第一部 婚約破棄の後始末
第一章 抜かれた剣
謝恩会の席で婚約を破棄されるとは、オリヴィア・ローランは考えたこともなかった。
考えたことがないというより、そういうことができるとは思っていなかった。王家とローラン伯爵家が取り決め、何年もかけて準備してきた婚姻である。互いの気持ちが変わったとしても、まず両家で話し合うものだろう。
ところが、第一王子ヘンリーは、会場の中央で彼女の名を呼び、皆が振り向くのを待ってから告げた。
「お前との婚約は、今日限りで破棄する」
彼の隣にはエマがいた。細い指を王子の袖に添えている。オリヴィアを見ようとしないのが、かえって目についた。
学園生活を終える若者たちを送り出すために、宮廷の広間には花が飾られていた。壁際には料理が並び、奥では楽師が演奏している。昼間の式典を終えた後の、少しばかり気楽な集まりになるはずだった。
オリヴィアも、そのつもりで来ていた。ヘンリーと長く話すことはなくても、婚約者として隣に立ち、決められた挨拶をすればいい。それが終われば、友人と菓子を食べながら過ごせると思っていた。
王子は続けて何かを言った。エマの名と、自分への非難が聞こえた。オリヴィアは返事をしなければと思ったものの、うまく口を開けなかった。
話があまりに急だった。
父は知っているのだろうか。王宮からローラン家に連絡はあったのだろうか。そちらを確かめる方が先ではないか。
「殿下。そのお話は、父も……」
「まだ言い訳をするのか。マテオ」
呼ばれた少年が一歩前に出た。
第一師団長アロンソ伯爵の息子で、ヘンリーとよく一緒にいる。オリヴィアも顔と名は知っていた。学園では武芸に優れ、将来を期待されていると聞いていた。
そのマテオが、彼女の腕をつかんだ。
オリヴィアは驚いて顔を上げた。何をするのかと尋ねるより早く、腕が背中へ回される。肩に鋭い痛みが走り、つま先が床の上を滑った。
「痛い……」
小さく訴えたが、力は緩まなかった。逃げようとしたわけでも、誰かに手を上げたわけでもない。なぜこんなに強く押さえる必要があるのか分からなかった。
会場の空気が変わった。
近くにいた若者たちは、笑みを消して後ずさった。年長の貴族も何人か顔を見合わせている。王子の言葉を途中で遮る者は、まだいなかった。
そのとき、鞘を離れる刃の音がした。
「全員、そのまま」
静かな声だった。
大きな声ではなかったのに、すぐそばの話し声が途切れた。ヘンリーも言葉を止める。マテオの手が、ようやく動かなくなった。
ソフィア・リシャールが剣を抜いていた。
夜会用の服に剣を添えて入ってきたときから、彼女は少しばかり人目を引いていた。飾りだと考えた者もいただろう。宮廷で帯剣しているのは近衛騎士くらいで、若い伯爵令嬢が腰に剣を下げる理由など、ほとんどの者には分からなかった。
だが、今そこにある刃は、飾りではなかった。
ソフィアは剣を誰かの喉へ突きつけたわけではない。人々の間へ入り、動けば刃に触れるかもしれない距離に立っていた。その顔に怒鳴る前のような昂ぶりがないことが、かえって周囲を黙らせた。
「近衛。こちらへ」
壁際にいた騎士たちが動いた。
オリヴィアは、友人の顔を見ることができなかった。腕をねじられた姿勢のまま、近づいてくる騎士の靴を見ていた。
「ローラン伯爵令嬢を保護しなさい。腕を無理に引かないように」
騎士の一人がマテオの手首を押さえ、もう一人がオリヴィアを支えた。
「手を放せ」
マテオはヘンリーを見た。王子が何か言うより先に、騎士の指に力が入った。彼は顔をしかめて手を離した。
解放されても、オリヴィアはすぐに腕を下ろせなかった。胸の前で肘を抱え、浅く息をする。支えてくれた騎士が、ソフィアに目を向けた。
「お怪我を」
ソフィアの視線が、オリヴィアの肩から腕へ移った。
「医師を呼んで。隣の控えの間を使います」
そう指示してから、彼女はマテオに向き直った。
「あなたに騎士になる資格はありません」
マテオの顔から血の気が引いた。
それは侮辱として投げつけられた言葉ではなかった。広間にいる近衛騎士たちへ聞かせる裁定だった。彼らは否定も疑問も挟まず、少年をオリヴィアから引き離した。
「殿下のご命令で……」
「その弁明は、父君によく聞いていただきなさい」
マテオの口が閉じた。
オリヴィアはソフィアを見た。普段、一緒に計算の紙を広げたり、読んだ本について話したりするときと、声の調子はあまり違わない。それなのに、彼女が一言話すたび、人の立つ位置も、次にすることも決まっていく。
「もう一つ、覚えておきなさい」
ソフィアは続けた。
