9話:砂に埋もれた可愛げ
「世界を相手にするビジネスを望むなら、日本は少し狭すぎル。……西カイロ大学はどうダイ? あそこならボクの人脈が山ほどアル」
ナッハース家が何世代もかけて編み上げてきた人脈。
誰を頼り、誰に貸しを作れば物事が有利に動くか。それは教科書には載っていない、血に流れる商人の生存戦略だった。
「実務を獲るなら経済より商学部ダ。あそこは金の動かし方を学ぶ場所だヨ。アラビア語の心配はいらナイ。ボクが最高の教師にナル。それから……数学と統計学、これも叩き込んでおきなサイ。数字は世界共通の言語だからネ」
良殻は瞬きすら忘れ、父の一言一言を吟味する。その頭脳はすでに、西カイロ大学までの最短距離と、そこで手にする権力の重さを計算し始めていた。
「なんか大変なことになってきたな……ラー坊、ついてけてる? ってか、もう大学の話なんて、早すぎるんじゃないの」
アエーシを口に運びながら困惑した言葉を挟む隼を、良殻は鼻で笑って切り捨てた。
「早くない。……中学には通ってやる。だけど、『みんな一緒に』なんて足踏みをするつもりはない」
ギラついた視線が、真っ向からアンワルを射抜く。
「そのルートもワスタも、俺が使い倒してやるよ。アンタはただ、そのレールが俺のスピードに耐えられるかだけを心配してな」
「完璧だ!」
指先に熱いキスを落とすと、アンワルはそれを空へ放った。息子に最高の賛辞を贈る手つきのまま、傍観していた隼へと向き直る。
「隼、キミは考古学を専攻してたよネ。協力してくれるカイ? もちろん、対価は──」
「ちょっ……と、待ってくれ!」
急に矛先を向けられた隼は、あわてて両手を振って制す。
「東ならともかく……ラー坊が行くのは実利の塊みたいな西でしょ? 考古学が金と権力にどう関係すんの?」
「曾祖父の代から、ボクの一族はピラミッドを見てキタ。ケド、浮かぶのはいつも、『これを作るのにいくら掛かったか』と『今の入場料』サ」
アンワルは、遠い母国の熱風を懐かしむように目を細める。
「……それ、言っちゃう? もうちょっとこう、ロマンとか大事にしようよ!」
「ボクら商人にとって、死んだ王より今生きている客の方が大事。当然ダロウ?」
アンワルは肩をすくめて笑うと、その眼差しを鋭い鑑定眼に変える。
「……キミは、砂の中から数千年前の真実を掘り起こしてきタ。わずかな断片から価値を見つけ出す眼とマインドセット。それはボクには教えられない、この子の武器になるヨ」
隼はいつの間にか、商談のテーブルに乗せられていた。逃げ場をふさぐような熱い視線に、思わず気圧される。
「……でもさぁ」
椅子をキシキシと鳴らしながら、視線を泳がせた。断る理由を探そうとするが、アンワルの理屈には、反論を許さない奇妙な説得力がある。
「考古学──要は、死人の隠し場所を暴く仕事だろ?……最高にイイ趣味だ」
すっかりスレてしまった友人の息子が、感心したような、それでいて値踏みするような視線を寄越してくる。
まさか、「前世で俺も墓を暴いてきた」とでも言い出すんじゃなかろうか。
「おいおい……いま一億人の考古学者を敵に──」
「隼!! いつまでお喋りして油売っとーが!」
割り込んできたのは、弾丸のような叱声。
隼のアロハ以上に派手なムームーをなびかせ、恰幅のいい女性が大股でやって来る。
そして掲げた盆から、手際よく海ブドウの小鉢を並べた。
「いつもありがとねー。これ、サービスさぁ」
「オー! にふぇーでーびる!」
エジプト商人の口から、驚くほど自然な沖縄の感謝が溢れ出す。
女性は豪快に笑って頷き、今度はわが子へと向き直った。
「アンタ、わざわざエジプトの大学まで行って、毎日砂ばっかりいじってたわけさぁ。協力してあげなさいよ。コーコガクだか何だかよくわからん怪しいもんが、少しでも役に立つんでしょお?」
「あのさぁっ、俺の行った大学なんて、東西カイロ大に比べたら公園の砂場程度なんだぞ!? それに、考古学は怪しくないって! ロマンなんだよ、ロマン!」
母の無慈悲な発言に、隼は猛然と抗議する。
「ロマン、ロマンって、それでお腹が膨れるねぇ?」
鼻で笑いながら彼女は空いたグラスを盆に乗せると、追い打ちをかけるように言い放つ。
「そんなわけ分からんものより、目の前の商売助ける方がよっぽど徳を積めるはずよ! ねぇ、四野さんもそう思うでしょ?」
アンワルは、わが意を得たりとばかりに隼の母へ拍手を送った。
「マダム! まさにその通りですヨ!」
横浜の沖縄料理店。エジプト商人と沖縄の女将が、ガッシリと熱い握手を交わす。国境も文化も超えて、共通の「商売人魂」が共鳴した瞬間だった。
「はああ……っとに……」
持ち前の明るさと軽いノリで、大抵の頼みは引き受けてきた彼だったが、今回ばかりは腕組みをして考え込む。
「なんだ。発掘現場に、決断力も一緒に埋めてきたのか?」
良殻の口元に浮かぶ、不敵な笑み。
容赦のない挑発に射抜かれ、隼は力なくテーブルに頬杖をついた。
「……勘弁してよぉ。俺が教育係なんて、一番似合わないでしょ。ラー坊の可愛げも、砂に埋まっちゃったしねぇ……」
隼は静かに目を閉じ、一拍置いてから、再びその瞳を開く。
肌を刺す良殻の毒気さえも、陽気で溶かしてしまう。そんな不思議な軽やかさが、彼にはあった。
「ま、これも書かれていたことか。……了解、協力してやるぜ、ラー坊!」
「おいっ、暑苦しいから引っ付くな。あと、その呼び方はやめろ!」
アンワルが「商談成立だネ!」と景気よく手を叩く。
その弾んだ声と重なるように、ガラガラと軽快な引き戸の音が店内に響いた。
「こんばんは。盛り上がってるね。ホルっち、モロヘイヤスープちょうだい! あと、ソーミンチャンプルーね」
ネクタイを緩めたサラリーマンが、慣れた足取りで入ってくる。
「はいたーい! ほら隼、エジプト料理はアンタの担当でしょ!」
母に背中を叩かれ、隼は苦笑いしながら立ち上がった。
「いらっしゃい。守田さん、今日もお疲れ!」
ガタガタと椅子を引き、母と連れ立って仕事に戻っていく隼。
しばらくすると、厨房から彼の絶叫が響く。
「ぎゃあああ! モロヘイヤスープが俺の右目に──ッ!!」
「まったく! 何やってんだい、この子は!」
客たちは慣れたもので、誰一人として顔を上げない。
「……本当に大丈夫なのか。アイツの『目』は……」
良殻もまた彼の騒ぎをBGMに、手元のカバブを食いちぎった。
至宝はまだ、記憶の奥底に眠ったまま。
そしてその頃、元・女神(7)は──
「いいか、紫愛。こいつはこうやって、叩きまくる!……ッシャオラァ!」
「ねぇ、お父さん。モロヘイヤは王様の野菜なんだよ!」
漁師飯、「真鯛の皮バリ焼き~モロヘイヤのぶっ叩きを添えて~」に舌鼓を打っていた。




