似たことが起きているなら、誰と話し、どの命令を止めてもらえばいいのだろう。

 オリヴィアはペンを握り直した。

     *

 ミラー伯爵が元老院へ国境の情勢を報告したとき、議場の外でも、その概要が話題になった。

 リシャール家が友好を説いていた相手側で軍が動いている。商人の通行も妨げられている。これまでの外交は、本当に王国の安全と利益を守れていたのか。

 宰相の問いは、以前から弱腰外交を批判していた貴族たちには受け入れやすかった。

 ローラン家へ来る者の話にも、同じ言葉が混じるようになった。外国へ譲ってきたのに、この始末だという。相手の利益を考えている間に、こちらだけが軽く扱われたのだと。

 オリヴィアは、その話を聞くたびに、止められた荷の売り手も困っていることを思い出した。

 商売相手の利益を守ろうとした約束が、商売を続けたい者とは別の力によって妨げられている。少なくとも、公使の報告はそう読めた。

 だが、全体を一つにまとめて相手国の裏切りだと言えば、分かりやすかった。

 それに、荷が止まっているという結果は本物である。友好政策を批判する者に、何も起きていないとは言えなかった。

 オリヴィアは父の書斎へ行った。

「ミラー伯爵は、プロスト軍閥について、どのような報告を受けているのでしょう」

 ローラン伯爵は娘を見た。

「なぜ、それを知りたい」

「公使の報告では、相手側にも通行を続けたい方がいるそうです。宰相のお話には、そちらがあまり出てきません」

「何を議題にしたいかによって、示す部分は変わる」

 父は答えた。

「外交の方針を問うなら、今ある被害を先に示すだろう。ただ、残りを知らずに決めてよいわけではない」

 オリヴィアは、宰相がエマの背後にいるかもしれないという疑問を、また思い出した。

 第一王子が婚約を破棄し、ウィリアムズ侯爵が失脚したとき、ミラーは王太子指名で優位に立った。今は、国境の緊張によって、リシャール家の方針を変えるよう迫っている。

 どちらも、宰相にとって都合のよい出来事だった。

 しかし、都合がよいというだけで、その人が起こしたことにはならない。

 オリヴィアは父へ礼を言い、自分の部屋へ戻った。

 机の上で、エマに関する紙と国境の報告を分けた。違う疑問を、一つの答えへ急いで押し込まないようにしたかった。

 ソフィアにも、その考えを話した。

「宰相が、プロスト軍閥の動きを知っていて使っているのか。それとも、動かすことにも関わっているのか。今は、どちらか分からないわ」

「ええ」

 ソフィアはうなずいた。

「こちらでも、宰相の周辺と軍閥の間に接点がないか確かめます。最初から、同じ話だと決めないように」

「エマさんの調査も、続けるのね」

「続けます。人が変わっても、同じように使える関係が残っているかもしれないもの」

 オリヴィアは、まだ腕をつかまれた痛みを覚えていた。けれど、今調べていることは、その痛みの埋め合わせより、ずっと先まで広がっている。

 帳簿を照らして、王都に兵が集まるのを止めた。だからといって、別の場所で軍を使おうとする者までいなくなったわけではなかった。

 マテオが扉をたたき、商人からの返事を届けた。

 紙には、次の注文が取り消されたと書かれていた。止まっている荷が動くまで、もう少し待てると思っていたという。しかし、買い手はよそで品を調達することに決めた。

 軍閥が何をするつもりか。宰相が何を知っているか。その答えを待たずに、仕事は失われ始めていた。

 オリヴィアは返事の写しを作り、ソフィアへ渡した。

「止まった荷の値段だけでは、足りませんね」

「ええ」

「来るはずだった次の荷も、調べます。待っている間に増える負担も」

 ソフィアは紙を受け取り、静かに礼を言った。

 その夜、オリヴィアの机には、新しい記録の束が置かれた。

 いつ届くはずだったか。誰が待っていたか。代わりを買えたか。次の仕事は残ったか。

 国境の向こうの出来事を、すべて知ることはできない。けれど、すでにこちらへ届いている影響なら、一つずつ確かめられる。

 オリヴィアは灯りを寄せ、最初の一枚を開いた。

 今度は、荷が遅れているという話で終わらせることはできなかった。

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