「あなたの愚行によってアロンソ第一師団長の去就に支障が出るなら、私はあなたを国賊として扱います。死より重い罰を与えることになる。父君に責任を負わせて済ませられるとは思わないように」
少年は答えなかった。父の名を聞いて、初めて自分のいる場所が分かったような顔をしていた。
ヘンリーが一歩踏み出した。
「ソフィア、お前は何のつもりで――」
「殿下と、お連れの方々を退出させなさい」
近衛騎士が王子の前へ立った。
ヘンリーは立ち止まった。自分の周囲にいる少年たちを見たが、誰も動けなかった。宮廷に剣を持ち込むことを許されていない彼らには、目の前の近衛を押しのける手段も、その覚悟もなかった。
「私は第一王子だぞ」
ソフィアは、そこで初めて剣を下げた。
「あなたはまだ王太子の指名を受けていません。今日の愚行で、王位継承の資格を失うことになるでしょう」
王子の顔が赤くなった。
しかし、近衛騎士は道を空けなかった。退出する方向だけを示し、動かない王子の両側へ回った。エマも、マテオも、ほかの側近たちも、同じように広間の出口へ連れていかれた。
扉が閉まるまで、誰も王子を呼び止めなかった。
ソフィアは剣を納め、オリヴィアのそばに来た。
「歩ける?」
今度は、いつもの友人の声だった。
オリヴィアはうなずいた。肩に触れられるのが怖くて、少し体を引いてしまう。ソフィアはそれを見て、自分から手を伸ばさず、騎士に付き添わせたまま歩きだした。
控えの間では、侍女が椅子を用意していた。腰を下ろすと、ようやく足が震えていることに気づいた。
「驚いたわ」
何に驚いたのか、自分でもうまく整理できなかった。
婚約を破棄されたこと。腕をつかまれたこと。ソフィアが剣を抜いたこと。王子が、そのソフィアの命令で追い出されたこと。
「ええ」
ソフィアは隣の椅子に座った。
「私も、あんなことをするとは思っていなかった」
オリヴィアは閉じた扉を見た。
広間には王家の紋章が飾られていた。国の法も、軍の命令も、王の名で人々に届く。だから、多くの者は、国王がすべてを決めていると思っている。
しかし、父が国政について語るとき、必ず出てくるのは元老院での話し合いだった。国王もそこに席を持つが、二十四の諸侯の席が消えるわけではない。国王の考えも、採決になれば二十五の意思のうちの一つになる。
オリヴィアはそのことを知っていた。知ってはいたが、王子の前に立つと、それを別の場所の話のように感じていたのかもしれない。
ソフィアが命じ、近衛が従った光景を思い返す。
ヘンリーは第一王子だった。
けれど、それだけでは、彼女の友人の声を止められなかった。
第二章 父の責任
翌朝、アロンソ伯爵は息子を自分の執務室へ呼んだ。
謝恩会の一件については、昨夜のうちに報告が届いていた。宮廷に居合わせた者からの話だけなら、まず息子に事情を聞こうと思っただろう。だが、近衛の報告にも、同じ行為が記されていた。
財務大臣ローラン伯爵の娘を、王子の命令で取り押さえた。
その短い一文を、アロンソは何度も読み返した。
戦場で無鉄砲な行動をしたというなら分かる。喧嘩に加わったという話でも、叱り方は思いつく。しかし、財務大臣の娘を宮廷内で傷つけるとなると、どこから考えればいいのか分からなかった。
マテオが入ってきた。昨日までと同じ服を着ているのに、肩が狭くなったように見えた。
「報告に誤りはあるか」
アロンソが問うと、息子は首を横に振った。
「ローラン家の令嬢に手をかけたのだな」
「はい」
「誰の権限で」
マテオは口を開き、何も言わずに閉じた。
第一王子の名を出しても答えにならないことは、昨夜教えられていた。しかし、ほかに答えは持っていなかった。
アロンソは椅子に深く座り直した。
息子は、学園で武芸を褒められていた。王子の側近に加えられたときも、将来のためになると考えていた。王家に仕える覚悟を学び、同世代の仲間と関係を作る。それ自体を悪いことだとは思わなかった。
だが、教えた覚悟のどこかが、ひどく歪んで伝わっていた。
「殿下をお守りするつもりでした」
小さな声で、マテオが言った。
「ローラン家の令嬢が殿下を襲ったのか」
「いいえ」
「では、何からお守りした」
息子はうつむいた。
アロンソは、机の上の別の書状へ目を落とした。リシャール伯爵から届けられたものだった。近衛の報告を確認するよう求めるとともに、第一師団長の任務に専念するよう、簡潔に記されている。
昨夜の言葉も耳に入っていた。
息子の愚行を理由にアロンソの去就に支障が出れば、息子を国賊として扱うという。
家長である自分が責任を取らず、息子だけを差し出すことはできない。だが、第一師団長を辞して謝罪すれば、リシャール伯爵はそれこそを問題にするらしい。
脅しとも取れる。自分を職に留めて、何かに使おうとしているとも考えられる。
相手は十六歳の少女だった。しかし、昨年十五歳で家督を継いだ時点で、ソフィア・リシャールは二十四人の元老院議員の一人になっていた。年齢を理由に軽く扱える相手ではない。
しかも、リシャール家は代々、対外折衝の重い役目を担っていた。新当主への正式な外務大臣任命はまだ行われていないが、宮廷ではそれに準ずる地位を認められ、必要な場面では近衛を動かすこともできた。
アロンソは、その権限が昨夜使われるまでの事情を知らない。息子が見えていなかったものは、相手の身分だけでも十分に多かった。
「着替えなさい。ローラン家へ行く」
父が立ち上がると、マテオも顔を上げた。
「私も……」
「お前が行かずに、誰が謝る」
ローラン家の応接室には、財務大臣本人と、娘のオリヴィアがいた。
オリヴィアの腕は布で支えられていた。医師の診立てでは骨に異常はないものの、しばらくは動かさない方がいいという。アロンソはそれを見て、用意してきた言葉が軽すぎると思った。
父子はそろって頭を下げた。
「息子が取り返しのつかない非礼をいたしました。教育が至らなかった責任は、私にあります」
ローラン伯爵は、すぐには返事をしなかった。
マテオも頭を下げたままだった。昨夜、つかんだ腕が、今は布で吊られている。自分の力が相手の体に何を残したのかを、ここで初めて見せられていた。
「申し訳ありませんでした」
今度は王子の名を出さなかった。
オリヴィアは、少し間を置いて答えた。
「謝罪はお受けします。お座りください」
アロンソは顔を上げた。少女は泣いても、怒ってもいなかった。ただ、疲れたような顔をしていた。痛みで夜に目が覚めたのかもしれない。
その顔を見ながら、息子の非礼を許してくれたからといって、話を終わらせるわけにはいかなかった。
「私の進退につきましても――」
「第一師団長をお辞めになるお考えですか」
オリヴィアが尋ねた。
「息子の行いは、王国軍に対する信頼を傷つけました」
「ですが、師団長のお仕事を傷つけたのは、まだこれからではありませんか」
アロンソは言葉を止めた。
オリヴィアは父を見た。ローラン伯爵が小さくうなずく。ここから先の話は、あらかじめ父娘で話し合っていたらしかった。
「私は軍のことをよく知りません。ただ、父のお手伝いで予算の資料を読むことはあります」
彼女は、アロンソの師団について語った。申請と実際の支出の差が小さいこと。物資の不足が出たときには、理由と後の処理が記録されていること。ほかの部署と比べて、説明のつく数字が多いこと。
賞賛されているというより、自分の仕事を一つずつ確かめられている感じだった。
「軍人としての働きも、父から聞いております。その方を、私の腕が治る前に辞めさせてしまって、王国には何が残るのでしょう」
「しかし、責任は……」
「マテオさんのしたことは、マテオさんに考えていただきたいです」
オリヴィアは少年を見た。
「どうして、私を押さえなければならないと思ったのですか」
マテオは膝の上で両手を握った。
「殿下の命令に従うことが、務めだと思いました」
「殿下が決めてよいことかどうかは、考えなかったのですね」
「はい」
アロンソの胸に、先ほどの問いが戻ってきた。
誰の権限で。
息子は答えられなかった。だが、自分も王家への忠誠を説くとき、どこまで区別して教えただろうか。
「王国軍の方々は、王家に忠実であろうとなさいます」
オリヴィアは言葉を選んでいた。
「そのお気持ちは大切だと思います。でも、王家のどなたの言葉でも、軍の命令になるのでしょうか。王子が困っていたら、何をしてもお助けするのでしょうか」
アロンソは娘の父を見た。
ローラン伯爵は黙っていた。若い娘の遠慮ない問いとして取りなすつもりはないらしかった。
国王の名で軍を動かす命令は出る。しかし、その前には元老院の決定があり、予算があり、担当する者の責任がある。王家の人間が思いついたことを、軍人がその場で実行する制度ではない。
兵にとっては、遠くにある元老院より、顔の見える王子の方が分かりやすい。忠誠という言葉を使えば、細かな手続きは面倒なものに聞こえてしまう。
昨夜の息子は、その分かりやすさに従っていた。
「リシャール伯爵がおっしゃったことを、私も聞きました」
オリヴィアは続けた。
「師団長をお辞めにならないように、マテオさんへああおっしゃったのだと思います。今、師団長の席が空くのは困るのでしょう」
なぜ困るのか。それはオリヴィアにも、まだ分からないようだった。
分からないことを、分かった顔で説明しない。その態度が、アロンソにはかえって気になった。
「そこで、一つお願いがあります。マテオさんを、しばらく私の手元に置いていただけませんか」
父子が同時に顔を上げた。
「護衛はできません。騎士になる資格がないと、昨夜言われたばかりですから」
オリヴィアの声には、わずかに硬さが残っていた。
「届け物や連絡をお願いしたいのです。用件を聞いて、相手を確かめて、そのまま伝える仕事です。分からないところがあれば、勝手に決めず、戻って聞いていただきます」
マテオは彼女を見た。許されたのか、罰を与えられたのか、まだ判断がつかなかった。
「なぜ命じられたのかを考える時間は、あると思います」
アロンソはしばらく黙っていた。
息子を自分のそばに置けば、剣を取り上げても、結局は軍人になるための教育を続けるだろう。同じ言葉を違う強さで繰り返したところで、何が間違っていたのか、息子に伝わるとは限らない。
「お引き受けいただけるなら、お願いいたします」
アロンソが答えると、オリヴィアはマテオへ顔を向けた。
「できますか」
「はい」
少年は、今度は彼女の目を見て返事をした。
帰り際、アロンソはローラン伯爵に改めて頭を下げた。
「娘御のお考えは、以前から」
「計算の話なら、幼いころからです」
財務大臣は、応接室の中を振り返った。
「人の動かし方については、まだ勉強中でしょう。私も、どこまで考えているのか、聞いてみなければ分かりません」
部屋の中では、オリヴィアが最初の届け物を渡していた。宛先はリシャール伯爵。学園の友人へ出す手紙にしては、分厚い封筒だった。
マテオは受け取る前に、相手が不在だった場合はどうすればいいかと尋ねた。
アロンソは、その問いを聞いてから屋敷を出た。
第三章 帳簿に残る足音
ウィリアムズ侯爵は、ヘンリーを叱り終えた後も、怒りを収められずにいた。
妹の産んだ第一王子を、いずれ王にする。そのために何年もかけて人を集め、軍の中に味方を増やしてきた。なのに、その甥が、自分から最も大切な支えの一つを捨ててしまった。
ローラン伯爵の娘との婚約である。
ローラン家は財務を担う。王国の収入と支出を扱い、多くの諸侯の事情にも通じている。その娘を妻に迎えることは、単に金のある家と縁を結ぶことではなかった。
オリヴィア自身の才も知られていた。幼いころ、数学者に見いだされ、難しい問題を解く娘として元老院の老人たちに名前を覚えられている。財務大臣が娘のために宣伝しただけではない。何人もの議員が、実際に彼女の作った計算を見ていた。
王の仕事を支える妃として、その娘を確保した。その事実だけでも、ヘンリーには大きな優位があった。
王太子への優待券を持たせてやったようなものだった。
それを、謝恩会で捨てた。
「王になってから、好きな女をそばに置けばよかったのだ」
侯爵は、退出していった甥へ言い損ねた言葉をつぶやいた。
王になる前に、王になったつもりで振る舞ってどうする。
元老院では、すでにヘンリーを王位候補に残してよいかという話が出ている。侯爵が席に着くと、それまで話していた者が黙ったこともあった。以前なら気に留めなかった沈黙が、今は腹立たしかった。
ウィリアムズにとって、元老院は国王の政治を妨げる集まりだった。
国を一つにまとめるのに、二十四人の領主へ毎回説明し、各地の利害を調整しなければならない。軍を動かすにも費用を問われる。国王が必要だと言えば、なぜそれで決められないのか。
ヘンリーを王にすれば、その仕組みを変えられると思っていた。甥には自分の助言を聞かせられる。王権を強め、軍がそれを支えれば、諸侯は今のように好き勝手な意見を言えなくなる。
その最初の王太子指名が、危うくなっていた。
侯爵は軍の書類を引き寄せた。
元老院が軽々しく別の王子を選べないようにする手は、まだあった。
*
オリヴィアの机に軍費の記録が積まれたのは、謝恩会から数日後だった。
父が確認の必要な支出を選び、写しを回してくれた。もともとオリヴィアは、計算の検算を頼まれることがあった。今回は、数字の合計だけでなく、支出の目的も読んでほしいという。
ソフィアからも返事が届いていた。
アロンソを第一師団長の席に留めておく必要があること。軍の中で、総司令官個人の指示が強くなりすぎていること。確かめたいことがあるので、資料で不自然なところがあれば知らせてほしいという。
オリヴィアはまず、月ごとの支出を並べた。
軍の帳簿は、数字だけ見ていても分からない。冬の間は飼料に費用がかかる。兵が移動すれば、宿営の場所によって食料の値段も変わる。同じ額が続いていれば正しいというものでもなかった。
そこで彼女は、支出の横に用途と届け先を書き添えた。
最初に気になったのは、演習用と記された糧食だった。
買い付けが増えている。しかし、その演習に参加する兵の人数と期間を計算すると、多すぎた。余裕を見込んだ量としても、増え方が急だった。
次に運送費を見ると、荷物は国境の兵站所ではなく、王都に近い倉庫へ送られていた。
兵を王都付近に集める演習なのだろうか。それなら説明がつく。オリヴィアは疑問符を付け、別の帳簿を開いた。
荷馬車の手配にも、同じ時期の増加があった。予定される道筋を地図に書くと、複数の場所から王都の周辺へ線が寄ってくる。
彼女は椅子を離れ、父の書斎へ行った。
「軍が演習の場所を変えたのでしょうか」
ローラン伯爵は紙を受け取り、眉を寄せた。
「予算の説明では、そこまでは聞いていない」
「変えること自体は、軍で決められますか」
「認められた範囲ならな。全部を元老院に持ち込むわけにはいかない」
オリヴィアはうなずいた。
倉庫が変わっただけで、罪になるわけではない。日々の仕事まで元老院が指図していたら、何も進まなくなる。
「どこまで変わったか、調べてもよいでしょうか」
父は紙を返した。
「私から問い合わせる。お前は、気になるものを分けておきなさい」
その日の夕方、マテオはアロンソからの返事を持ってきた。
オリヴィアが封を開く間、彼は机のそばで待った。以前の彼なら、父の軍務に関わる書状を、伯爵令嬢が先に読む光景に戸惑っただろう。今も不思議には思う。しかし、それを理由に用件へ口を挟まなくなっていた。
「質問があります」
読み終えたオリヴィアが言った。
「演習の場所が変わったとき、師団長には、いつ知らせるのでしょう」
「通常は、準備を始める前に」
「第一師団には知らせが来ていないそうです」
マテオは書状を見せてもらった。父は、予定されている演習については承知しているが、王都付近への集結は指示されていないと書いていた。
代わりに、一部の部隊へ総司令部から直接、補給の指示が出ていることが分かったという。
「師団長を通さない指示も、あるのですか」
「あります。ただ……」
マテオは言葉を切った。
「僕の知っている範囲では、答えられません。父に聞きます」
オリヴィアは新しい質問を書き、彼に渡した。
それから数日間、マテオは同じように往復を続けた。オリヴィアの問いは、軍人なら当然と思っていることにも及んだ。
糧食を集める者と、それを受け取る部隊が別々の命令を受けたら、誰が全体を確かめるのか。総司令官の署名があれば、目的を知らないまま準備してよいのか。資金が別の項目から回された場合、後で説明する相手は誰か。
アロンソの返事が届くたび、帳簿の中の曖昧な支出が、実際の仕事へと変わっていった。
兵の数だけでは軍は動かない。食べさせる者がいて、荷を運ぶ者がいて、命令を受け取る者がいる。その一つ一つを押さえれば、兵を使う準備が整う。
オリヴィアが読み取ったのは、王都への移動だけではなかった。
予算の説明では別々の目的になっている支出が、実際には同じ集結を支えていた。師団長へ報告されるはずの準備が、総司令部と一部の部隊の間で進んでいる。何より、それらをまとめて元老院へ説明した記録が見当たらない。
以前から少しずつ作られていた抜け道を、一度に使おうとしていた。
ソフィアがローラン家へ来たとき、オリヴィアは机を空けることができなかった。代わりに、二人で大きな卓へ資料を移した。
「反逆の準備、と言ってしまってよいのかしら」
オリヴィアが尋ねると、ソフィアは地図を見た。
「帳簿だけで、人の気持ちは決められないわ」
「でも、元老院に知らせずに軍を集められる状態になっている」
「ええ。それは確かめなければならない」
ソフィアは、資料の余白へ指を置いた。
「こちらには、部隊への指示が届いているの。この糧食と、この荷馬車。どちらも、その指示と時期が合う」
オリヴィアは顔を上げた。
友人がただ帳簿を待っていたわけではないことは分かっていた。しかし、何をどこまで知っているのか、全部聞いたことはなかった。
「アロンソ伯爵にも、確認していただきます」
ソフィアは続けた。
「あの方が辞めていたら、この照合は難しくなっていたでしょうね」
オリヴィアは、応接室での父子の姿を思い出した。
ソフィアは最初から軍内の問題を見ていた。アロンソの任務を息子の過失から切り離し、調べるための席を守ったのだった。
「本人には、そうお話ししたの?」
「お話しする前に辞表を出されると困ったのよ」
ソフィアはさらりと言った。
オリヴィアは友人の顔を見て、それから卓へ目を戻した。いつもの調子で言われると、昨夜の強い言葉も、必要な順序で選ばれた一言に聞こえてしまう。
自分なら、同じことはできないと思った。
翌日、アロンソ本人がやってきた。
卓に並べられた記録を、伯爵は長い時間かけて読んだ。いくつかは自分で調べて届けたものだったが、別々に見ているときとは意味が違っていた。
「私の師団は、この準備から外されています」
伯爵は低い声で言った。
「最初は、任務の割り振りだと思いました。しかし、ほかの師団でも、師団長を通さずに動かされている部隊がある」
「侯爵が直接命じられる部隊を、選んでいるのでしょうか」
オリヴィアが尋ねた。
「そう考えると、つじつまが合います」
アロンソはマテオを見なかった。少年は父の後ろに立ち、何も言わずに聞いていた。
「兵たちは、自分が王命に従っていると思うかもしれません。総司令官がそう説明すれば」
伯爵の言葉に、オリヴィアはペンを置いた。
その説明を聞いた兵が、王命なのかどうかを確かめるだろうか。
王子の言葉を命令と信じた少年が、すぐそばにいた。
「元老院の会議は、いつですか」
オリヴィアが尋ねると、ソフィアは日付を答えた。
糧食の到着予定は、その少し前だった。部隊が王都へ来られるだけの準備が、会議の日までに整う。
そこでヘンリーの王太子指名を論じる。
卓の周囲が静かになった。
侯爵が何を話すつもりかは、まだ分からない。けれど、その言葉を聞く諸侯の背後に、誰の命令を待っているか分からない兵がいる。その配置だけで、会議の意味は変わってしまう。
オリヴィアは、日付の下へ一本線を引いた。
数字の合計は正しかった。
正しい数字で支払われた金が、国の決定を変えるために使われようとしていた。
第四章 新しい総司令官
元老院の議場には、二十五の席があった。
国王の席は奥に置かれ、ほかの席より立派な椅子が用意されている。初めて見た者なら、王が諸侯へ命令を下す場だと思うかもしれない。
しかし、議員たちの前にも、それぞれ議案と資料が置かれていた。誰の席に配られたものも、内容は同じだった。
ソフィアは自分の席へ着いた。
国王が入ってくると全員が立ち、礼をした。着席の後、宰相ミラー伯爵が議事を進める。第二王子レオを推す彼にとって、第一王子の評判が落ちたことは好ましいはずだったが、今日はその話を急がなかった。
軍の運用に関する確認が、王位継承の議論に先立って議題になっていた。
ウィリアムズ侯爵は、配られた資料を一枚めくった。
若いリシャール伯爵が軍費について説明を求めていると聞き、面倒なことを始めたと思っていた。ローラン家との付き合いで、数字を気にするようになったのだろう。現場を知らない者が、帳簿だけで口を出すのは珍しくない。
「これは、演習に伴う準備だ」
最初の問いに、侯爵は簡潔に答えた。
「その演習の計画を示してください」
ソフィアが言った。
「軍の運用には、総司令官の裁量がある。日々の準備まで、ここで議決することはできない」
「承知しています。裁量の範囲を確認したいのです」
ソフィアは資料の頁を示した。
別々の項目で出された糧食、運送、宿営準備が、一枚にまとめられている。買い付けの日付と届け先、部隊への指示が並び、その下に元の書類の番号が付いていた。
「この準備は、どの演習に必要だったのでしょうか」
侯爵は資料を見直した。
支出の一つ一つは説明できた。だが、今まで別々に説明していたものが、同じ紙に載っている。
「複数の演習が重なった結果だ」
「では、複数の演習の計画をお願いします」
隣の議員が、同じ頁を開いたまま侯爵を見た。
軍の機密を理由にすることも考えた。しかし、議場にいるのは王国の最高意思決定に加わる者たちである。元老院全体に隠さなければならない軍の計画とは何か。その問いを招くだけだった。
ソフィアは次の資料へ進んだ。
総司令部から部隊へ送られた指示だった。アロンソ伯爵による確認書も添えられている。
「関係する師団長に、集結の目的が説明されていません。補給を担う部署にも、部隊がいつまで王都付近に留まるか伝えられていない」
「準備の段階で、すべてを知らせる必要はない」
「何の準備ですか」
侯爵は顔を上げた。
十六歳の娘が、自分を問い詰めている。その光景を、国王も宰相も、ほかの諸侯も黙って見ていた。
「王都の安全を守るためだ」
「王都で、どのような危険が予測されていますか」
ソフィアは問いを重ねた。声を荒らげず、侯爵の答えを聞いてから、次を尋ねる。そのため、侯爵が言い直した箇所も、ほかの議員にはよく分かった。
演習のためだった準備が、王都の警備になっていた。
「アロンソ伯爵を入れてください」
宰相が係の者へ告げた。
第一師団長は議場の端に立ち、質問に答えた。第一師団に王都の警備を増強する命令は来ていないこと。一部の部隊だけが、通常の報告系統から外れて準備を進めていること。その準備を照合すると、議会の開催時期に王都付近へ集まれること。
アロンソは、侯爵の野心を語らなかった。自分が確認したことと、確認できないことを分けて話した。
ウィリアムズが口を挟んだ。
「君には、息子のことでリシャール家に借りがあるのではないか」
議場に小さな物音がした。誰かが紙を卓へ置いた音だった。
「息子の件は、ローラン家へ謝罪しております」
アロンソは答えた。
「その責任を理由に職を辞することは、認められていません。軍務については、確認した記録を提出いたしました。記録の誤りをご指摘ください」
侯爵は、すぐには返せなかった。
息子の処遇を使ってアロンソを退かせる道が、先に塞がれていたと気づいた。残された師団長は、今ここで侯爵の指示を確かめる役目を果たしている。
ソフィアが一枚の書状を示した。
王都周辺へ来る部隊に伝えられた、追加の指示だった。元老院の会議中、総司令部からの命令を待つよう求めている。王太子指名の動向に応じて、次の行動を伝えるという内容だった。
「これも、演習の指示でしょうか」
侯爵は署名を見た。
自分が出したものだった。会議の日に部隊を動かすなら、何のために待機させるのか、指揮官には伝えなければならない。曖昧な言葉にしておいたつもりだったが、糧食も、宿営も、運送も並べられた後では、その曖昧さが役に立たなかった。
「軍の意向を、お知りおきいただこうとしたまでだ」
侯爵は言った。
「第一王子殿下を推す声は、軍にもある。それを無視して国の将来を決めれば、統率に差し障る」
国王が、手元の書状を置いた。
「その意向を示すために、兵を集めるのか」
初めて国王が問いを発した。
ウィリアムズは王の方へ体を向けた。この場で、王だけは自分の考えを理解するはずだった。
「陛下の王権を守るためです。王家の継承に諸侯が口を挟み、思いどおりに王子を選ぶ。いつまでも、そのような状態でよいのでしょうか」
国王は侯爵を見た。
「私が、その集結を命じたという報告はあるか」
アロンソが、ありませんと答えた。
王の顔に怒りが浮かぶことはなかった。それが、侯爵には分からなかった。王の力を強くしようとしているのに、王自身が味方をしない。
「陛下がお望みになる前に、お支えするのが――」
「王国軍は、元老院の決定を実行するためにあります」
ソフィアが言った。
「王太子を決めるときに、その軍を使って採決へ圧力をかければ、軍を動かす者が王を選ぶことになる。王権を支えたとは言えません」
侯爵は彼女をにらんだ。
その視線を受けても、ソフィアは言葉を足さなかった。
説明は十分だった。ほかの議員が資料を読み、自分の言葉で問い始めている。彼女が侯爵を言い負かすことより、二十四人と国王が何を認めるかが大切だった。
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オリヴィアは、議場から少し離れた控えの間にいた。
中で何が話されているかは聞こえない。手元には、提出した資料と同じ写しがある。頁をめくっても、数字は昨日と変わらなかった。
財務大臣の娘であっても、国政について発言する権利はない。会議が始まれば、父もソフィアも自分の判断で動く。オリヴィアにできるのは、追加の確認を求められたときに答えることだけだった。
向かいの椅子にはマテオが座っていた。
彼も議場に入れなかった。資料を運ぶ仕事が終わると、待つほかにすることがない。膝に置いた手を何度か組み直していた。
「父は、どうなるのでしょう」
しばらくして、彼が尋ねた。
「確認したことを、お話ししているはずです」
オリヴィアは答えた。
「それで、侯爵に逆らったことになります」
「そうね」
彼女は否定しなかった。
正しいことを話せば必ず安全だとは、言えない。帳簿に残った数字を見つけるのと、それを自分の名で証言するのは違った。アロンソは、その危険を知って議場へ入った。
マテオはうつむいた。
「僕は、殿下に従っていれば、父にも喜ばれると思っていました」
オリヴィアは、布で支えた腕へ目を落とした。痛みは少し引いたが、まだ長く書き続けることはできない。
「お父様が何を喜ぶか、聞けばよかったのかもしれませんね」
彼はうなずいた。
オリヴィアも、ヘンリーともっと話しておけばよかったのだろうかと考えた。けれど、何を尋ねれば、あの夜の出来事を防げたのかは分からない。
自分が何を得意とし、何を考えているかを、婚約者へ詳しく話したことはほとんどなかった。ヘンリーも聞こうとしなかった。決まった日に会い、決まった礼を交わしていれば、婚約者としての務めを果たしているつもりだった。
広間でその関係を終わらせられたとき、彼女は失った将来の大きさを考える余裕さえなかった。
今は、少しだけ考えられる。
あの人の隣で、どんな暮らしをするつもりだったのだろう。
扉の外に足音がした。
マテオが先に立ち上がり、オリヴィアも顔を上げた。入ってきたのはソフィアだった。
「終わりました」
彼女は椅子を引き、腰を下ろした。
まず、ウィリアムズ侯爵の総司令官解任を告げた。部隊の集結は止められ、これまでの命令は新しい指揮系統で確認し直される。侯爵は爵位を降格され、中央の職から排除されることになった。
「ヘンリー殿下も、王位候補から外されます。臣籍に下ることになりました」
オリヴィアは、すぐに返事をしなかった。
謝恩会でソフィアが告げたとおりになった。しかし、あの一夜だけで決まったわけではない。叔父が軍を動かしてその立場を取り戻そうとし、取り戻す余地まで失わせた。
ヘンリーがその準備をどこまで知っていたかと、王として選べるかどうかは、同じ問いではなかった。
「僕の父は」
マテオが口を開いた。
「新しい総司令官に選ばれました」
少年は立ったまま動かなくなった。
ソフィアは彼を見上げた。
「あなたの処遇が変わるわけではありません。しばらく、こちらの仕事を続けなさい」
「はい」
返事だけは、すぐに出た。
ソフィアは、廊下でアロンソが待っていると伝えた。マテオが会釈して出ていくと、控えの間には二人だけが残った。
オリヴィアは資料を閉じた。
「兵は、来ないのね」
「来ません。来る準備をしていた部隊にも、命令が届きます」
「よかった」
口に出してから、オリヴィアは自分がずっとそれを怖がっていたと気づいた。
帳簿を確かめ、紙に線を引き、数字を並べている間は、考えることがあった。会議を待つ時間になると、その数字で買われた食料を食べ、用意された道を通って来る兵の姿が、頭から離れなくなった。
自分の計算が間違っていてほしいと思ったこともある。
「あなたのおかげです」
ソフィアが言った。
「私は、ここで待っていただけよ」
「待つ前に、ずいぶん働いたでしょう」
友人は卓の上の資料を指した。
「軍の命令だけを出しても、侯爵は必要な準備だと言えたでしょうね。お金と物資の動きがそろったから、何の準備かを聞けたの」
オリヴィアは、重ねた紙を見た。
算数の問題なら、答えが出れば終わる。だが、この紙は、答えを出した後に人へ渡さなければならなかった。受け取った人が考え、危険を負って確かめ、また別の人へ話す。それで初めて、兵が王都へ来るのを止められた。
自分一人で何かを成し遂げたとは思えない。
ただ、自分がしなければ、そろわなかったものがあるらしかった。
「あなたが伯爵になっていなかったら、どうなったのかしら」
オリヴィアが尋ねると、ソフィアは少し考えた。
「別の方に資料を持っていっていただいたでしょう。でも、同じように話してくれたかは分からないわ」
議席を持つ友人がいた。資料を読ませてくれる父がいた。軍の記録を確かめるアロンソがいて、往復するマテオがいた。
偶然のようにも見える。その一人が欠ければ、違う結果になっていたかもしれなかった。
ソフィアが卓の端に置かれた菓子を見つけた。長く待つと思って、侍女が用意してくれたものだった。二人とも、まだ手を付けていない。
「食べてもいい?」
「ええ。私もいただくわ」
オリヴィアが片手で皿を寄せると、ソフィアが先に菓子を取り、彼女の前へ置いた。
謝恩会では、こうして二人で菓子を食べるつもりだった。
少し遅くなっただけだと思おうとしたが、その間に終わったことも、始まったことも、多すぎた。
廊下の向こうで、アロンソの声がした。息子へ何かを話している。低い声で、言葉までは聞き取れない。
新しい総司令官は、明日から、軍が誰の決定で動くのかを兵たちへ改めて伝えなければならないだろう。
王国にはまだ、王太子がいなかった。
オリヴィアは菓子を一口食べ、ようやく少し息をついた。
少なくとも次の王を決めるとき、王都の外で兵が命令を待っていることはない。
そのことを確かめられただけで、今日は十分だった。




